7.
ディランドの大公子の言葉が耳に入ってきた直後。
気付けば僕の身体は勝手に動き、視界の端で他の客人が息を呑むのが見えた頃には、大公子の身体を石畳に叩きつけていた。
磨き上げられた軍靴が石畳を擦り、大公子の背中が地面へ打ち付けられると同時に、僕はそのまま相手の胸元へ膝を押し込んだ。
逃がさないように体重をかけながら、左手で肩を封じ、右手で首元を掴み上げる。
考えるより先に急所へ手が伸びるのは、身体に染み付いている癖のようなものだった。
「なに、すっ……」
苦しげな声が聞こえても、僕の中に浮かんだ感情は冷え切っていた。
怒鳴り散らしたいわけじゃないし、殴りつけたいわけでもない。
今の感情を表すとしたら、ただこいつを殺したい、それだけだった。
僕が一番嫌いな人間は、生まれながらに与えられた権力の上で胡座をかき、自分は何もしなくても全てを手に出来ると勘違いしている奴だ。
そういう人間に限って、必死に生きている誰かを平気で踏みつける。
何一つ自分の力で掴み取ったことがないくせに、自分を強者だと勘違いしている痛い連中だ。
このディランドの大公子も同じだった。
護られて当然。
周囲が自分のために動くのも当然。
他人に感謝することも知らず、思いやることも出来ず、それでいて自分が絶対に傷付かない側の人間だと疑ってもいない。
だからこそ、自分より弱いと思った相手を平気で傷つける。
そんな人間は、死んだ方が世のためだ。
「おい……離せっ……」
「離したらセラ嬢に謝るの?」
「……は、誰がっ……」
頭の中に蘇ったのは、さっきこいつが吐いた言葉だった。
僕の大切な子を侮辱して、傷付けて、それでもまだ自分が悪いなんて欠片も思っていない。
反省どころか、今も見下しているのは一目瞭然だった。
だったら教えてやればいい。
お前は僕にとって、ただの弱者なのだと。
僕は首元を掴んでいた右手に、静かに力を込めた。
「……っ……」
一気には締め上げない。
喉を潰さない程度に、確実に呼吸だけを奪っていく。
親指で気道の位置を押さえ、人差し指と中指で頸を支えるように圧迫すると、大公子の顔色が見る間に変わった。
これで息を吸おうとしても、空気が肺まで届かなくなる。
恐怖は、呼吸を奪われた瞬間に始まるものだ。
「……っ、は……」
大公子の瞳にようやく動揺が滲み、首元を押さえる僕の右手には奴の爪が食い込む。
僕はそれを見下ろしながら、ゆっくり視線を合わせた。
何度も人を殺めてきてわかったことがある。
それは人間は目で屈服する。
刃を向けられたからじゃない。
力の差を、本能で理解した瞬間に崩れる。
こちらが一切躊躇わず、自分の命を奪える側の存在だと目で語れば、相手は勝手に悟るんだ、自分は相手にとって弱者だということを。
それは獣と同じだった。
牙を剥いた獣は、決して怯えないし迷わない。
だからこそ相手は恐れ、屈服するしか道がなくなる。
だから僕は人を殺す時、絶対に戸惑いを見せない。
視線も逸らさないし、動揺もしない。
そうすることで、相手は理解する。
ああ、この人間は本当に自分を殺せるのだと。
その確信こそが、真の恐怖になるんだ。
「……っ……ぁ……」
大公子の呼吸が乱れ始める。
さっきまでの傲慢な態度は消え失せ、僕を見上げる瞳には、はっきりと怯えが浮かんでいた。
ようやくわかったらしい。
自分が今まで見下していた相手は、牙を持たない羊なんかじゃない。
簡単に喉元へ食らいつける側の人間だと。
「ねえ。今、君は怖い?」
静かに問いかけると、大公子の肩がびくりと震えた。
「だったら覚えておくといいよ。セラ嬢に何かしたら、僕は絶対に許さない。この言葉がどの程度本気のものか、君ならわかるよね」
次は殺す。
その言葉を、あえて口には出さなかった。
でも僕はきっと、ちゃんと目で伝えられていただろう。
だからこそ、大公子の身体は小刻みに震えていた。
それが呼吸を奪われた苦しさによるものなのか、それとも死を目前にした恐怖なのかは、僕にもわからなかったけど。
ただ一つだけ確かなのは、こいつは今、自分より上位の存在に喉元を掴まれているのだと、本能で理解しているということだった。
『総司様っ……、もうこれ以上は……!』
その声が耳に届いて、不意に意識が現実へ引き戻される。
はっとして視線を向ければ、セラ嬢が僕の腕を掴み、不安そうにこちらを見上げていた。
白い指先が微かに震えていて、その瞳には止めたいという必死さが滲んでいる。
その愛らしい顔を見てしまえば、胸の奥に張り詰めていた殺意が、すうっと冷えていった。
息の根を止められないのは残念だけど、これ以上のことをすればきっとこの子を怖がらせてしまう。
僕は小さく息を吐くと、何事もなかったみたいに口元を緩めた。
「なーんてね」
敢えて明るい声を作りながら、首元を掴んでいた手を離す。
途端に大公子は激しく息を吸い込み、そのまま数歩分ほど身体を引きずるように後退った。
喉を押さえながら荒く呼吸を繰り返し、見開かれた瞳は焦点が合っていない。
唇は小刻みに震え、こちらを見上げる瞳には隠しようもない恐怖が滲んでいた。
さっきまで浮かべていた余裕も、傲慢そうな笑みも、もうどこにも残っていない。
今、自分は死にかけたのだと理解した時の人間の顔をしていた。
「びっくりした?でも君が悪いんだよ、あんまりにもセラ嬢のことを虐めるからさ」
にこやかに笑いながらそう告げてみると、大公子の顔が引き攣る。
けれど彼はすぐには言葉を返せないようだった。
呼吸を整えることすらままならない様子で、肩を上下させながら僕を見つめている。
僕はその様子を見下ろしながら、内心で冷めた笑みを浮かべていた。
結局こういう人間は、絶対に傷付かないと信じているから、好き勝手に他人を傷付けられる。
だけど一度でも、自分の命が脅かされる側に回れば呆気なく大人しくなるものだ。
「……俺は帰る」
低く掠れた声でそれだけ言い残し、大公子は立ち上がろうとするから、僕は敢えて手を差し伸べた。
「立てる?」
大公子の身体がびくりと強張る。
まるでまた首を掴まれるとでも思ったみたいに、彼は一瞬目を見開き、それから慌てたように僕の手を避けた。
「っ……触るな……!」
僕はくすりと笑いながら、ただ静かに手を引っ込める。
その目はまるで化け物でも見るみたいに僕を映していた。
あーあ、失礼だな。
僕はただ、セラ嬢を悲しませた相手に少しお灸を据えただけなのに。
そんなことを考えながら、僕はにこりと微笑み、怯え切った大公子を静かに見下ろす。
大公子もそんな僕を警戒するように見つめながら、自力で身体を起こした。
石畳へ打ち付けられたせいで服は乱れ、呼吸も完全には整っていない。
それでも彼は何も言わず、唇を強く噛み締めたまま踵を返す。
去っていく背中は悔しそうで、でも二度とこちらを振り返ろうとはしなかった。
大公子の姿が見えなくなると、それまで遠巻きに様子を窺っていた連中が、堰を切ったみたいに一斉にこちらへ集まってきた。
先程まで怯えたように空気を張り詰めさせていた庭園が、急に華やかなざわめきに包まれる。
「今の技はなんですか?とても素晴らしかったです!」
「本当に格好良かったです。あの横暴な方を簡単に押さえ込んでしまうなんて」
「ベリアル様には皆困っていましたから、総司様がやつけてくださって胸がすっとしました」
次々とかけられる称賛の声に、僕は少し困ったように笑った。
「いえ、僕は別に何もしてませんよ。少し身体を拘束しただけなんですけど、まさかあんなに怯えられるなんて思ってなくて。ちょっと複雑だな」
そう言って肩を竦めると、ご令嬢達は顔を見合わせたあと、くすくすと楽しそうに笑った。
もちろん、実際はそんなわけがない。
どうすれば相手を屈服させられるのか、どこを押さえれば本能的に危機感を覚えるのか、僕はちゃんと理解した上で手を下した。
二度とセラ嬢へ手を伸ばそうと思えなくなるくらい、心に恐怖を刻み込むためだった。
でも、それを正直に話すほど馬鹿じゃない。
だから僕は、何も知らないみたいな顔で穏やかに笑っておく。
そうしてた方が周囲は安心するし、面倒なこともないから。
「セラ嬢、またベリアル様に絡まれてしまったのね。大丈夫だった?」
「あいつ、最近やたらセラに絡んできてたから心配してたんだ。平気か?」
「総司殿が牽制してくださって良かったですよ。お怪我はありませんか?」
今度は皆の関心がセラ嬢へ向く。
ご令嬢達が心配そうに彼女の周囲へ集まり、平助君と伊庭君も眉を顰めながら顔を覗き込んでいた。
『うん、私は大丈夫だよ。総司様が護ってくださったから』
そう言って、セラ嬢は僕に向かってふわりと微笑んだ。
……良かった。
セラ嬢はいつも通り穏やかに笑っていて、少なくとも僕を怖がってはいないようだった。
もし先程の僕を見て怖がられていたらどうしようかと、実は少しだけ不安だった。
あんな風に人を追い詰める姿なんてセラ嬢に見せたくなかったし、出来ることなら優しい僕だけを見ていてほしいと思っていたから。
でも周囲の反応を見る限り、少なくともこの場で僕を恐れている人間はいない。
皆が僕に向ける言葉は、賞賛や安堵ばかりだった。
「久しいな、総司」
低く落ち着いた声に呼ばれて振り返れば、そこに立っていたのは一君だった。
以前より背も伸び、近くで見ると顔立ちも随分大人びているのがわかる。
元々整っていた容姿が更に洗練されていて、静かな佇まいには自然と人を惹きつけるものがあった。
でも、変わっていない部分もある。
真っ直ぐで、誠実そうな瞳。
懐かしい姿を目の前に、僕は自然と口元を緩めた。
「はじめ君、久しぶり」
「あんたがアストリアに来ているとは知らなかった。また会えて嬉しく思う」
「僕もだよ。何年ぶり?五年くらい?」
「そうだな。以前会った時は儚げな印象だったが、見違えた。背も俺より高いとは」
「あはは、儚げって何さ」
確かに、一君と会った頃の僕は今よりずっと身体が弱かった。
初めてアストリアへ来たばかりで、環境の変化にも慣れていなくて、少し無理をすればすぐ熱を出していた頃だ。
あの時は、セラ嬢と二人きりになる時間が欲しくて、一君に嘘までついていたっけ。
今思えば随分子供っぽいことをしていた気もするけど、それくらい必死だった。
「元気そうで安心した。身体はもういいのか?」
「うん、もうすっかり元気だよ。喘息もなくなったしね」
「では療養のためにアストリアに来ているわけではないのだな」
その言葉と共に向けられた視線は、どこか探るような色を含んでいた。
……ああ。
やっぱり、一君は今でもセラ嬢のことが好きなんだ。
昔からそうだった。
彼は隠すのが上手いけど、セラ嬢を見る目だけは時々驚くほど優しくなる。
だからこそ僕は、敢えて微笑みながら答えた。
「うん。セラ嬢に会いに来たんだ」
そう告げると、一君の瞳が僅かに揺れた。
ほんの僅かな変化だったけど、その奥では色々な感情が動いたのだろう。
彼の瞳に動揺の色が滲んだことくらい、僕には十分わかった。
でも僕は、気付かないふりをした。
あえて何も触れずに視線を外し、ふと隣へ目を向ける。
すると何故か、セラ嬢が真顔でじっと僕のことを見つめていた。
……ん?
予想外の反応に思わず小首を傾げながら微笑み返すと、セラ嬢ははっとしたように瞬きをして、それから慌てたように僕の手へ視線を落とした。
『あ、総司様。手を怪我してます……』
「え?」
言われて初めて右手へ目を向ける。
すると、手の甲には細い引っ掻き傷がいくつも走っていて、ところどころ赤く血が滲んでいた。
さっき大公子の首を押さえていた時、苦し紛れに必死で僕の手を引き剥がそうとしていたし、その時に爪でも立てられたんだろう。
正直、この程度なら怪我のうちにも入らない。
こんな傷は放っておけばそのうち治ると考えていた時だった。
『総司様、消毒しにいきましょう?』
少し眉を下げながら僕を見上げるセラ嬢を見て、そんな考えはどうでもよくなった。
この子が心配してくれているのに、断る理由なんてない。
それにこの場所を離れれば、ようやくセラ嬢と二人きりになれる。
そう考えれば、自然と口元が緩んだ。
「ありがとう。そうしようかな」
僕の返答を聞いて、セラ嬢はほっとしたように柔らかく笑った。
その表情を見ているだけで、さっきまで胸の奥に残っていた苛立ちや殺意が嘘みたいに薄れていく。
僕は軽く皆へ別れを告げると、そのままセラ嬢と並んで歩き出した。
夕暮れの薔薇庭園には、甘い花の香りが漂っている。
色鮮やかな薔薇の間を抜けながら、隣を歩くセラ嬢の存在を感じているだけで、不思議なくらい心が穏やかだった。
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