6
あれから数日。
僕は結局、セラ嬢への手紙の返事を書くことが出来ないまま、ただ毎日を過ごしていた。
机の引き出しには、何度も読み返したあの手紙が大切にしまってある。
紙の端は少し柔らかくなっていて、折り目もほんの少しだけ白くなっていた。
読み返すたびに、あの子の優しい文字や、丁寧に綴られた言葉が胸の奥に静かに染み込んでくる。
僕の返事を待っていてくれているセラ嬢のことを思えば、すぐにでも返事を書かなければならないと思うのに、どうしてもペンを取ることが出来なかった。
理由は、はっきりしている。
それは今の僕の境遇を、正直に彼女に伝えることが躊躇われたからだ。
素直な気持ちのままに綴れたらどんなにいいかと思うけど、ヴェルメルでの僕の立場は決して自由ではない。
だからこそ、僕の気持ちを聞きたいと書いてくれた彼女に、どこまで話すべきか答えがなかなか出なかった。
加えて今日また、ローゼンガルド家の千嬢がこの屋敷に来るという。
気が乗らないまま朝を迎えた僕は、千嬢とお会いする時間より少し前に母の部屋を訪れることにした。
部屋に入ると、奥の窓辺には母が立っていて、外の景色を眺めている。
僕が入ってきたことには気づいているはずなのに、振り向こうとはしない。
僕の体調が回復してからも、母の態度は相変わらず冷たいままだった。
「それで、何か用かしら」
ほんの一瞬だけこちらを見たあと、すぐにまた視線を窓の外へ戻してしまう。
僕は小さく息を吸い込み、言葉を選びながら口を開いた。
「ローゼンガルド家のご息女のことで、少しご相談したいことがあるのですが」
「今日いらっしゃるのでしょう。失礼のないように振る舞いなさい。それだけよ」
まるで、それ以上の話をする必要はないと言わんばかりの言い方だった。
それでも僕は引き下がることが出来なかったから、静かに言葉を続けた。
「……ですが母上。僕は、彼女と婚約するつもりはありません。僕には、セラ嬢との約束があります。母上も……それはご存知のはずです」
母が父に逆らえないことは分かっている。
それでも、もしかしたらほんの少しくらいは味方をしてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を、どこかでまだ捨てきれていなかった。
けれど母は、深くため息を吐いたあと、あっさりと言った。
「別にどちらでも構わないわ。あなたの将来が安定するなら、それで十分でしょう。今のあなたに、相手を選んでいる余裕なんてないのよ」
「ですが……母上はユフィ夫人とご友人ではありませんか」
「昔の話よ。子供の頃、よく遊んでいたというだけ。長いこと会ってもいなかったし、手紙のやり取りもただ状況が少しでも良くなればと思って出しただけのことよ」
僕は、母とユフィ夫人はそれなりに親しいのだと思っていた。
あの二人が並んで話している時、母はほんの少しだけ楽しそうに見えたからだ。
母が誰かと穏やかに笑っている姿なんて、今までほとんど見たことがなかった。
だからあの光景を見た時、母にも気を許せる相手がいるとわかって僕は少し嬉しかったんだ。
けれど、それはただの思い違いだったらしい。
母は興味のない話題を口にするみたいに言葉を続けた。
「それに結局アストリアとの縁談は、すぐには進みそうにないじゃない。このまま何年かかるかもわからないのに、また今年も東部まで出向くなんて、正直言って面倒だわ。それならあなたに好意を持っているローゼンガルド家のご息女で話を進めた方が、よほど現実的でしょう」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が少し強く鳴った。
それでも僕はゆっくりと息を吸い込み、感情を表に出さないようにしながら静かに答える。
「千嬢とは確かに親しくさせて頂いています。でも……僕が将来を共にしたいと思っているのはセラ嬢です。セラ嬢も僕との約束を大切にしてくださっていますし、時間はかかるかもしれませんが、いずれ公爵閣下にも認めて頂けると僕は信じています」
「そんな保証、どこにもないでしょう。何年も待った挙句に駄目だったら、その時間は全部無駄になるのよ」
「そうならないように努力します。それに……僕が最初に約束を交わした相手はセラ嬢です」
「そんなことは関係ないわ。大事なのは、どちらの縁談がこちらにとって有利か。それだけよ」
「それだけではないと思います」
僕がそう言葉を返すと、母の視線がわずかに鋭くなる。
「では聞くけれど。他に何があるというの?」
その問いに、僕はほんの少しだけ考えた。
うまく説明出来るかどうか自信はなかったけど、頭に浮かんだのはセラ嬢の笑顔だった。
あの子が見せてくれる優しい表情を思い出すと、不思議と言葉が見つかる気がした。
「婚約をして終わりではありません。その先にある生活のことも考えるべきだと、僕は思います。家柄や条件だけで決めるのではなく、その相手とどんな時間を過ごしていくのかということも大切なはずです」
真剣に伝えた想いだったけど、母は小さく笑った。
「結婚後の生活なんて、考えたところでどうなるか分からないでしょう」
「それでも相手のことを知っていけば、少しずつ分かるものだと思います。僕は互いに大切に想える相手と将来を共にしたいです」
言葉にした瞬間、胸の奥に温かいものが灯った気がした。
セラ嬢の笑顔や、あの子が僕に向けてくれる優しい瞳を思い出す。
あの子と過ごす未来なら、どんな時間でもきっと大切に出来る気がした。
けれど母は深くため息を吐くと、冷たい声で言った。
「あなたはそんな悠長なことを言っていられる立場ではないでしょう。あなたは大公家の血を引いていると言っても、その爵位を継ぐわけではないのよ。結局あなたの将来は、どれだけ力のある家と縁を結べるかにかかっているの。少しでも早く確実な相手を押さえておかなければ意味がないのよ。それを最優先に考えることが、あなたが今一番するべきことなのに、結婚後の生活?ふざけたことを言わないで。私はあなたの幸せを考えて、助言しているのよ」
母の言葉は、冷たい音色のまま、まるで決まりきった理屈を並べるように淡々と続いた。
その一つ一つは、この家で生きていく上ではきっと正しい考え方なのだろう。
そういう話を、僕も今まで何度も聞かされてきた。
母の言葉を聞きながら、僕はぼんやりと考えてしまう。
母が見ているのは、本当に僕の幸せなのだろうかと。
もちろん母自身は、本気でそう信じているのだと思う。
息子の将来を案じ、少しでも有利な道を選ばせようとしているのだろうし、それがこの家に生まれた人間の務めなのだと言われれば、きっと間違いではないのだろう。
けれど、胸の奥に広がる違和感は消えてくれない。
母の言葉の端々から感じるのは、この家の体面や、周囲からどう見られるかということばかりで、そこにあるはずの僕自身の想いはまるで最初から含まれていないような気がしてしまうからだ。
きっと母の考える幸せと僕が思い描く幸せが違いすぎるからこそ、こんなにも言葉が噛み合わないのだろう。
それでも僕は、自分の望んでいるものを、せめて一度だけでもきちんと伝えておきたいと思った。
たとえ理解してもらえなくても、胸の奥にある願いを、黙ったまま飲み込んでしまうのだけは嫌だったから。
僕が欲しいのは、立派な爵位でも、周りから羨まれるような縁でもないし、贅沢に囲まれた暮らしでもない。
ただ、もっとささやかで、でも僕にとっては何より大切なもの。
僕は胸の奥にある願いをゆっくりと掬い上げ、正直に言葉にしようと口を開いた。
「僕は、あたたかな家庭を築きたいんです」
口にした瞬間、どこか照れくさいような感覚が胸の奥をかすめる。
けれど同時に、それはずっと自分の中にあった願いなのだと、はっきりと分かった。
「近藤公爵閣下やユフィ夫人のように、互いを思い遣りながら、自然に笑い合える関係でいたいんです。穏やかな時間を一緒に重ねていけることが、僕は幸せだと思っています」
アストリアで見た光景が、自然と脳裏に浮かぶ。
穏やかな食卓。
自然に交わされる笑顔。
互いを気遣うやさしい声。
アストリアのお屋敷にはいつも柔らかな空気が流れていて、僕はそこで初めて家族というものの温もりを知った気がした。
「セラ嬢となら……きっと、そんな幸せな家庭を築いていける気がするんです」
そこに他意はなかった。
誰かを責めるつもりも、過去を皮肉るつもりも、まったくない。
ただ僕が望んでいる未来を、正直に言葉にしただけだった。
けれど僕が言い終えるなり、部屋の空気がはっきりと変わったのを感じた。
さっきまで黙って話を聞いていた母の視線が、すっと鋭く細くなる。
まるで刃物のような冷たい光がその瞳の奥に宿るのを、僕ははっきりと感じた。
母は何も言わないまま、まっすぐ僕の方へ歩いてくる。
静かな足音だったのに、その一歩一歩が妙に重く感じられて、胸の奥がざわついた。
けれど、どうしてそんな空気になったのか、僕には分からなかった。
母は僕の目の前まで来ると、低い声で言った。
「……それは、私に対するあてつけなの?」
「……え?」
意味が分からなくて、思わず間の抜けた声が漏れる。
けれど、その直ぐ後には母の手がいきなり僕の胸ぐらを掴んだ。
ぐっと強く引き寄せられ、体が前に傾く。
何が起きたのか理解するよりも早く、鋭い風を切る音が耳の横をかすめた。
ぱんっと乾いた音が部屋に響き、頬に衝撃が走る。
視界が思い切り揺れ、顔が横に弾かれた。
体の奥まで響くような痛みが広がり、唇の端に鉄の味が広がる。
「つまり私と旦那さまのような夫婦になりたくないってことなのね。そう言いたいんでしょ!」
怒鳴る声が、部屋の空気を震わせた。
僕はただ母を見つめることしかできなかったけど、しばらくしてから言葉を返した。
「違います。そのようなつもりで言ったわけではありません。母上や父上を否定するつもりは、まったくありませんでした。僕はただ、自分が望んでいる未来の話をしただけです」
母の指はまだ襟を掴んだままで、その力は少しも緩んでいない。
だから僕は、ゆっくりと頭を下げた。
「誤解させてしまったなら、申し訳ありません」
母は僕から手を離し数歩下がると、呆れたように小さく息を吐いた。
「……あなたは、結局何も分かっていないわ」
静かな声だったけど、その言葉にははっきりとした冷たさがあった。
「アストリア公爵家のご夫妻が穏やかでいられるのは当然のことよ。あの方たちは家柄も立場も申し分なく、誰もが羨むような地位と財を持っている。何不自由ない暮らしが約束されているからこそ、心にも余裕が生まれるのよ。奥方も一人で、爵位争いもない。それに加えてご息女はあれほど愛らしく聡明な方でしょう。そんな恵まれた環境の中に身を置いているのなら、夫婦仲が穏やかでいられるのも当然よ。誰だって心に余裕があれば、相手を思いやることくらい出来るものだわ」
その言葉は、アストリア公爵家を褒めているようでいて、どこか冷めた響きを帯びていた。
「けれどね、世の中はそんなに甘くないのよ。人が幸せになるためには、まず条件が整っていなければならないの。家柄、財力、立場、そういう土台があって初めて、人は安心して暮らすことが出来る。そしてその上でようやく相手との相性だとか、愛情だとか、そういうものを考える余裕が生まれるのよ。順番を間違えてはいけないの」
その言葉は、はっきりとした断定だった。
「まずは条件を整えること。それがすべての土台になるのよ。どれだけ想い合っていたって、生活が成り立たなければ意味がないし、立場が弱ければ周囲に振り回されるだけになる。そんな状態で幸せな家庭なんて築けると思う?」
僕が何も言えずに黙って母の話を聞いていると、母はさらに言葉を重ねた。
「あなたの場合は特にそうよ。あなたは大公家の血を引いているとはいえ、爵位を継ぐ立場ではないって言ってるでしょう。だからこそ、自分の立場を支えてくれる確実な縁を結ばなければならないことを再三伝えているのに、その最低限の土台すら考えずにあたたかな家庭を築きたいなんて言っている」
母の口元に、わずかに皮肉めいた笑みが浮かんだ。
「夢物語よ、そんなもの。現実を何も分かっていない子どもの考えだわ。まずは自分の立場を固めることが先決でしょう。あなたはその順序をすべて飛ばして、ただ綺麗な理想だけを語っているのよ。それを世間ではね、甘いと言うの」
部屋の中に、重たい沈黙が落ちた。
「……もういいわ。あなたの顔なんて見たくない。出ていきなさい」
母は僕を見ないまま、吐き捨てるようにそう言った。
その言葉は短かったけれど、はっきりとした命令口調だったから、僕は静かに頭を下げる。
「……失礼します」
それだけを静かに告げて、僕は母の部屋を後にした。
扉が閉まると同時に、先ほどまで張り詰めていた空気が遠ざかる。
でも胸の奥に残った重さは、少しも消えてはくれなかった。
確かに、母の言うことは間違っていないのかもしれない。
この家で生きていく以上、結婚はただの感情の問題ではない。
家柄や立場、将来の安定、そういうものが先にあるべきだという考え方は、貴族としてはきっと正しいのだろう。
アストリア公爵家がセラ嬢の婚約を急がないのだって、きっと同じ理由だ。
あの家には揺るぎない地位があり、豊かな財もあり、誰もが認める名声がある。
だからこそ、焦る必要がないのだろう。
将来の相手だって、それこそ僕なんかよりずっと立派な人たちが、いくらでも現れるに違いないのだから。
……でも、僕は。
僕はもしセラ嬢と婚約できなければ、それこそ次の相手なんて簡単には見つからないかもしれない。
北部では婚約の時期も早いし、年齢が上がれば上がるほど縁談は難しくなっていく。
加えて北部では、僕の評判は決して良いものじゃない。
幼い頃から病弱だと言われてきたし、剣も政治も特別優れているわけでもない。
おまけに僕は爵位を継ぐことが出来ない四男だ。
そんな男のもとへ、進んで嫁ぎたいと思う令嬢がどれほどいるだろう。
もし仮にいたとしても、その人だってきっと何か事情を抱えているのだろうと、どうしても考えてしまう。
そうでもなければ、わざわざ僕を選ぶ理由なんて見つからない気がしたからだ。
そう考えると、胸の奥に小さな空洞のようなものが広がっていく。
廊下の窓から差し込む光がやけに白く見えて、僕は足を止めた。
母の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
僕はただ、自分の望む幸せばかりを見て、現実から目を逸らしているだけなのかもしれないと考えてしまった。
それでも……ふと、セラ嬢の顔が浮かんだ。
柔らかく笑うあの表情や、僕の話を楽しそうに聞いてくれる優しい瞳を思い出すと、胸の奥に残っていた重さがほんの少しだけ和らぐ気がする。
あの子と過ごした時間を思い出すと、どうしても思ってしまうんだ。
もしあの子と一緒にいられるなら、どんな未来だってきっと大切に出来るのではないかと。
そんなことを考えてしまうから、母に僕は甘いと言われてしまうのだろうけど。
「……それでも僕は、セラ嬢と幸せになりたいんだけどな」
窓の外には、静かな青空が広がっている。
その空をぼんやり見上げながら、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
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