1.
総司様から、無事ヴェルメルへ帰還されたと連絡が来てから一ヶ月近く経った頃。
昨日の朝、総司様から再び手紙が届いた。
その手紙には、今日の昼頃には公爵邸へ到着する予定だと書かれていた。
総司様に会えると思うと胸が高鳴って、昨夜は結局なかなか眠ることが出来なかった。
だから少し寝坊してしまったけど、本当に問題だったのはそのあとだった。
『……もうっ……どうして今日に限って……っ』
鏡の前で、私は思わず困り切った声を漏らした。
普段なら侍女達が綺麗に整えてくれる髪を、今日は自分で少しでも早く準備しようとしてしまったのだ。
けれど慣れない編み込みをしようとした結果、髪飾りの細い金具が絡まってしまい、どう頑張っても外れない。
引っ張れば痛いし、無理をすれば髪型まで崩れてしまいそうだった。
『うぅ……総司様、もうすぐいらっしゃるのに……』
しかも急いでいたせいで、机の上に置いていた香水瓶に袖を引っ掛けてしまい、床には淡い花の香りが広がっている。
侍女達が慌てて片付けてくれている間、私は椅子に座ったまま髪飾りと格闘するしかなかった。
焦れば焦るほど指先が震えて、うまくいかない。
きっと今頃、総司様はもうアストリアの街道を進んでいるはずなのに。
『どうしよう……このままじゃ間に合わないよ……』
情けなくなってしゅんとしていると、控えめに扉が叩かれた。
「セラお嬢様、失礼いたします」
入って来たのは、昨年お父様の専属騎士に就任した山崎さんだった。
山崎さんは部屋の様子を見回し、床に広がった香水や、私の絡まった髪飾りを見て少しだけ目を丸くしている。
「随分慌てておられたようですね」
『あ、山崎さん……もし宜しければ手伝ってくださいませんか?』
恥を忍んでお願いすると、彼は苦笑しながら私の傍へ来てくださった。
「少々失礼します」
彼は器用な手付きで金具を外していく。
私は申し訳なさで小さく肩を縮めた。
『お手間を取らせてしまってごめんなさい』
「いいえ、構いませんよ」
『私、ちゃんと綺麗にして総司様をお迎えしたかったんです……』
「総司殿はセラお嬢様が出迎えてくださるだけで十分嬉しいと思いますが」
『でも、一年ぶりですよ?』
小さく呟くと、山崎様はどこか優しそうに目を細めた。
「お嬢様のそのお気持ちは、きっとあの方にも伝わりますよ」
その言葉に少しだけ胸が軽くなる。
ようやく髪飾りが外れ、侍女達が急いで髪を整え始めた、その時だった。
廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてくる。
「セラお嬢様、馬車が到着されましたよ」
『えっ、もう……!?』
まだ耳飾りを片方しか付けていなかったけど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
急いで部屋を飛び出し、裾を持ち上げながら玄関へ向かう。
胸が苦しいくらい高鳴って、息まで少し上がってしまう。
公爵邸の前へ出ると、ちょうど門の向こうに馬車が止まったところだった。
扉が開き、先に総司様のお母様であるアンナ夫人が降りられる。
私は慌てて姿勢を正し、頭を下げた。
『アンナ夫人、ご機嫌よう。お会い出来て嬉しゅうございます』
「セラさん、ご機嫌よう。私もまたあなたにお会い出来て嬉しいわ。今日からまたよろしくお願いしますね」
笑顔で挨拶を交わしていると、その後ろから見慣れた人影が姿を現す。
一年ぶりに見る総司様だった。
旅装のままの姿は一年前よりずっと大人びて見えて、胸がきゅっと苦しくなる。
総司様は馬車から降りると、私を見つめて僅かに目を細めた。
「セラ嬢、ご機嫌よう」
『総司様、ご機嫌よう』
大好きなその声を聞いただけで、嬉しくて泣きそうになってしまう。
瞳が潤んでしまってどうしようかと思っていると、総司様はいきなりふっと笑った。
「そんなに急いで来たの?」
言われてはっとしたけど、今の私は髪が少し乱れているし、片方の耳飾りしか付いていない。
慌てて出て来たことが、全部気付かれてしまっていた。
『あ……』
恥ずかしくなって頬を赤くすると、総司様はどこか楽しそうに笑みを深くした。
「ははっ、セラ嬢らしいね」
『ち、違うのです……今日は色々とアクシデントがあって……』
「そうなの?」
『……はい。本当はもっと綺麗にしてお出迎えしたかったのですが……』
俯きながらそう呟くと、総司様はまた柔らかく笑う。
「僕は、セラ嬢が迎えてくれるだけで十分嬉しいけど」
穏やかな声でそう言われ、胸の奥が温かく熱を帯びる。
照れくさくて嬉しくて思わず口元を緩めると、そんな私を見て総司様はまた笑っていた。
それから私達は、一年ぶりの再会だからと、お父様とお母様、それからアンナ夫人もご一緒に、五人で昼食を囲むことになった。
食卓では、ヴェルメルで総司様が騎士として成果を上げている話や、私がピアノのコンテストで入賞した話が次々と話題に上がる。
お父様達が穏やかに会話を交わしている間も、私は何度も総司様の方を見てしまっていた。
するとその度に、総司様も静かにこちらを見ていて、目が合えばどちらからともなく小さく笑ってしまう。
ただそれだけなのに、胸がふわふわして落ち着かなかった。
そして昼食を終えたあと、ようやく私と総司様だけの時間が訪れる。
「少し歩く?」
総司様にそう尋ねられ、私は嬉しくなって頷いた。
『はい』
向かったのは、公爵邸の奥にある私専用の温室だった。
大きなガラス張りの空間には柔らかな陽射しが差し込み、色とりどりの花々が静かに咲いている。
外より少し暖かな空気の中を、私達は並んでゆっくり歩いた。
隣にいる総司様は、一年前よりさらに背が高くなっていた。
以前から大人びた方だと思っていたけど、今はそれだけじゃない。
細く整った輪郭や、落ち着いた雰囲気のせいなのか、横顔を見るだけで胸が苦しくなるくらい格好良くて、隣を歩いているだけなのにドキドキしてしまう。
『今日は良いお天気ですね』
他愛のない話をしながら、ちらりと横顔を見上げる。
長い睫毛も茶色い髪も全部前と同じはずなのに、どうしてこんなに心臓が煩いんだろう。
そんなことを考えていると、不意に総司様のエメラルド色の瞳がこちらへ向けられた。
「さっきから何?」
『え?』
「ずっと僕のこと見てるよね」
完全に気付かれていたらしい。
恥ずかしくなって、私は慌てて視線を逸らした。
『いいえ、見ていませんよ。全然』
「そうなの?」
総司様はくすっと笑う。
その笑い方が少し意地悪で、余計に心が落ち着かなくなった。
『ただ、前より背が高くなったなって思ったんです。また伸びましたよね』
「ああ、背か。どうかな、まあ伸びてるとは思うけど」
総司様は軽く肩を竦めると、少しだけ顔を寄せるようにして私を見下ろしてくる。
「セラ嬢が小さいんじゃないの?」
耳元近くで囁かれ、心臓が跳ね上がった。
『ち、違います……っ。それに近過ぎます』
「ははっ、ごめん」
絶対あまり悪いと思っていない笑い方だった。
私が熱くなった頬を誤魔化すように少し睨むと、総司様はさっきまでの意地悪そうな表情をふっと和らげ、優しい声で言った。
「でも、セラ嬢も前よりもっと綺麗になったよね」
まさかそんなことを言われると思っていなくて、思わず足を止まってしまいそうになった。
だって今日は、とても綺麗とは言えない登場だった。
慌てて飛び出して来たせいで髪も少し乱れていたし、耳飾りだって片方しか付けられていない。
そんな状態なのに。
胸の奥がくすぐったくなって、私は照れ隠しみたいに小さく笑った。
『ふふ。総司様ってば、褒め上手ですね』
「別にお世辞じゃないけど」
『でも私、今日は全然ちゃんとできませんでした。朝から失敗ばかりでしたし、総司様が到着される前に準備を終わらせたかったのに、髪飾りは絡まるし、香水もこぼしてしまって』
思い出すだけで情けなくなって、私はしゅんと肩を落とした。
すると総司様は少しだけ目を細め、どこか楽しそうに私を見る。
「うん。すごく慌ててたの伝わってきた」
『え、そんなにわかりましたか?』
「わかるよ。髪も少し乱れてたし、片方しか耳飾り付いてなかったしね」
やっぱり全部気付かれてたんだ。
そして私は今も、きちんと整えられていないまま総司様のお隣にいる。
今日の朝に時間が巻き戻ってくれたらいいのに。
『うう……本当はちゃんとした姿でお迎えしたかったんです……』
「僕はああいうセラ嬢、結構好きだけど」
思わず顔を上げると、総司様は柔らかく笑いながら続けた。
「だって準備が終わってなかったのに、僕を出迎えるために急いで来てくれたんでしょ?それが嬉しかったよ」
そんな風に言われたら、もう何も言い返せなくなってしまう。
私の失敗すら温かく受け止めてくれる優しさが嬉しくて、胸がいっぱいになっていくようだった。
『総司様に早く会いたかったんです』
「うん」
穏やかな返事が返ってくる。
その声を聞くだけで胸が甘く痺れるようだった。
『だから昨日は嬉しくてなかなか眠れなくて……朝も急いで準備していたんですけど、焦り過ぎて空回りしちゃいました』
「あはは、子供みたい」
『もう……』
少しむっとして見上げると、総司様は堪えきれないみたいに笑った。
けれどすぐに、そのエメラルド色の瞳が優しく細められる。
「でも僕も同じだったよ。昨日は、明日セラ嬢に会えるんだって思ったら、全然寝付けなかった」
総司様ほど落ち着いて見える人でも、そんなふうに思ってくださるんだ。
嬉しくて、でも恥ずかしくて、私は視線を逸らした。
『総司様でも、そういうことあるんですね』
「あるよ。好きな子に会える前日だし」
あまりにも自然に言われた言葉を聞いて、今度こそ息が止まりそうになる。
私は余裕のない心情のまま、涼しい顔をしている総司様を見上げた。
『総司様、ずるいですね』
「え?何が?」
『そういうこと、急に言うところです』
「仕方ないじゃない。言いたくなったんだよ」
いつからだろう。
幼い頃は、もっと簡単に好きと言えていた気がする。
総司様の後ろを追い掛けて、嬉しい時も寂しい時も、そのまま素直に気持ちを口に出来ていたのに。
でも、今は違う。
自分の中で大きくなり過ぎた想いが、総司様を前にすると胸いっぱいに溢れて、逆に言葉にならなくなってしまうみたいだ。
本当は今すぐ伝えたい、大好きですって。
会いたかったって、無事に帰って来てくださって嬉しいって。
けれど総司様の顔を見るだけで精一杯になって、今直ぐにはまだ無理そう。
「セラ嬢、顔真っ赤」
『総司様が変なことばかり言うからです……』
「僕、別に変なことなんて言ってないけどな」
小さく抗議してみても、結局さらりと返されてしまう。
少し悔しく思っていると、総司様は僅かに屈むようにして、私の顔を覗き込んだ。
「セラ嬢って、昔より照れ屋になったよね」
『そうでしょうか?』
「うん。小さい頃はもっと素直だった気がする」
図星をつかれた気がして、胸がどきりとする。
だから私は誤魔化すみたいに小さく唇を尖らせた。
『私がこうなったのは、全部総司様のせいですからね』
「僕?」
『だって、前よりずっと格好良くなられましたし……』
言ってしまってから、自分で何を言っているんだろうと思った。
慌てて口元を押さえるけれど、もう遅い。
総司様は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑う。
「ははっ、何それ」
『忘れてください……』
恥ずかしくて逃げ出したくなるのに、総司様はそんな私を見て本当に嬉しそうに笑っていた。
「嬉しいよ。セラ嬢にそんなこと言われると、自信がついちゃうな」
『ふふ、良かった』
総司様の物言いが可愛くて思わず私と笑ってしまう。
すると総司様が足を止めて、私を見つめた。
「ヴェルメルでもずっとセラ嬢のことを考えてたよ」
穏やかだけど、先程までとは少し違う真剣な声色。
温室の柔らかな光の中で、綺麗なエメラルド色の瞳が静かに揺れていた。
「辛い時やしんどい時も、セラ嬢の顔を思い浮かべると頑張れた。また会えるって思うだけで、元気になれるんだよね」
出会った頃から、総司様はとても優しい方だった。
私が困っていれば、当たり前みたいに手を差し伸べてくれるし、少し落ち込んでいる時には、気付けば隣で穏やかに笑っていてくれる。
総司様は昔から、言葉より先に行動で優しさをくれる人だった。
だから私は、その一つ一つが嬉しくて、いつの間にか総司様ばかり目で追い掛けるようになっていたのだと思う。
けれど今みたいに、真っ直ぐ気持ちを言葉にしてくださることは、昔はそこまで多くなかった気がする。
もちろん、以前から総司様の想いはちゃんと伝わっていた。
でも今は、好きとか、君がいるから頑張れたとか。
うまく言葉に出来なくなってしまった私の代わりみたいに、総司様が優しく気持ちを伝えてくれる。
その度に胸の奥が甘く熱くなって、好きという気持ちがまた少しずつ大きくなっていく気がしていた。
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