4.

セラ嬢を追って薔薇庭園を抜けた僕は、少し先を歩いていく彼女の背中へ声を掛けた。


「セラ嬢、待って」


あの後、彼女を追いかけようとした僕を、令嬢達はまた引き止めた。
けれどそれは、ただ僕を会話に付き合わせるためではなかったらしい。
なんでも、この茶会によく参加している大公家の子息がいるらしく、どうにも素行に問題がある人物なのだという。
良くない噂も絶えず、時には強引な真似もするらしいから、総司様もあまり深入りなさらない方がいいですよと、半ば本気で心配した様子で忠告を受けた。

正直、その話自体にそこまで興味はない。
ただ、もしセラ嬢に何かあったらと思えば、出来る限り近寄らせたくないと思ったくらいだ。
そんなこんなでようやく令嬢達から解放された頃には、セラ嬢はもうだいぶ先まで歩いて行ってしまっていた。

だから慌てて声を掛けたのに。
彼女は後ろを振り返り、僕の姿を見た途端、何故かそのまま走り出してしまった。


「あ、待って……!」


思わず素で声が出る。

え、なんで?
どうして逃げるの?

わけがわからないながらも、とりあえず追いかける以外の選択肢はなかった。
ドレスの裾を揺らしながら、セラ嬢は必死に前へ進もうとしている。
普段こんなふうに走り慣れていないんだろう、速度そのものはそこまで速くない。
だけどその小さな背中からは逃げたいという気持ちが痛いほど伝わってきて、それを見るたび胸の奥が妙にざわついた。

……そんなに僕のこと避けたい?
もしかして、本当に怒ってる?
いや、でもセラ嬢があんなふうに露骨に僕を避けるなんて、今までなかった。

だからこそ地味に傷つく。
というか、かなり焦る。

でも同時に、必死に逃げようとする後ろ姿を見ていると、妙に追いかけたくなる。
捕まえたいって思ってしまう。
それはきっと僕の中の本能に近かった。

だいぶ先を走っていたとはいえ、流石に僕の全力疾走を甘く見てもらったら困る。
毎日鍛えられている身からすれば、この程度の距離なんてすぐに縮まる。
地面を蹴る音が近づいてくると、セラ嬢がはっとしたように肩越しに振り返った。
その表情があまりにも切羽詰まっていて、いつになく必死な様子に胸が反応してしまう。
ようやく追いつき、細い腕をこの手で掴むと、セラ嬢の身体がびくりと震えた。


「……はっ、……なんで逃げるの……」


息を切らしながら問い掛けると、セラ嬢は答える代わりに苦しそうに肩を上下させた。


『はぁ……っ、はぁ……』

「なんか、怒ってる?」

『……はぁ、……はっ、……けほっ、けほっ』

「……大丈夫?」


セラ嬢はまだ上手く呼吸が整わないらしく、小さく咳き込みながら胸元を押さえていた。
淡い色の髪が乱れて頬に張り付き、瞳もうっすら潤んでいる。
その精一杯な姿を見てしまえば、さっきまで追いかけ回していた自分が急に悪いことをしたみたいな気分になった。


「ごめん、追いかけて」

『……っ』

「いや、でも逃げたのセラ嬢の方だからね?」


半分困りながら言うと、セラ嬢は気まずそうに視線を逸らす。
しばらくしてようやく呼吸が落ち着いてきたものの、彼女は眉を下げたまま俯いていて、全然僕の方を見てくれなかった。


「セラ嬢?」


そっと名前を呼ぶと、彼女は小さく肩を揺らしたあと、恐る恐る顔を上げた。
けれど目が合った途端、また逸らされそうになったから、僕は咄嗟に掴んでいた腕を少しだけ引き寄せた。


「待って。逃げないでよ」

『……逃げてないです』

「いや、さっきまで凄い勢いで走って逃げてたけど」

『……それは、総司様が追いかけて来るから……』

「追いかけるでしょ、あんな態度取られたら」


思った以上に拗ねた声が出てしまって、自分でも苦い気分になる。


「僕、なにか気に障るようなことした?」


そう問い掛けても、彼女はすぐには答えず、視線を落としたまま小さく唇を結んでいる。
さっきまで必死に逃げていたせいか、まだ呼吸は少し乱れていて、白い喉がかすかに上下する姿から目が離せなかった。


『……して、ないです』

「うーん」


僕は困ったように笑う。


「それ、多分してますって意味だよね」

『…………』

「しかもかなり」


そう付け加えると、セラ嬢はますます気まずそうに俯いてしまった。
逃げようとするみたいにそっと後ろへ下がろうとするけど、まだ腕を掴まれていることに気づいて、諦めたように睫毛を伏せる。
その反応がいちいち可愛くて、視線を逸らすことなく見つめていた。


「どうして逃げたの?」


できるだけ穏やかに聞くと、セラ嬢はしばらく黙り込んだあと、小さい声で答えてくれた。


『……今、お会いしたら、うまく笑えなさそうだったので』

「……え?」


予想と違う言葉が返ってきて、思わず目を見開く。


『総司様は悪くないのに、私、少し嫌な気持ちになってしまって……。やきもちを焼いたりする自分が、子供みたいで情けないのに……総司様が他のご令嬢の方達と楽しそうにお話されているのを見ると、どうしても胸が苦しくなってしまったんです……。だからちゃんと笑えるようになるまで総司様とお顔を合わせたくなくて……逃げてしまいました』


消え入りそうな声だった。
でもその言葉を聞いて、さっきまでの焦りが別の熱へ変わっていく。
そんなことで泣きそうになるくらい、僕のこと気にしてくれてたんだと思えば、胸の奥に熱が灯るようだった。


「セラ嬢を悲しませてごめんね。でも僕は別に楽しくなんてなかったよ」


そう言うと、彼女がぱちりと瞬く。


「それに僕は最初から、セラ嬢がはじめ君と話してることばっかり気になってたし」

『え?』

「しかも君は全然こっち見てくれないし」

『それは……』

「僕としては、結構嫌だったんだけど」


そう言って苦笑すると、セラ嬢は驚いたみたいに僕を見上げた。
けれどセラ嬢はすぐに視線を落とし、どこか言いにくそうに唇を結んだ。


『……嫌な気分にさせてしまって、ごめんなさい。でも……』

「うん?」


促すように首を傾けると、セラ嬢は視線を彷徨わせたあと、拗ねたように小さく唇を尖らせる。


『総司様は他の女の子にお美しいって言ってました』


あまりにも不服そうに言われて、思わず目を瞬いた。
……ああ、やっぱりそれ、聞こえてたんだ。


『あと、婚約者を探してるって……言ったのですよね』


慌てて否定の言葉を言おうとした、その時だった。


『私が……いるのに……?』


ぽつりと零れ落ちたその言葉に、息が止まる。
セラ嬢は今にも泣きそうな瞳のまま、まっすぐ僕を見上げていた。

長い睫毛の奥で涙がうるうると揺れていて、でも泣くのを必死に堪えているのがわかる。
責めているわけでも怒っているわけでもなく、ただ自分が不安になってしまったことに戸惑っていて、それでもその言葉だけは言うのを我慢できなかったみたいな顔をしている。
その表情を見てしまったら、胸の奥を完全に撃ち抜かれた気がした。


「…………」

『総司様……?聞こえてますか……?』

「…………」

『あの……総司様……』


……駄目だ、可愛すぎる。
可愛すぎて、心臓が痛いくらい跳ね回っているみたいだ。
今すぐ抱き締めたくなる衝動に、危うく理性が負けそうになったところで、不意に遠くから人の話し声が聞こえてくる。
ようやく我に帰った僕は、ここが人目につく場所だったことにも気づいた。


「セラ嬢、こっち」

『あ……』

「誰か来るかもしれないから」


咄嗟にセラ嬢の腕をそっと引き、半ば抱き寄せるみたいにして回廊の陰へ連れて行く。
でも突然距離を詰められたせいか、少し狼狽えた様子で涙目のまま僕を見上げているから、再び理性を試されているみたいだった。
でも、今抱きしめてしまったら、多分もう離したくなくなる。
僕はぎりぎりのところでその衝動を飲み込むと、小さく息を吐きながら、ふっと笑った。


「……困るな」


湧き上がるこの感情を誤魔化すように、ポケットからハンカチを取り出し、そっと彼女の目元へ触れた。


「動かないで」


セラ嬢は気まずそうに俯いたまま、じっとしている。
逃げるみたいに瞬こうとする睫毛を、柔らかく押さえるようにして涙を拭う。
近い距離で見るセラ嬢は、本当に泣いてしまう寸前みたいな顔をしていた。
頬は薄く赤く染まっていて、唇も頼りなく震えている。
その様子を見てしまえば、こうして僅かに触れているだけで、胸の奥が苦しくなるようだった。


「婚約者の話、あれは完全に誤解だよ。僕は婚約されてるんですかって聞かれて、まだですよって答えただけなんだよね。そしたら勝手に、相手を探してるみたいな流れにされちゃっただけ」

『……そうなのですか?』

「うん。そもそもセラ嬢がいるのに、今さら誰を探すっていうのさ」


そう伝えてみても、セラ嬢はまだ不安そうに僕を見上げていた。 
どうしたらまた安心して笑ってくれるんだろう。
そう考えているはずなのに、今にも涙が零れそうな表情が可愛くて、理性の奥に隠していた危うい感情が静かに顔を覗かせた。
縋るような瞳で見上げられるたび、もう少しだけこの顔を見ていたいと思ってしまう辺り、本当に質が悪い。
どうしても芽生えてしまう邪な感情を胸の奥にそっと押し込めて、僕は素直な気持ちを彼女に伝えることにした。


「セラ嬢もヴェルメルに来たことあるから知ってると思うけど、北部からアストリアってかなり遠いんだ」


雪深い北から東部まで来るには、時間も手間もかかる。
しかも最近の僕は、昔みたいに好き勝手動ける立場でもない。
そんな僕が毎年ここへ来る理由なんて、一つしかなかった。


「それでも僕が毎年ここに来たいと思うのは、君に会いたいからだよ」


そう言うと、セラ嬢ははっとしたみたいに目を見開く。
まるで今初めて、その事実に気づいたみたいな顔だった。
そのあと、彼女は今にも泣きそうな表情のまま、小さく唇を震わせる。


『……総司様』

「うん?」

『ごめんなさい……私が、悪かったです。総司様のこと、本当はちゃんと信じてるのに……』


素直に謝ってくれるところが、この子らしいと思う。
きっと彼女は、自分が疑ってしまったことを気にしているんだろう。
でも僕は、そんなことを責めたいわけじゃなかった。


「謝らないでよ。それに君が不安になるのは、仕方ないことだって思ってるよ」

『どうしてですか?』

「だって僕達は離れてる時間の方がずっと長いし、会いたい時にすぐ会えるわけでもないから。普段どんなふうに過ごしてるのか、お互い全部見えるわけじゃないでしょ。だから僕だってよく考えるよ。今頃セラ嬢は何してるのかなとか、とかね」

『総司様も……そんなことを考えるのですね』

「考えるよ、かなり」


そう答えると、セラ嬢は少し意外そうに目を瞬かせた。
きっとこの子の中で、僕はもっと余裕のある人間なんだろう。
いつも落ち着いていて、こんなことで揺らいだりしないように見えているのかもしれない。

でも実際は全くそんなことない。
会えない時間が長くなればなるほど、次に顔を見られる日を指折り数えてしまうし、手紙が少し遅れるだけで妙な胸騒ぎがする。
君の隣に僕の知らない誰かが立っていたらどうしようなんて、我ながら情けないことまで考える。
勿論そんな弱音を見せるつもりはないけど、セラ嬢を好きになってしまった時点で、そういう不格好な気持ちごと抱えていくしかないんだと思った。


「だからさ、セラ嬢だけじゃないよ。不安になるの」

『……でも、総司様はいつも落ち着いていらっしゃるから』

「そう?それなら君をうまく騙せてるってことなのかな」


わざと軽い調子でそう言って肩を竦めてみせると、セラ嬢はようやく小さく笑った。
その柔らかな表情を見て、胸のつかえが取れていく。
やっぱり僕は、この子が笑ってくれると安心してしまうらしい。


「だから、これからはちゃんと教えて。寂しいとか、不安だとか、そういうの全部。君が一人で抱え込んでる方が、僕は嫌だから」

『はい。ありがとうございます』


素直に頷く声はまだ少し掠れていたけど、さっきまでみたいな不安の色はもう薄れていた。


「まあでも、さっき逃げた罰くらいは必要かな」

『え?罰?』

「今日はもう、セラ嬢は僕から離れるの禁止ね」


そう言いながら少し顔を寄せると、セラ嬢はぱちりと目を丸くしたあと、みるみる頬を赤く染めていく。


『総司様、やっぱり少し意地悪です』

「うん、知ってる」

『もう……』


困った様子で呟きながらも、彼女は嫌がる素振りなく僕の袖をそっと握った。
その小さな温もりが嬉しくて、僕は思わず目を細める。
多分こういう何気ない瞬間を、これから先何度も重ねて、僕達の絆は強くなっていくのだろう。
離れている時間がどれだけ長くても、また会いたいと思う理由は、ずっと変わらないと思った。

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