6.
薔薇庭園に向かう道すがら、私はちらりと総司様を見上げた。
少なからず怒っている筈なのに、総司様は決して怒鳴らないし、感情をそのままぶつけたりもしない。
ただ静かに笑いながら、一歩も引かずに相手を追い詰めていく様子は、私が今まで見たことのなかった総司様の新しい一面だった。
「……なんかお前、ほんとに感じ悪いな。いちいち言い方が腹立つんだけど」
ベリアル様が不機嫌そうに吐き捨てる。
すると総司様は少しだけ目を細めたあと、何事もないみたいに柔らかく笑った。
「そうですか?これでも僕、かなり温厚な方ですよ」
「どこがだよ。北の貴族って皆こんな嫌味なの?」
「どうでしょうね。少なくとも僕は、女性を困らせる趣味はないですけど」
ベリアル様が露骨に言葉に詰まるその様子を見て、私は内心驚いていた。
ベリアル様は普段、相手を言葉で押し切ることが多い。
それなのに総司様相手だと、全然思い通りにいっていないどころか、むしろ淡々と全部返されてしまっている。
しかも総司様は終始笑顔だから、余計に反論しづらいのだと思えた。
そうこうしているうちに、ようやく薔薇庭園の入口が見えてくる。
辿り着くまでの道のりがこんなにも長く感じたのは初めてだった。
「お前、死ぬほど鬱陶しいな」
「そんなに僕が鬱陶しいなら、いっそのこと剣で勝負でもしてみます?」
あまりにもさらりとした言い方をした総司様に、ベリアル様はすぐ露骨に眉を顰めた。
「は?誰がそんなものするか」
総司様は小さく笑う。
その笑い方が妙に余裕たっぷりで、私は嫌な予感しかしなかった。
「へえ。つまり、僕に勝てる自信がないんですね」
ベリアル様のこめかみがぴくりと動いた。
……絶対に今、わざと煽りましたよね。
そう思った時にはもう遅く、ベリアル様は呆れたみたいに鼻で笑った。
「なに、お前ってもしかして剣術馬鹿なの?言っておくけど、本当に高位の貴族っていうのは、自分で泥臭く剣を振り回したりしないんだよ。剣術なんて社交の延長で少し嗜む程度で十分。そんなものに必死になってる時点で、所詮は二流三流だ。それに比べて俺みたいな一流の人間は、自分で戦う必要なんてない。周りの奴らが勝手に護りたがるし、実際そのために騎士だっているんだから」
総司様は、努力で今の強さを手に入れた人だ。
誰より剣に向き合って、傷だらけになりながら何度も立ち上がって、それでもなお強くなろうとしてきた。
今だって血が滲むような努力を重ねて、それでも決して誇ることなく剣を握り続けている。
だからこそ、その生き方を軽く笑われたことが、悔しかった。
けれど総司様は怒るどころか、むしろ静かに目を細めた。
「なるほど。確かに、護られる立場の方ならそれで十分なのかもしれませんね。ただ、剣の腕を磨くことって、単純に戦うためだけじゃないんですよ」
「それなら、他に何のためだって言うんだよ」
「自分の大切なものを、自分の意思で護れるようになるためです。誰か任せじゃ間に合わない時は、案外簡単に訪れますから」
私を護るために強くなると言ってくれた総司様の言葉を思い出す。
心が温かくなるのを感じていると、ベリアル様はすぐに鼻で笑った。
「普通に考えて、騎士を何十人と従えていれば十分だろ。そこにさらに一人増えたところで、大した違いはないと思うけど?上に立つ人間っていうのは、剣を振り回して前線に立つより、もっと厄介で重たいものを背負わされる立場なんだよ。そんな場所にいる人間が、わざわざ自分で剣まで握る必要ある?」
「だからこそ、上に立つ人間ほど武を軽んじるべきじゃないと僕は思っていますよ。力を持つ者が戦を知らないまま命令だけ出していると、簡単に人を死なせることになるので。痛みも恐怖も知らないまま、仕方なかったで片付けられるのが一番怖いんですよ。僕だったらそんな人に仕えるなんて死んでも嫌だな」
その言葉を聞いて、ベリアル様の顔が引き攣る。
でも苛立ちのまま総司様を睨みつけると、刺々しい口調で言った。
「……はっ、さすがは軍事貴族様だな。お前の家も、どうせ帝国のために戦争ばっかしてるんだろ?騎士道だの忠義だの綺麗事並べても、騎士なんて結局は帝国や王国に都合よく使われてる猟犬じゃん。大して価値もない家畜と同じだって気付かないわけ?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がかっと熱くなった。
ヴェルメルを。
総司様を。
そして国のために剣を取る騎士の方々を、何も知らないまま侮辱された気がした。
それはきっと、騎士団を抱える軍事国家に生まれた私にとって、自分の家や父、幼い頃から見てきた騎士団の方々まで馬鹿にされたのと同じだった。
命を懸けて何かを必死に護ろうとしている人達を、そんなふうに軽く語らないでほしい。
咲き誇る薔薇の香りが風に混じる中、私は足を止め、静かに顔を上げた。
『ベリアル様。騎士を軽んじる発言は、あまりなさらない方がよろしいかと思います』
「……は?」
『今こうして平穏でいられるのは、国境で剣を取る方々がいるからです。戦を遠ざけ、民を守る役目を担ってくださる方がいるからこそ、私達は安全な場所で紅茶を飲み、薔薇を眺めていられるのですよ』
私の声はいつもより低く、静かだった。
けれど胸の内には、はっきりした怒りがあった。
『それに、武を軽視する発言は、相手によっては国そのものへの侮辱と受け取られます。特に北部の諸国は軍事力を誇りとしている国が多いですから、軽率なお言葉は外交問題にも繋がりかねません。もちろんベリアル様に悪気がないことはわかっています。でも、立場のある方ほど、言葉は慎重に選ぶべきだと私は思います』
そこまで言い切ってから、私ははっと息を呑んだ。
言い過ぎてしまったかもしれない。
そう思った時には、目の前のベリアル様の表情が目に見えて険しくなった。
「女のくせに生意気な……っ」
苛立った声音と同時に、ベリアル様が突然こちらへ手を伸ばした。
その瞬間、総司様がいち早く私の肩を掴み、ぐっと自分の方へ引き寄せてくださる。
けれど避けきれなかった指先が、私の首元に触れて、ぶちんと嫌な音が響いた。
『あっ……』
切れた銀鎖が胸元を滑り落ち、小さな音を立てて石畳へ転がる。
「なんだこれ?随分と安っぽいペンダントだな」
ベリアル様はそれを拾い上げると、つまらなそうに眺めながら鼻で笑った。
でもそれは二年前、総司様とお揃いになるよう特別に作っていただいた、大切なペンダントだった。
離れている時間も、お互いを傍に感じていられるように。
そして再び会えた時、それぞれの飾りを合わせれば、一つの星になるように。
想いが重なりますようにと、願いを込めて選んだ宝物。
それなのに。
『ベリアル様、返していただけますか?』
「やだね。こんなのいらないだろ」
ベリアル様はそう言うと、今度は無造作にそれを地面へ落とした。
石畳に銀細工がぶつかる乾いた音が響くとほぼ同時に、その上には靴底が乗せられる。
そしてまるで価値のないものでも踏み潰すみたいに、ぐりぐりと地面に擦り付けた。
『ベリアル様、おやめくださいっ……それは……』
慌てて声を上げる私を見下ろしながら、ベリアル様は退屈そうに笑う。
「これがそんなに大事か?趣味も悪いし、似合ってないじゃん。お前がちゃんと誠心誠意謝るっていうなら、俺がまともなペンダントくらい買ってやるけど、どうする?」
悔しい、悲しい。
でもここで騒ぎを大きくしてはいけないという理性もあった。
ふと気付けば、ここはもう薔薇庭園の入口。
奥でお茶を楽しんでいたお客様達が、こちらの只ならぬ空気に気付き始めているのがわかる。
今日は、お母様が心を込めて開いてくださったお茶会なのに、これ以上問題を大きくするわけにはいかない。
私はぎゅっと唇を噛み締めると、込み上げる悔しさを押し殺しながら頭を下げた。
『ベリアル様……申し訳……』
「セラ嬢」
静かな声が、私の言葉を遮った。
振り返ると、総司様がこちらを見ていた。
その表情は穏やかなままだったけど、瞳だけが静かに冷え切っているように見えた。
「君が謝る必要はないよ。謝るべきなのはベリアル殿の方なんだから」
「俺が謝ると思うのか?何も悪くないっていうのに」
「悪くない?女性が嫌がっているのに不用意に身体へ触れて、無理に引き寄せ、大切な持ち物を壊した上に踏みつけた。それを悪くないって言うなら、随分と都合のいい価値観ですね」
総司様は穏やかな声音のままそう告げたけど、薔薇庭園へ吹き抜ける風までぴたりと止まってしまったみたいに、空気が張り詰めている。
けれどベリアル様は、そんな変化に気付いていないのか、それとも気付いてなお引く気がないのか、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「だから大袈裟なんだよ。こんな安物ひとつ壊れたくらいで騒ぐなって」
そう言いながら、ベリアル様は石畳に落ちたペンダントを靴先で軽く蹴る。
乾いた音を立てて転がった銀細工を見てしまえば、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「さっきセラ嬢は、騎士だの外交だの随分立派なこと語ってたけどさ。そもそもお前みたいな女が何か背負ったことあるわけ?どうせ危険な場所には一度も立ったことないんだろ。周りに守られて、甘やかされて、綺麗なドレス着て微笑んでるだけで生きてこられたくせに」
薄く笑いながら向けられた視線に、胸の奥がずきりと痛んだ。
「お前みたいなお嬢様は気楽でいいよな。常に守られる側にいるくせに偉そうなことだけは一人前だ。そんな薄っぺらい綺麗事、現実を知らない女だから言えるんだよ。お前の価値なんて、所詮その顔くらいなんだからさ。余計なことを考えて口を挟むより、男に愛想振り撒いて機嫌でも取ってろよ」
ベリアル様からの言葉は心の中を乱暴に掻き回していくようで、息をすることさえ苦しくなる。
でもそれ以上に、総司様の前でそんなふうに言われたことが悲しくて、喉の奥がきゅっと詰まった。
違う、と言い返したいのに声が出ない。
ベリアル様が仰る通り、私が危険な場所へ立ったことがないのは事実だからだ。
何も知らないくせに綺麗事を語るなと言われれば確かにその通りかもしれないけど、あの時はどうしても許せなかった。
総司様が、そして大切な人達が侮辱されているみたいで、どうしても許せなかったの。
でも今は返す言葉が見つからなくて、唇を強く結ぶ。
そして熱を持った視界が滲みそうになった、その時だった。
気付けばベリアル様の身体が石畳へ叩き伏せられていた。
あまりにも一瞬のことで、何が起きたのか理解できなかった。
ただ、硬い地面へ身体が打ち付けられる鈍い音だけが、遅れて耳に届く。
総司様はベリアル様の腕を背中側へ捻り上げるように押さえ込み、そのまま片手で首元をぐっと掴んだ。
まるで暴れる相手を制圧することに慣れている人の動きだったから、目の前の光景に身体が固まってしまったかのように動かなくなった。
「なに、すっ……」
苦しそうな声を漏らすベリアル様を石畳へ押さえ付けたまま、総司様は微塵も表情を動かさなかった。
目の前にいるのは確かに総司様のはずなのに、纏う空気があまりにも違って見えて、私は息をすることさえ忘れそうになった。
ついさっきまで、あんなに穏やかだったのに。
ベリアル様の首を押さえた時、総司様の瞳から一瞬にして温度がなくなったのを確かに見てしまった。
私が何度も見つめてきた総司様の瞳は、いつだって優しかった。
少し意地悪そうに細められる時でさえ、その奥には柔らかな温かさがあって、見つめられるだけで安心出来るような瞳をしていたのに、今の総司様の目にはそういうものが何一つ残っていない。
むしろ酷く冷たくて、まるで相手を傷付けることに一切の躊躇いを持たない人の目。
その視線を見た瞬間、背筋を冷たいものがゆっくりと這い上がっていく感覚に襲われて、喉の奥がひくりと震えた。
そんなふうに感じてしまった自分が信じられなかった。
だって、総司様は優しい人だから。
いつだって私を守ってくれて、傷付かないよう気遣ってくれて、苦しい時には誰より先に手を差し伸べてくれる人なのに、どうして今の私は、目の前にいる総司様にこんなにも息苦しさを覚えてしまっているのだろう。
怖いなんて思いたくない。
私を庇ってくれた人に、そんな感情を抱くなんて嫌なのに。
総司様の瞳を見てしまった瞬間から、胸の奥に落ちた冷たい感覚だけが、どうしても消えてくれなかった。
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