5.

本当に優しい人だと思った。

私が抱えてしまう小さな不安も、子供みたいなわがままも、総司様は一度も面倒そうな顔をせずに受け止めてくれる。
ただ慰めるだけではなく、最後には敢えて少し軽い調子で笑わせてくれるから、胸の奥に残っていた重たい気持ちまで溶けてなくなっていくようだった。

遠方から、毎年こうして私に会いに来てくださることも。
忙しいはずなのに時間を作って、頻繁に手紙を書いてくださることも。
当たり前ではないとわかっているからこそ、胸がいっぱいになるくらい嬉しい。
だから私も総司様を信じて、彼を支えられるような相手でいたいと思った。


『総司様』


今なら言いたかった言葉を伝えられる気がした。
好きというこの気持ちを総司様に届けたいと思った。
でも総司様を見上げ、唇を開きかけた時だった。


「おい、セラ嬢! どこだ!」


回廊の向こうから響いた苛立った声に、私ははっと息を呑む。
そして本来の目的を、すっかり忘れていたことを思い出した。
ディランド大公国の大公子、ベリアル様。
薔薇庭園を出てこの場所に来たのは、あの方との約束があったからだった。


「……え、誰?」

『あ……ごめんなさい。私、実はあの方と約束をしていて』

「約束って、何のこと?」


穏やかな口調なのに、どこか鋭い。
総司様は私の表情を探るようにじっと見つめていた。


『あの方はディランド大公国のベリアル様です。いつもお茶会に参加してくださるのですけど、乗馬のレッスンがあるらしくて毎回遅れていらっしゃるんです。前回のお茶会の時に、次からは迎えに来るようにと言われていて……』

「どうして君がそんなことをしないといけないのさ」


ベリアル様は身分も高く、周囲も逆らいにくいお方だ。
少し強引なところがあって、多くのご令嬢達が色々と振り回されているという話も聞く。
それをどう説明すればいいのか迷っていると、総司様は何かを思い出したように口を開いた。


「そういえば、さっきの令嬢達が話してたよ。素行に問題がある人がいるって。もしかして、あの男のこと?」

『恐らくそうだと思いますけど……でも、大丈夫ですよ。ここから庭園まで一緒に行くだけですから。総司様は先に戻られてください』

「そんなこと出来るわけないでしょ?僕も一緒に行くよ」


総司様が来てくださるのは心強い。
そう思う反面、心のどこかでは別の不安も生まれていた。
総司様は穏やかで、滅多なことでは感情を表に出さない方だけど、ベリアル様は思ったことをそのまま口にしてしまうところがある。
もし失礼なことを言われたらと思うと、今度はそちらの方が心配になってしまった。


「なに?駄目なの?」
 

少しだけ覗き込むように尋ねられて、私は慌てて首を横に振る。


『いいえ。総司様がいてくださるのは、とても心強いです。では、行きましょうか』


一度静かに深呼吸をして、私は総司様と共に回廊の陰から姿を見せた。
するとこちらに気付いたベリアル様は、一度機嫌が良さそうに口角を上げたものの、私の隣に立つ総司様へ視線を向けるなり、不満そうに眉を寄せた。


「遅い。俺を待たせるなんてどういうつもりだ?」

『ベリアル様、ご機嫌よう。本日はお越しくださりありがとうございます。お待たせしてしまい、申し訳ありません』

「全くだ。それで、こいつは?見ない顔だけど、セラ嬢の従者か何か?」


あまりにも遠慮のない言葉に、思わずひやりとする。
ベリアル様は大人達の前では驚くほど完璧に振る舞われるのに、同年代だけになると急に自由奔放になることがある。
とはいえ、総司様を従者扱いするなんて、とんでもない。
焦る私とは対照的に、総司様は少しも表情を崩さず、穏やかな笑みを浮かべたまま優雅に会釈をされた。


「はじめまして、ベリアル殿。僕は北部ヴェルメル大公国より参りました、沖田総司と申します。どうぞよろしくお願いします」


さすがは総司様。
落ち着いた声音も柔らかな微笑みも貴族らしい気品があって、私は思わず感心してしまう。
けれどベリアル様はどこか気怠そうに首を傾げた。


「ヴェルメル?どこだそれ。聞いたこともないな」

『ヴェルメルは北部でも特に大きな国ですよ。騎士団はとても強くて、街も綺麗で、商業も盛んなんです。雪国だからこその文化もたくさんあって、冬の街並みなんて本当に素敵なんですよ。お料理も美味しいですし、湖や雪原も綺麗で、私は初めて行った時、まるで別世界みたいだと思いました』


夢中になってそう話すと、総司様が目を細めてこちらを見た。
その視線がどこか嬉しそうで、少し照れてしまう。
けれどベリアル様は感心した様子もなく、ふうんと気のない返事をした後、さらに失礼な言葉を重ねた。


「ようは雪ばかりの辺鄙な場所なんだろ?雪のせいで馬にもろくに乗れないんじゃないのか?どうやって東部まで来たんだよ」


確かに北部の冬は厳しい。
時期によっては一面雪景色になることもある。
けれど、ベリアル様が想像しているような不便な土地では決してなかった。
ヴェルメルは広い街道が整備されていて、雪への対策も進んでいるし、帝都は東部のどの国にも負けないほど栄えている。
巨大な白亜の城も、夜になると灯りが雪に反射して、本当に幻想的だった。
そのことを説明しようとした時、総司様が穏やかに言葉を継いだ。
 

「雪の日でも、普通に馬や馬車は使いますよ。北部は寒さへの備えが発達していますから、街道の整備もされていますし、長距離移動用の列車もあります。なので、徒歩で雪原を歩き続けるということは流石にないですね」


さらりと説明する口調は柔らかいのに、どこか余裕があって、本当に素敵だと思う。
でもベリアル様は終始興味がなさそうに聞いているだけだった。


「あっそう。まあ、お前の国のことなんて別にどうでもいいけど。それより」


そう言った直後、ベリアル様は突然こちらへ手を伸ばし、私の額を指先で軽く弾いた。


『……いたっ』

「俺を待たせてどういうつもりだよ。この詫びは、もちろんしてくれるんだよな?」


驚いて額を押さえた時、総司様がすっと私の前へ出た。
まるで私を庇うみたいに立ってくれる総司様の背中が、とても頼もしく見えてしまう。


「ベリアル殿。女性に乱暴な真似はあまり感心しませんよ。セラ嬢も驚いているじゃないですか」

「乱暴だなんて大袈裟だな。ちょっと構ってやっただけだ」

「構うにしても、もう少し優しくしてあげてください。セラ嬢は繊細なんですから」


そう言って、総司様はちらりと私を振り返る。


「大丈夫?痛くなかった?」

『はい、大丈夫です』


本当は少しだけ痛かったけど、それよりも咄嗟に庇ってくださったことの方がずっと胸に残っていた。
怒鳴ったり感情的になったりせず、それでもちゃんと私を守ってくださるところが総司様らしいと思う。
また総司様のことが好きになって、ただ真っ直ぐ彼を見上げていると、ベリアル様が突然総司様の肩を乱暴に掴んだ。


「お前、なんなの?邪魔なんだけど」


あまりにも不機嫌そうなベリアル様の様子に思わず息を呑む。
けれど総司様は少しも動じた様子を見せず、肩を掴まれたまま穏やかに小首を傾げていた。


「セラ嬢は俺を迎えに来たんだ。お前はお呼びじゃないんだよ」

「そんな悲しいこと言わないでくださいよ。僕はベリアル殿とも親しくなりたいんですけどね」

「は?誰がお前なんかと。北の田舎貴族の相手をしてるほど暇じゃないんだよ」


思わず心の中で、やめてくださいと叫んだ。
だって実際には、北部は東部よりも遥かに発展している。
特にヴェルメル大公国は、広大な領土と強大な軍事力を持つ大国で、東部の貴族達ですら一目置いている存在だった。
以前ヴェルメルを訪れた時、私は街の規模にも、技術の発展にも、本当に驚かされた。
むしろ北部から見れば、東部の方が田舎扱いされてもおかしくないくらいなのに、ベリアル様は他国への興味が薄いせいか、その辺りを全く理解していないらしい。
そんなことを平然と言ってしまう辺り、本当に怖いもの知らずだと思う。

慌てて総司様を見上げると、総司様は相変わらずにこにこしていた。
……にこにこ、しているのだけど。
なんとなく、少し怒っている気がする。
口元は綺麗に笑っているのに、目だけが笑っていないように感じて、複雑な心境になった。

総司様は滅多に感情を露わにしない。
だからこそ、こういう時の静かな怒りは逆に怖い。
このままでは空気がどんどん悪くなってしまう気がして、私は慌てて二人の間へ割って入るように声を上げた。


『あの……皆さまもお待ちですし、そろそろ庭園へ向かいましょうか』


そう言って総司様を見上げると、彼はぱちりと瞬きをしたあと、何事もなかったみたいにふっと微笑んだ。


「そうだね。セラ嬢がそう言うなら、僕も大人しく従います」


その声はいつも通り穏やかで、先程感じた鋭さが嘘みたいだった。
ベリアル様も不満そうに鼻を鳴らしながらも、「まあいい」と呟いてようやく総司様から手を離した。

私はほっと胸を撫で下ろしながら、二人を案内するように薔薇庭園へ向かって歩き出す。
午後の日差しを浴びた回廊は柔らかな光に包まれていて、窓の向こうには色とりどりの薔薇が咲き誇っている。
本来なら穏やかで綺麗な景色のはずなのに、背後の空気は妙に落ち着かなかった。


「なあ、セラ嬢」


不意に名前を呼ばれて振り返る前に、後ろから髪を一房掬われる。


「今日、いつもより髪巻いてる?」

『え?』


突然のことに目を瞬いていると、ベリアル様は面白がるみたいに私の髪先を指で弄んだ。


「ふうん。やっぱりそうだ。俺のために気合い入れてきたんだ?」

『違います……っ』


即座に否定すると、ベリアル様は楽しそうに笑う。
完全にからかわれてるし、しかも距離が近い。
どう反応すればいいのかわからず困っていると、隣を歩いていた総司様がにこやかに口を開いた。


「ベリアル殿。あまり困らせると嫌われますよ」


世間話でもしているみたいな優しい口調なのに、総司様の笑顔からは若干の苛立ちを感じる。
ベリアル様はそんな空気など全く気にしていない様子で、「別に嫌われてないよな?」と笑いながら、今度は私の頬を軽く指先でつついた。


『……っ』

「反応面白いな、セラ嬢」

「……ベリアル殿」


お願いだからベリアル様、もうやめてください。
そう祈る私の気持ちとは裏腹に、ベリアル様はむしろ面白くなってきたらしい。 
再び私に手を伸ばしてきたけど、その手は私に触れる前に、総司様によってやんわりと阻止されていた。


「あまり彼女を虐めないでくださいよ」

「別に虐めてないんだけど。それに、お前さっきから過保護すぎない?別に減るもんじゃないだろ」

「だからと言って女性に気安く触れていいわけじゃないと思いますよ。セラ嬢は気軽に触られるの、あまり得意じゃないと思うので」


総司様は柔らかく微笑んだままそう返したあと、自然な動作で私の隣へ一歩近付いた。
それだけで、ベリアル様の手が届きにくくなる。
さりげなく私を庇ってくださっているのがわかって、胸の奥が温かくなった。


「ふーん?」


ベリアル様はじっと総司様を見つめる。
総司様も視線を返していたけど、穏やかな笑顔のまま静かに牽制しているのが見てとれた。
けれど暫く歩いた先で、ベリアル様は何故か私の腕を掴んできた。


「セラ嬢、こっち来いよ」

『あ……っ』


不意に腕を引かれて、身体がぐらりと傾く。
気付いた時には、私は半ば抱き寄せられるみたいな形でベリアル様の隣へ引き寄せられていた。


「さっきからずっとそいつの横じゃん」


不満そうに言いながら、ベリアル様は当然みたいな顔で私の肩へ腕を回そうとする。


『ベ、ベリアル様、近いです……もう少し離れて』

「別によくない?」


ぐいぐい距離を詰められて困っていると、総司様の手が優しく私を引き寄せてくれる。
気付けば私の身体はもう総司様の隣へ戻されていて、すぐ傍に感じる体温に張り詰めていた心が少しだけ緩むのがわかった。
けれどそんな空気を壊すかのように、ベリアル様は露骨に眉を顰めた。


「さっきから邪魔だって言ってるだろ。セラ嬢は俺のなんだ、いちいち干渉してくんなよ。急に現れて、ずっと間に入ってきやがって」


低く吐き捨てるような声音を聞いて、総司様の表情がぴたりと止まった。
ほんの一瞬のことだったけど、私にはその小さな変化がはっきりと感じ取れてしまった。


「……今、なんて言いました?」

「だから、セラ嬢は俺のもんだって言ったんだよ。お前には関係ないんだから、しゃしゃり出てくんなって言ったんだ」


ベリアル様は苛立ったようにそう言い返した。
すると総司様は小さく笑ったあと、不意に私を見下ろしてくる。


「ねえ、セラ嬢」

『は、はい……』

「君、いつの間にベリアル殿のものになったの?」


優しい声だった。
いつも私へ向けてくださる穏やかな声音と何も変わらないはずなのに、その瞳の奥には静かな怒りが滲んでいて、私はどきりとしてしまう。
私は戸惑いながらも、ふるふると小さく首を横に振った。


『なっておりません……』

「だそうですよ、ベリアル殿。セラ嬢は、あなたの所有物になった覚えはないそうです。女性本人の意思を無視して、自分のものみたいに扱うことが、あなたの大公国では普通なんですか?」

「……お前さっきから喧嘩売ってんの?」


ベリアル様の声に更なる苛立ちが混じる。
けれど総司様は変わらず穏やかに笑ったままだった。


「まさか。ただ僕はセラ嬢が困ってるのを見過ごしたくないだけですよ」

「別に困ってないだろ」

「それはベリアル殿の感想ですよね」


さらりと返された言葉に、ベリアル様の眉間へ深く皺が寄る。
私はそんな二人を見比べながら、早く薔薇庭園に着くことばかりを願って、落ち着かない心情で歩いていた。

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