9.
その日の夕食の席で、近藤公爵は僕とセラ嬢の婚約を正式なものとして進めたいと提案してくれた。
以前から両家の間では将来的な婚約の話自体は出ていたけど、それはあくまで内々の約束のようなもので、正式な契約として結ばれていたわけではない。
でも今回、近藤公爵は改めてヴェルメルに書簡を送り、僕の父であるヴェルメル大公閣下にも正式な承認を得た上で、婚約の手続きを進めたいと仰ってくださった。
アストリアは独立国家とはいえ、軍事と外交はルヴァン王国の管轄下にある。
だから公爵家同士の正式な婚姻となれば、最終的にはルヴァン国王陛下への届け出と許可も必要になるらしい。
つまりそれは、もう子供同士の口約束ではない。
家同士が正式に結び付きを認め、国にも認可される、本当の意味での婚約だ。
その話を聞いた時、胸が熱くなった。
なぜなら、ずっと願ってきた未来だった。
幼い頃から何度も夢見て、それでも立場や自分の身体のことを思えば、心のどこかでいつか諦めなければならない日がくるのではないかと不安に思っていた未来。
それが今、五年の月日を経てようやく現実になろうとしている。
向かいでは近藤公爵とユフィ夫人、そして母までもがとても嬉しそうに微笑んでいた。
そして何より、その時のセラ嬢の顔が忘れられない。
驚いたみたいに瞳を揺らしたあと、少しずつ頬を赤く染めて、それはもう嬉しそうに微笑んでくれた。
その笑顔を見た時、胸の奥が締め付けられるくらい幸せで、この子を絶対に幸せにしようと心に誓った。
そしてその後、僕はセラ嬢の案内で初めて邸宅の三階へと足を踏み入れた。
このフロアには彼女の部屋があり、その奥には星空が綺麗に見えるバルコニーがあるらしい。
以前から僕と一緒に見たいと話していたセラ嬢の願いを聞き入れた公爵閣下が、今夜だけ特別に許可をくれた。
そのおかげで、今こうして二人きりで廊下を歩いている。
『総司様、早く早く』
セラ嬢はまるで出会ったばかりの頃みたいにはしゃいでいて、その姿が微笑ましくて仕方ない。
僕の手を引く細い指先からも、彼女の浮き立つような気持ちが伝わってくる気がした。
「ははっ、待ってよ。急がなくても星は逃げないでしょ?」
『わかりませんよ。たまたま流れ星が流れていってしまうかもしれないですし』
「んー、でも僕、今ちょっと足が重くてね」
わざとそんなことを言って歩みを遅くすると、セラ嬢は「もう」と困ったように笑いながら、今度は両手で僕の手を掴んでぐいぐい引っ張った。
『早くー』
どうにかして僕を動かそうと必死になっている姿があまりにも可愛らしくて、堪えきれず小さく笑ってしまう。
「わかったってば。ちゃんと歩くからそんなに引っ張らないでよ」
再び普通の速度で歩き始めると、セラ嬢はぱっと花が咲くみたいに嬉しそうに微笑んだ。
『この廊下の突き当たりが入り口ですよ』
僕の手を引きながら前を歩く、小さな背中。
護りたいと思う反面、僕はずっとこの背中を追いかけてきた気がする。
どうにかして追いつきたくて、君の隣に並びたくて、そのためならどんな努力だって出来ると思えた。
身体が弱かった時も、苦しかった時も、僕が前を向けたのは全部セラ嬢がいたからだ。
そして今夜。
ようやく僕は、君の隣に立つ資格を得られた。
正式に婚約が決まり、これから先の未来を共に歩いていける。
そう思えば再び胸の奥が熱くなって、込み上げる喜びに自然と笑みが零れる。
僕はその感情のまま、急ぎ足で歩くセラ嬢を追い越した。
『あっ……』
「ほら、早く。置いてくよ」
そう言いながらも、繋いだ手は離さない。
僕が走り出すと、セラ嬢も楽しそうに笑って、僕のすぐ後ろを駆け出した。
「あ、お二人とも。廊下は走ってはいけませんよ……!」
突然後ろから飛んできた声に、僕達は同時に肩を揺らす。
振り返れば、部屋から出てきた山崎卿が驚いた顔でこちらを見ていた。
『あ、ごめんなさい!』
「ごめんなさい、山崎卿!」
謝りながらも、一度走り出した足は止まらない。
後ろからは再び注意する声が聞こえてきたけど、僕達は顔を見合わせて笑ってしまった。
そのまま廊下の突き当たりまで辿り着き、セラ嬢が勢いよくバルコニーの扉を開く。
冷たい夜風が吹き込んできて、月明かりが床へ零れ落ちた。
『仕上げにここを、かちゃり』
バルコニーへ出るなり、セラ嬢はそんなことを呟きながら扉の鍵を閉めている。
その様子がまるで悪戯を思いついた子供みたいで、思わず笑ってしまった。
そして鍵を閉め終えたセラ嬢は、振り返って僕を見上げる。
その顔には、隠しきれないくらい嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「ははっ、僕を閉じ込める気?」
『そうですよ。今夜は総司様を捕まえましたから』
「へえ、怖いお嬢様だな」
『逃げようとしても無駄ですよ。総司様はもう私のものですからね』
そう言って得意げに笑うものだから、僕までつられて笑ってしまう。
夜風は冷たいけど、心は不思議なくらい温かかった。
二人並んで手摺りにもたれ、揃って空を見上げる。
アストリアの夜空は本当に綺麗だ。
澄み切った空いっぱいに星が散らばっていて、まるで宝石を敷き詰めたみたいに輝いている。
その光を見上げるセラ嬢の横顔も、負けないくらい綺麗だった。
冬の冷えた空気に触れるたび、小さな唇から白い息が零れていく。
月明かりに照らされた睫毛も、柔らかく揺れる髪もあまりにも綺麗で、気付けば僕は星より彼女ばかり見ていた。
すると不意に、セラ嬢がぱっとこちらを振り向く。
『私、よくここで祈っていました。早く総司様と婚約できますように、総司様のお嫁さんになれますようにって』
屈託なく笑いながら、そんなことを言う。
胸の奥が締め付けられるくらい愛おしくて、照れくさくもなった。
でもそれと同時に、僕も伝えたくなる。
僕もヴェルメルの星空を見上げながら、毎晩彼女のことを考えてきたからだ。
「僕も毎日考えてたよ。君と婚約できる日を夢見てたし、君との結婚生活を想像したこともあったしね」
何度も想像した。
朝起きた時に隣で君が笑っていて、一緒に食事をして、くだらないことで笑い合って、疲れて帰った夜には「おかえり」と迎えてくれる。
そんな穏やかで、ありふれていて、でも僕にとっては何より欲しかった未来を、僕は何度も夢見てきた。
そしてどんな未来を思い描いても、僕の隣でセラ嬢は幸せそうに笑っていた。
だから現実でも、君をちゃんと笑顔に出来る人でいたいと思う。
君がこの先どんな時も、不安より先に安心を感じて、何も恐れず僕の隣にいてくれるような相手になりたい。
そんなことを考えていると、セラ嬢が目を潤ませながら、小さく笑った。
『ようやく叶って、今すごく嬉しくて。でも嬉し過ぎて、実感が湧かないくらいです』
声が少し震えている。
泣きそうなのに懸命に笑おうとしている顔がとても可愛くて。
きっと僕は、今夜の喜びも、星の輝きも、夜風の匂いも、セラ嬢の綺麗な微笑みも、一生忘れられないだろうと思った。
嬉しいはずなのに、どこか苦しくなるほど満たされていて、長い間ずっと欲しかったものがようやくこの手に届いたのだと、遅れて実感が押し寄せてきていた。
僕はセラ嬢の手を引き寄せると、彼女をこちらへ向かせ、そのまま真正面に立った。
夜風に揺れる髪の隙間から見える瞳が、少し不思議そうに僕を見上げている。
その顔を見て、幼い頃の記憶がふと脳裏を掠めた。
まだ今よりずっと小さかった僕たちが、庭で絵本を片手に結婚式ごっこをしていた日のこと。
花嫁役のセラ嬢が陽の光の下で嬉しそうに笑っていて、僕は照れくさい気持ちを誤魔化しながら、絵本の台詞を一生懸命読み上げていた。
あの頃は、こんな未来が本当に来るなんて思っていなかった。
けれど気付けば、あの日の気持ちは子供の憧れなんかじゃなく、何年も胸の奥で大きくなり続けていた。
「セラ嬢。僕はあなたと一緒にいる時間がとても大切です。あなたが笑っていると僕も嬉しくなります。困っているときはそばにいたいと思います。これからもあなたを大切にします、ずっと」
これは誓いなのだと思う。
ただ好きだと伝えるだけじゃなく、この先の人生を懸けて護りたいと願う気持ちそのものだった。
セラ嬢は一度だけ目を丸くしたあと、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
『私も総司さまと一緒にいられることが、とても幸せです。総司さまはいつもお優しくて、私のことをちゃんと見てくださいます。ですから私も総司さまを大切にいたします。これからも、ずっと』
思わず小さく笑ってしまった。
僕と同じで、セラ嬢もあの本の台詞を今でも覚えている。
きっと彼女は忘れていると思っていたのに、こうして同じ言葉を大事に胸へ残していてくれたことが嬉しかった。
「覚えてたんだ」
そう呟けば、セラ嬢は少し恥ずかしそうに視線を伏せながら、小さく頷く。
『総司さまも、ちゃんと覚えていらしたのですね』
「忘れるわけないでしょ。だってあの頃から、僕は君のお婿さんになる気だったし」
冗談めかして言ったつもりだったのに、セラ嬢は一瞬で顔を赤くしてしまう。
その反応が可愛くて、僕は堪えきれずに笑った。
あの結婚式ごっこをした後、絵本の真似をする勇気はなくて、結局僕は彼女の額へ軽く口付けただけで終わった。
触れた瞬間、自分でも驚くくらい心臓が跳ねて、それ以上何も出来なかったことを今でも覚えている。
けれど今、目の前にいるセラ嬢は、まるで何かを強請るみたいに真っ直ぐ僕を見上げていた。
月明かりを映した瞳があまりにも綺麗で、その奥に映る自分を見ているうちに、理性が少しずつ揺らいでいく。
触れたい。
額じゃなく、もっと近くに。
そう考えてしまう素直な感情に気づいてしまえば、鼓動が急に速くなるのがわかった。
僕はそっと彼女の頬へ手を添える。
するとセラ嬢は逃げることはなく、ただ静かに僕を見つめ返してきた。
「セラ嬢」
名前を呼ぶ声が、甘く掠れていた。
彼女の睫毛が不安そうに揺れる。
だけどその瞳は、僕を受け入れてくれていた。
だから僕は、ゆっくりと距離を縮めていく。
夜風の音さえ遠くなるほど静かな時間の中で、彼女の吐息が触れそうなほど近付くと、セラ嬢は恥ずかしそうに目を閉じた。
僕はどうしようもなく愛しい気持ちを抱えたまま、そっと彼女へ口付けた。
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