7.

僕は隣に腰を下ろしたまま、静かに彼女の横顔を見つめる。
セラ嬢は最初、小さな子供みたいに目を輝かせながらその絵本を読んでいた。

月のお城で暮らす優しい王女さま。
人からもらった優しさを、月の欠片に変えられる不思議な力。
困っている人へ迷わず欠片を分け与える場面では、セラ嬢はどこか嬉しそうに微笑んでいた。

でも頁をめくるたびに、その表情は少しずつ変わっていく。
やがて最後の頁へ辿り着いた時、セラ嬢は小さく息を呑んだ。

それは王女さまが最後の欠片を猫へ与える場面。
そして自分がどれだけ孤独だったのかを初めて知り、声をあげて泣いてしまうところだ。
不意にセラ嬢の瞳から涙がぽろりと零れ落ち、透明な雫は頬を伝って絵本の頁へ落ちそうになる。
僕は目を見開き、すぐに懐からハンカチを取り出した。


「……セラ嬢」


名前を呼びながら、そっとその涙を拭う。
彼女は驚いたみたいにこちらを見上げ、すぐに困ったように笑った。


『ごめんなさい……なんだか、すごく悲しくて……』


彼女はきっと、王女さまに自分を重ねている。
人の痛みに敏感で、誰かが悲しんでいると放っておけなくて、自分より他人を優先してしまうところなんか、本当にそっくりだから。


「うん。僕も、子供の頃にこの本を読んで、すごく悲しくなったんだ」

『……総司様も?』

「最後、お父さんとお母さんが迎えに来てくれたでしょ。でもさ、それって結局、王女さまは悲しい気持ちのまま命を落としたってことなのかなって思って」


幼かった頃の僕は、その結末がどうしても苦手だった。
優しさは報われるって信じたかったのに、この物語の王女さまは最後までひとりぼっちだったから。

優しいが故に全部失って、それでも笑って。
本当は抱きしめてほしかったのに、それすら言えないまま壊れてしまった。
あのラストを読むたび、胸の奥がひどく苦しくなったのを覚えている。
セラ嬢は絵本を抱きしめながら、小さく俯いた。


『王女さま、きっととても淋しかったでしょうね。この絵本は、人に優しく接することの大切さを改めて気付かせてくれる素敵な本だと思います。誰かの優しさに救われてること、それに自分の優しさが誰かを救えるかもしれないということを忘れたくないと思いました』


優しいこの子のことだから、王女さまの悲しみも、最後まで優しい人でありたいと願う気持ちも痛いほど分かってしまうんだろう。
僕はそんな彼女を見つめながら、静かに口を開いた。


「僕は子供の頃、この本を読んでずっと思ってたんだよね」


セラ嬢がゆっくり顔を上げる。
冬の光を映した瞳は、涙で少し潤んでいた。


「この王女さまみたいに誰かに優しく出来る人が本当にいるなら、その人には絶対幸せになってほしいなって。こんなふうに笑ってくれる人がいつか自分の前にも現れてくれたら、僕が幸せにしたいなってさ」


そう言うと、セラ嬢の瞳がわずかに揺れた。
僕はそのまま、柔らかく笑う。


「だから初めて君と会って、君が優しい子だってわかった時、この絵本を思い出したんだと思う。僕がずっと求めていた人って、こういう人だったんだなって気付いたんだ」


今なら分かる。
どうして僕が、この絵本にあんなにも惹かれていたのか。

多分僕はずっと、探していたんだ。
空っぽで冷え切っていた自分の心を、優しく埋めてくれる存在を。
誰かに理解されたかったわけでも、大勢に愛されたかったわけでもない。
ただ僕の孤独を見つけても怖がらずに隣に寄り添ってくれるような、そんな人を探していた。

そしてセラ嬢は、何気ない顔でいつも笑って僕の心を優しく包んでくれた。
僕がどんなに頼りなくても、不器用でも、何も求めないまま当たり前のように隣にいてくれた。
その温かさがどうしようもなく心地良くて、気付いた時には絶対に失いたくない存在になっていた。


「挿絵も似てるけど、それだけじゃないんだよね。君の優しさがこの絵本と重なるんだ」


そう言いながら彼女を見ると、セラ嬢は絵本を抱えたまま小さく目を瞬かせた。
涙の残る瞳は冬の陽射しを受けて淡く揺れていて、その儚げな表情は、まるで物語の頁から抜け出してきたみたいだった。


『……そうでしょうか?』


少し掠れた声でそう返しながら、セラ嬢はどこか照れたように視線を伏せる。
僕は膝の上に開かれた絵本へ目を落としながら、静かに笑った。


「うん。誰かが困ってると放っておけないところとか、自分が傷ついてても平気な顔して我慢しちゃうところとか、本当に似てるよ」


だからこそ絵本の王女さまみたいに、誰にも頼れないまま笑っていてほしくなかった。
淋しくても苦しくても、ひとりで全部抱え込まなければならないような終わり方を、この子にだけはしてほしくないと思ってしまう。

気づけば僕は、そっと彼女の頬へ手を伸ばしていた。
少しだけ冷たい涙の跡を優しく拭うと、セラ嬢の肩がかすかに揺れた。


「……僕、嫌なんだよね。君が、この王女さまみたいになるの」


セラ嬢がゆっくり顔を上げる。
逃げ場を探すみたいに揺れる瞳を見つめ返しながら、僕は静かに言葉を続けた。


「だからもし何か辛いことがあった時は、僕の前では無理して笑わなくていいよ。苦しい時まで優しくしなくていいし、ちゃんと僕を頼って欲しい。そう思ってるよ」


セラ嬢が泣いていたら抱きしめたいし、傷ついているならその原因ごと全部取り除いてしまいたくなる。
誰より幸せになってほしいと思うし、その幸せを与えるのが自分でありたいと願ってしまう。

それに、いつか彼女が僕の知らない誰かの隣で笑う未来を想像するだけで、胸の奥が鈍く軋んだ。
こんな感情、綺麗な言葉だけじゃきっと説明出来ない。
大切にしたいと思うほど、触れたいと思ってしまうし、独り占めしたいとも思ってしまう。
守りたい気持ちと、欲しいという感情が、胸の中で静かに絡み合っていた。

セラ嬢は何かを堪えるみたいに唇をきゅっと結び、それから遠慮がちに僕の袖を握る。


『総司様にそう言っていただけて、凄く嬉しくて幸せです。総司様が優しくしてくださるから、私いつも甘えてばかりで……今でも申し訳なくなるくらいなのに。これ以上優しくしていただいたら、困ってしまいます』


眉を下げて微笑むその顔は、少し泣きそうだった。
セラ嬢は何も分かっていないみたいだけど、僕のほうがずっと救われているのに。
僕は小さく笑って、彼女の指先へそっと自分の手を重ねた。


「それ、僕にも同じこと言えるよね」

『え?』

「君が優しいから、僕もだいぶ甘やかされてるよ。だからお互い様じゃない?」


そう言うと、セラ嬢は少しだけ目を丸くしたあと、恥ずかしそうに微笑んだ。


「それにさ、僕は別に無理して優しくしてるわけじゃないよ」


むしろ逆だ。
セラ嬢のことになると、勝手にそうしたくなってしまう。
寒そうなら温めてあげたくなるし、悲しそうなら笑わせたくなる。
泣いていたら隠れる場所を作ってあげたくなるし、不安そうにしていれば大丈夫だって何度でも伝えたくなる。
それが当たり前みたいになっている自分に驚くくらいだった。


「だから、困らなくていいよ。僕がそうしたいだけだから」


囁くようにそう告げると、セラ嬢の瞳がゆっくり揺れる。
涙の名残を宿したその瞳は、冬の光を受けて淡く潤み、見つめ返されるだけで胸の奥が熱を持った。

白い吐息が、二人の間で静かに溶けていく。
セラ嬢は何かを言おうとするみたいに唇をわずかに開き、それでも結局言葉には出来ないまま、ただ困ったように僕を見上げていた。

その顔が、どうしようもなく愛しかった。
今にも泣き出してしまいそうな顔をして、甘い視線を向けてくれるたび、込み上げた想いが抑えられなくなる。

触れたい、それにこの子を抱き寄せたい。
そんな衝動が静かに溢れて、僕は気づけば彼女の頬へもう一度触れていた。

指先へ伝わる体温がひどく柔らかい。
セラ嬢の睫毛が小さく震えたけど逃げる様子はなくて、むしろ僕のほうへ引き寄せられるみたいに静かに目を閉じた。
その顔を見てしまえば胸の奥が苦しくなるくらい満たされて、僕は堪えきれずに彼女に顔を寄せる。
触れるだけの、短い口づけだった。
雪みたいに淡くて、壊れ物へ触れるみたいに優しい感触。
だけど唇が重なった時、心臓が痛いくらい大きく鳴って、自分でも抱えきれないほど愛おしさが込み上げてきた。

離れ難くて、もう少し触れていたいと思ってしまう。
でもこれ以上はきっと彼女を困らせてしまう気がしたから、僕は名残を惜しむみたいにゆっくり唇を離した。

セラ嬢はぱちりと瞳を開くと、白い頬をみるみる赤く染めていく。
耳まで真っ赤になりながら、彼女は慌てた様子で絵本を抱きしめていた。


『……そ、総司様……』


セラ嬢は、恥ずかしさでいっぱいなはずなのに、逃げることだけはしなかった。
潤んだ瞳のまま僕を見上げ、小さく息を整えながら、精一杯平静を装おうとしている。
そんなところも可愛くて、僕は困ったように笑いながら言った。


「ごめん。可愛すぎて、我慢出来なかった」


そう囁くと、セラ嬢はさらに顔を赤くしながら顔を背けてしまった。
でも今も繋いだままの小さな手の温もりが嬉しくて、僕はこの時間を宝物のように感じていた。

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