10
アストリアへ向かう前日。
北部のヴェルメルでは、すっかり冬を迎えようとしていた。
温室のガラス越しに見える庭はすでに色を失いはじめていて、枝だけになった木々が薄曇りの空の下に静かに立っている。
外はきっと吐く息が白くなるほど冷たいのだろうけど、この温室のテラスだけは別の季節みたいに柔らかな暖かさに包まれていた。
白いカップから立ちのぼる湯気をぼんやり眺めながら、僕は椅子の背に身体を預ける。
普段なら、この時間はわりと退屈だ。
ローゼンガルド家の千嬢とこうしてお茶をすること自体が嫌なわけではないけど、正直に言えば、僕はいつも途中から別のことを考え始めてしまうことが多かった。
けれど今日は最初からずっと、頭の中が一つのことで埋め尽くされてしまっている。
なぜならこの温室に来る直前、僕は我慢出来ずにセラ嬢からの手紙を読んでしまったからだった。
あの手紙は、人と会う前に読むべきじゃなかった。
便箋に書かれた内容を思い出しただけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
あの子はいつもまっすぐな言葉で自分の気持ちを書いてきてくれるけど、それがどれだけ僕の心を揺さぶるか、きっと分かっていないんだろう。
取り繕うことを知らないセラ嬢のからの手紙は、僕の心をいとも簡単に彼女一色に染め上げてしまった。
僕からの返事が遅かったことで、あの子はきっと色々考えてしまったに違いない。
余計なことまで想像して、不安になって、胸を痛めてしまったのだろう。
そう思うと、申し訳ない気持ちになる。
僕がどう書くべきか迷ってしまったばかりに、彼女はきっと僕のことで心を乱してしまった。
それがわかった今は、何があっても、きちんとすぐに返事を書くようにしようと強く思った。
でも、ふと前に見たセラ嬢の泣き顔が頭をよぎる。
大きな瞳に涙を溜めて、こぼれないように必死に堪えていたあの顔。
結局こらえきれなくなって、ぽろりと涙を落としてしまった時のあの愛らしい表情。
もしあの子が、僕の手紙を待ちながらあんなふうに涙をこぼしてしまっていたとしたら。
想像するだけで、胸の奥が締めつけられる。
悲しませたくはないし、泣かせたくはないのに、僕のことでそんなふうに心を揺らしてしまう姿を想像すると、胸の奥を優しく掴まれたみたいにどうしようもなく心臓が高鳴ってしまう。
……本当に困るな。
どうしてセラ嬢は、あんなに可愛いんだろう。
あの子のことを思い出すだけで身体が熱くなるし、口元が緩みそうになる。
手紙を読んだ時の喜びも高揚も、まだ全然消化できていない。
だから僕は頬杖をつくふりをして、そっと口元を隠していた。
油断したら、きっと変な顔になる。
そんな姿を人に見られるなんて、さすがに避けたかった。
でも……
「なんだか……今日はやけに様子がおかしくない?」
向かい側から、怪訝そうな声が飛んでくる。
僕はこほんと咳払いをしてから、出来るだけいつも通りに振舞った。
「そう?いつもと何も変わらないけど」
「さっき、完全ににやけてたわよ。何かいいことでもあったの?」
「別に、全然」
そう答えて、誤魔化すように紅茶を一口飲む。
「自分では隠してるつもりかもしれないけど、いつもと違うのは丸わかりよ?少なくとも普段みたいに、退屈そうな顔じゃないもの」
「その言い方もどうかと思うけど」
「だってそうでしょ。お茶をしてる時でも、総司様ってわりとすぐ別のこと考え始めるし、私が話してても聞いてないこともあるし」
それは正直、否定しにくい。
僕は苦笑しながら、再びカップを口元へ運んだ。
「今日はちゃんと君の話を聞いてるよ」
「聞いてたとしても、今だって半分くらい別のこと考えてるでしょ。一体いつも、何を考えてるの?」
「さあね。別に大したことは考えてないけど、どうしたら剣術の腕が上がるのか、とかはよく考えてるよ」
実際、剣の腕についてはよく考える。
騎士団の中で、どうすればもっと強くなれるのか。
どうすれば上の階級へ進めるのか。
日々の稽古の中でも、試合の中でも、頭のどこかでいつもそれを考えている。
剣筋の癖や、相手の動きの読み方、力の使い方。
少しでも強くなるためにはどうするべきか、日々模索中だ。
でも今は、セラ嬢の手紙の文字が頭から離れない。
僕のことが好き過ぎて困らせてしまうかもとか、僕を想う気持ちはどうしても止められないなんて……あんなことを書かれたら、堪らなくなる。
許すどころか、そんなことを言われてしまったら、他の人が目に入らないくらいもっと僕のことを好きになって欲しいと言いたくなってしまう。
でも、セラ嬢は手紙で何度も大好きだと書いてくれていた。
それは決して大袈裟でも、押しつけがましい書き方でもなくて、隠しきれないみたいに滲み出ている様子がまた愛らしかった。
思い出しただけで、また口元が緩みそうになる。
僕はすぐにカップを口元に運んで、それを誤魔化した。
けれど向かいに座っている千嬢は、そんな僕の様子をしっかり見ていたらしい。
「ほら、また。今もにやけてたわよ」
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃないわ。さっきからずっとそんな顔してるもの」
「そんな顔ってどんな顔さ」
「なんていうのかしらね……こう、すごく機嫌がいい人の顔」
「機嫌がいいのは別に悪いことじゃないでしょ」
「そうだけど、総司様って普段あんまりそういう顔しないじゃない。いつもは私が何を話しても、ずっと仏頂面だし」
思わず苦笑が漏れる。
睨まれてしまえば若干の気まずさを覚えるから、退屈そうな態度はあまり見せるべきじゃないと反省した。
「それは元々の顔付きがそうなだけだと思うよ。別に君の話がつまらないって意味じゃないから」
「そんな言い方されても全然嬉しくないわ」
「一応フォローしたつもりなんだけど」
「全然出来てないわよ」
千嬢は呆れたようにため息をつき、マカロンを指先で摘むとぱくりと食べた。
「でも今日は本当に変よ。さっきからずっと楽しそうなんだもの」
「そうかな」
「そうよ。さっきも一人でぼんやりしてたと思ったら、急に笑いそうになっていたし。総司様も、そんな顔をすることがあるのね」
自分がどんな顔をしていたのかなんて、よくわからない。
でも確かに僕は、心の底から笑ったり嬉しいと思ったり……そういう経験をしたことは記憶の限りあまりない。
まさか僕が、女の子から届いた手紙を思い出して一人で頬を緩ませるようになるなんて、少し前の自分なら想像も出来なかっただろう。
「失礼だな。人間なんだから笑うこともあるよ」
「だって、普段はもっと感情が死んでるような顔してるじゃない」
「感情が死んでるってなにさ。君の中の僕って、どんな人なの?」
「そうね……いつも冷静で、あまり感情を表に出さなくて、何考えてるのか分かりにくい人」
「それ、褒めてるの?貶してるの?」
「褒めてるの、半分くらいは」
あまり褒められている気がしないけど、彼女の言葉を聞き流して紅茶を口に運ぶ。
そんな僕の様子をいまだ彼女はじっと見つめているから、僕は思わず首を傾げた。
「なに?じっと見て」
「別に。ただいつもそうやって笑ってくれてたらいいのにって、そう思っただけ」
「そう?」
「ええ。だってその方がずっと話しやすいわ」
「それはつまり、普段の僕は話しにくいってこと?」
「そういう意味じゃないわよ」
くすっと笑いながら、千嬢は首を横に振った。
細い指先でティーカップの縁をなぞり、少し考えるように視線を落としたあと、ゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
「ただ、総司様ってちょっと距離がある感じがするのよね。すぐそこにいるのに、いつもどこか遠くにいるみたいな」
「難しいこと言うね」
「そうかしら。でも本当にそう思うの。黙っていると少し怖いし」
「え?怖い?僕が?」
思わず聞き返すと、千嬢は平然と頷いた。
「ええ。笑っていても、なんだか目が笑ってない感じがするのよね。でも笑っている時はまだいい方だわ。笑ってない時に目が合うと、睨まれてるみたい。年下の女の子があなたを見たら泣いちゃうんじゃない?」
「…………」
さすがにそれには、少し言葉に詰まる。
そんな怖い顔をしているつもりはないけど、言われてみればどうなんだろう。
年下の女の子が見たら泣くかもしれない、なんて言われてしまえば、ふとある顔が思い浮かぶ。
セラ嬢は、まさに年下の女の子だからだ。
大きな瞳でまっすぐこちらを見上げてくるあの子が、もし僕を見てそんなふうに思っていたら……。
そこまで考えて、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなる。
もしかして、あの子も僕のことを怖いと思っていたりするんだろうか。
いや、そんな様子はなかった気もするけど。
でも僕が気づいていないだけで、実は緊張していたりとか?
考えているうちに、指先が無意識に頬をなぞっていた。
「なにしてるの?」
「いや……そんなに怖い顔してるのかなって思って」
「してるわよ」
「即答だね」
「だって本当なんだもの。でも今はそうでもないわね。だから最初はびっくりしたの」
「びっくりって?なんでさ」
「総司様にそんな柔らかい顔ができるなんて思ってなかったから」
「……ひどい言われようだな」
僕が少し困ったように笑うと、千嬢も楽しそうに言葉を続けた。
「初めて会った時なんて、本当に近寄りがたい感じだったもの。綺麗な顔してるのに、すごく冷たい人なのかなって思って怖かったわ」
「怖がられるのは困るんだけど」
「どうして?」
「別に人を怖がらせたいわけじゃないし」
「そうなの?」
「そうなのって……。当たり前でしょ」
もし彼女の言うことが事実だとしたら、兄上達から生意気だなんだと言われる理由は、僕の顔付きにも原因があったのかもしれない。
思わずため息を吐き出すと、千嬢はそんな僕を見て少し首を傾げた。
「なんだか気にさせちゃったかしら。でも騎士の人って、少し怖いくらいの方がいいんじゃないの?」
「まあ、敵相手ならね」
「ああ、なるほど」
彼女は納得したように頷く。
「でも普段からそんな顔してたら、誰も近寄らないわよ」
「別に困らないけど」
「困るわよ。だって話し相手がいなくなるじゃない」
「君がいるじゃない」
すぐにそう返すと、千嬢は少し驚いた顔をしてから笑った。
「それはそうだけど」
「それに君は僕のことを怖がってないみたいだし」
「最初はちょっと怖かったわよ。でも今は慣れたわ」
「慣れって大事だね」
「ふふ、何よそれ」
少なからず、最初は違和感を感じていた千嬢との時間も今ではもう慣れた。
千嬢はくすくすと笑った後、少し考えるように僕を見つめた。
「でも、さっきみたいに笑ってる方がいいと思うわ。その方がずっと優しそうに見えるもの」
「優しそう、ね」
僕は小さく呟く。
その言葉を聞いて、またセラ嬢の顔が頭に浮かんだ。
セラ嬢は僕の優しいところが好きだって言ってくれていたけど、彼女の瞳に僕はどんなふうに映っているんだろう。
他の人にはどう思われてもいい。
だけどあの子の瞳にだけは、優しい人間として映っていたかった。
「総司様、また別のこと考えてるでしょ」
「すごいね、なんで分かったの?」
「だって今、急に黙ったから」
「まあ、ちょっと考え事をね」
「総司様って本当にすぐ遠くに行くわね」
彼女はそう言ってから、少しだけ目を細めた。
「ねえ、総司様」
「なに?」
「今はちゃんとここにいる?」
その言い方が少し可笑しくて、僕は思わず笑った。
「いるよ」
「本当?」
「本当だってば」
そう答えると、千嬢は満足そうに頷いた。
「じゃあもう少しお話しましょう」
「まだ聞くことあるの?」
「たくさんあるわよ。だって総司様のこと、まだほとんど知らないでしょう?」
そう言ってから彼女は一瞬だけ視線を横に逸らし、何かを思いついたようにぱっと表情を明るくした。
「そうだわ。総司様、最近稽古はどうなの?」
「急に話が変わったね」
「だってさっき剣のこと考えてるって言ってたでしょ」
「まあね。稽古の方は相変わらずだよ。毎日同じことの繰り返し」
「それでも強くなれるものなの?」
「繰り返さないと強くならないよ。剣は結局、身体に覚えさせるものだからね」
「へえ、そういうものなのね」
千嬢は興味深そうに頷きながら、じっとこちらを見ている。
「じゃあ総司様って、騎士団の中でも強い方なの?」
「さあね。どうだろう」
「またそうやってはぐらかす」
「別にはぐらかしてるわけじゃないよ。本当に、まだまだ上はいるからね」
僕は少し笑いながら紅茶を飲む。
けれど彼女は話を終わらせるつもりがないらしく、そのまま身を少し乗り出した。
「総司様って普段あんまりお話してくれないでしょ?だから今日は色々聞いてみたいのだけど、いい?」
「例えば?」
「えっと、そうね……」
少し考えてから、千嬢は楽しそうに言った。
「総司様って、自由な時間は何してるの?」
「まあ……稽古かな」
「また剣なの?」
「それが一番好きだから」
「ふうん……。じゃあ剣以外は?」
「特にないかな」
「本当に?」
「本当に」
千嬢はじっと僕を見つめ、それから小さく息を吐き出した。
「総司様って、案外つまらない人なのね」
「その言い方、酷くない?」
「だって、さっきから聞いても剣の話しかしないんだもの」
「君だって似たようなものじゃないの?」
「私はもっと色々あるわよ。本を読んだり、庭を散歩したり、刺繍をしたり……そういう時間も好き」
「なるほどね」
「それにこうやって総司様とお茶をして、お話するのも好きよ」
「それは光栄だね」
千嬢は柔らかく笑った。
その笑顔はどこか少しだけ照れているようにも見える。
けれど彼女はすぐに、また次の質問を考えているようだった。
「総司様って、子どもの頃から剣術を嗜んでいたの?」
「まあね。わりと小さい頃から」
「最初から強かったの?」
「そんなわけないでしょ。最初は普通に負けてたよ。そもそも身体も弱かったし」
「でも今は強いんでしょう?」
「さあね」
「またそれ?」
彼女は少し呆れたように笑うと、今度はカップを両手で包みながら首を傾げた。
「じゃあ総司様って、騎士団に入ったのはいつなの?」
「数年前かな」
「その前は?何してたの?」
「色々」
「ちょっと、色々ってなによ」
「色々だよ」
「もう、全然教えてくれないじゃない」
千嬢は少しだけ頬を膨らませると、それでも懲りずに、また口を開いた。
「じゃあ好きなものは?剣以外で」
「なんだか、今日はやけに質問攻めだね」
「だって知りたいの」
「どうして?」
「どうしてって……」
彼女は少し言葉に詰まり、それから肩をすくめた。
「だってせっかくこうして会ってるんだから、少しくらい知ってもいいじゃない」
僕はカップをソーサーに戻しながら、ふっと小さく息をつく。
「ていうかさ」
「うん?」
「別に僕のことをそんなに聞かなくてもいいんじゃない?」
僕の言葉を聞いて、千嬢はきょとんとした顔で僕を見る。
「どういう意味?」
「僕達はあくまでも、他の顔合わせを避けるためにこうして会ってるだけなんだからさ。そこまで頑張って話題を作らなくてもいいと思うけど」
このお茶の時間は、もともとそういう理由で設けられたものだ。
互いの家の都合に振り回されるのが嫌だった僕達が、余計な顔合わせを避けるための名目上の時間。
だから無理に親しくなる必要もないし、会話だって適当で構わない。
そう思って言ったけど、千嬢は少しだけ目を瞬かせ、それからゆっくり笑った。
「それはわかってるわよ。でもね、私は折角のこの時間もできるかぎり楽しく過ごしたいの」
その声は軽い調子だったけど、どこか真面目な響きも混じっていた。
「ただ黙ってお茶を飲んで終わるより、少しくらいお話した方がいいじゃない。それに総司様って、放っておくとすぐ別のこと考え始めるでしょ」
「そんなことないよ」
「あるわよ。だからこうして質問してるの。そうすればちゃんとこっちを見てくれるかなって」
……なるほど、そういう理由か。
僕は思わず苦笑する。
千嬢は楽しそうに目を細めながら、また新しい話題を探しているみたいだった。
僕はその後も彼女の質問に答えながらも、頭の片隅でセラ嬢のことを考える。
もう少ししたら、あの子に会える。
それだけで他愛のない日常でさえ、光を浴びたように輝く気がしていた。
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