6
アストリアに滞在して、一ヶ月が過ぎた頃のことだった。
聖夜を迎えたその夜、空からはかすかに雪が舞い落ちていた。
けれどその雪は長くは続かず、すぐに天候は崩れ、雪は雨へと変わってしまった。
白く染まるはずだった景色が音もなく溶けていくのを、セラ嬢はどこか名残惜しそうに見つめていた。
そして、その夜。
知人の屋敷で聖夜を祝う宴が開かれるということで、近藤公爵とユフィ夫人は揃って外出することになった。
その折に声を掛けられた僕の母も、お二人と一緒に屋敷を後にしている。
主を欠いた屋敷は普段よりもいっそう静まり返っていたけど、その代わりにアストリア騎士団による警備は一段と厳重に敷かれていた。
やがて夜も更け、皆が寝静まった頃。
眠れなかった僕は、ひとり部屋の窓辺に立ちながら外の様子を眺めていた。
「あ、また光った」
先ほどから断続的に響いている雷鳴は、時折どこかへ落ちるのか、腹の底に響くような轟音を伴っていた。
稲光が一瞬だけ庭を白く照らし、そのたびに濡れた石畳や木々の影が鋭く浮かび上がる。
聖夜とは思えない荒々しさを帯びたその光景を見下ろしながら、僕はふと、ヴェルメルで過ごしたクリスマスを思い出していた。
ヴェルメルの聖夜は、いつも雪に閉ざされる。
絶え間なく降り積もる白が、庭も屋敷もすべてを覆い隠してしまうのだ。
静謐で美しい景色ではあるものの、その分寒さは厳しい。
そして何よりあの場所で過ごした聖夜に、心が温まるような記憶はなかった。
だからなのかな。
アストリアで過ごした今日という一日を思い返すと、胸の奥にやわらかなものが広がっていく。
昼には騎士団の若い者たちと集まり、賑やかな宴を囲んで。
夕刻にはセラ嬢と並び、温かな食卓を共にして、静かに聖夜を祝った。
この屋敷の人々は、まるで僕を最初から家族であったかのように迎え入れてくれる。
そのことが少しだけくすぐったくて、とても嬉しかった。
セラ嬢に贈ったリボンは、気に入ってもらえたかな。
そんなことを考え、かすかに口元を緩めた時だった。
雷鳴に紛れるようにして、コンコンと扉を叩く控えめな音が耳に触れた。
視線を時計へ向ければ、日付が変わるまであと僅か。
首を傾げながらも部屋の扉を開くと、そこに立っていたのはセラ嬢だった。
「セラ嬢?」
『総司さま……』
腕の中には、真っ白なうさぎのぬいぐるみ。
それをまるで唯一の拠り所であるかのように、胸のところで強く抱きしめている。
薄手のネグリジェに包まれた姿は、普段よりもずっと頼りなく儚くて。
今にもこぼれ落ちそうな涙を瞳に浮かべたまま、セラ嬢はじっと僕を見上げていた。
その視線を受けた途端、言葉を探そうとするより先に、胸の奥が反応してしまう。
目が合うなり彼女の表情がふわりと崩れて、そのまま僕に抱きついてきた。
「え……、どうしたの?」
驚きながらも小さな肩に優しく触れると、その場所は僅かに震えている。
そしてその時、ドォンと空を裂くような轟音が響き、窓の外が一瞬白く照らされた。
『……いやあっ……』
セラ嬢は小さく声を上げ、ぎゅっと僕の服を掴んだ。
その指先は必死に縋りつくようで、雷が怖いのだと理解するのに時間はかからなかった。
「大丈夫だよ、僕がいるから」
できるだけ穏やかに、安心させるよう声を落としながら、そっと背に腕を回す。
セラ嬢は僕の胸元に顔を埋めたまま、小さな身体を震わせていた。
「雷が怖いの?」
問いかけると、彼女は顔を上げないまま小さく頷く。
ネグリジェ一枚で来たせいか、小さな体はすっかり冷えていた。
「ここにいたままだと寒いし、中に入ろうか」
そう言って背を支え、部屋の中へと導く。
暖炉の火はまだ残っていて、室内はやわらかな暖かさに包まれていた。
ベッドへ腰掛けさせ、ブランケットを肩からそっと掛けてあげる。
セラ嬢はぬいぐるみを抱きしめ直しながら、遠慮がちに呟いた。
『……ごめんなさい。こんな時間に……急に来てしまって……』
視線を落としたまま、彼女はぬいぐるみの耳にそっと触れる。
少しもじもじとしていて、どこか不安そうな仕草だった。
『雷で目が覚めてしまって、それから眠れなくなってしまったんです。いつもならお父さまやお母さまのところへ行くのですけれど……』
言葉を途切れさせながら、静かに続ける。
『今日はお二人ともいらっしゃらなくて、どうしたらいいのか分からなくなってしまって……』
その声には隠しきれない心細さが滲んでいて、セラ嬢の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
一粒だけでは収まらず、次から次へと頬を伝っていく。
声を押し殺すように唇をきゅっと結びながら、それでも堪えきれずに零れてしまう涙。
その姿はあまりにも愛らしくて、目の前の泣き顔から目を逸らせなくなる自分がいた。
悲しそうな顔を見れば、今すぐ泣き止ませてあげたい、安心させてあげたいと、そう思う僕がいる。
でも、必死に堪えて、それでもこぼれてしまう涙がどうしようもなく愛おしい。
もっと見ていたい……そんな考えが心に湧き上がってしまった時、胸の奥で抑えていたはずのものが一気に溢れ出したような気がした。
もし、ちょっとした意地悪のつもりで、僕が冷たく突き放したらどうなるだろう。
優しくせずにあえて距離を取ったら、きっとセラ嬢は今よりもっと泣いて、縋るように僕の名前を呼んでくれるかもしれない。
どんな可愛い顔で、泣くんだろう。
どんなふうに、僕を求めてくれるんだろう。
この愛らしい泣き顔が、今以上に余裕なく歪むことを想像しただけで、胸の奥がぞくりと震えて、言いようのない高揚感が広がっていくようだった。
当たり前のことだけど、僕はこの子を傷つけたいわけじゃない。
ただ自分に縋ってくるその姿を、もっと見ていたくてたまらない。
そしてその後で、たくさん優しくしてあげるんだ。
そうしたらきっと、いつもよりもっと可愛い表情でまた微笑んでくれる。
その変化を自分の手で引き出せたら、どれだけ満たされるだろう。
『総司さま……?』
名前を呼ばれて、はっとした。
気づけば、何も言わずに彼女を見つめ続けていたらしい。
不安そうに揺れる瞳が、まっすぐにこちらを向いている。
その視線に触れれば、胸の奥で膨らんでいたものが一気に引いていった。
僕は今、何を考えていた?
自分の中に浮かんだ思考に、ぞくりとした嫌悪が走った。
あんな歪んだ感情は、好きな相手に向けるものじゃない。
僕は、彼女にとって安心できる存在でいたい。
怖がらせる存在じゃなくて、護る側でいたいんだ。
きっと今夜の僕はどうかしていたに決まっている。
自分の中にあるものを否定するように押し込めて、何事もなかったかのように僕は言った。
「……今日はこんな天気だし、セラ嬢一人で怖かったよね」
そっと涙を拭ってあげると、セラ嬢はこくんと頷いて、今度は様子をうかがうように僕のことを見上げている。
『総司さまはお休みかもしれないと思いましたし、ご迷惑かもしれないとも思ったのですけれど……それでも来てしまいました……ごめんなさい』
「全然迷惑じゃないし、謝らなくていいよ。それに僕も眠れなかったからさ、セラ嬢が来てくれて嬉しいくらいかな」
そう伝えると、セラ嬢は目を見開いて、それからほっとしたように表情をゆるめた。
『本当ですか?』
「うん。本当」
『よかった……』
「だから、一人で怖いことを我慢しなくていいよ。僕がいる時は、いつでも頼って」
『……ありがとうございます』
小さく息をつくその様子に、胸の奥があたたかく染まっていく。
「まだ少し震えてるね」
そう言って小さな手を取ると、やっぱり少し冷たい。
両手で包み込んであげれば、彼女は安心したように力を抜いた。
『総司さまの手、とってもあたたかいです』
「そうかな」
『はい。こうしていると落ち着きます』
「なら、このままでいようか」
『はい』
素直に頷くその様子に、思わず小さく笑みがこぼれる。
しばらくそのまま静かな時間が流れたけど、セラ嬢が何かを思い出した様子で少しだけ困ったように僕を見上げた。
『総司さま?』
「ん?」
『あの……わたしたち、以前お母さま達に夜は二人で一緒に寝てはいけないって言われてしまいましたよね』
思い出して、少しだけ苦笑する。
確かに言われた。
夜は別々に、きちんと休むようにって。
「そうだったね」
『はい……ですので、どうしたらよいのかと……』
不安そうに、真面目に悩んでいる顔。
その様子が彼女らしくて、思わずくすっと笑ってしまう。
「ちゃんと覚えてるんだね」
『はい。大切なお話でしたから』
「そっか」
少しだけ考えてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「たしかに、一緒に寝るのはだめって話だったけど、少し話すくらいなら問題ないと思うよ」
『そうでしょうか?』
「うん。それにこの天気だし、セラ嬢を一人にするほうが心配かな。だから近藤公爵とユフィ夫人が戻ってくるまで、ここにいればいいよ」
その言葉に、彼女はぱっと顔を上げた。
『よろしいのですか?』
「うん。そのくらいなら怒られないと思うし」
軽く肩をすくめてみせると、彼女はほっとしたように息をついた。
『ありがとうございます……』
「どういたしまして」
『あの……総司さまはご迷惑ではないですか?』
「迷惑じゃないよ。むしろ、僕も眠れなかったしちょうどよかったんだ。折角だから、二人で何か話しでもしようよ」
そう伝えると、彼女は安心したように微笑んだ。
その表情がさっきよりもずっとやわらかくなっていて、僕まで安堵してしまう。
『はい。総司さまとお話ししていると、怖い気持ちがなくなっていきます』
「それならよかったよ」
僕はそっと手を伸ばし、彼女の髪に触れた。
優しく撫でると、セラ嬢は遠慮がちに、ほんの少しだけ近づいてきた。
『総司さま、優しくて大好き』
その言葉は嬉しいのに、同時に胸が騒めく。
それは僕は決してこの子が思ってくれているような、本当に優しい人間ではないからだ。
でもこの子は以前手紙で言っていた、どんな立派で強い人より、優しい人が好きだって。
だから僕はセラ嬢に少しでも好かれようと、優しい仮面を被っているに過ぎなかった。
それでもこの子が好きだという気持ちだけは、本物だった。
だからどんな形でもいい。
この想いを繋ぎ止めていられるなら。
そして彼女を幸せにできるのなら、僕はどんな自分にだってなれると思っている。
「僕も。優しいセラ嬢が大好きだよ」
気恥ずかしく思いながらもそう告げると、セラ嬢も恥ずかしそうに嬉しそうに微笑んでくれる。
けれど窓の外で稲妻が光ると、身体をびくっと揺らして僕の服を掴んできた。
「ははっ、大きい音は苦手?」
『……はい。あと、雷の悪魔が来たらどうしようって』
「雷の悪魔?」
思わず聞き返すと、彼女は真剣な顔で頷いた。
『総司さまはご存知ないのですか?』
「うん、知らないけど」
『それは大変です』
身を乗り出してくるその様子に、思わず笑いそうになるのを堪えながら、セラ嬢の言葉を待った。
『雷の悪魔は、とっても恐ろしい悪魔なのです。雷の光に紛れて現れて、怖がっている人を見つけると、その人のそばに忍び寄ってきます』
「へえ」
『そして大きな音で驚かせて、もっともっと怖がらせて……最後には連れて行ってしまうのです』
小さく声を潜めながら語るその姿は、真剣そのものなのに、どこか幼くて愛らしい。
僕は頷きながらも、ふと視線を窓へと向けた。
少しだけからかってみようかなんていう気まぐれが芽生えてしまう。
「……あれ?」
わざとらしく呟くと、セラ嬢の肩がぴくりと跳ねた。
『あの、どうかなさいましたか?』
「今、何か動かなかった?」
そう言って、今度はセラ嬢の後ろへ視線を滑らせる。
「……いや、気のせいかな」
それでもあえて言葉を濁すと、彼女の手がぎゅっと本の服を強く掴んだ。
「でも、あの影って……」
その一言で、彼女の呼吸が止まる。
そしてセラ嬢はほとんど反射のように僕へとしがみついてきた。
『雷の悪魔です……っ』
震える声でそう言いながら、必死に縋りついてくる。
本気で怖がっていることは分かっているのに、必死にしがみついてくる姿が、どうしようもなく可愛くて。
「……どうしようね」
わざと少しだけ困ったように呟くと、彼女はさらに強く身を寄せてきた。
『いやです……こわいです……総司さま……』
今にも泣き出しそうな声を聞いてしまえば、これ以上怖がらせるのは可哀想に思えた。
「大丈夫だよ」
今度はきちんと、やさしく言葉を落とす。
そっと背を撫でながら、言葉を続けた。
「ごめんね。今のは嘘」
『……え……?』
「影なんて何もないよ。ほら」
『……本当に……?』
「うん、本当。雷の悪魔なんて来てないよ」
そう言って視線で示すと、そこにはただ静かな部屋の影が落ちているだけで、何も潜んでいる気配はない。
彼女はしばらくその場を見つめてから、もう一度僕の方へと視線を戻した。
そしてわずかに眉を寄せて、唇を小さく尖らせる。
涙で潤んだ瞳のまま、ほんの少しだけ不服そうに僕を見上げてくるその表情は、今まで一度も向けられたことのないもの。
ああ、こんな顔もするんだ。
そう思えば嬉しくて、思わずくすくすと笑みがこぼれた。
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