2

温室の奥に進むにつれて、甘い花の香りが静かに広がっていく。
穏やかな空気の中をセラ嬢と並んで歩きながら、僕は何度も隣に視線を向けていた。
陽射しに照らされた横顔は、以前よりずっと綺麗になっているのに、ふとした表情や仕草は昔のままで、その度に心が反応してしまう。

一年ぶりだった。
ヴェルメルにいる間、何度この姿を思い浮かべただろう。
血の匂いが染み付いた戦場でも、毒に苦しみ眠れない夜を過ごしていた時も、いつも考えるのはセラ嬢のことだった。
その彼女が今、こうしてすぐ隣で嬉しそうに笑っている。
それだけで、この一年抱えていた疲れもなくなっていくようだった。


『総司様』


小さな声で名前を呼ばれて、僕は視線を向ける。
するとセラ嬢は胸の前でそっと指先を重ねながら、少し緊張した様子で言葉を続けた。


『私、総司様にお会いしたら絶対にお伝えしたいことがあったんです。手紙にも書きましたけど……やっぱり直接言いたくて』


どんな言葉でも聞き逃したくなくて、自然と意識が彼女だけに向いていく。
急かさずに待ちながら、僕は静かにその声を聞いていた。


『次代の帝国の剣に選ばれたこと、本当におめでとうございます。総司様がどれだけ努力されてきたか、私ずっと知っていましたから……だから、自分のことみたいに嬉しかったんです』


帝国の剣に選ばれてから、周囲から祝福の言葉を向けられることは何度もあった。
だけど、この子にそう言ってもらえることが一番嬉しい。
肩書きや結果だけじゃなく、そこに至るまでの時間までも見てくれる彼女の優しさが心を温かくした。


『それから、北方遠征も……無事に帰って来てくださって、本当に良かったです。お疲れ様でした。おかえりなさい、総司様』


北方では何度も死を近くに感じた。
吹雪の中で倒れていった兵士達の姿も、血に染まった雪原も、今でも鮮明に思い出せる。
あと一歩遅れていたら自分もあそこに倒れていたかもしれない、そんな場面はいくらでもあったと思う。
それでも生きて戻りたいと思った。
無事に帰って、セラ嬢にまた会いたいと願った。


「ただいま、セラ嬢」


その一言を口にして、張り詰めていたものがほどけていく。
帰って来たのだと、ようやく実感することができた。
僕はこれから先、もっと危険な場所に身を置くことになるだろう。
帝国の剣として生きる以上、血と死からは逃れられない。
きっと酷い傷を負うこともあるだろうし、命を狙われることもある。

それでもセラ嬢が僕を待っていてくれるなら。
こうして僕の無事を心から喜んで、瞳を潤ませながら「おかえりなさい」と笑ってくれるなら。
僕は絶対にまたこの場所に戻って来ることが出来る。
そんな根拠のない確信が、胸の奥に満ちていった。


『私、総司様に会える日をずっと心待ちにしていました。毎日総司様のこと考えていましたし、お手紙を読む度に早く会いたいって思って……今日お会い出来ること、本当に楽しみにしてたんです』


不意に重ねられたその言葉に、僕は思わず目を見開いてしまう。
僕がどれだけ会いたかったかも、どれだけその言葉を欲しがっていたかも何も知らないまま、こんな風に真っ直ぐ伝えてくる。
そんなところは出会った時から変わらなくて、ただ嬉しいという感情が溢れてくるようだった。


「そんな風に言ってもらえるなら、頑張って帰って来た甲斐があるよ」


穏やかに返しながら、僕は懐に手を入れた。
北方へ向かう前、セラ嬢にもらった小さなお守り。
辛い時、不安な時、これに触れるだけで不思議と心が落ち着いた。


「遠征では成果を挙げられるか正直不安もあったんだけどさ。セラ嬢がくれたお守りのおかげで乗り切れたよ」


取り出したそれを見ると、彼女の碧眼が揺れる。


『まだ持っていてくださったんですね』

「当然でしょ。セラ嬢にもらったものだからね」


この子から貰ったものを手放すなんて、最初から考えたこともない。


「僕ならできる、頑張ろうって思えたのは、セラ嬢が僕の帰りを信じて待っててくれているってわかったからだよ」


出立前にセラ嬢から届いた手紙。
その文面には、不思議なくらい弱音や不安が書かれていなかった。
心配していることや僕の身を案じる言葉はなく、ただ穏やかな言葉で僕を信じて待っていると伝えてくれていた。
それは少しだけ、いつものセラ嬢らしくない手紙だった。

だからこそ、わかってしまう。
本当はきっと、不安に思っていたはずだ。
怪我をしないか、生きて帰って来られるのか、そんなことを何度も考えながら、それでも僕が迷わないように、自分の気持ちに懸命に蓋をしてくれていたのだと。
あの手紙は、その優しさが痛いほど伝わってくるものだった。
だから僕は、絶対に帰らなくてはいけないと思った。
セラ嬢が不安を飲み込んで、それでも僕を信じて待っていてくれるのなら、その想いに何としてでも応えたかった。

それに僕な託してくれた、この手作りのお守り。
きっとこの中には、彼女の願いも、祈りも、伝えきれなかった想いも、全部詰め込まれているんだろう。
多くを語る代わりに、こうして形にして僕に渡してくれるところがセラ嬢らしい。
言葉だけじゃなく、その一つ一つの行動で僕を大切に想ってくれていることが伝わってきたから、その思い遣りがどうしようもなく心に沁みた。

だからこのお守りは、ただの護符なんかじゃない。
僕にとっては、セラ嬢そのものみたいに大切な存在だった。
遠く離れていても、セラ嬢はずっと僕を支えてくれていたのだと思う。


「だから僕は、何があっても帰って来たかったんだ。君のいる場所に」


真っ直ぐ見つめた先、セラ嬢は今にも泣きそうに瞳をうるうるさせながらも、懸命に涙を飲み込もうと唇をきつく結んでいる。
その反応が可愛くて、僕は思わず喉の奥で小さく笑った。
すると彼女も恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑ってくれるから、その様子がまた愛おしくて仕方なかった。


『総司様がそう仰ってくださって、とても嬉しいです。だから私……これから先、総司様がどんな場所へ向かわれても、ちゃんと帰りを待っています。総司様が帰ってきた時に、お帰りなさいって笑って言える私でいたいです』


少し震える声で、懸命にそう言ってくれる。
その瞳はやっぱりまだ潤んでいるのに花が咲いたように微笑んでくれるから、心が締めつけられたようだった。
僕はこれから先、どれだけ遠くへ行っても、どれだけ危険な場所に立つことになっても、最後には必ずこの子のいる場所に戻りたいと思ってしまうのだろう。
きっと、僕にとっての帰る場所は、もうずっと前からセラ嬢の隣だったからだ。


「ありがとう。嬉しいよ」


言葉では伝えられない想いが、身体中を満たしていくようだった。
微笑む僕を見て、セラ嬢も嬉しそうに笑ってくれて。
その微笑みを見て、僕はまた君が好きになる。
そんな日々がこれから先もずっと、続いていけばいいと切に願うよ。


『私からもありがとうございます』

「ははっ、なんで君がお礼を言うの?」

『私もね、総司様が応援してくださってるって思いながら、ピアノのコンテストだって頑張ることが出来たんですよ』

「へえ、じゃあ入賞できたのは僕のお陰でもあるってことかな。ご褒美、何くれるの?」

『ふふ、ご褒美?ご褒美は、えっと……クッキーとか』

「いいね。セラ嬢が作ってくれたクッキー、また食べたいと思ってたんだ」


不思議だった。
一年も離れていたはずなのに、隣にいるだけで自然と心が落ち着く。
まるで最初から、こうして並んで歩くのが当たり前だったみたいに。


『それなら総司様のためにとびきりおいしいクッキーを作ります』

「やったね。でもとびきりおいしいって、どれくらい?」


そんなくだらない質問をしてみると、セラ嬢は一度きょとんとしてから、またくすくすと笑い出す。


『総司様にもっと好きになっていただけるくらい』


はにかみながらそう言ったその笑顔が可愛くて堪らなくなる。
久しぶりに会ったばかりなのに、無自覚でこんなことを言うんだから困るよね。


「そんな可愛いこと言わないでよ」


小さく息を吐きながら、僕は彼女の方に少しだけ身を屈める。


「今すぐ抱きしめたくなるんだけど」


思わず零れた本音に、セラ嬢の肩がぴくりと揺れた。
白い頬が一瞬で赤く染まっていく様子が可愛くて、本気で理性が危うくなる僕がいる。

本当はこのまま細い身体を引き寄せて、会いたかった分だけこの腕の中できつく抱きしめてしまいたかった。
でも、そんなこと出来るわけがない。
まだ正式に婚約を認めてもらっているわけでもないのに、軽々しく触れたりしたら、セラ嬢を大事にしていないみたいに思われてしまう。
だから僕は、込み上げる衝動をどうにか押さえ込んだ。
するとセラ嬢は、今にも湯気が出そうなくらい真っ赤な顔のまま僕を見上げておろおろしてるから、僕は思わず吹き出しそうになった。


『そ、総司様……』

「あっはは、ごめん。そんなに慌てるとは思わなかったよ」

『総司様が急に変なことを仰るからですよ』

「変なことじゃないよ。本当のことなんだけどね」

『でも、前はそんなこと仰らなかったのに……』


そう言って、ますます顔を赤くして視線を逸らしてしまう。
からかえばすぐに照れて、困って、感情が素直に顔に出る。
僕の大好きなところが変わっていなかったことが、嬉しくてたまらなかった。


『……総司様は、会えない間に随分と女の子慣れしてしまわれたのですね』


少しだけ怒ったような声。
そのままぷいと顔を背けられて、僕は一瞬ぽかんとしてしまった。


「え、なんで?」

『だって、そんなふうにさらっと仰るなんて……前までの総司様とは別人のようです』


言い淀みながら彼女がちらりとこちらを見る。
その様子はどうやら本気で少し拗ねているようだった。


「いや、違うってば。別に女の子慣れなんてしてないよ」

『ふうん……』

「ふうんって……。ほんとだってば。他の子に、こんなこと言わないよ」


少し膨れているセラ嬢も可愛いけど、彼女は少しだけ不安そうに僕を見上げた。


『それじゃあ……他の女の子と仲良くしたり二人で会ったり……していませんか?』


おそるおそる確かめるような声だった。
でも、その瞳には責めるような色はなくて、ただ安心したいのだとわかってしまう。
だからこそ、その問いは思った以上に胸に刺さった。

脳裏に浮かぶのは、ローゼンガルド家の千嬢の姿。
月に一度だけ設けられていた茶会。
親同士の意向で始まった縁談の席だった。
やましい関係ではなく、互いに余計な縁談を避けるために都合よく利用しているだけ。
そこに恋情なんてものはないし、僕の気持ちは最初からずっとセラ嬢だけに向いていた。
それなのに、実際にはローゼンガルド家から正式に婚約を進めたいという話が来てしまっている。
今回の遠征で成果を残したおかげで、他家との縁談を急かされることはなくなったものの、僕はまだセラ嬢に言えないことを抱えたままだった。


「もちろん、君としか会ってないよ」


口にした瞬間、心が鈍く痛む。
本当は、嘘なんてつきたくない。
ちゃんと本当の言葉で向き合いたいと思っているのに、それができないことが苦しかった。
でももし、千嬢の存在を知れば、きっとセラ嬢を傷つけてしまうだろう。
何もない、なんて言葉だけでは済まされないことくらい、僕にだってわかっていた。
それにセラ嬢にはがっかりされたくないし、嫌われたくない。
だからこそこの嘘が見破られたらどうすればいいかと身構えていると、セラ嬢はふわりと花が綻ぶように笑った。


『……良かった』


心底安心したように息を吐いて、柔らかな瞳で僕を見つめてくる。
僕の言葉を疑いもせず信じてくれる無垢さが、また僕の心を苦しくさせた。


『私、少しだけ不安だったんです。総司様、とても格好良くなられていましたし……北部でもきっと、たくさんの方が総司様を素敵だと思われるでしょうから』

「そんなことないよ」


苦笑しながら返したけど、セラ嬢はまだどこか落ち着かない様子で視線を揺らしていた。


『でも……ヴェルメルでは、こちらよりずっと早く縁談を決める風習がありますよね?』


そう言いながら、セラ嬢はそっと指先を握りしめる。


『総司様は、私たちの事情に合わせて待ってくださっていますけど……そのことをご存じない方からしたら、総司様にまだお相手がいらっしゃらないことを不思議に思われても、おかしくない気がして……。だから、その……総司様のところには、他のご令嬢との縁談のお話もたくさん来ているのかなって……時々考えてしまっていました』


セラ嬢が、そんなことを考えていたなんて。
僕の知らないところで、北部の風習や縁談のことを気にして、不安に思っていたことを今まで気づきもしなかった。


『もちろん、総司様を信じています。でも……好きだからこそ、不安になってしまう時もあって……。こちらの事情に総司様を巻き込んでしまっている立場なのに、ごめんなさい』


困ったように笑うセラ嬢の姿を目の前に、心が再び痛み出す。
こうして真っ直ぐ想いを伝えてくれる子に、僕は隠し事をしている。
だからせめて、今ここで伝える言葉だけは嘘にしたくなかった。


「謝らないでよ。君にそうやって想ってもらえること、凄く嬉しいよ」


そう言うと、セラ嬢が少し驚いたように目を瞬かせた。
僕は小さく笑ってから、ゆっくり言葉を続ける。


「それに、僕が待ちたくて待ってるんだから、君が気にする必要なんてないんだよ」


これは本心だった。
誰に何を言われても、僕はセラ嬢以外を選ぶつもりなんてない。
そのために今回の遠征でも、どうにかして結果を残したかったんだ。


「僕、そんなに器用じゃないんだ。セラ嬢のことが好きなまま、他の誰かのことまで気にするなんて到底出来そうにないし」


そう零すと、セラ嬢の頬がじわりと赤く染まる。
泣きそうなほど嬉しそうな顔をされて、胸の奥が熱くなった。


「だから、不安にならなくて大丈夫だよ。君が思ってるよりずっと、僕はセラ嬢のことしか見てないから。僕が一番大事にしたいのは、君だよ」


その言葉に、セラ嬢は小さく息を呑んだ。
長い睫毛が震えて、透明な涙がじわりと瞳に滲む。
それでも泣いてしまわないように懸命に耐えるみたいに、彼女はそっと唇を結んで、それからふわりと微笑んだ。


『はい』


涙に濡れたその笑顔が、息を呑むほど綺麗だった。
嬉しそうで、恥ずかしそうで、それなのにどこか安心しきったみたいに柔らかく笑うから、心が一瞬で攫われる。
心臓が今までにないくらい大きく鳴った。

本当に……駄目だ。
こんな顔を見せられたら、もう何だってしてあげたくなる。
泣きそうになるくらい嬉しそうに僕を見るその瞳も、赤く染まった頬も、幸せを隠しきれていない微笑みも、全部がどうしようもなく愛おしくて、苦しくなるほどだった。

この子を泣かせたくないし、不安にさせたくない。
ずっとこんなふうに笑っていてほしい。
そんな感情が、息も出来ないくらい一気に胸へと押し寄せてくる。
だから僕は、心の中で決めた。
千嬢との関係は、もう終わらせよう。
セラ嬢にこんな顔をさせながら、曖昧な関係を続けていいはずがない。
彼女がまっすぐ僕を信じてくれるのなら、これ以上その想いを曇らせるようなことはしたくないと考えていた。

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