1.

ヴェルメルへ戻って数日後、帝国から正式な書簡が届いた。
アストリア家とヴェルメル家の連名で提出されていた婚約契約書が、帝国貴族院に正式受理されたという知らせだった。
簡素な文面だったけど、僕にとっては何より重い意味を持っている。
セラ嬢との未来が正式に帝国へ認められたという事実だけで、胸の奥が満たされるようだった。

けれど、父から与えられる役目は以前よりさらに厳しくなっていった。
日中は騎士団で剣を振り、隊列指揮や実戦訓練を叩き込まれる。
そして夜になると、父に同行して帝国の裏側の仕事を学ばされた。
帝国へ反旗を翻した貴族の私兵討伐や、国境付近で略奪を繰り返す武装集団の掃討。
帝国騎士を殺害した犯罪者の捕縛。
時には、生け捕りでは終わらない任務もある。
逃亡した罪人を路地裏へ追い詰め、抵抗された瞬間に迷わず斬り伏せることもあった。
地下牢で行われる処刑執行を任される日も珍しくはなく、父は僕を休ませることなく次の任務へ連れて行った。

そんな日々を送っていたある日の午後、使用人が来客を告げに来た。


「ローゼンガルド家の千嬢がお見えです」


北方遠征や東部滞在が続いていたせいで、彼女と会うのは三ヶ月ぶりだった。
月に一度とは言え、頻繁に顔を合わせていることもあり、周囲が勝手に縁談めいた噂を立てていることもある。
もちろん、僕たちには最初からそんなつもりはなかったけど、前回彼女から持ちかけられた縁談話。
それとなく断ってはみたものの、今の時期に会うのは少し厄介だった。
セラ嬢との婚約は、まだ公式には発表していないからだ。

正式な認可は既に済んでいるとはいえ、社交界への公表だけは両家の意向の下、意図的に控えられている。
なぜならアストリア公爵家もヴェルメル大公家も、有力な軍事貴族。
そんな両家が婚姻で結び付けば、周辺諸国や帝国内の貴族達が余計な警戒をする可能性がある。
下手に刺激すれば無用な憶測や牽制を招きかねないという理由もあり、発表の時期は慎重に見極められていた。

それになにより、セラ嬢を余計な視線に晒したくない。
あの子の笑顔を守るためにも、今は僕達の関係を北部の貴族達には知られたくなかった。
だからこそ少し重い足取りで千嬢のところへ向かうと、彼女はテラス席でいつもの如く、にこやかに手を振っている。
先日のセラ嬢との日々を思い出せば、千嬢とこうして会うのは今日限りにしたいと考えていた。


「久しぶりね」

「うん、久しぶり」

「北方遠征お疲れ様。無事に戻ってきてくれて良かったわ」


別に千嬢のことが嫌いなわけじゃない。
互いにとって都合が良かったから始まった関係だとは言え、二年半近く、彼女とはこうして顔を合わせてきた。
口数の多い彼女とはそれなりに会話もしたし、それとなく互いのことも理解し合っていた。

だから僕が他人に対して然程興味を抱けないことも、本質的に冷めた人間だということも、彼女はとっくにわかっている。
ただ一つ、故意的に伝えていないのはアストリアにいるセラ嬢のことだけだった。


「だから言ったでしょ。僕は平気だって」

「でも心配してたの。無事に戻ってきたなら、手紙くらい寄越しなさいよね」


もし彼女に全てを話したら、いつもの如く微笑んで軽口で返してくるんだろうか。
それとも、そんな大事なことはもっと早くに言えと怒られるのかな。
うまく想像は出来なくて、千嬢の顔をじっと見つめる。
すると彼女は目を瞬いてから、珍しく視線を逸らして紅茶に口をつけた。


「なに?私の顔に何かついてる?」

「うん。目とか鼻とか口とかね」

「当たり前のことを言わないで。そういうの、つまらないわ」

「相変わらず手厳しいね」


なんとなく伝え難くて、どうでもいい言葉が並べられていく。
それでも僕を見上げるセラ嬢の顔を思い出せば、迷うことなく口を開いていた。


「この前話してた件だけど」

「この前?」

「君のご両親が言ってた話。僕達の婚約について」


彼女の表情からほんの少しだけ笑みが消えた。
けれどすぐに取り繕うように微笑み直し、静かにカップを置く。


「ええ。それがどうかしたの?」

「あれから、僕の返事は伝えてくれたんだよね?」

「伝えたわ。でも父も母も諦める気はないみたい。だって私は今、総司様としかこうして会っていないし、それに家としてもあなた以上の相手はいないもの」


そう言って笑ったあと、彼女はふっと視線を落とした。


「それに母は、早く私を家から出したいの」

「前にもそんなこと言ってたけど、仲良くないの?」

「仲が良いわけないわ。今の母は後妻だから、本当の娘じゃない私なんて邪魔なのよ。父も腹違いの弟と妹ばかり可愛がるし、私は家のために都合良く嫁がされる道具でしかないの。だから相手があなたなら、父にとっても願ったり叶ったりなんでしょうね」


千嬢はそう言って肩を竦め、小さく笑ってみせた。
けれどその笑みはあまりにも軽くて、むしろ長い時間をかけて諦めることに慣れてしまった人の顔に見えた。
本当は傷ついていないわけじゃないんだろう。
ただ期待を持てばその分だけ痛い思いをすることを知ってしまっているから、最初から何も望まないようにしているだけだ。
そういうところは少しだけ、以前の僕と似ている気がした。

だからこそ、そのあとに続ける言葉が言い難かった。
彼女が悪いわけじゃないから余計に。
むしろ千嬢は最初から、互いの距離感を間違えずにいてくれた。
僕達は気の合うふりをしながらも、本気で踏み込むことだけはしなかったし、それが出来ていたからこそ、この関係は二年半も続いていたんだと思う。
それでも、もう終わらせないといけない。
セラ嬢の顔を思い出すたび、中途半端なまま誰かの隣にいる自分が、どうしようもなく嫌になってしまった。
僕は小さく息を吐いてから、静かに口を開いた。


「その話を聞いたあとで言うの、かなり感じ悪いと思うんだけどさ」

「なによ、急に改まって」

「千嬢とこうして会うの、今日で最後にしたいんだ」


そう告げると、空気が僅かに止まった気がした。
千嬢はすぐには何も言わずに、真っ直ぐ僕を見つめている。
彼女にしては珍しく、その瞳が少しだけ揺れていた。


「理由を聞いてもいい?」

「僕達って、元々は互いに面倒な縁談を避けるために会ってたわけでしょ。勝手に将来を決められるのが嫌だったから、それなら適当に周囲を誤魔化そうってことで手を組んでた。でも最近は、君との縁談の話が思ったより具体的になってきてるよね」


僕はそこで一度言葉を切り、紅茶へ視線を落とした。


「このまま会い続けてたら、周囲は僕達がそのつもりなんだって勘違いするだろうし、そうなったあとで断る方がもっと面倒になると思ったんだ」

「それなら大丈夫よ。両親には総司様の現状も伝えてあるし、私も急かされたくないって言ってあるもの」

「うん。でも、それだけじゃなくてさ」


千嬢が不思議そうに眉を寄せる。
僕はほんの少しだけ迷ってから、静かに続けた。


「父に話したんだ。北方遠征で結果を出せたら、自分の将来くらい自分で決めたいって」

「……え?」

「もちろん簡単な条件じゃなかったよ。でも、そのために遠征へ行った部分もあったから」


ただ功績が欲しかったわけじゃない。
自分の人生を、自分の意思で選び取れる立場が欲しかった。
誰かに決められるんじゃなく、自分で決めたかった。
セラ嬢の隣に立つために。


「成果はちゃんと持ち帰ってきたよ。だからこれからは前みたいに無理やり縁談を押し付けられることもなくなると思う。周囲を誤魔化すために、君と会い続ける必要もなくなったんだ」


全てを話すことは出来ないけど、今伝えたことは嘘ではない。
はっきりと告げると、千嬢はしばらく黙ったまま、テーブルの上に置いた指先をぼんやり見つめていた。
やがて彼女は小さく息を吐き、どこか困ったように笑う。


「……そういう事情なら、わかったわ。元々、利害関係が一致していたから会っていただけだもの。私に総司様を引き止める権利なんてないものね。折角仲良くなれたと思ってたから、残念だけど」


その言い方はいつも通り軽かった。
けれど最後だけ少し声が掠れて聞こえた気がした。


「ごめん」


僕は基本的に、誰かに対して罪悪感を抱くことが少ない。
冷たいと言われれば否定は出来ないし、他人の感情に深く寄り添える人間でもないと思う。
だから今こうして謝っているのも、千嬢を想ってのことじゃない。
ただ、長く関わってきた相手に対して、最後くらいは多少誠実でいた方がいいのかなと思っただけだ。
すると千嬢は一瞬だけ目を丸くしたあと、呆れたみたいに小さく笑う。


「なにそれ。総司様が謝るなんて気持ち悪いわ」

「ひどいな」

「だってあなた、滅多に謝らないじゃない」

「まあ、それは否定しないけど」

「謝るくらいなら撤回してよ。だって……」


そこまで言いかけて、千嬢は珍しく言葉を詰まらせて、少し迷うような素振りで再び口を開いた。


「私達、仲良くやれてたでしょ?婚約とかそんな話はどうでもいいから、友人として会うくらいなら問題ないと思うわ。それに……」

「もう決めたことなんだ」


僕は静かに言葉を遮った。
これ以上話を長引かせるつもりはなかった。
千嬢が何を言いたいのかも、なんとなくわかってしまっていたし、それに応える気もなかった。


「僕は少しでも早く強くなりたい。そのために、これからは時間を無駄にしたくないんだよ」

「……それってつまり、私とこうしてる時間は無駄ってこと?」

「そういうわけじゃないけどね。ただ、今の僕にとって優先順位は高くないかな」


我ながらひどい言い方だと思った。
でも変に期待を持たせるよりは、その方がいい。
千嬢はしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。


「ほんと、容赦ないわね」

「君だって僕に情で付き合ってたわけじゃないでしょ」

「そうだけど、普通もう少し言い方ってものがあるじゃない」

「僕、そういうの苦手なんだよね。君だってお世辞とか嫌いでしょ?」

「それはそうだけど、それにしたってあんまりよ」


呆れたように返される。
けれど彼女は怒ったりはしなかった。
ただ、どこか諦めたみたいな少し寂しそうな顔で僕を見ている。


「そもそも、君がそんなに拒む理由がわからないな。縁談が嫌なら、また適当に利害関係が一致する相手を探せばいいじゃない」

「あなたみたいな人、そう簡単にいてたまるものですか」

「それ、褒めてくれてるの?」

「全然」


即答されて、僕は少しだけ苦笑する。
すると千嬢は眉を寄せたまま、じとっとした目でこちらを見た。


「言っておくけど、あなたみたいな冷たい人、きっと一生結婚できないわよ」

「はい?」

「奇跡的にうまく騙せて結婚出来たとしても、直ぐに愛想尽かされて離婚されるか、他に愛人でも作られちゃうのがオチね」

「…………」

「女の子に酷い言い方して平気な顔してるし、自分がどれだけ感じ悪いかわかってないし、本当に最低」

「そこまで言う?」

「言うわよ。それで最後なんだから、言いたいことくらい言わせて貰わないと」


千嬢はぴしゃりと言い切ったあと、ふっと視線を逸らした。


「……総司様って、本当に残酷ね。でも、そういうところ含めて総司様なんでしょうね」


正直、千嬢が少なからず傷ついていることは理解してるし、申し訳ないとは思う。
でも、ただ、それだけだ。
それ以上の感情は湧かなかった。

セラ嬢が悲しそうな顔をした時みたいに胸が苦しくなることも、追いかけたくなる衝動もない。
その違いが、自分でも少し嫌になるくらいにははっきりしていた。


千嬢はしばらく僕を見つめていたけど、やがて観念したように小さく笑う。


「まあいいわ。無理に縋っても惨めになるだけだもの」


そう言って彼女はゆっくり立ち上がる。
揺れる髪を手で払いながら鞄を持った。


「送ろうか?」

「いらない。今のあなたとこれ以上一緒にいたら、もっと腹が立ってあなたを引っ叩きそう」

「それは困るな」

「全然困ってなさそうだけど」


千嬢はそんな僕を見て、最後に小さく息を吐く。
そしてテラスを出ようとして、不意に立ち止まり、勢いよく振り返った。


「もし将来、相手がいなくなって困ったら連絡して」

「……え?」


思わず目を瞬かせる。
すると千嬢はむっとしたまま、強気に言い放った。


「私がもらってあげてもいいわ」


あまりにも予想外な言葉に、返事が遅れた。
千嬢はそんな僕を見て、少しだけ悔しそうに眉を寄せる。


「そのかわり、その時は私を誰よりも優先してくれないとだめだからね」


無理難題だと思った。
だって僕はセラ嬢以外を特別に想うことなんて一生ない。
だから返事はしなかった。
千嬢もそれをわかっていたんだろう。
数秒だけ僕を睨むみたいに見つめたあと、ふっと諦めたように笑った。


「さようなら、総司様」


そのまま彼女はテラスを出ていく。
午後の日差しの中へ溶ける背中を見送りながら、僕は静かに紅茶へ口をつけた。

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