5
庭園に着いたとき、セラ嬢の姿はまだ見えなかった。
噴水のそばにある白いベンチに腰を下ろし、本を読みながら暫く彼女を待っていると、不意に両目がやわらかなものにそっと覆われた。
『誰でしょう?』
小さくて、温かい手。
悪戯っぽく弾んだ声に、僕の口元は自然と緩んだ。
「えっと、誰かな。伊庭君?」
敢えて間違えてみると、後ろからくすくす笑う声が聞こえてくる。
『はずれです』
「そっか。じゃあ、平助君かな」
『もう、男の子じゃありません』
少しだけ拗ねたような声が可愛くて、僕は小さく笑ってしまった。
「なんてね。僕がセラ嬢の声、わからないと思う?」
『わたしはセラ嬢ではありませんよ?はずれです』
「困ったな、じゃあ誰なの?」
『えっと、そうですね。わたしは……』
少し間があってから、どこか誇らしげに言葉が続いた。
『このお庭に住んでいる精です』
「庭園の精?」
『はい。良い子にしている人のところにだけ現れるんです』
「ははっ、そうなんだ。じゃあ僕は、良い子ってこと?」
『はい、総司さまはとっても良い子ですよ』
「それは嬉しいな」
僕がそう返すと、彼女もくすくすと笑った。
目を覆っている手越しに、その笑い声がやわらかく伝わってくる。
その温もりがあまりにも心地よくて、僕は少しだけ目を閉じた。
「庭園の精にしては、手が凄く温かいね」
そっと僕の目を覆っていた手が離れる。
振り返るとそこには、風に髪を揺らしながら、少し照れたように笑っているセラ嬢が立っていた。
さっきまで僕の目を隠していた手を後ろに引っ込めて、いたずらが見つかった子供みたいに小さく首を傾げている。
その仕草が愛らしくて、胸が高鳴るのを感じていた。
『総司さま、お待たせしました。この後、わたしと遊んでくださいますか?』
「うん、もちろん。待ってたよ」
僕がそう答えると、セラ嬢の瞳がぱっと明るくなった。
そして嬉しそうにはにかみながらもじもじと指先を動かしているから、その様子を見ているだけで僕まで嬉しくなってしまう。
やがて二人で並んで歩き出すと、しばらくしてセラ嬢は軽やかな足取りで僕の少し前へと出た。
そのままくるりと身体を反転させこちらへ顔を向けると、僕を見つめたまま後ろ向きに歩き始めた。
危なっかしくて思わず止めたくなるようなことも、セラ嬢はまるで気にもしていない。
むしろ楽しそうに微笑みながら、僕の歩みに合わせて少しずつ後ろへ下がっていく。
まったく……危ないことをしている自覚はあるのかな。
そう思いながらも、僕の方だけを見ていてくれていることが嬉しい。
視線を向けられているのは僕だけで、彼女の世界の中心にいるのが、今は僕だけなんだと思えてしまうからだ。
「そんなことしてたら転ぶよ、セラ嬢」
そう声をかけてみても、彼女は少しもやめる気配がない。
むしろますます楽しそうに笑みを深めて、僕を見つめ続けている。
「聞いてるの?」
『聞いてますよ』
「それなら、どうしてやめないのさ」
『総司さまのお顔を見ながら歩きたいからです。だからあと十秒だけ』
「あははっ、本当に困ったお嬢様だよね」
そう言いながらも、彼女の言葉や微笑みに触れて、僕の胸の奥は満たされていった。
「さっきまで何のレッスンを受けてたの?」
『今日はヴァイオリンでした。でもヴァイオリンは綺麗な音を出すのがピアノのよりも難しくて』
「セラ嬢のヴァイオリンも聞いてみたいな」
『はい。もっと上手に弾けるようになったらぜひ聞いてくださいね』
庭園の小道を進んでいくと、ようやく後ろ向きで歩くのをやめたと思ったら、セラ嬢はくるくると僕の周りを回るようにして歩き始めた。
まるで小鳥が戯れるように、楽しそうに一歩踏み出しては、またくるりと向きを変える。
僕の前に現れたかと思えば、今度は横に回り込み、くすくすと笑いながらまた小さく円を描くように歩いていく。
その様子を眺めているうちに、気づけば僕まで釣られて笑っていた。
普通のご令嬢なら、きっとこんなことはしないだろう。
だけどセラ嬢のこういうところが、僕は好きだった。
飾ることなく、のびのびとしていて。
それなのに、その仕草のひとつひとつはどこか可憐で、女の子らしさが滲んでいる。
無邪気に動き回っているだけのように見えるのに、ふとした所作や笑い方には、育ちの良さが表れているのが分かるから、完璧な振る舞いばかりを気にして型どおりに微笑む他のご令嬢達より、セラ嬢の方がずっと自然に上品に見えてしまうから不思議だ。
「ははっ、そんな歩き方してたら危ないってば」
『総司さまも一緒にくるくるしてみますか?』
「僕はしないよ、君よりお兄さんだからね」
僕がそう言った時。
芝生のわずかな段差に足を取られたのか、セラ嬢の身体がふいに前へ傾いた。
小さく声を漏らした彼女の身体がそのまま倒れそうになるのを見て、僕は考えるよりも先に腕を伸ばしていた。
とっさにその細い身体を抱きとめたものの、勢いまでは支えきれず、僕たちはそのまま二人揃って芝生の上へ倒れ込んでしまう。
背中に触れた草は思っていたよりも柔らかく、ふわりと青い匂いが広がった時には、僕の上にセラ嬢の体温が重なっていた。
突然のことに息を詰めていると、僕の上に乗る形になってしまった彼女が慌てた様子で顔を上げた。
『あっ……ご、ごめんなさい……』
申し訳なさそうに揺れる瞳と、ほんのり赤くなった頬がすぐ目の前にあって。
その様子が可愛らしくて、僕は思わず吹き出してしまった。
「ふはっ……」
笑ってしまった僕に、セラ嬢は驚いたように目を丸くした。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。僕、ちゃんと下敷きになれてるでしょ」
そう言うと、彼女は一瞬きょとんとしたあと、くすくすと小さく笑った。
『下敷きになれてるって、それは良いことなのでしょうか?』
「どうだろうね。でもセラ嬢を受け止められたなら、僕としては悪くないかな」
気がつけば二人して顔を見合わせながら笑っていた。
芝生の上に倒れているというのに、どうしてこんなに楽しい気持ちになるんだろう。
セラ嬢の笑顔を見ていると、胸の奥がまた温かくなっていく気がした。
「セラ嬢はいつ見ても危なっかしいよね」
『ふふ、ごめんなさい。でも総司さまが受け止めてくださったから、転ばずにすみました。ありがとうございます』
セラ嬢が僅かに身動きして、僕の上から退くのだろうと思っていた。
でも彼女は身体を起こすどころか、そのまま力を抜くように僕に寄りかかり、そっと僕の胸へ頬を擦り寄せてくる。
驚いて目を瞬くと、耳元から穏やかな声が聞こえてきた。
『総司さまの心臓の音がします』
「え?」
『とくん、とくん……って。総司さまが一生懸命生きている音』
柔らかな髪が胸元や首に触れて、くすぐったい。
けれどその温もりと、耳元で聞こえる優しい声に囚われて、僕は身動き一つ取れなくなっていた。
『こうしていると落ち着きます』
僕はそっと手を持ち上げると、ためらいながら彼女の背中に触れた。
そして壊れものを扱うみたいに、できるだけ優しく撫でる。
細くて、小さくて、温かい背中。
掌で感じるその柔らかな温もりは、まるで胸の奥まで染み込んでくるみたいで、気がつけば僕の鼓動は少しずつ速くなっていた。
「セラ嬢……」
僕がそっと名前を呼ぶと、胸の上の彼女がほんの少し動くから、僕の身体の奥で何かがふっと熱を帯びた。
理由は分からないのに、身体の中で何かが膨らんでいくように熱が広がっていく。
息を吸うたびに胸が苦しくなるくらいなのに、身体の奥で何かが強く燃えているような、不思議な感覚だった。
前にも一度だけ、同じことがあった。
ヴェルメルの屋敷で、セラ嬢と離宮に遊びに行った日のことだ。
あの時も同じベッドに並んで寝転びながら、僕の身体は不可解な熱に包まれて、胸の奥が落ち着かなくなっていた。
あの日以来、こんな感覚になることはなかったのに、どうしてまたこんな気持ちになってしまうんだろう。
胸の奥から込み上げてくる熱が、身体の内側をじわじわと満たしていく。
鼓動はどんどん速くなって苦しくなるのに、腕の中にいるセラ嬢の温もりを離したいとは少しも思えなかった。
むしろ、このままもう少しだけ。
彼女の重みを感じていたいと思いながら、僕はもう一度、小さな背中をそっと撫でた。
『ふふ、くすぐったいです』
胸の上で、セラ嬢が小さく身を捩った時。
胸の奥で張り詰めていた何かがふいに弾け、僕はほとんど無意識のまま身体を起こしていた。
目の前には、仰向けになったセラ嬢の顔。
芝生の上で体勢が入れ替わり、気がつけば僕はセラ嬢を覆うようにして、彼女の組み敷いていた。
自分でも何をしたのか分からなくて思わず息を呑んだけど、セラ嬢はすぐ手の届く距離でぱちぱちと目を瞬かせている。
『総司さま?』
彼女はふわりと優しく微笑んで、僕を見上げている。
まるで少しも警戒していないみたいな無防備な笑顔を見つめながら、触れたいという思いだけが強く膨らんでいくようだった。
ゆっくりと手を伸ばし、指先が触れたのは彼女の柔らかな頬。
優しく撫でると、セラ嬢は目を細めて、小さく身を捩った。
『ふふ……総司さまの触り方、くすぐったいですってば』
どうしてこんなに可愛いと思うんだろう。
どうしてこんなに触れていたくなるんだろう。
理由は分からないのに、胸の奥に広がっているこの熱だけは、どうしても消えてくれなかった。
「セラ嬢ってやわらかいね」
頬も身体も、僕なんかよりずっと柔らかい。
自分の指先に残る感触を確かめるみたいに、もう一度そっと頬を撫でる。
セラ嬢は少しだけ照れたように笑った。
『総司さまの手も、優しくてやわらかいですよ』
「そうかな」
『はい。だから安心します』
そう言って、彼女はまた目を細めた。
白くて傷ひとつない肌。
陽の光を受けてやわらかく輝いている頬。
なんだか、マシュマロでできた人形みたいだと思った。
触れたら溶けてしまいそうなくらいやわらかくて儚い。
『総司さま』
「なに?」
『さっきから、とても近いですね』
「…………」
言われて初めて気づいたみたいに、僕は少し息を止めた。
そしてその時、ふと視界に入ったものに意識が引き寄せられた。
淡い桃色をした、小さくてふっくらした唇。
少しだけ潤んで見えるその場所を見ていると、胸の鼓動がまた速くなった。
どうしてだろう。
頬に触れていた時よりも、もっと落ち着かない。
そこに触れてみたいという考えが、ふいに頭に浮かんでしまったからだ。
……もし。
もしそこに自分の唇を触れさせたら、きっと柔らかくて気持ちいいんだろう。
そう考えてしまった自分に、僕は内心で慌てた。
駄目だ、そんなことを考えるべきじゃない。
そう思っているのに、視線はどうしてもそこに引き寄せられてしまう。
『総司さま?』
不思議そうに呼ばれて、僕ははっと我に返った時。
「おやおや。外で寝転がってはいけませんよ」
落ち着いた、穏やかな声がすぐ横から聞こえる。
驚いて顔を上げると、いつの間に来ていたのか、そこには一人の男性が立っていた。
細い縁の眼鏡をかけ、整った身なりをした落ち着いた雰囲気の人だ。
その穏やかな視線に気づいた瞬間、僕は慌てて飛び起きた。
「す、すみません……!」
慌てて身体を離すと、すぐにセラ嬢へ手を差し出す。
「セラ嬢、大丈夫?」
『はい』
僕の手を取って立ち上がったセラ嬢を横目に、僕は姿勢を正し、目の前の男性へ軽く頭を下げる。
するとその人は、穏やかに微笑みながらゆっくり会釈を返した。
「失礼いたしました。驚かせてしまいましたね。改めましてご挨拶をさせていただきます。私は山南敬介と申します。近藤公爵閣下のもとで、家政と政務の補佐を務めております」
そう言って、優雅に一礼する。
その佇まいには無駄がなく、柔らかな雰囲気の奥に確かな知性と品格が感じられた。
「ヴェルメル大公家からまいりました沖田総司です。お目にかかれて光栄です、山南殿」
「こちらこそ、大公子殿にご挨拶できて嬉しく思います」
それから彼は、ふと思い出したようにセラ嬢へ視線を向けた。
「そうでした、セラお嬢様。先ほどユフィ夫人より、お嬢様がお忘れになられた大切なお品だと伺い、お預かりしてまいりました。よろしければお受け取りください」
懐から小さな袋を取り出し、セラ嬢に丁寧に差し出す。
それを見たセラ嬢は、指先をそっと口元に添えて、あっと小さく声を漏らした。
それから少し照れくさそうに微笑んで、両手でその袋を受け取った。
『ありがとうございます、山南さん』
嬉しそうにお礼を言ったセラ嬢の様子を見ながら、山南さんは穏やかな笑みを浮かべて一礼すると、静かにその場を後にしていった。
その背中が庭園の小道の向こうへ消えていくまで、僕とセラ嬢は並んで見送った。
やがて姿が見えなくなると、ふと隣で小さな衣擦れの音がする。
振り向くと、セラ嬢がさっき受け取った袋を両手で大事そうに持ちながら、照れくさそうに僕を見上げた。
『総司さま』
「ん?」
彼女は少しだけもじもじしながら、袋をそっと僕の前へ差し出した。
『これ……総司さまにお渡ししようと思っていたものなんです』
「僕に?」
思わず聞き返すと、セラ嬢はこくりと頷く。
袋を開くと、中から出てきたのは小さな紙包みだった。
それを広げると、そこには丸くて可愛らしい形のクッキーがいくつも並んでいる。
「もしかして、これ、セラ嬢が作ってくれたの?」
『はい。前にお手紙でクッキー作りを練習せていることをお話ししましたでしょう?それで……総司さまにも食べていただきたいなと思って』
そう言うと、彼女はまた少し照れたように目を伏せた。
「嬉しいな。せっかくだから、あそこで食べようか」
庭園の木陰に、小さなベンチが置かれている。
嬉しそうに頷く彼女と並んでベンチに腰を下ろし、袋の中のクッキーを一つ手に取ると、ほんのり甘い香りがした。
「いただきます」
口に運ぶと、さくっと軽い音がして優しい甘さが口の中いっぱいに広がっていく。
「……美味しい」
思わずそう呟くと、彼女はほっとしたように胸の前で手を合わせた。
『よかった……』
「本当に凄く美味しいよ。ありがとう」
僕の言葉を聞いて、彼女は嬉しそうに笑っている。
僕は一つクッキーを手に取って、彼女の方へ差し出した。
「セラ嬢も食べる?」
セラ嬢は頷いたものの、クッキーが少し大きかったのか、どう食べようか迷っているみたいに小さく首を傾げていた。
その様子が可笑しくて、僕は思わず笑ってしまう。
「かじって大丈夫だよ。僕が持ってるから」
『じゃあ……少しだけいただきます』
セラ嬢は遠慮がちにそう言うと、ゆっくり顔を近づけてくる。
小さく口を開いて、そっとクッキーをかじった。
さくっと軽い音がして、セラ嬢は顔を綻ばせる。
『甘いです』
「美味しいよね。こんな美味しいクッキーは初めて食べたよ」
『ふふ、それは褒め過ぎですよ』
「本当だよ。だからまた作ってよ」
風がそよいで、庭の木々がやさしく揺れる。
その静かな庭園のベンチで、僕たちは並んでクッキーを食べていた。
時々顔を見合わせて、笑いながら。
隣で嬉しそうにクッキーを食べているセラ嬢を見つめて、午後のひと時に幸せを感じた一日だった。
ページ:
トップページへ