8.
セラ嬢に連れられて向かったのは、本邸一階にある救護室だった。
普段は使用人や医師が出入りしている場所だけど、夕方だからか室内には誰もいない。
窓から差し込む夕日だけが部屋を照らしていて、白い壁も棚に並ぶ薬瓶も、淡い橙色に染まっていた。
中に入ると、セラ嬢は慣れた様子で薬棚の前へ向かい、小さなガラス瓶や布を取り出していく。
「随分と慣れてるね」
『お父様や騎士の方々がお怪我をされた時に、少しだけお手伝いしたことがあるんです』
そう言いながら振り返った彼女は、僕に「座ってください」と言って微笑む。
僕は大人しく椅子へ腰掛け、そのまま右手を差し出した。
セラ嬢は僕の前に座り、消毒液を含ませた布で傷口を優しく拭っていく。
彼女が小さな陶器の容器を開けると、辺りには優しい香草の香りが広がった。
『これは傷に効く軟膏なんです。ハーブを混ぜて作ってるんですよ』
「へえ」
セラ嬢は指先に少しだけ軟膏を取り、それを僕の手の甲へ慎重に塗ってくれる。
まるで壊れ物に触れるみたいな優しい手つきだった。
『今日はごめんなさい。折角お茶会に参加してくださったのに嫌な気持ちにさせてしまいましたよね』
「そんなことないよ。それにセラ嬢が謝る必要はないでしょ」
『でも総司様にこんな怪我までさせてしまって』
「こんな擦り傷、怪我のうちにも入らないから気にしないでってば」
それは本心だった。
この程度の傷は、気にもならない些細なものだ。
でもセラ嬢の眉はまだ悲しそうに下がったままで、その様子を見ていると少し申し訳なくなってくる。
だから僕は、ふっと表情を和らげながら言った。
「僕こそごめんね」
その言葉を聞いて、俯きがちだったセラ嬢がぱっと顔を上げた。
『どうして総司様が謝るんですか?』
「最後、あんなことになっちゃったからさ。セラ嬢を驚かせたり怖がらせたりしちゃったんじゃないかって、実は少し心配だったんだよね」
僕の言葉を聞いた彼女は瞳を揺らし、首を大きく横に振った。
『そんなこと思ってません』
「本当に?」
なんとなくそう問い返すと、セラ嬢は一度言葉に詰まり、少しだけ視線を逸らしながらぽつりと呟く。
『それは……少しだけ怖いと思いました。いつもの総司様とは違いましたし、総司様も怒る時があるんだなって思って……』
その言い方が素直で可愛らしくて、つい口元が緩む。
するとセラ嬢は、気まずそうにしながら、ちらりとこちらを見上げた。
「僕も人間だからね。たまには怒ったりもするよ」
『そうですよね。ただ……』
そう言いかけて、セラ嬢はまた瞳を揺らした。
何かを迷うように口を閉じたり開いたりしている彼女を見ながら、僕は小首を傾げる。
「どうしたの?」
そう尋ねると、彼女は静かな声で再び話し始めた。
『今日、ベリアル様は総司様にずっと失礼なことを言い続けてましたよね。ヴェルメルや騎士を軽んじる発言は勿論、総司様に対する態度もとても失礼でしたし』
「まあ、そうだね」
『でも、総司様はずっとにこにこ穏やかに対応してくださっていました。勿論、心の中では腹を立てていたとは思いますが、それを表に出していなくて、むしろベリアル様の意地悪をずっと余裕のあるご様子で受け流していて』
何が言いたいんだろう。
そう思いながら首を傾げたまま聞いていると、セラ嬢はほんのり頬を染め、小さな声で続けた。
『それなのに総司様は……私が少し意地悪を言われた途端に、あんなにも怒ってしまうのですね……?』
真っ直ぐで、飾らない聞き方だった。
それなのにどこか恐る恐るで、半分は僕に確認を取るみたいに尋ねてくるから、思わず笑ってしまう僕がいた。
「あはは、真剣な顔で何を言うのかと思えば」
『だ、だって……あの後よく考えたら、そういうことなのかなって気になって』
「そんなにさっきのことについて考えてたの?」
『はい、一応……』
だから薔薇庭園で、僕の顔をあんなに真顔でじっと見ていたのか。
妙に納得してしまって、また笑いそうになる。
でもセラ嬢はふざけているわけではなく、本気で答えを知りたがっているらしい。
膝の上に置かれた僕の右手へ視線を落としたまま、どこか落ち着かない様子で指先をもじもじと動かしている。
「それは当たり前だよ。僕のことは別に何を言われたって然程気にならないし、聞き流せるけどさ。君のことをよく知りもしないで好き勝手言われるのは、許せないじゃない。少しくらいは、罰したくもなるでしょ?」
僕の答えを聞いて、セラ嬢は少し潤んだ綺麗な瞳で真っ直ぐ僕を見つめてくれる。
聞きたかった言葉が聞けて安堵しているような、でもそれだけじゃなく、どこか嬉しさまで滲んでいるような表情だった。
『そう……だったのですね。総司様が私のことをそこまで気にかけてくれるのは嬉しくて。でも複雑でもあります』
「え?なんで複雑なの?」
『私が総司様のように強ければ、総司様の手を煩わせることもなかったのかなって』
「いや、あれは僕が好きでしたことだからセラ嬢が気にすることじゃないでしょ」
『でも、私だって総司様を傷付けるものはどんなものだって撃退したいです。だからもっと強くなりたいのに、先程ベリアル様にいつも守られてる側にいるくせにって言われた時、言い返せませんでした。本当にその通りだなって思って……。私は何かあるたびに、総司様に護って頂くばかりでは嫌なんです』
そう言ってセラ嬢は、悔しそうに唇をきゅっと結んだ。
この子は良くも悪くも真面目で、相手の言葉を全て真正面から受け止めてしまうことがある。
本来ならあんな男の言葉をまともに気にする必要なんてないのに、彼女の心の中には根深く残っているようだった。
「だいぶ前だけどさ、僕が手紙で友人のことを相談したことがあったよね」
『はい。お兄様方から一方的にいじめられてしまってるというご友人のことですよね』
「そう。あれ、今だから話すけど実は僕のことだったんだよね」
『え……?』
セラ嬢は考えてもみなかったという顔で、目を零れそうなくらい大きく見開いた。
けれど次の瞬間には、その瞳がみるみる涙で潤んでいく。
『そんな、酷いです……!だって総司様、あの頃はまだお身体も万全じゃなかったのに。それなのに木剣で一方的に叩かれて、痣だらけにされていたのですか?』
「まあ、当時はね。でも……」
『本当は、一度ヴェルメルへ訪問させて頂いた時に、おかしいとは思っていたんです。お兄様方は皆、総司様に対して冷たくて、意地悪なことばかり仰っていたので、どうしてなんだろうって。でもまさかそんな酷いことをなさっていたなんて……!』
いつの間にかセラ嬢は椅子から立ち上がっていて、珍しく感情を露わにして怒っていた。
でも、その瞳には今にも零れそうなくらい涙が溜まっていて、僕と目が合った瞬間、それは苦しそうに細められる。
自分のことみたいに怒って、自分のことみたいに傷付いてくれる。
セラ嬢は本当に優しい子だ。
「そんな顔しないでよ。今は僕も大きくなったし、むしろ兄達より強くなれたんだ。だからもう虐められてないから大丈夫だよ」
『ですが……』
「ほら、座って」
小さな手をそっと取って椅子へ促すと、セラ嬢は素直に座り直しながらも、ぽつりと呟いた。
『総司様がお辛い時、私は何も気付くことができなくて……ごめんなさい』
思えば、セラ嬢は手紙で何度も僕の体調を気遣ってくれていた。
困ったことはありませんか、無理をしていませんか、って。
私はいつも総司様の味方です、そう書かれた手紙がどれだけ嬉しかったか。
誰にも必要とされていないと半ば諦めかけていたあの頃、彼女の言葉だけが何度も僕を救ってくれた。
「謝らないで。僕はあの頃、セラ嬢からの手紙に救われてたんだよ」
彼女の手の上へ自分の手を重ね、そっと力を込める。
するとセラ嬢の瞳が大きく揺れて、僕を真っ直ぐ見つめた。
「手紙で書いてくれたよね。強さは単純に剣の腕が立つとか、誰かに勝てることだけじゃないって。あの頃の僕はずっと、弱い自分が悪いんだって思ってたからさ。毎日逃げずに戦ってるそのご友人は弱くないって君が言ってくれて、凄く気持ちが楽になったんだ」
あの頃の僕は、剣の強さしか価値がないと思っていた。
強くなければ誰にも認めてもらえないし、生き残れない。
だからこそ必死になって強くなることだけを考えていた。
今だって勿論、強さは必要だと思ってるし、セラ嬢を護れるくらい強くなるため、剣も体術も磨き続けたい。
でも、この世の強さはそれだけではないことを知ったし、僕にはない強さをこの子はちゃんと持っている。
それを伝えたくて、僕はもう一度口を開いた。
「さっきセラ嬢は、自分が僕みたいに強ければって言ってたけど、そんな必要はないと思うよ。だって人それぞれ、持ってる強さって違うから」
僕はたまたま、それが剣だった。
身体が大きくなって、体格にも恵まれたから、今は体術や腕力でも押さえ込めるようになった。
でもそれは、自分の強みがそこだと理解して磨いてきたからだ。
「セラ嬢の強さは、その心じゃないかな」
『心?』
セラ嬢は不思議そうに瞬きをした。
僕は彼女の手を包んだまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「セラ嬢って、自分では気付いてないみたいだけど、凄く真っ直ぐなんだよね。誰かに流されるんじゃなくて、自分でちゃんと考えて、いいことはいい、悪いことは悪いって言える。相手が誰であってもそれを曲げないでいられるのって、実はかなり強くないと出来ないことだと思うんだ」
ベリアルみたいな立場の相手に、屈しなかった姿を思い出す。
普通なら、ただ愛想笑いをしてやり過ごそうとするだろう。
波風を立てないように、自分を押し殺す人間の方が多いのが一般的な貴族社会だ。
でもセラ嬢は違う。
怖くても、傷付いても、自分の中の考えを誤魔化さない。
それは剣の強さとは別の意味で、とても強いことだ。
「それにセラ嬢は、人の痛みに気付けるでしょ。誰かが無理してたら心配するし、苦しそうにしてたら放っておけない。そういう優しさって皆が持ってるわけじゃないんだよ」
実際、昔の僕は病弱な上、何も誇れるものがなかったから、周りの人達には散々冷たく扱われてきた。
でもセラ嬢だけは、僕が何を出来るかじゃなくて、僕自身をちゃんと見つめてくれた。
そのままで素敵ですと言ってくれた。
だから今の僕がいるし、僕は君が好きになった。
僕がここまで強くなりたいと思えたのも、全部この子がいたからだ。
「僕は剣やこの力で誰かを護ることは出来るかもしれないけど、君は君にしか出来ないやり方で人のことを救ってる。少なくとも僕は、何度もセラ嬢に助けられてきたよ」
そう告げると、セラ嬢の瞳が大きく揺れた。
「つまり僕が言いたいのはね、セラ嬢は君が思ってるよりずっと強いってこと。僕は剣があるから前に立てるけど、君は君で自分の優しさや信念をちゃんと貫ける心の強さを持ってる。だから僕は、セラ嬢が弱いなんて一度も思ったことないし、護られてるのは君だけじゃなくて僕も同じだってこと、忘れないで」
そう告げると、セラ嬢の睫毛が震える。
それから彼女は俯きがちに唇をきゅっと結んで、少し潤んだ声で小さく呟いた。
『総司様……ありがとうございます』
愛らしいセラ嬢の震えた声が聞こえる。
今にも涙が零れそうな瞳も、必死に泣くのを堪えている表情も、全部が可愛くて仕方ない。
そんなセラ嬢の泣き顔に釘付けになっていると、不意に背後から予想もしていなかった別の声が聞こえてきた。
「……うっ……」
驚いたのは僕だけじゃなかったらしい。
セラ嬢もぴたりと動きを止め、弾かれたように声のした方向を振り返る。
僕達は一度無言で顔を見合わせた。
……今の、絶対誰かいたよね。
そんな意思確認みたいにお互い頷き合ったあと、僕は静かに立ち上がる。
そして室内の奥、簡易ベッドを仕切っているカーテンへ近付くと、そのまま勢い良く開いた。
すると……
「……うう、なんと……素晴らしい……」
「え?公爵閣下?」
『お父様……?』
そこにいたのは、ベッドへ腰掛けたまま感極まった様子で涙を流している近藤公爵だった。
予想外過ぎる人物の登場に思わず固まっていると、公爵は慌てたように近くのティッシュで鼻をかみ、どこか気まずそうにこちらを見る。
「いや、すまないな。盗み聞きするつもりではなかったのだ。いつ声をかけようかと思っていたのだが、なかなかかけづらくてな」
『お父様、どうしてこちらに?お怪我でもされたのですか?』
「いや、腰が痛くてな。腰痛に効くハーブを山崎君に塗ってもらっていたんだが、気付いたらそのまま寝てしまっていたらしい」
そう言って近藤公爵は少し照れくさそうに頬を掻く。
公爵は普段から騎士団や領地のことで忙しく動き回っているようだし、最近は特に公務が立て込んでいると聞いていた。
疲労が溜まっていたのだろう。
僕はそんな彼へ小さく微笑みながら口を開いた。
「お疲れのところ、起こしてしまったのなら申し訳ありません。ですが、公爵閣下は日頃からずっとお忙しくされてますし、少しでもお休みになれたなら良かったです」
そう声を掛けると、近藤公爵は一瞬きょとんとしたあと、ふっと目元を和らげた。
「相変わらず気遣いの出来る青年だな、総司殿は」
『お父様、最近ずっと遅くまでお仕事をなさってましたものね。腰、お大事になさってください』
「ううむ……年齢には勝てんな。最近は書類仕事が多くてな。座っている時間が長いせいか、山南君にも少し休めと言われてしまった」
そう言いながら苦笑する近藤公爵に、セラ嬢は本気で心配そうな顔をしている。
「それならちゃんと休んでくださいね。セラ嬢も心配してるみたいですし」
「はは、そうだな」
公爵は穏やかに笑ったあと、不意に僕をじっと見つめた。
その視線に何だろうと思っていると、彼はしみじみした声で言う。
「しかし総司殿。君は本当に素晴らしい青年になったな」
「え?」
突然そんなことを言われるとは思っていなくて、思わず間の抜けた声が漏れた。
近藤公爵はそんな僕を見て、どこか嬉しそうに目を細める。
「昔から優しい子ではあったが、今は芯の強さもある。先程の話を聞いていても、君がどれほどセラを大切に思ってくれているのかよくわかった」
あの会話を全部聞かれていたと思うと、今更少し気恥ずかしい気分になる。
隣を見ると、セラ嬢も同じように顔を赤くしていて、恥ずかしそうに視線を彷徨わせていた。
「照れなくてもいいではないか。親としてはな、自分の娘の良さをきちんと理解してくれる青年がいるというのは、本当に嬉しいものなんだぞ」
『お、お父様……』
「総司殿のように、この子をちゃんと見てくれる人が傍にいてくれるのは安心出来る。それにセラは総司殿の前では特に表情が柔らかい。君といると安心するのだろうな」
セラ嬢の父親であるこの人から、温かい言葉を向けてもらえることが嬉しくて、胸の奥が熱くなる。
隣を見ると、セラ嬢は恥ずかしそうに頬を染めながらも、嬉しそうに微笑んでいた。
「せっかくだから今夜はアンナ夫人にも声を掛けて、皆で夕食を取るとしよう。総司殿、君さえ良ければ付き合ってくれるか?」
思いがけない誘いに少し目を瞬かせる。
でも次の瞬間には自然と口元が緩んでいた。
「はい。ご一緒させて頂けるなら嬉しいです」
「そうか、それは良かった」
近藤公爵は満足そうに頷き、セラ嬢もほっとしたように僕を見上げる。
夕日が差し込む救護室には、穏やかで温かな空気が流れていた。
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