8
総司さまにお手紙を出してから、気がつけばもう二ヶ月近くが過ぎていた。
わたしは毎日、朝になると自然と窓の外を見てしまう。
今日こそ、総司さまからのお手紙が届くかもしれないと期待しながら。
でも先週も、その前の週も、総司さまからのお返事は届かなかった。
そして今週も、あと一日で終わってしまう。
いつもならとっくにお返事をいただけている頃なのにどうしてだろう。
総司さまのことを思うたびに胸の奥が締め付けられるようで、言葉に出来ない不安が静かに広がっていくのを感じていた。
「あら?もう食べないの?」
夕食の席でぼんやりと総司さまのことを考えていたら、気がつくとフォークを持つ手がすっかり止まってしまっていた。
ここ数日、ずっとこんな調子だったからだろう。
お父さまとお母さまが、少し困ったような顔でわたしを見ているのが分かった。
「最近あまり食べないな。体調が良くないのか?」
心配そうなお父さまの声に、わたしは小さく首を振る。
『いいえ、元気です。ただ……少し食欲がないだけです。お食事を残してしまってごめんなさい……』
昨日はちゃんと食べなくてはと思って、無理をして食べてみた。
けれどその後、気分が悪くなってしまって、お部屋でしばらく横になっていた。
フォークを静かに置いて、小さくため息をこぼすと、向かいに座るお父さまとお母さまが顔を見合わせていた。
『わたし、先にお部屋に戻りますね。ごちそうさまでした』
そう言って席を立ち、わたしはそのまま自分の部屋へ戻る。
扉を閉めると、机の引き出しから大切にしまってあるお手紙を取り出した。
総司さまからいただいた、この前のお手紙。
そこには初めて、好きという言葉が書かれていた。
それを読んだ時、胸がふわっと温かくなって、嬉しくて、何度も何度も読み返してしまった。
あの時は、あんなに幸せな気持ちになれたのに……。
どうして今回は、こんなにもお返事が来ないのだろう。
『総司さま……』
小さく名前を呼んでみても、もちろん返事は返ってこない。
もしかして、体調を崩されてしまったのだろうか。
それとも、どこかで大きなお怪我をしてしまったのかもしれない。
そう考えると、心が落ち着かなくなってしまう。
総司さまに何かあったらどうしよう。
そんな思いが頭をよぎるたび、胸の奥が苦しくなった。
そしてもう一つ、わたしの心の中にはどうしても消えない不安があって、わたしは唇をきゅっと結んだ。
『この前のお手紙……わたし、何か失礼なことを書いてしまっていたらどうしよう……』
あのお手紙には、お父さまとお母さまから聞いた恋や愛のお話について書いた。
時間がかかっても、総司さまと一緒に今の気持ちを大切に育てていけたら嬉しいこと。
そして、そのことについて総司さまがどう思っていらっしゃるのか知りたいということ。
でも今になって思う。
あれはもしかしたら、わたしの気持ちを一方的に押しつけてしまっただけだったのかもしれない。
アンナ夫人は以前、ヴェルメルでは幼い頃に婚約を結ぶのが古くからの慣わしだと教えてくれた。
それに、わたしたちはまだ正式に婚約しているわけではない。
そう考えると、総司さまの置かれている状況は、ヴェルメルではあまり好ましくないのではないかという考えが浮かんでしまう。
もしも……総司さまが、お家の事情で婚約までにあまり時間をかけられないとしたら。
わたしとのご縁は、なかったことになってしまうのかもしれない。
同じ北部で、もっと早く婚約を考えているお家のご令嬢とのお話だって、もしかしたらいくつも上がっているかもしれない。
だって総司さまは、とても素敵な方だから。
優しくて、穏やかで、お話も上手で。
きっと一度お会いすれば、たくさんの女の子が総司さまを好きになってしまうと思う。
わたしより少し年上で、背も高くて、とても綺麗なご令嬢が、総司さまの隣で楽しそうに笑っている姿をふと想像してしまった。
そうすれば胸の奥がぎゅっと締め付けられて、息がうまく出来なくなる。
気がつくと、瞳からはぽろぽろと涙がこぼれていた。
『……総司さま』
小さく名前を呼んでも、やっぱり返事はない。
手の中のお手紙をそっと胸に抱きしめていると、こんこんと控えめな音が部屋の扉を叩いた。
「セラ、入ってもいいかしら」
優しい声に、わたしは慌てて涙を拭う。
『はい……どうぞ』
扉が静かに開き、お母さまが部屋の中へと入ってきた。
柔らかな灯りの中で、お母さまはいつもの穏やかな微笑みを浮かべている。
でもわたしの顔を見ると、その表情が少しだけ心配そうなものへと変わり、わたしの向かいの椅子に腰を下ろした。
「最近、元気がないでしょう。夕食の席でもほとんど食べていなかったもの」
『ごめんなさい……』
「謝らなくていいのよ。ただ何か心配事があるのなら、少し聞かせてほしいと思ったの」
そう言って、お母さまはそっと机の上のお手紙に目を向けた。
「総司さんからのお手紙のことかしら?」
わたしは驚いて顔を上げる。
『どうして分かったのですか?』
「最近のセラが何かを一生懸命考えている時は、大抵総司さんのことを想っている時だから」
お母さまには全部気付かれてしまっているのかと思えば、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
わたしは少し迷ってから、ゆっくりと口を開いた。
『総司さまにお手紙を出してから……もう二ヶ月になるのです。いつもなら、もっと早くにお返事をくださるのに……今回はまだ届かなくて』
お母さまは静かに頷きながら、わたしの話を聞いてくれている。
けれど言葉にしてしまうと、胸の奥に溜まっていた不安が一気に溢れてくるようだった。
『もしかしたら体調を崩されたのかもしれないと思って……それとも、どこかで怪我をされたのかもしれないって……。それに……この前のお手紙で、わたし……総司さまとゆっくり気持ちを育てていきたいと書いてしまったのです。総司さまが同じように想っていらっしゃらなかったとしたら……迷惑に思われたのではないかと……不安に思ってしまうのです』
話し終わっても、お母さまはすぐに言葉を返さなかった。
そして少し考えるようにしてから、ゆっくりと口を開く。
「セラ。あなたは今、とても大切なことを考えているのね。好きな人のことを思って不安になるのは、少しもおかしいことではないわ。むしろ、それだけ相手のことを大切に思っている証拠よね」
その言葉を聞いてわたしが顔を上げると、お母さまは微笑みながら続けた。
「でもね、ひとつだけ覚えておいてほしいの。想像だけで、相手の気持ちまで決めつけてしまわないこと。人は不安になると、つい悪い方ばかり考えてしまうものなのよ。きっと嫌われてしまったのではないかとか、他の人を好きになったのではないかとか……」
お母さまは少し懐かしそうに笑った。
「わたしも若い頃、同じことを何度も考えたわ」
『お母さまもですか?』
「ええ。あなたのお父さまのお返事が遅れただけで、ずいぶん心配したものよ」
そう言って、お母さまはそっとわたしの手を取った。
「でもね、その不安のほとんどは、あとで振り返るとただの思い過ごしだったりするの」
『その時お父さまは、どうしてお返事が遅れてしまったのですか?』
「お父さまはね、少しうっかりしているところがあるでしょう?出したつもりで、わたしからの手紙と一緒に机にしまっていたのよ」
『ふふ、お父さまらしいです。それではお手紙が届かないはずですね』
「そうなの。だからね、あなたが今するべきことはひとつだけ。総司さんを信じて待つことよ」
その声はとても穏やかだったけど、わたしの心に真っ直ぐ届いた。
「もし本当にあなたのことを大切に思っているのなら、必ずきちんとお返事をくださるわ。それでも不安なら、次のお手紙で素直に聞いてみればいいの。あなたが心配していることを、正直に伝えるのよ」
『正直に伝えてしまってもいいのですか……?』
「ええ。愛情を育てていく時に一番大切なのは、格好よく振る舞うことではないの。互いに本当の気持ちを伝え合うことよ」
お母さまは、わたしの目を優しく見つめた。
「あなたはとても優しい子だから、相手のことを思って遠慮してしまうのでしょう。でもね、本当に大切な相手には、ちゃんと心を見せてもいいのよ」
『……はい』
「それにね、もし総司さんがあなたのことを泣かせたまま放っておくような方だったら、お父さまがきっと許さないわ」
思わず、くすっと笑ってしまう。
涙で濡れていたはずの胸の奥が、少しだけ温かくなっていた。
それでも、心の中にはまだ言葉に出来ていない不安が残っている。
わたしは手の中のお手紙を見つめながら、そっと口を開いた。
『……お母さま』
「なに?セラ」
『もう一つ、聞いていただいてもいいですか?』
「もちろんよ」
お母さまはすぐに頷いてくださる。
その優しい眼差しに背中を押されるように、わたしはゆっくりと言葉を続けた。
『ヴェルメルでは、幼い頃に婚約を結ぶことが多いと聞きました。もし、もしも……総司さまが、お家の事情で婚約までにあまり時間をかけられないお立場だったら……わたしとのご縁はなかったことになってしまうのかもしれないと……思ってしまうのです』
自分で口にしてみると、その想像が急に現実味を帯びてくる。
胸の奥が少しだけ苦しくなるのを感じながら、わたしは続けた。
『同じ北部には、もっと早く婚約を考えていらっしゃるお家もきっとあると思いますし……総司さまはとても素敵な方です。優しくて、穏やかで、お話も上手で……きっと一度お会いすれば、たくさんの女の子が総司さまを好きになってしまうと思うのです』
その中でわたしを選んでもらえる自信がなくて、心がまたしゅんとしてしまう。
それと同時に、わたしの声までも自然と小さくなっていった。
『わたしよりお姉さんで、背も高くて、とても綺麗なご令嬢もたくさんいらっしゃるでしょうし……もし総司さまや総司さまのご家族が、そういう方とのご縁を望まれたら……』
そこまで言って、わたしは言葉を止めてしまった。
しばらく静かな時間が流れる。
お母さまは少しだけ考えるように目を伏せてから、穏やかな声で言った。
「セラ」
『はい』
「あなたは、本当に総司さんことをよく見ているのね」
その言葉に、わたしは少し驚いて顔を上げた。
「優しいところも、穏やかなところも、お話が上手なところも……総司さんのいい所にちゃんと気づいている。でもね、あなたが見落としていることもあるかもしれないわ」
『見落としていること……ですか?』
「ええ。セラは今、他のご令嬢が総司さんを好きになるかもしれないと考えて、不安に思っているでしょう?でも、それよりもっと大切なことがあると思わない?」
わたしが思わず小首を傾げると、お母さまはわたしの目を優しく見つめた。
「総司さんが、誰を好きになるのかということよ」
その言葉に、胸が小さく揺れる。
「たくさんの方に好かれる人でも、心を決める相手は一人だけなの。セラは総司さんからお手紙をいただいているのでしょう?」
『……はい』
「その中で、あなたに想いを伝えてくださったのでしょう?」
わたしは小さく頷く。
「それなら、その気持ちをまず信じてあげなくてはね」
お母さまの声はとても静かで温かかった。
そしてこの前の手紙に書かれていた総司さまの気持ちを思い出した。
「家の事情や周りの都合で、人の人生が動くことは確かにあるわ。でもね、それでも最後に決めるのはその人の心なのよ。それに、もし本当に総司さんがあなたとの時間を大切に思っているのなら、急いで決めることよりも、あなたと気持ちを育てることを選ぶかもしれないでしょう」
そうだったらどんなに嬉しいことだろう。
でも手紙の返事がない今は、総司さまがどう思ってくださっているかはわからない。
そう考えてしまうわたしに、お母さまは言葉を続けた。
「それに恋というのはね、誰かと比べて勝つものではないのよ。背が高いとか、年上だとか、綺麗だとか……そういうことで決まるものではないわ。その人と一緒にいる時、心がどんなふうに動くか、それが一番大切なの。セラが総司さんと過ごした時間は、決して誰かと比べられるものではないでしょう?」
総司さまと過ごした日々。
笑ったこと、少し恥ずかしかったこと、優しく見つめていただいたこと。
胸の奥に浮かんだその記憶が、静かに温かく広がっていく。
あの時間はわたし達二人だけの、とても大切な尊い時間。
誰にも比べられたくない、わたしの中の宝物だ。
「だからね、セラ。まだ起きていない未来を怖がって、自分の想いまで小さくしてしまわなくていいのよ。あなたはただ、総司さんと向き合えばいいの」
『……でも、お母さま?もし本当に……総司さまが、お気持ちに関係なくお家の事情で婚約までにあまり時間をかけられないお立場だったとしたら……その時はわたしとのご縁は……やっぱり難しくなってしまうのでしょうか?』
「いいえ。あなたとの未来を本気で望んでいるのなら、何も言わずに一人で決めてしまうようなことはなさらないと思うわ。大切な相手だからこそ、きちんと話そうとするものなのよ。ヴェルメルの事情で時間をかけられないのだとしたら、総司さんはきっとあなたに相談してくださるはずよ」
お母さまの声は静かだったけど、その言葉には確かな温かさと強さがあった。
総司さまなら、わたしのことを思ってきっと話してくださる。
そう思える気がした。
「だから、もし本当に総司さんからそういうお話があったのなら、その時にまた一緒に考えましょう。私もお父様もいるでしょう。私達はあなたの味方よ。あなた一人で悩む必要はないのよ」
お母さまはそっとわたしの頬を撫でて、優しく微笑んだ。
「それに総司さんのこともちゃんと見てきたつもりよ。あの方があなたを大切に思っていることも、私達は分かっているわ。だからもし二人が同じ未来を望んでいるのなら、私達はきっとその背中を押すと思うわ」
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
気がつくと、さっきまで張りつめていた気持ちが少しだけやわらいでいた。
「大丈夫よ、セラ。愛というのはね、未来を一人で想像して怖がるものではなくて、二人で歩きながら見つけていくものなのだから。今日のことも、あなたと総司さんを繋ぐ愛情の一つになる筈よ」
お母さまの言葉を聞いているうちに、胸の奥に溜まっていた重たいものが、少しずつほどけていくのを感じていた。
さっきまであんなに苦しかったのに。
未来のことを考えるたびに怖くなっていたのに。
今は、不思議なくらい胸が静かになっている。
わたしはそっと顔を上げて、お母さまを見つめた。
『お母さまのお話を聞いたら、さっきまでの不安が少しやわらいだ気がします。わたし、ひとりで色々なことを想像して……勝手に怖くなっていたのかもしれません。でも、お母さまがそう言ってくださったから……今は総司さまならきっと、ちゃんとお話してくださる気がするんです』
「ええ。きっとそうよ」
その一言が、とても心強かった。
わたしは少し照れくさくなりながら、でもどうしても伝えたくて口を開いた。
『……お母さまは、すごいですね』
「まあ、どうして?」
少し驚いたように目を瞬かせるお母さま。
『さっきまでは、どうしていいか分からなくて……不安でいっぱいだったのに、お母さまとお話しただけでこんなに気持ちが落ち着いてしまうのですから。わたしもいつか、お母さまみたいな奥さまになれたらいいなと思います』
「わたしみたいに?」
『はい。お父さまのことをとても大切にされていて、いつも優しくて。それに、こんなふうにわたしのお話を聞いてくださって。わたし、お母さまのことが本当に大好きです』
そう言うと、お母さまは一瞬だけ驚いた顔をして、それからとても優しく笑った。
「ありがとう、セラ」
そっとわたしの頭を撫でてくれる。
その手はいつもと同じで、温かくて、安心する。
「娘にそう言ってもらえるなんて、これほど嬉しいことはないわ。でもね、あなたはあなたのままでいいのよ」
『わたしのままで?』
「ええ。あなたには、あなたの良いところや優しさがあるでしょう?総司さんが好きになったのも、そのセラなのだから」
その言葉を聞いて、胸が少しだけくすぐったくなる。
そしてそれは、わたしに自信を持たせてくれる言葉でもあった。
「だから無理に誰かのようになろうとしなくても大丈夫。それでももし、わたしみたいな奥さんになりたいと思ってくれるのなら……」
そう言って私を見つめる空色の瞳。
わたしと同じ色の双眼が、柔らかく細められた。
「きっとあなたは、わたしよりもっと素敵な奥さんになるわ」
『そんなふうになれたら、とても嬉しいです。お母さま、いつも励ましてくださってありがとうございます』
そう言って微笑むと、お母さまも優しく頷いてくれた。
わたしは思った。
わたしもいつか、大好きな人の隣で穏やかに笑える人になれたらいいな、と。
総司さまの隣で、総司さまや総司さまとの間にできた子に優しく寄り添える人でいたい。
だから今はお母さまの言う通り、もう少しだけ信じて待ってみようと思います。
総司さまのこと。
そして、総司さまとの明るい未来のことを。
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