2
温室の中に満ちるやわらかな光の中で、僕はセラ嬢を見つめていた。
半年ぶりに会ったセラ嬢は、また一段と綺麗になっていた。
もともと整った顔立ちをしていたけど、それだけじゃない。
以前よりも物腰が柔らかくなって、仕草の一つ一つまで愛らしい。
その姿は何度見ても、まるで天使みたいだった。
さっき、何の躊躇いもなく言われた言葉を思い出す。
あまりにも唐突で真っ直ぐで、正直、その破壊力は凄まじかった。
情けないくらい、その一言に全部持っていかれてしまったから、年上の余裕なんてものは綺麗に消えて、僕に出来たのは顔を背けてしゃがみ込むことくらいだった。
本当は、僕も想いを伝えるつもりだったんだ。
僕を見上げる瞳も、一生懸命なその表情も、僕の言葉を待っていることをはっきりと物語っていたから。
だから絶対に、言葉にしようと思っていた。
でも、目の前に立つセラ嬢を見た時、思考がうまく働かなくなった。
彼女だって以前よりも背が伸びたはずなのに、こうして近くで見ると、その身体はむしろ前より小さく感じる。
細い肩、柔らかな髪、そして女の子らしい曲線を帯びた白い肌。
そんなことを意識してしまったら、思考が妙な方向に乱される。
僕を見上げる無垢な瞳はあまりにも綺麗で、気付いた時には視線を逸らしていた。
「ありがとう。嬉しいよ」
結局、出てきた言葉はそれだけだった。
今ならまだ続きの言葉を言えるのに、何かが引っかかったみたいにそこから先が出てこなかった。
もう一度セラ嬢を見ると、彼女は柔らかく微笑んでいた。
その瞳が、ほんの一瞬だけ淋しそうに揺れたのを、僕は見逃さなかった。
『はい……』
先程のセラ嬢からの言葉は特別で、胸の奥にまっすぐ届く言葉だった。
だからこそ僕も、ちゃんと返したいと思っていた。
この喜びやあたたかさを、セラ嬢にも与えてあげたいと思った。
でも僕は今まで、誰かに好きだと言ってもらえたことも、伝えたことも一度もない。
セラ嬢を大切に思っているからこそ、どうやって伝えるべきか考えてしまう。
軽い言葉にはしたくない。
でも、考えれば考えるほど、言葉は喉の奥に絡まってしまった。
『あ……あのお花』
僕が自分の中で思い悩んでいると、セラ嬢がふいに小さく声を上げた。
彼女の視線の先を辿ると、そこには淡い桃色のダリアが咲いていた。
幾重にも重なった花弁が丸く広がって、まるで小さなドレスみたいな花だ。
ただ、その茎が途中で折れかけていて、今にも花が下を向いてしまいそうになっている。
セラ嬢はそっと近づくと、その茎を優しく指先で支えた。
『このままだと、折れてしまいそうです』
少し考えるように花を見つめてから、小さく頷く。
『傷んでしまう前に、切ってしまった方がいいですね』
そう言って、近くに置いてあった小さな剪定鋏を手に取った。
折れかけている部分より少し下を、茎を潰さないように斜めにちょきんと切る。
そして切り取ったダリアを両手でそっと受け止めると、手のひらの上に乗せて大事そうに眺めていた。
「セラ嬢は、花の手入れの仕方も詳しいんだね」
『どうでしょう。でもお花は好きなので、よく庭師の方のお手伝いをさせていただいているんです』
「そうなんだ。どんなことをしてるの?」
そう聞くと、セラ嬢の表情がぱっと明るくなった。
『この前は、チューリップの球根を植えましたよ。春になったらたくさん咲くのだそうです。それから、スイートピーはつるが伸びるので、支柱に優しく結んであげるといいと庭師の方に教えていただきました』
彼女は笑顔のまま、思い出すように続ける。
『あと、ラベンダーは枝を少し剪定してあげると、次の年も綺麗に咲くと本に書いてあったので、この前少しだけお手伝いしたのです』
好きなもののことを話している時のセラ嬢は、本当に嬉しそうだ。
その表情を見ていると、僕まで心が弾んでくる。
でもさっき一瞬だけ見せたあの淋しそうな瞳が、まだ胸の奥に残っていた。
……だめだな。
あんな顔をさせたままではいたくない。
僕はセラ嬢の手の中にあるダリアにそっと手を伸ばした。
「それ、少し借りてもいい?」
『はい、どうぞ』
セラ嬢はにこやかな笑みを浮かべながら、手のひらに乗せていたダリアを躊躇いもなく僕に差し出してくれる。
僕はその花を受け取ると、セラ嬢の方へと一歩近づいた。
「少し、じっとしてて」
セラ嬢はきょとんとした顔をしながらも、素直に動きを止めてくれる。
僕は柔らかな髪に手を伸ばし、耳の上あたりの髪をほんの少しだけ持ち上げると、ダリアの花を優しく差し込んだ。
セラ嬢の大きな瞳が僕を見上げて瞬いている。
その様子を眺めながら、僕は小さく頷いた。
「うん、思った通りだ。よく似合ってるよ」
セラ嬢の頬がほんのりと赤く染まる。
それから少し照れたように視線を伏せて、嬉しそうにはにかんだ。
たった一つ、花で髪を飾ってあげただけ。
それだけなのに、彼女は本当に嬉しそうに笑ってくれた。
『ありがとうございます、総司さま』
その声もその表情もどうしようもなく可愛くて、胸の奥は熱が帯びたように熱くなっていく。
……ああ、この子は。
僕の些細な行動に、こんなにも嬉しそうに笑って、心を動かしてくれるんだな。
そう思った。
だからきっと、もし僕がこの胸の奥にある気持ちをちゃんと言葉にしたら、今よりもっと喜んでくれるのかもしれない。
そう考えたら、胸の奥から想いが溢れてくる。
セラ嬢をもっと笑顔にしてあげたい。
その想いが静かにとめどなく広がっていくようだった。
どう言えばいいか。
どうすれば綺麗に伝わるか。
そんなことを、さっきまでは考えていた。
格好よく伝えた方がいいんじゃないか、とか。
もっと大人らしい言葉があるんじゃないか、とか。
でも今は、そんなことはどうでもよく思えた。
ただ僕の言葉で、この子が笑ってくれる顔が見たい。
それだけで十分だった。
「セラ嬢」
彼女が顔を上げる。
髪に飾ったダリアが、ふわりと揺れた。
「僕は君が好きだよ」
微笑んでいた顔がふっと驚きに変わり、大きな瞳がさらに大きく見開かれた。
その碧い瞳は吸い込まれそうになるくらい綺麗で、どうしようもなく愛おしかった。
胸の奥から、もう一度言葉が溢れてくる。
「大好きだよ」
さっきよりも、はっきりと。
自分でも驚くくらい、自然に出た言葉だった。
その言葉を聞いた瞬間、セラ嬢の瞳がふるりと揺れる。
そして次の瞬間には、ぽろぽろと涙が溢れ落ちていた。
「え?」
『あっ……』
セラ嬢自身も驚いたみたいで、慌てて目元へ指先を伸ばす。
でも溢れてくる涙は止まらずに、次々と頬を伝って落ちていく。
ふにゃりと歪んだその泣き顔があまりにも可愛くて、僕は思わずふっと笑ってしまった。
「やっぱりセラ嬢は泣き虫だね」
『違うのです。これは悲しいわけじゃなくて……』
僕はポケットからハンカチを取り出して、そっと彼女の頬に当てた。
それは、この前セラ嬢が贈ってくれた刺繍入りのハンカチだった。
彼女はそれに気付いたのか、目をぱちぱちと瞬かせる。
それから、ゆっくりと僕を見上げてふわりと笑った。
僕が見たいと思っていた、とびきりの笑顔で。
『ふふ』
「ははっ、どうして笑うの?」
『総司さまが好きって言ってくださって、とても嬉しいから』
涙で濡れた瞳のまま、そう言って笑う。
その顔がどうしようもなく愛しくて、僕も自然と笑っていた。
「僕も嬉しいよ。セラ嬢が笑ってくれるから」
知らなかった。
好きな子が笑うだけで、こんなにも心が満たされるなんて。
胸の奥があたたかくて、幸せな感情が身体中に溢れていく。
この笑顔のためなら、僕はきっとなんだって出来る。
そう本気で思えるくらい、嬉しくてたまらなかった。
本当は言葉にするのは、少し怖かったのかもしれない。
自分の素直な想いをさらけ出すことなんて、今まで生きてきて一度もなかったから。
でも今は、僕の想いを聞いて笑ってくれるセラ嬢がいる。
泣くほど喜んで、同じ愛情をまっすぐに返してくれる人がいる。
それは僕の人生の中で、二度とない奇跡ではないかと思った。
ガラス越しにやわらかな光が差し込み、その光の中で、ダリアを髪に飾ったセラ嬢が僕を見上げて微笑んでいた。
さっきまで涙をこぼしていたのが嘘みたいに、今は穏やかでやさしい顔をしている。
その姿を見ながら、僕は思う。
きっと僕はこの子のことを、これから先もずっと大好きなんだろう。
『わたし、この前の時より背が伸びたんです』
不意に紡がれた言葉に、僕は意識を彼女へ戻す。
見ると、少しだけ言いづらいことを口にする時みたいに指先を控えめにもじもじと動かしていた。
『なので総司さまにお会いしたら、きっと前までよりお顔が近くなっているかなって思って楽しみにしていたのですけど……今日お会いしたら、むしろ前までより遠くなってしまって』
そう言ってちらりと僕を見上げて、唇を結ぶ。
『総司さまはどんどん素敵になっていかれるのに、わたしは頑張ってもなかなか追いつけなくて……久しぶりにお会いして総司さまがご立派に成長されている分、わたしはがっかりされないかなって、少し心配に思っていたのです』
見つめられるとどうしていいかわからなくなるくらい可愛いのに、セラ嬢がそんなことを考えていたなんて目から鱗だ。
僕がこの子に相応しくなりたいと思っているのと同じで、彼女も同じように日々努力をしてくれている。
そして同じように不安に思ったり、自分を励ましながら生きているのだとわかれば、そんな彼女の繊細な部分も愛おしく感じられた。
「今もまだ心配?」
セラ嬢は僕を見上げると、ふるふると首を横に振る。
『いいえ。今はもう大丈夫です。総司さまが好きって伝えてくださったから』
……そうか。
僕が戸惑ったり不安になったりすると、きっとこの子まで不安にさせてしまうんだ。
手紙の時もそうだった。
僕が躊躇ってしまったせいで、セラ嬢を悩ませてしまったに違いない。
だったら、僕は彼女を安心させてあげられる人でいたい。
自分から動くことは、正直言って少し勇気がいる。
でもセラ嬢は、今までずっと僕のために沢山の愛情を伝えてくれていた。
だから今度は、僕の番だ。
僕も、ちゃんと伝えられるようになりたい。
そう思いながら、僕はゆっくりと口を開いた。
「君を不安にさせてごめんね」
『いいえ、総司さまが謝ってくださる必要はありません。わたしが勝手に不安になってしまうだけなのです』
「僕も不安になることはあるよ」
『総司さまも?』
「うん。だってセラ嬢は僕には勿体ないくらい素敵な女の子だからさ」
そう言うと、彼女は目を見開いた。
まるで、信じられないことを聞いたみたいに。
『それは……わたしが思っていることです』
小さく呟くようにそう言ってから、少しだけ視線を伏せる。
『総司さまはとても素敵だから……わたしこそ、総司さまに相応しくいられているのかなって、よく考えてしまうのです』
セラ嬢は、どうしてそんなふうに思うんだろう。
僕はそっと手を伸ばして、彼女の髪に触れた。
さっき飾ったダリアの花弁が、指先にやわらかく触れる。
名前を呼ぶと、彼女は静かに顔を上げた。
「君はもう十分すぎるくらい素敵だよ。むしろ僕の方が、追いつくのに必死なくらいなんだけど」
『そんなこと……』
「本当だよ」
言葉を遮って、僕は続けた。
「優しくて、頑張り屋で、僕のことをこんなに大事に想ってくれる。そんな女の子、他にいないよ」
そう言った途端、セラ嬢の瞳がまた大きく揺れた。
けれど今度は涙ではなく、その頬がゆっくりと淡い桜色に染まっていく。
温室のやわらかな光の中で、その表情は本当に可憐で、見ているだけで胸の奥が温かくなった。
こうして照れてしまうところも、やっぱりこの子らしい。
僕は思わず少し笑って、それから静かに身体を屈めた。
「だからさ」
そうして彼女と視線の高さを合わせた、その時だった。
ふいに胸の奥に、静かな驚きが広がる。
……あれ。
今のように、セラ嬢と同じ高さで向かい合ったことって、今まであっただろうか。
いつも僕は少し上から彼女を見ていた。
小さくて、可愛くて、護ってあげたくなる存在として。
けれどこうして視線を合わせてみると、見える景色がまるで違う。
それと同時に、僕とセラ嬢の間には、思っていた以上に身長差があることに気が付いた。
つまりこの子は今までずっと、一生懸命顔を上げて僕を見てくれていたんだ。
僕の言葉を聞く時も、僕が笑った時も、いつも顎を上げて、僕を見上げながら。
ふと、ヴェルメルでのことが蘇った。
僕たちがうっかり離宮で昼寝をしてしまった日のこと。
セラ嬢は僕の隣で嬉しそうに笑いながら、「総司さまのお顔が、よく見えます」って言ったよね。
あの時の彼女は、どこかいつも以上に楽しそうで、少しだけはしゃいでいるようにも見えた。
その時の言葉をただ可愛い感想くらいにしか思っていなかったけど、今なら分かる。
あの日は僕達が横になっていたから、初めて彼女と同じ高さで顔が並んでいたんだ。
だからセラ嬢は、あんなにも嬉しそうに笑っていたのかもしれない。
セラ嬢がやたら身長を気にしていたのも、顔が近くなると思ったって言っていたのも、ただの憧れなんかではなく、本当はこうして僕と同じ高さで向き合いたかったからなのかもしれない。
そう気付いた時、胸の奥がじんわりと熱くなった。
……そっか、そうだったのか。
この子は僕よりずっと、僕のことを一生懸命見つめてくれていたんだ。
それなのに僕は、余計なことに気を取られてばかりで、そのことに気づかずにいた。
僕がほんの少し屈めば、こうして簡単に同じ高さで目が合うのに。
それなのに、僕は今までそれをしてあげたことがなかった。
胸の奥が少しだけ痛くて、同時にどうしようもなく愛おしい気持ちが込み上げてくる。
だから僕は、その瞳をまっすぐ見つめながら、静かに言った。
「これからは不安に思わなくていいよ。セラ嬢が笑ってくれれば、それだけで僕は嬉しいから」
声は自分でも驚くくらい、やわらかくなっていた。
少しだけ微笑んで、言葉を続ける。
「だから君はそのままで、僕の隣にいて」
温室の中で、花の香りがふわりと揺れる。
ダリアを髪に飾ったセラ嬢は、しばらく言葉もなく僕を見つめていた。
その瞳がゆっくり揺れる。
まるで胸の奥にある気持ちを確かめるみたいに。
『はい』
やがてセラ嬢は、とても静かな声でそう答えた。
けれどその声は、花の香りに溶けるみたいにやさしくて。
その一言を聞いた時、胸の奥がまた温かく満たされていった。
温室のガラス越しの光の中で、ダリアを髪に飾ったセラ嬢がやわらかく笑っている。
その姿はまるで花の中に咲く一輪の花みたいで、目を離すことが出来なかった。
きっと僕は、これから先も何度でもこの子に心を奪われるんだろう。
そしてその度に思うんだ、この笑顔を護りたいって。
この子がもう一人で不安にならなくていいように、僕がちゃんと隣にいよう。
そう心に誓いながら、僕もまた彼女に向かってやさしく微笑んだ。
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