5.
北方遠征に向かう日がやってきた。
ヴェルメルより更に北に向かう馬車の窓から見える景色は、帝都とはまるで違っていた。
空は薄暗く、山肌には溶け切らない雪がまだらに残り、荒れた山道を進むたびに車輪が大きく揺れる。
その度に窓の外の景色がわずかにぶれ、白く煙る吐息だけが、この地の冷たさを静かに物語っていた。
「体調はどうだ?」
向かい側で書類に目を落としていた父上が、不意に顔を上げる。
「良いですよ」
そう答えながら窓の外へ視線を戻すと、父上は手元の書類を閉じ、しばらく僕を見つめていた。
今回の遠征は、北方で勢力を拡大している反乱軍の鎮圧だった。
表向きは地方反乱の処理という扱いになっているけど、実際にはそんな生易しい話ではない。
既に複数の地方領主が反乱軍へ加担し、北方の廃要塞を占拠しているらしく、このまま放置すれば本格的な内戦へ発展しかねない状況だと聞いている。
だからこそ、皇帝陛下は父を動かしたんだろう。
「総司。戦場では、自分が十三だということを忘れるな」
低い声音に顔を上げると、父上は静かな目でこちらを見据えていた。
思っていたよりもずっと現実的な言葉だった。
「最優先は生き残ることだ」
「はい」
「だがお前の年齢で、迷わず人を殺せる者はそういない。だから今回、連れてきたのだ」
胸の奥が、静かに熱を持った。
ようやく僕の力を試せる場がやってきたと思うと、身体の奥が高揚していくのを感じた。
そして数日後、僕たちは北方砦へ到着した。
砦の上空には重たい雪雲が垂れ込め、山間を吹き抜ける風は帝都より遥かに鋭い。
高い石壁の内側では、武装した騎士たちが慌ただしく行き交い、張り詰めた空気が辺りを支配していた。
その中心を、父上は迷いなく進んでいく。
黒い軍服を纏った背中には、周囲を自然と従わせるような威圧感があった。
騎士たちは父上の姿を見るだけで道を開け、砦の指揮官らしい男がすぐに駆け寄って深く頭を下げる。
「団長、お待ちしておりました」
「状況を報告しろ」
「反乱軍は東渓谷の廃要塞を拠点にしております。兵数はおよそ三百。周辺の村から食料を徴収し、一部の北方貴族とも繋がり始めているようです」
「指揮官は?」
「ガルディア卿です」
その名を聞いた瞬間、父上が小さく鼻で笑った。
「皇帝陛下から爵位を賜った恩も忘れたか」
静かな声だったのに、その場の空気がわずかに冷える。
父上がこういう笑い方をする時、大抵誰かが死ぬからだ。
壁に掛けられた地図へ目を向けると、反乱軍の拠点は渓谷の奥に位置していた。
一本道の地形で、正面から攻めれば高所から矢を浴びせられる。
強行突破をすれば勝てないわけではないが、無駄な損害は避けられないだろう。
僕は地図を見つめたまま、静かに口を開いた。
「真正面からぶつかる必要はないと思います」
周囲の騎士たちがこちらを見る。
年端のいかない子供が作戦会議へ口を挟むことを快く思っていない者もいるのだろう。
けれど父上は何も言わず、続きを促すように目を細めたから、僕は地図の裏手を指差した。
「この山道は使えませんか?」
「崩れかけています。まともな部隊は通せません」
「大人数で行く必要はありません。少人数で裏へ回り込み、反乱軍が混乱したところで合図を送る。その瞬間、父上たちが正面から攻めれば挟み撃ちにできます」
「……奇襲か」
「はい。向こうは恐らくこの山道が機能しないことをわかっていて、あの場所を占拠しています。つまりヴェルメル騎士団が正面から来ることしか考えていない。だから裏を攻めるべきです」
父上は地図を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
「合図はどうする」
「見張り台へ火を放ちます。渓谷側からでも見えるはずです」
僕の案を黙って聞いていた騎士の一人が、不意に険しい顔をしてみせた。
「だが裏へ回った部隊が見つかれば終わりだぞ」
「なので極少人数で行きます。やられる前に指揮系統を乱せさえすれば十分です」
静まり返った空気の中で、父上だけが小さく笑った。
ゆっくりとこちらへ向けられた視線は、試すようでもあり、どこか楽しんでいるようにも見えた。
「なるほど。それで、裏へは行けるのか?総司」
「はい」
「失敗すれば死ぬぞ」
「承知しています」
そう答えると、父上はどこか満足そうに口元を歪めた。
「なら見せてみろ。お前がどこまでやれるのかを」
その夜、僕は十名ほどの騎士と共に雪の積もる山道を進んでいた。
崖下から吹き上がる冷気は肌を刺すほど鋭く、一歩踏み外せばそのまま谷底へ落ちるような危うい道だったけど、不思議と恐怖はなかった。
むしろ頭の中は妙に冷えていて、感覚だけが研ぎ澄まされていくようだった。
やがて崩れた岩場を越えた先に、反乱軍の野営地が見えた。
焚き火を囲み、酒を飲み交わしている兵士たち。
その様子を見れば、彼らが正面のヴェルメル騎士団ばかり警戒していることは明らかだった。
僕は小さく息を吐き、同行していた騎士たちへ視線を向ける。
「二手に分かれます。三人は見張り台へ。火を放ったら、すぐに離脱してください」
「総司様は?」
「僕は中央の天幕へ行きます」
「危険です。せめて護衛を」
「人数が増える方が見つかります。混乱させれば十分です。父上たちが正面から崩してくれますから」
遠くで鬨の声が上がった瞬間、それまで酒と笑い声に満ちていた反乱軍の野営地の空気が、一瞬で張り裂けるような緊張へ塗り替わった。
渓谷の入口では父上率いるヴェルメル騎士団が突撃を開始したのだろう。
地鳴りのような馬蹄の音が山間へ響き渡るのと同時に、背後の見張り台から赤い火の手が上がり、夜空を裂くように燃え広がった炎を見た兵士たちは、ようやく自分たちが挟み撃ちにされていることを理解したらしい。
「敵襲だ!」
「な、なんで後ろにもいる!?」
怒号と悲鳴が入り混じり、混乱は瞬く間に野営地全体へ広がっていく。
その様子を冷静に見渡しながら、僕は中央の天幕へ向かって雪を蹴った。
父上の狙いは最初から反乱軍を皆殺しにすることじゃない。
この反乱そのものを、二度と誰も逆らおうと思えない形で終わらせることだ。
そのためには兵を無意味に殺し尽くすより、指揮官の首を落とす方が遥かに早い。
そして、その役目を僕が果たせれば。
「……いける……」
セラ嬢が欲しいと口にした時、父は初めて僕の意志を真正面から聞き入れた。
弱く未熟な子供ではなく、帝国の剣を継ぐ人間として扱われたことが、思っていた以上に嬉しかった。
だからこそ、結果を出さなければならない。
今回の遠征で成果を上げ、父上にも皇帝陛下にも認めさせる。
その先に、ようやくセラ嬢へ手を伸ばせる未来があると思えた。
その時、背後から「誰だ!」という怒声が飛び、反乱兵の一人がこちらへ斬りかかってきた。
大振りな一撃だったけど、混乱しているせいで剣筋は甘い。
僕は身体をわずかにずらして刃を躱すと、そのまま懐へ潜り込み、喉元へ迷いなく剣を滑らせた。
肉が裂ける感触と同時に熱い血が噴き出し、男は何が起きたか理解出来ないまま崩れ落ちた。
続けざまに別の兵が迫ってくる。
今度の相手は先ほどより遥かに動きが良く、低い姿勢から横薙ぎに剣を振るいながらこちらの足を狙ってきた。
僕は相手の剣を受け流しながら一気に踏み込み、体勢を崩した瞬間を逃さず肩口へ刃を叩き込んだ。
そのまま無理やり押し切るように振り抜けば、骨を断つ鈍い感触が腕へ伝わり、男は悲鳴を上げる暇すらなく雪の上へ倒れ込む。
白い地面を広がっていく赤を見下ろしても、以前のような嫌悪感はもうなかった。
「そいつを捕えろ!」
中央の天幕が見えた瞬間、護衛の騎士が二人こちらへ駆け出してきた。
振り下ろされた一撃は重く、今までの兵士とは明らかに違う。
咄嗟に刃を受け流した腕へ痺れるような衝撃が走るものの、相手は間髪入れず追撃してくる。
完全に子供一人を侮っていない動きだった。
けれど、それでも遅い。
僕は二撃目を紙一重で躱した直後、相手が反応するより早く喉元へ剣先を届かせた。
鮮血が飛び散り、一人目が崩れ落ちるより早く、もう一人が横から斬り込んでくる。
僕は低く身体を沈め、そのまま雪を滑るように懐へ入り込むと、脇腹へ深く刃を突き立てた。
「が……っ」
あの子の隣へ立つためには、まだ足りない。
もっと強くならなければならないし、誰にも逆らえないほど圧倒的にならなければ護れない。
だったらまずはここで証明するしかないと、僕は迷いなく天幕を切り裂いた。
中にいた男が勢いよく立ち上がる。
豪奢な毛皮の外套に、年季の入った剣。
ガルディア卿は僕を見た瞬間、露骨に目を見開いた。
「……子供だと?」
十三の子供が、自分を殺しに来るなんて想像もしていなかったのだろう。
けれど次の瞬間には、ガルディア卿は怒声を上げながら剣を振り下ろしてきた。
速くそして重い剣は、まともに受ければ押し切られる。
僕は真正面から打ち合わず、最小限の動きで剣を逸らしながら距離を測った。
力で劣るなら正面からぶつかるな、そう父に何度も叩き込まれた言葉が脳裏を過る。
ガルディア卿の剣が再び振り抜かれ、背後の机が真っ二つに砕け散った。
でも、その瞬間を待っていた。
僕は一気に懐へ潜り込み、相手の腕を斬り上げる。
血飛沫が舞い、ガルディア卿の顔が苦痛に歪む。
それでも男は怒号を上げながら剣を振り回してきたけど、冷静さを失った時点で勝負は決まっていた。
僕は相手の剣筋を見切り、踏み込み、そして迷いなく喉元へ刃を突き立てる。
肉を貫く感触が、はっきりと手へ伝わった。
ガルディア卿は目を見開いたまま、信じられないものを見るように僕を見つめている。
僕なんかに殺されるなんて、最後まで受け入れられなかったのだろう。
崩れ落ちる男を見下ろしながら僕は小さく息を吐いた。
ガルディア卿が崩れ落ちたあと、僕は血の滴る剣を静かに振ってから、その首を掴み上げた。
天幕の外では、まだ怒号と剣戟の音が響いていたけど、指揮官を失った反乱軍は既に統率を失い始めている。
混乱した兵たちの間を抜け、雪を踏みしめながら前線へ戻ると、その先には黒い軍服を返り血で染めた父の姿があった。
僕はその前まで進むと、ガルディア卿の首を差し出した。
「首級です」
周囲の騎士たちが息を呑む気配がした。
父はしばらく無言でそれを見下ろしていたけど、やがて僕の手から首を受け取ると高々と掲げた。
「ガルディアは討ち取った!まだ無駄に死にたい者だけ剣を取れ!」
低く響いたその声音が、戦場全体へ広がっていく。
その直後、一人、また一人と反乱兵たちが武器を捨て始めた。
指揮官を失い、挟み撃ちにされた時点で、もう勝敗は決していたのだろう。
雪の上へ膝をつく兵士たちを見下ろしながら、父は部下へ首を渡す。
そして静かに僕へ視線を向けた。
「よくやった、総司」
短い言葉だったのに、胸の奥が熱くなる。
父上は返り血の付いた僕の顔を見下ろしながら、わずかに目を細めた。
「お前はもう、守られる側ではないらしいな」
「今回は周囲の助けがあってこそです。もっと強くならなければ、父上の隣には立てません」
「慢心していないだけマシだな。だが、お前は期待以上だった」
冷たい風が吹き抜ける中、その言葉が胸へ深く落ちていく。
そして父は、不意に思い出したように続けた。
「それと例の件だが」
低い声音に、僕は思わず顔を上げる。
父上は静かな目でこちらを見据えたまま、淡々と言った。
「アストリアのセラ嬢のことは、お前の好きにしろ」
以前父と交わした約束。
その答えを今ここで与えられたのだと理解した瞬間、胸の奥が焼けるみたいに熱くなった。
「手に入れると言ったのはお前だ。それなら最後まで貫いてみせろ」
「はい、必ず」
静かに頷きながら、僕は血で汚れた手をゆっくり握り締める。
ようやく理想の未来に近づけた今、僕の進むべき道はやっぱりこれだったんだと確信を得た気がしていた。
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