4.
それから数日が経ち、ヴェルメルには皇帝から正式に北方遠征の命が下された。
反勢力の鎮圧を目的とした遠征であり、父を含めた騎士団の主力が北へ向かうことになる。
そして当然のように、その中には僕の名前も含まれていた。
遠征へ出立する前日、ローゼンガルド家の千嬢が僕に会うため屋敷に来ていた。
月に一度だけ顔を合わせる彼女は、向かい側の席で紅茶を口に運びながら静かに僕を見つめている。
穏やかな時間ではあったけど、僕にとってこの関係は特別心安らぐものではなかった。
苦痛ではないけど、必要不可欠でもない。
ただ、将来的にローゼンガルド家との繋がりを保っておくことは、間違いなく価値がある。
だから今日も僕は、いつも通り穏やかな笑みを浮かべて彼女の前に座っていた。
「だから明日から暫くヴェルメルを離れるよ。遠征から戻ってきても、そのまま今度は東部へ向かう予定があるんだ。しばらくは戻らないと思うから、君も会いに来てくれなくて平気だからね」
そう告げると、千嬢は手にしていたティーカップを静かに置き、小さく眉を寄せた。
「……聞きたいことは沢山あるけれど、まず、その北方遠征は危険ではないの?反勢力の鎮圧っていうことは、実際に戦うんでしょ?」
「そうだね。でも、だからこそ意味があるんだよ。騎士団の中で味方相手に剣を振っているだけじゃ、見えないものもあるし。これからは実戦を経験しないと、先に進めないからさ」
「それはわかるわ。でも少し早すぎるって言ってるの。総司はまだ十三歳になったばかりでしょう?もし死んじゃったらどうするのよ」
「死なないよ、僕は」
即答すると、彼女は呆れたように息を吐いた。
「……あなたね。死なない人間なんて、この世にはいないのよ?」
もっともな言葉だと思う。
けれど、僕が死ぬ可能性を当然のように語られるのは、あまり好きじゃなかった。
なぜなら僕はまだ、何ひとつ手に入れていない。
こんなところで終わるつもりなんて更々なかった。
「平気だっては。無茶をして死ぬほど馬鹿じゃないし、ちゃんと生き残るよ」
「その自信が怖いのよ」
「でも、父上にも散々言われてるから大丈夫だよ。功を焦るな、敵を深追いするな、囲まれれば終わりだって。戦場では、生き残った人間だけが次を掴めるってさ」
「言葉で教わった通りに出来るなら、誰も苦労しないでしょ。戦場では何が起きるかわからないのよ?」
「わからないから行くんだよ」
そう返すと、千嬢は僅かに目を見開いた。
窓の外では、夕暮れの光が庭を淡く染め始めている。
静かな部屋の中で、僕はその紅茶の表面に映る揺らぎをぼんやり見下ろした。
「僕はこれから、そういう世界で生きていくんだ。遅いとか早いとか、そんなのは関係ないよ。いずれ剣を持って立つなら、早くに慣れておくべきだってずっと考えてたんだよね」
「まるで、ずっと前から覚悟していたみたいな言い方ね」
「覚悟なんて立派なものじゃないよ。ただ、弱いままでいたくないだけ」
その言葉に、千嬢はしばらく何も返さなかった。
彼女は多分、理解できないのだと思う。
どうして僕がそこまで強さに執着するのか。
どうして危険な場所へ、自分から踏み込もうとするのか。
でも別に理解されたいわけじゃないからそれでいい。
僕はただ、自分に必要なものを手に入れたいだけだ。
あの日、水の中へ落ちていくセラ嬢を見ていた時みたいに、何も出来ずに立ち尽くす自分にはもう二度となりたくなかった。
「そこまで言うなら止めないけど、ちゃんと気をつけてよね。死んだら怒るから」
呆れたようにそう言いながらも、千嬢の表情には隠しきれない不安が滲んでいた。
僕は思わず小さく笑ってしまう。
「死んだ人間にどうやって怒るのさ」
「知らないわよ。でも絶対に取っ捕まえて、頬を引っ叩いてやるんだから」
「ははっ、怖いな。でも、僕が死んでも君はそこまで困らないでしょ?」
そう軽く返した瞬間、千嬢の眉がぴくりと動いた。
「そんなこと……」
言い返しかけた彼女の言葉の途中で、僕はふと思い出したように続ける。
「ああ、でも君はまた婚約者探しが始まるのか。それは少し面倒かもね」
僕達は互いの親を誤魔化すために、こうして定期的に顔を合わせている。
余計な縁談を避けるため、そして家同士の関係を穏便に保つため。
ただ、それだけの関係だった。
けれど、そんな茶番じみた時間も気づけばもう二年以上続いている。
僕の方は先日ようやく父の許可が出て、今回の遠征で成果を示せれば、婚約を急かされることはなくなる。
そうなれば、もうこうした誤魔化しを続ける必要もなくなるということだ。
でも、千嬢は違う。
ローゼンガルド家ほどの家柄なら、婚約話なんて次から次へと持ち込まれるだろうし、彼女自身もその対応に追われ続けることになる。
だから僕は遠征から戻った後にでも、そろそろこの関係を整理した方がいいのかもしれないと考えていた。
すると千嬢は、どこか覚悟を決めたように小さく息を吐いた。
「あのね、総司。そのことなんだけど」
「うん?」
「今日は元々、その話をするつもりで来たのよ。実は少し前に、父と母から正式にあなたと婚約してはどうかって言われたの」
その言葉に、僕は一瞬反応が遅れた。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
まさか、そんな方向へ話が進んでいるなんて考えもしなかった。
「でも君の家って、婚約の話が出ても最低一年は互いを知る期間を設けるって前に言ってなかった?」
「本来はそうよ。でも私達、もう二年以上もこうして会っているでしょう?周囲から見れば仲も悪くないし、むしろ良好に見えるみたい。だから今さら長く様子を見る必要はないんじゃないかって」
「いや、でもさ……」
「それに、総司はこれから帝国の剣としての立場を継ぐでしょう?ローゼンガルド家としても、あなたと縁を結べれば大きな後ろ盾になるもの。家同士の利益を考えれば、とても悪い話ではないっていう判断みたいだけど」
成程ね、貴族らしい打算もあり僕との婚約を急いだのか。
まあ、それ自体は別に珍しいことじゃない。
むしろ貴族の婚約なんて、大半がそんなものだ。
問題なのは、僕にその気が全くないことだった。
「それで、君はどうしたいの?」
そう尋ねると、千嬢は少しだけ視線を揺らした。
さっきまであれだけ淀みなく話していたのに、彼女は珍しく迷ったように視線を一度彷徨わせた。
「正直に言えば、悪い話ではないと思ってるわ。総司は優秀だし、家柄も申し分ないし、将来性もあるもの。それに、少なくともあなたといる時間は苦じゃないから」
「随分と現実的な評価だね」
「貴族の娘ですもの。でもあなたは、この話を聞いても全然嬉しそうじゃないわ」
真っ直ぐに向けられた視線に、僕は一瞬だけ言葉を失った。
面倒事にはしたくないし、かと言って承諾することは絶対に出来ない。
僕は言葉を選びながら、重くなった口を開いた。
「それは……急だからね。それに僕は正直、今すぐ結婚相手を決めたいとは思ってないんだ。まだ強くならなきゃいけない時期だし、他のことを考える余裕なんてないからさ」
全部、嘘だった。
僕の中には、もうとっくに心に決めた人がいる。
強くなりたい理由も、帝国の剣として結果を求める理由も、全てはセラ嬢と未来を歩くためだった。
けれど、それを千嬢に伝えるわけにはいかない。
僕とセラ嬢の関係は、まだ公に認められたものではない。
正式な婚約が決まったわけでもないのに、今の段階で不用意に他家へ漏らすのは危険すぎる。
特にローゼンガルド家ほどの大貴族なら尚更だ。
家同士の思惑が絡めば、セラ嬢の立場が悪くなる可能性だってある。
だから僕は、何も知らないふりをして笑うしかなかった。
すると千嬢は、じっと僕を見つめたまま小さく息を吐く。
「……本当に、それだけ?」
「え?」
「私は今日ことを帰ってから両親に話さないといけないの。でもその程度の理由だったら、もしかしたら納得しないかもしれないわ。あなたのお父様に、直接婚約の話を持ちかけてしまう可能性だってあるの」
それは面倒だ。
ローゼンガルド家ほどの家格から正式な婚約話を持ち込まれれば、父も簡単には無下に出来ないだろう。
帝国の剣を継ぐ立場になった今なら尚更だ。
それに曖昧な返答のままでは、周囲が勝手に話を進める可能性もある。
だから僕は、一度紅茶へ視線を落としてから静かに口を開いた。
「じゃあ、こう言っておいてよ。今の僕は立場がまだ不安定だから、誰かと婚約するつもりはないって」
千嬢が小さく瞬きをしたけど、僕はそのまま続けた。
「帝国の剣を継ぐって言われても、まだ正式に認めてられてるわけじゃない。今回の遠征だって、僕が本当に相応しいか試す意味もあると思ってるしね。そんな状態で婚約なんかしたら、相手の家まで巻き込むことになるでしょ」
それは半分、本音だった。
今の僕はまだ完璧とは程遠いし、力も、実績も、立場も足りない。
ここでローゼンガルド家との婚約が決まれば、周囲は間違いなく「後ろ盾を得た」と見る。
実力ではなく、家の力で地位を固めたと。
そんな風に思われるのは、僕自身が許せなかった。
「僕はさ、自分の価値を他家の力で証明したくないんだよね。ちゃんと自分の力で立たないと、結局どこかで舐められるから。帝国の剣がそんなんだと、後々問題でしょ?」
「あなたって、意外と面倒くさい性格してるのね」
「ひどいな」
「でも、その言い分なら確かに納得はされるかもしれないわ。お父様達も、騎士としての矜持だと思えば理解はするでしょうし」
「なら良かったけど」
僕は内心、小さく安堵する。
これなら余計な詮索もされにくいし、誰か特定の相手がいると思われるより、ずっと都合が良かった。
「でも、少し安心したかも」
「何が?」
「あなたがちゃんと、自分の足で立とうとしてること。家の利益だけ見て簡単に婚約を決める人だったら、多分私はあなたを信用出来なかったわ」
「僕は利益がどうとか、そんなことで相手を選んだりしないよ」
「じゃあ、総司はどういう基準で相手を選ぶの?」
不意に向けられた問いに、僕は少しだけ言葉を止めた。
どういう基準……なんて、そんなもの考えるまでもなかった。
ただ護りたいと思った。
誰にも傷つけられないように、泣かないでいられるように。
あの子が安心して笑える場所を、自分の手で作ってあげたいと思った。
そして、他の誰にも渡したくない。
隣にいるのは僕だけがいいし、僕だけを見て、僕だけを頼ってほしい。
あの子の未来も、弱さも、愛情も、全部欲しいと思ってしまった。
そんな感情を胸の奥へ押し隠しながら、僕は小さく笑った。
「一緒にいたいって、自然に思える相手かな。護りたいとか、幸せにしたいとか……そういうのを全部ひっくるめて、それでも絶対に手放したくないって思える人」
千嬢はそんな僕を静かに見つめたあと、小さく視線を伏せる。
「……そう」
その短い言葉の中には、どこか納得したような響きが混じっていた。
それ以上は何も聞かず、千嬢は空気を切り替えるようにティーカップへ手を伸ばした。
「そういえば、さっき遠征の後は東部へ行くって言っていたわよね。あれはどうして?」
東部へ向かうのはセラ嬢に会うためだ。
顔を見たいし、声を聞きたい。
無事だったと直接伝えたい。
でも当然ながら、本当の理由なんて言えるはずがなかった。
「ああ、東部の騎士団に少し顔を出してこいって言われてるんだ。向こうの視察も兼ねてるみたいだよ」
「視察?」
「父上が、今のうちに色々見ておけって。北部だけを知ってても駄目だから、離れたところの騎士団の空気も覚えろってさ」
実際、父はそういう考え方をする人間だし、大陸全土を知れと言われても不自然ではない。
だからこそ嘘としても都合が良かった。
「へえ。随分と期待されてるのね」
「どうだろう。単に使い回されてるだけかもしれないよ」
「そんな軽いものじゃないでしょう。帝国の剣を継ぐ人間に、わざわざ各地を見せて回る意味なんて一つしかないじゃない。総司を本格的に育てるつもりなのよ、お父様は」
確かに以前とは違う。
父は最近、僕をただの子供として扱わなくなった。
でも同時に、それは期待を裏切れば簡単に切り捨てられる立場でもあるということだった。
だから止まれない。
もっと強くならなければならないし、結果も出し続けなければいけない。
そうしなければ、セラ嬢の隣に立つ資格なんて手に入らないからだ。
「まあ、期待されてるならされてるで応えないとね」
「あなたって、本当にそういう生き方しか出来ないのね。意外と真面目で嫌になっちゃう」
「ははっ、悪かったね」
「別に悪いとは言ってないわ。ただ、少しくらい肩の力を抜けばいいのにって思っただけ」
千嬢はそう言って、小さく肩を竦める。
部屋の中には穏やかな沈黙が落ち、時計の針の音だけが静かに響いていた。
僕は冷めかけた紅茶へ視線を落としながら、ふと苦笑する。
「でもまあ、君にそこまで心配されるとは思わなかったな」
「当然でしょ。二年も付き合いがあるのよ?遠征先であっさり死なれたりしたら寝覚めが悪いわ」
「何それ」
「本音よ」
さらりと言い切った彼女に、僕は思わず笑ってしまった。
こういう遠慮のないところは、嫌いじゃない。
「じゃあ、生きて帰ってくるよ」
「ええ。そうしてちょうだい」
短いやり取りのあと、再び静けさが落ちる。
でもその空気はさっきまでより少しだけ軽かった。
明日から始まる遠征が、どんなものになるのかはわからない。
でも、だからこそ楽しみだった。
戦場で結果を示せば、父も周囲も僕の存在を無視することはできなくなる。
その未来を思うだけで、胸の奥が静かに熱を帯びていくのを感じていた。
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