8.
総司様と過ごす毎日は、とても幸せだった。
いずれ大きな役目を担う総司様は日々忙しく、今回もアストリアに滞在できるのは二週間ほどしかないらしい。
それでも、遠く離れたヴェルメルからこうして会いに来てくれて、限られた時間の中で少しでも一緒に過ごそうとしてくれる。
そんな何気ない時間のひとつひとつが嬉しくて、気づけば私は以前にも増して総司様を好きになっていた。
会えば会うほど、一緒にいればいるほど。
総司様のことを知るたびに、もっと知りたいと思ってしまう。
だから、今回の滞在もあっという間に過ぎてしまいそうで、少しだけ淋しかった。
そして総司様がアストリアに来てから一週間ほどが経った頃。
近郊で用事があったらしく、レーヴェルン公国からパメラ夫人とはじめがやって来た。
お母様のお話によれば、今日はアストリアで一泊し、明日には祖国へ戻る予定らしい。
総司様と二人きりで過ごせる時間が少なくなるのは少し残念だったけど、はじめも私にとって大切な友人の一人だ。
だから街へ出掛ける予定だった私と総司様に、はじめも自然と加わることになり、三人でお忍びのまま近くの街へ足を運ぶことになった。
穏やかな陽射しが冬の街を照らし、街路樹の葉が風に揺れている。
そんな景色を眺めながら歩いていると、自然と心が弾んだ。
『総司様とこうしておでかけするのは初めてですよね』
そう声を掛けると、隣を歩く総司様が柔らかく微笑む。
「そうだね。邸の中で一緒に過ごすことはあっても、こうして街を歩いたことはなかったよね」
『なんだか少し不思議です。今日は特別な日みたい』
「それは僕も同じだよ。朝から結構楽しみにしてたし」
そう言って笑う総司様を見上げながら、私も嬉しくなった。
今日は特別にヴァイオリンのレッスンを後日にずらしてもらえたし、総司様も私の予定に合わせて早朝の鍛錬を終わらせてくれていた。
だからこうして昼から一緒に出掛けることができている。
「まあ、本当ならセラ嬢と二人が良かったんだけどね」
その言葉に思わず目を瞬かせると、少し前を歩いていたはじめも、その言葉を聞いていたらしい。
静かな瞳が僅かに細められた。
「すまなかった、と言いたいところだが、俺とて同じ気持ちだ」
「ふーん。同じこと考えてるなんて、僕達案外気が合うんだね」
「それはどうだろうな」
即座に返したはじめは、そのまま総司様へ視線を向けた。
「まさか総司がまたアストリアに来ているとは思わなかった。去年も来ていただろう」
「そうだね」
「多忙だと聞いたが、遠路から随分頻繁にここに来るのだな」
私達の婚約は正式に結ばれているとは言え、まだ社交界では発表されていない。
デビュタントまではまだ時間があるし、軍事貴族同士の縁談ということもあって、余計な憶測を呼ばないためにも発表の時期は慎重に見極めることになっていた。
だからはじめも、総司様が毎年アストリアに来てくださる本当の理由を知らない。
伝えることが出来ないからこそ、少し複雑な気持ちで二人のやりとりを聞いていた。
「頻繁じゃないよ。年に一回しか来れてないし」
「十分多いと思うが?」
「へえ。じゃあ、はじめ君はどのくらいの頻度でアストリアに来てるのさ」
「月に一、二度程だ」
その返答を聞いて、今度は総司様の笑顔がぴたりと止まった。
「……そんなに?」
「そんなに、とは?」
「いや、多すぎでしょ」
「そんなことはない」
「そんなことあるから」
総司様は心底納得できないという顔をして、言葉を重ねた。
「はじめ君こそ何しに来てるのさ。そんなに暇なの?」
「幼い頃から親しくしている友人に会いに来ているだけだ。何か問題でも?」
「問題大有りだと思うよ。年に一度しか来れない僕とセラ嬢の貴重な時間を、その頻度で来ている君が邪魔するのってどうなのさ」
「邪魔はしていない。それに総司は一度来れば長く滞在しているだろう」
「それとこれとは話が別だよ」
「別ではない」
「別なんだよ」
「我が儘を言うな」
「我が儘なのははじめ君の方でしょ?」
「何故そうなる」
「月に二回も来る必要ある?」
「あるから来ている」
「それ、全然理由になってないよね」
『…………』
お二人とも歩きながら真顔で言い合っている。
けれど不思議と険悪な雰囲気ではなくて、どちらかというと小さい子が一生懸命何かを張り合っているような雰囲気だった。
『お二人とも。せっかくのおでかけですから、もう少し仲良くしましょう?』
そう言うと、総司様とはじめが同時にこちらを見て、それから一瞬だけ互いに顔を見合わせた。
そして次に返ってきた言葉まで綺麗に揃っていたものだから、私は思わず瞬きを繰り返してしまう。
「仲良くしてるつもりだけど」
「仲良くしているつもりだが」
『本当ですか?』
疑わしそうに問い返せば、今度は二人とも少しだけ眉を寄せた。
「本当だよ」
「本当だ」
『そうは見えないです』
私が正直な感想を口にすると、総司様はどこか納得がいかないというように小さく唇を尖らせる。
「セラ嬢は僕の味方じゃないの?」
その言い方が少しだけ拗ねた子供みたいで、私は思わず笑いそうになった。
『もちろん味方ですよ。でも、はじめも大切なお友達ですから』
そう答えると、はじめが僅かに口元を緩める。
「だそうだ」
「だから、その勝ち誇った顔は何なのさ」
「別に勝ち誇ってはいない」
「絶対してるよね」
「気のせいだ」
二人とも真面目な顔で言い合っているのに、そのやり取りはどこか子供っぽくて可笑しい。
私は堪えきれずにくすりと笑った。
言いたいことを遠慮なく言い合えるようになったのは、とても良いことだと思う。
最初の頃を思えば、こうして並んで歩いているだけでも信じられないくらいだった。
けれど、できることならもう少し穏やかに過ごしてくれたら嬉しい。
そう思いながら二人を見上げていると、不意に甘い香りが風に乗って流れてきた。
漂ってきた焼き菓子の匂いに誘われるように顔を上げれば、通りの向こうに可愛らしいお菓子屋さんが見える。
ガラス張りのショーウィンドウには色とりどりの焼き菓子やケーキが並び、陽射しを受けて宝石みたいに輝いていた。
『あ……綺麗』
思わず足を止めると、二人の声がほとんど同時に重なった。
「食べたいの?」
「食べたいのか?」
私は思わず吹き出してしまう。
『お二人はやっぱり仲良しだと思います』
「どこが?」
「どこがだ」
今度は返事までぴったりだった。
堪えきれなくなった笑い声が零れる。
こんなに息が合っているのに、どうして本人達だけ気付いていないんだろう。
二人は不思議そうに私を見ているけど、その様子が余計に可笑しくて、私はしばらく笑いが止まらなかった。
結局そのお菓子屋さんで焼き菓子をいくつか買い、三人で食べ歩きをしながら街を散策することになった。
露店で売られていた季節の果物を見たり、小さな雑貨店を覗いたり、街角で演奏している楽団の音楽に耳を傾けたりしながら歩いていると、時間はあっという間に過ぎていく。
総司様は私が何かに興味を示すたびに足を止めてくれるし、はじめも無口ながら嫌な顔ひとつせず付き合ってくれる。
そんな二人の優しさが嬉しくて、私は何度も笑顔になった。
そして午後の日差しが少しずつ傾き始めた頃。
私達は街の西側にある大きな庭園へと足を運んだ。
そこは王都でも人気の名所らしく、広大な敷地の中央には人工の湖が広がり、その周囲を花壇や並木道が取り囲んでいる。
白い石橋が湖を横切り、湖面には小さな遊覧船が何艘も浮かんでいた。
風が水面を揺らすたびに陽光がきらきらと反射して、まるで湖そのものが光を纏っているみたいだった。
湖へ続く遊歩道には多くの人が行き交い、家族連れや恋人達が思い思いに休日を楽しんでいる。
穏やかな光景を眺めながら歩いていると、すぐ近くの噴水広場の方から、大きな笑い声が聞こえてきた。
その声は周囲の穏やかな空気にはあまりにも不釣り合いで、自然と視線がそちらへ向いてしまう。
噴水の脇に置かれたベンチでは、数人の男の人達が昼間から酒瓶を片手に騒いでいた。
かなり酔っているらしく、赤くなった顔で大声を上げながら笑っている。
そしてその中の一人がこちらを見て嫌な笑みを浮かべると、仲間の肩を叩きながらこちらを顎で示した。
「見ろよ。貴族様のお通りだ」
吐き捨てるような声と共に含みのある笑い声が広がり、私は思わず視線を伏せる。
こういう視線に慣れていないわけではないけど、理由もなく向けられる悪意というものは何度経験しても気持ちの良いものではない。
出来ることなら関わらずに通り過ぎたいと思った。
幸い総司様もはじめも同じ考えだったらしく、彼らに視線すら向けることなく歩みを進めている。
その様子にほっと胸を撫で下ろしながら、私もその後に続いた。
このまま離れてしまえば何も起きない、そう思っていたのに。
「おい、待てよ」
背後から飛んできた大きな声に肩が震えた直後、突然横から伸びてきた手が私の腕を乱暴に掴む。
そのまま捻り上げるように引かれたことで、肩まで鋭い痛みが走った。
『っ……』
思わず声が漏れる。
私を見下ろしながら楽しそうに笑っているその瞳には、酔いだけではない濁った感情が浮かんでいるように見えた。
「無視するなよ。貴族様ってのはそんなに偉いのか?俺達とは住む世界が違うって顔して歩いてるのが気に食わねえんだよ」
『離してください……』
「まだ餓鬼だって言うのに、高そうな服着やがって。あんたの装飾品、一つくらい恵んでくれよ。なんなら、このまま脱がしてやろうか?」
お酒の匂いを含んだ荒い息がすぐ近くでかかり、掴まれた腕には痛みが広がる。
あまりにも突然のことに頭が真っ白になってしまって、振りほどこうにも身体がうまく動かないまま、私はただその場に立ち尽くしていた。
男の人はそんな私を見て面白がるように口元を歪めると、逃がさないと言うように腕へ込める力をさらに強くする。
周囲から聞こえてくる笑い声に胸の奥が苦しくなり、瞳が僅かに潤んでしまった。
でもそんな時、ふいに視界へ誰かの背中が入り込み、私と男の人との間を遮るように立つ。
思わず顔を上げると、そこにいたのは総司様だった。
「離してもらえます?」
男の人は不機嫌そうに眉をひそめるけど、総司様は少しも表情を変えない。
ただ私の腕を掴んでいる手へ視線を落とすと、その手首を静かに掴み、その男の人の拘束を解いてくれた。
「平気?」
『……はい。ありがとうございます』
総司様が私を守ってくださった。
張り詰めていた心が少しずつほどけていき、苦しかった呼吸もようやく落ち着いていく気がした。
でもその安心も束の間、その男の人の顔がみるみる険しくなり、腹立たしそうに私を睨みつけた。
「ふざけんなよ」
低く吐き捨てられた声と同時に肩を強く押され、身体が大きく後ろへ揺れる。
驚く暇もなく足がもつれて、そのまま石畳の上へ尻餅をついてしまった。
「セラ!」
聞き慣れた声に顔を上げると、はじめが血相を変えて私を起こそうと手を差し伸べてくれていた。
「大丈夫か?」
返事をしようとした私の視線は、その向こうに立つ総司様へ吸い寄せられていた。
倒れ込んだ私の姿を見つめるその瞳が、一度だけ大きく揺れる。
それはほんの一瞬だったけど、私にははっきりとわかった。
いつも穏やかな総司様が、そんな顔をされることなんて滅多にないから。
でもその揺らぎは静かに消えて、その視線は今度は男の人へと向けられた。
その横顔からは何の感情も読み取れなかったけど、不思議と胸がざわついていくようだった。
「……うわっ」
総司様がその男の人の腕を掴んだ刹那、彼は地面へ組み伏せられ、背中側へ折り返された腕を押さえ込まれたまま苦しそうな声を漏らしていた。
力任せに押さえつけたようには見えなくて、迷いも焦りもない動きから、こういうことに慣れているのだと嫌でも分かってしまう。
何度も繰り返してきたからこそ出来るような、無駄のない動きだった。
そしてその光景を見たとき、私はふと昨年の出来事を思い出した。
ベリアル様が総司様にねじ伏せられた、あの日のことを。
あの時も私は、今と同じように息を呑んで総司様を見つめていた気がする。
普段の総司様は穏やかなのに、誰かが私を傷つけようとした時だけ、その瞳の奥にある別の一面が静かに姿を現す。
怒鳴るわけでもなく、感情を荒げるわけでもない。
だけどその静けさこそが、何より恐ろしいのだと私は知っていた。
「いっ……て、てめぇ……離しやがれ……!」
男の人は強がるように声を張り上げるけど、その声は情けないほど震えていて、先程までの威勢がすっかり消えてしまっている。
それでも総司様は少しも表情を変えず、静かに屈み込みながら男を見下ろしていた。
「いい大人が、小さな女の子相手に何をしてるんです?」
穏やかな声だった。
私へ話しかけてくださる時と変わらないほど優しい声だったはずなのに、その言葉を聞いた途端、胸の奥を冷たいものがゆっくりと撫でていくような感覚に襲われる。
静かに男を見下ろす双眸には、もう私の知っている温かさがどこにも見当たらなかった。
総司様の膝が男の背中に深く食い込み、うつ伏せに伏せられた男の人は、顔を地面に押しつけられたまま身じろぎ一つできなくなっていた。
「……っ、ぐ……う」
男の苦痛に満ちた呻きが響く中、総司様は男の髪を鷲掴みにして、そのまま彼の額を地面に叩きつけた。
繰り返し、繰り返し、総司様の腕が機械のように上下する。
地面に頭を打ちつけるたび、がっ! ごっ! という重く湿った音が連続し、男の喉から漏れる呻き声が次第に弱々しく、泡立つような息に変わっていく。
周囲にいた人々が息を呑む気配がした。
誰かの小さな悲鳴、足音が後ずさる音。
皆が凍りつき、目を大きく見開いてこの光景を見つめている。
私はその場に座ったまま、身体が震えて止まらなかった。
もうやめて、総司様……
心の中でそう叫んでいるのに、声は喉の奥で固まって出ない。
指先さえ震えるばかりで、伸ばすこともできなかった。
総司様の瞳からは、あの時と同じように一切の温度が消えていた。
深く、冷たく、底知れぬ闇を湛えた目。
人を傷つけ、殺すことに何の躊躇いもないような目。
まるでそこに横たわっているのが人間ではなく、ただの障害物でしかないかのように。
血の匂いが、風に乗って漂ってきた。
男の人の額はすでに赤黒く染まり、地面に暗い染みが広がっている。
それでも総司様は手を緩めない。
男の人の身体が痙攣するように震え、呻き声さえもうほとんど出なくなっていた。
どうしよう、このままでは、本当に死んでしまう……止めないと……
身体が震えて、息が苦しい。
それなのに私の瞳に映る総司様の横顔は美しくさえあった。
冷たい怒りに満ちたその表情が、恐ろしいほどに。
「総司!」
その時、はじめの鋭い声が響く。
一緒にいた彼が、素早く総司様の腕を掴み、引き止めてくれていた。
「もういい!殺す気か!?」
総司様の動きが止まり、その隙にはじめはもう片方の手で総司様の肩を強く押さえ、引き剥がした。
私はただ、震えながらその光景を見つめていることしかできなかった。
総司様の冷たい瞳と、血に染まった地面。
そして優しく微笑んでくれていたはずの人の、恐ろしいまでの別の顔。
その全てが現実とは思えなくて、心臓の音が耳の中でうるさく鳴り続けていた。
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