7
それから少ししてローゼンガルド家の馬車が到着し、僕は千嬢をエスコートしてテラスに向かった。
九月を迎え、ヴェルメルは早くも冬に向かってだいぶ風が冷たくなってきている。
一日も早く寒い日を迎え、アストリアに行きたいと考えてしまった。
「今日はいつもに増して暗いのね」
ぼんやり紅茶を飲んでいると、不意にそう声がかけられる。
すっかり彼女の存在を忘れて物思いに耽っていたから、僕は苦笑いを一つ溢した。
「随分な言い方だね。ちょっと考え事をしてただけだよ」
「私がいるのに、考え事をするなんて失礼よ」
「それは……悪かったけどさ」
「何を考えてたの?」
千嬢とは互いの利害が一致したから、こうして月に一度だけ顔を合わせている。
だからと言って、特別親しくしたいわけではないから、心の中を話す気分にはなれなかった。
「別に、大したことじゃないよ。そろそろ冬か来るかな、とかね」
「そう言えば、先月ここに来た時よりだいぶ寒くなったわ。ヴェルメルは随分寒くなるのが早いのね」
「ヴェルメルは海が近いし、寒流の影響を受け易いんだよ」
退屈だ。
他愛のない話ばかりしているこの時間は、正直長く感じられた。
千嬢の方からよく話題を振ってくれるし、僕のことも聞いてきてくれるけど、楽しいとは思えなかった。
どうしてだろう。
セラ嬢といる時も、特別なことはしていなかった筈なのに、何をしていても何を話していても楽しかった。
時間なんてあっという間に過ぎてしまって、いつも夜になってから、話したいことが沢山溢れてしまっていたのに。
「ねえ、聞いてる?」
「え?何?」
「本当に総司様って失礼よね。そんなだから、今までの顔合わせで失敗続きだったんじゃないの?」
はっきりと言われて再び苦笑いを浮かべていると、千嬢はくすくすと笑い始めた。
「寛大な私に感謝してよね?」
「感謝してるよ。君が月に一度、こうして僕に会いに来てくれるから、余計な顔合わせをしなくて済んでるしね」
「それは私も同じよ。それに総司様といると楽でいいの。歯の浮くようなお世辞も言わないし、自然体でいてくれるから私も気を張らなくて済むわ」
「そう思ってもらえたなら良かったよ」
「私達、意外と相性良いのかもしれないわよね。だからもし、気が向いたら言って?」
「気が向いたらって?」
「他にいい子がいなくてお相手に困ったらっていうこと。私、総司様とだったら本当に婚約してもいいわ」
彼女に会ったのは、今日でまだ三回目。
いきなり言われた言葉に僕が僅かに目を見開くと、彼女はおかしそうに笑い始めた。
「なあに?その顔」
「いや、だって簡単にそんなこと言うからさ。僕なんかじゃなくて、ちゃんといい人見つけなよ」
「いい人の定義って何?優しい人?それとも私を本気で想ってくれる人?それとも地位や立場が上の人のこと?」
「さあ、それはわからないけど」
「私にもわからないわ。だから私は、ありのままの私でいても文句を言わずに普通に接してくれる人がいいの。総司様みたいな」
「別に、文句を言う人の方が少ないんじゃないの?」
「そんなことないわ。言ったでしょう?いつも縁談を断られるって」
「それは君が、私に興味ないくせに、なんて会って早々に言うからでしょ。綺麗なんだから、最初の一回くらいは猫被ればいいのに」
僕の言葉を聞いて目をぱちくりとさせた千嬢は、一度視線を逸らすと、再び僕を見上げてきた。
「私……綺麗?」
「うん、綺麗で上品な人だなって思ったよ。そうしたらとんでもないこと言い出すし、紅茶は豪快に飲んで、挙句自分で継ぎ足すから、そのギャップが面白かったけどね」
「だってありのままの私を見て受け入れてもらわないと意味がないでしょう?どのみち結婚したら、全部ばれちゃうんだから」
「ははっ、確かに」
「ねえ、総司様は?今はありのままでいてくれてるの?」
ありのままの自分がどんなものなのか、正直なところ僕自身にもよくわからない。
今だって取り繕っているつもりはないし、セラ嬢といる時も同じだ。
どちらも僕のままのはずなのに、セラ嬢と過ごしていると、ふと自分でも知らなかった自分に気づかされることがある。
まるで、彼女といる時だけ開く扉が、心のどこかにあるみたいに。
「うん、もちろん」
そう答えると、向かいに座る千嬢が安心したように微笑んだ。
「良かった。私の前ではこれからもありのままでいてよね」
「そうさせてもらうよ。君も、そのままでいいから」
「ありがとう……」
小さく礼を言う彼女の声を聞きながら、ふと記憶が胸の奥から浮かび上がった。
初めてアストリアでセラ嬢に会ったあの日々のことだ。
まだ今よりずっと幼かった彼女は、まっすぐな瞳で僕を見上げて、そのままの総司様で素敵です、と言ってくれた。
あの頃の僕は、今よりずっと貴族らしく振る舞うことを意識していたし、きっと少しは格好をつけていたと思う。
それに今だって、セラ嬢の前ではできるだけ紳士でありたいと思ってしまう。
でもそれは取り繕った姿というより、彼女を大切に思う気持ちから自然に出てくる振る舞いに近い。
その証拠に、セラ嬢と話す時は、他の誰といる時よりも、心のままに穏やかな時間を過ごしている気がしていた。
「ここ、どうしたの?」
不意に声をかけられて、思考が現実へ引き戻される。
そっと口元に触れた柔らかな布。
顔を上げると、千嬢が自分のハンカチを僕の口元に当ててくれていた。
先程、母に叩かれた拍子に、唇の端が少し切れたことを思い出す。
彼女の指先が頬に触れた瞬間、僕は反射的にその手をそっと掴んでいた。
「ちょっと切れただけだから大丈夫だよ」
なるべく軽い調子でそう言う。
なんとなく、触れられるのが嫌だった。
彼女に他意がないのはわかっているけど、胸の奥に小さな罪悪感が芽生えてしまうからだ。
やんわりとその手を退けると、彼女のハンカチの刺繍に目が止まった。
「あ、てんとう虫だ」
「あら、知ってるの?ヴェルメルではあまり見ないでしょう?」
「そうだね。でも前に本で見たし、一度実物も見たことあるよ」
小さな赤い羽に、黒い斑点。
その刺繍を見つめた時、ある光景が頭に浮かんだ。
てんとう虫を、僕に見せるために持ってきてくれたセラ嬢のこと。
まるで宝物でも入っているみたいに、てんとう虫の入った箱を僕にそっと差し出し、笑っていた。
一緒に過ごした時間は、決して長くない。
それなのに、こうして何かの拍子に思い出すたび、僕の心は自然とあの子で満たされていく。
胸の奥が柔らかくなり、優しくて温かい気持ちが静かに広がっていく。
……本当に、不思議だ。
そんなことを考えていると、目の前の千嬢がくすりと笑った。
「総司様って、てんとう虫が好きなのね」
「え?なんで?」
「だって、珍しく優しい顔で見ているもの」
そう言って、彼女は僕の手元のハンカチを軽く揺らした。
「そんなに気に入ったなら、このハンカチ差し上げましょうか?」
僕は思わず瞬きをした。
そんなに表情に出ていたのか、と少しだけ気恥ずかしくなる。
けれど千嬢は、僕が何を思い出していたのかまでは知らないから、まだ良かったけど。
「ううん、いらないよ。てんとう虫も可愛いとは思うけど、好きなわけじゃないしね」
「え?そうなの?」
千嬢は不思議そうに首を傾げる。
けれど僕は、それ以上何も言わなかった。
セラ嬢のことを話すつもりはない。
僕と千嬢がこうして二人で会っていること自体、たとえ望んだことではなかったとしても、セラ嬢に胸を張って話せることではないからだ。
だから、セラ嬢の思い出までここで語りたくはない。
それは僕の中だけに大切にしまっておこうと、彼女の微笑む顔を思い浮かべていた。
きっと……今頃、あの子は僕からの手紙を待ってくれている。
そう思うたび、胸の奥が苦しくなった。
机の上には、便箋も封筒もちゃんと用意してあるものの、僕はまだ一度もペンを取れていない。
書こうと思えばいつだって書けたはずなのに、結局今日までずるずると先延ばしにしてしまっていた。
逃げているみたいだな、と自分でも思う。
本当は伝えたいことなんていくらでもあるけど、いざ書こうとすると手が止まってしまうんだ。
父や母に言われたこと。
ヴェルメル大公家の事情のこと。
そして、もしかしたら僕には、彼女の言ってくれたような「ゆっくり愛を育てる時間」が与えられないかもしれないこと。
全部を打ち明けてしまいたい気持ちと、セラ嬢の心に余計な負担をかけたくない気持ちが、胸の中でずっとぶつかり合っている。
あの子はとても優しいから、僕の話を聞けば自分のことみたいに悩んでしまいそうで、言葉にすることが怖かった。
けれど、そんな重たい考えの中でも、僕の心の奥にはずっと変わらないものがあった。
どんなに悩んでいる時でも、消えない想い。
むしろ思い悩んでいる時ほど、その存在がはっきりと浮かび上がってくる。
セラ嬢のことを思い浮かべると、不思議なくらい胸の奥が少し明るくなるんだ。
あの子の顔を思い浮かべるだけで、胸の奥があたたかくなる。
あの子が笑ってくれるところを想像すると、大丈夫かもしれないと思えてしまう。
それは、セラ嬢の存在が僕にとって特別だという証拠だ。
だから……難しいことは、今はとりあえず考えなくてもいいのかもしれない。
全部をうまく言葉にできなくてもいい。
立派な言葉なんて並べなくてもいい。
ただ、僕の素直な気持ちをあの子に届けたい。
そう思った瞬間、さっきまで胸の中で絡まっていた考えがほどけて、小さな決心が生まれた。
今夜、部屋に戻ったら机に向かおう。
そして今度こそ、セラ嬢に手紙を書こうと思った。
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