6.
それはもう、遠い昔の幼いの頃の記憶。
眠る前に乳母が絵本を読んでくれるのが、あの頃の僕にとって唯一の楽しみだった。
広い寝室のカーテン越しに月の光がさしこみ、天蓋つきの寝台の中で、僕は毛布にくるまりながら耳を澄ませる。
僕が初めてこの絵本に出会った、とある夜のことだった。
――
夜空にきらきら光る大きな月がありました。
その月のお城には、とてもかわいらしい月の王女さまが、やさしいお父さまとお母さまと一緒に暮らしていたのです。
王女さまには星空の神さまから授けられた、ふしぎな力がありました。
人からもらったやさしい気持ちを、小さな月の欠片にかえて胸にためていける力でした。
その月の欠片は夜空に光る星や月とはちがって、手のひらにのせられるくらい小さな光でした。
けれど、その月の欠片をわけてあげると、元気のない人や悲しい気持ちの人、病気や怪我をしている人が、たちまち笑顔になれるのでした。
月の王女さまは、出会った人が困っていると、自分の月の欠片をわけあたえる、とてもやさしい人だったのです。
――
乳母の声を聞きながら、僕は挿絵の王女さまの姿を眺めていた。
両手で小さな月の欠片をすくいあげるようにして、そっと誰かに差し出す姿。
その光景はなぜか胸の奥をくすぐって、優しい笑顔が心に残った。
――
けれど、あるとき月の国で大きな戦が起こりました。
「お城の人たちは月の欠片の力をひとりじめしている」と言いがかりをつけた人たちが、お城をおそってきたのです。
お父さまやお母さまも、王女さまの家来たちも、みんなやられてしまいました。
残されたのは王女さまひとり。
とてもとても悲しい気持ちでいっぱいになりました。
けれどそこへ、王女さまの月の欠片を奪おうとたくさんの人が集まってきました。
でも、王女さまの月の欠片は、本当に助けを必要としている人にしか渡せない仕組みになっていたのです。
そのことを知った人たちは、王女さまをお城から追い出してしまいました。
そして残ったお金や宝物で、自分たちだけ好きなように暮らし始めたのでした。
――
その話を聞きながら、僕はぎゅっと毛布をにぎりしめていた。
王女さまがひとりになってしまう場面は、どうしようもなく胸が痛んだ。
どうして優しい王女さまがこんなに辛い思いをしなくてはならないのだろう。
けれど乳母の声は穏やかで、続きがどうしても知りたくなった。
――
お城を追い出された王女さまは、ひとりであてもなく歩きつづけました。
でも出会った人が困っていたり、悲しい気持ちになっていたりすると、王女さまは自分もつらいのに、月の欠片をそっとわけてあげたのです。
月の欠片をもらった人は、たちまち元気になりました。
けれど王女さまには手を差し伸べてくれる人は誰もいませんでした。
だから王女さまは、ひとりでずっと歩きつづけました。
ときには夜空の下で眠ったり、一日にいくつもの月の欠片を人にあげたり。
そんな暮らしをずっとしていたのでした。
けれど王女さまはひとりぼっちになっても、いつもにこやかに微笑んでいました。
誰にも心配をかけまいと、人前ではけっして涙を見せなかったのです。
そして胸の中の月の欠片は、ひとつ、またひとつと減っていきました。
悲しいときも、寂しいときも、王女さまは人に優しくして、欠片をわけてしまうのです。
――
「王女さまが可哀想だよ」
思わず僕は口を挟んでいた。
苦しくなって、声を抑えられなかった。
「僕なら、絶対に王女さまに優しくするのに」
乳母は少し驚いたように僕を見て、そしてやわらかく笑った。
「総司様は、とてもお優しいのですね」
幼い僕には、王女さまがどうして月の欠片をわけ与えてしまうのか、どうして自分のために使えないのか、不思議でならなかった。
けれど視線はその絵本から離せなかった。
――
やがて、王女さまの胸には、たったひとつの月の欠片しか残りませんでした。
その欠片は、王女さまの心そのもの。
これがなくなれば、王女さまはもう生きていけません。
そんなとき、一匹の小さな猫が道ばたに倒れていました。
王女さまは迷わず、その最後の欠片を猫にわけてあげたのです。
すると猫はすぐに元気になりました。
でも王女さまの胸の中には、もう一つも欠片がなくなってしまいました
そのとき、王女さまは初めて気づきました。
自分がどれほどひとりだったか。
どんなに優しくしても、誰からも愛情をもらえなかったことに。
本当は、誰かに抱きしめてほしかったのに。
王女さまの目から、大きな涙がぽろぽろとこぼれました。
はじめて、声をあげて泣いたのでした。
すると、天から光が降りてきました。
そこには、やさしい天使と、王女さまの亡くなったお父さまとお母さまの姿がありました。
「もう大丈夫だ」
「よくがんばりましたね」
そう言って王女さまを抱きしめ、あたたかい光の国へと連れていったのです。
――
乳母の声がやさしく途切れ、物語は終わる。
僕は気づけば頬をつたう涙をこぼしていて、乳母がそっと白いハンカチで拭ってくれていた。
「まあ……総司様」
僕は唇を噛んで、それでも言わずにはいられなかった。
「僕だったら、この王女さまを一人にしない。誰にも守ってもらえなかった王女さまを、僕が守るんだ」
乳母は目を丸くし、それからくすくす笑った。
「総司様は、王女さまの騎士のようですね。きっと王女さまも、そんなふうに言ってもらえたら心があたたかくなることでしょう」
僕は絵本を見つめた。
そこにはミルクティーブロンドの髪に、アイスブルーの瞳を輝かせた、かわいらしい月の王女さまが描かれていて、その絵が僕の心になぜか強く焼きついた。
まるでどこかで会える気がして、気持ちが少し温かくなる。
初めて出会ったあの日から、その本は僕の宝物になった。
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