9.
はじめ君の声が鋭く響き、そこでようやく僕の意識は現実へ引き戻された。
不意に視線を落とすと、男が力なく倒れこんでいる。
苦しげな呻き声を漏らしていたものの、額から流れた血は白い石畳を大きく汚していて、その惨状は誰の目にも明らかだった。
僕は昔から好戦的だったわけではないし、感情に任せて手を上げるような人間でもない。
それなのに、セラ嬢のことになるとどうしても冷静ではいられなくなる。
彼女が傷付けられたりすると、普段なら押さえ込めるはずの怒りが簡単に理性を追い越してしまうようだった。
先程だってそうだ。
彼女に無遠慮に触れたことも、恐がらせたことも、その全てを後悔させなければ気が済まなかった。
それほどまでに怒っていたし、それほどまでに腹が立っていた。
だから、あと少し遅れていたら、僕は本当にこの男を殺していたかもしれない。
そんな考えが頭を過ぎり、反射的に顔を上げる。
そして視線の先にいたセラ嬢を見た途端、それまで男へ向いていた意識が一気に消え失せた。
「……セラ嬢」
彼女は突き飛ばされた時のまま地面に座り込み、大きく揺れる瞳で僕を見上げていた。
その姿を目にした途端、今まで感じていなかった後悔が胸の奥から込み上げてきた。
周囲の人々も遠巻きにこちらを見ていたし、はじめ君も複雑そうな表情を隠してはいない。
それも無理のないことだった。
今になって振り返れば、先程の僕の姿は街中で見せるようなものではなかった。
ましてやセラ嬢の前で晒していいものだったとも思えない。
それでも、あの瞬間へ戻ったとして同じことをするなと言われたら、きっと僕には無理だった。
彼女へ向けられた悪意を見過ごせるほど出来た人間ではないし、恐怖を与えた相手を許せるほど優しくもない。
だけど、もしこのことでセラ嬢の僕を見る目が変わってしまったら。
もし怖がられたり、嫌われてしまったら。
そんな想像が頭を過ぎるだけで胸の奥が重くなり、男を相手にしていた時とは比べものにならないほど落ち着かなくなる。
剣を向けられることも、命を狙われることも怖くない。
けれど、セラ嬢に距離を置かれる未来だけは、どうしても耐えられる気がしなかった。
だから何か言わなければと思うのに言葉が見つからず、その場から動けずにいると、セラ嬢ははっとしたように立ち上がり、小さな足音を響かせながら僕の方へ歩いてきた。
『総司様……』
目の前に立つセラ嬢は、まだどこか不安そうに瞳を揺らしている。
それでも彼女は小さく息を整えると、ハンカチを取り出してそっと僕の頬へ当てた。
『血がついてしまっています』
優しい声だった。
僕の顔を見上げるその眼差しは、以前までと少しも変わっていない。
怖い思いをしたはずなのに、その瞳に浮かんでいるのは僕を案じる色だった。
「セラ嬢は大丈夫?怪我してない?」
『私は大丈夫です。総司様が助けてくださったから』
温かな指先がわずかに肌へ触れて、張り詰めていた胸の奥が少しだけ緩んだ気がした。
こんな時ですら、笑顔で僕を気遣ってくれる。
そんな彼女の優しさが嬉しくて、どうしようもなく愛おしい。
僕を見上げる彼女を見つめ返していると、遠くから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「セラお嬢様!」
振り返れば、山崎卿がこちらへ駆けてくる。
先程まで彼は、夕方の冷え込みを心配して馬車へ戻り、セラ嬢のためのマントを取りに行っていたはずだった。
でもこの騒然とした光景を目にして、その表情は一変した。
「何事ですか?!一体何があったのです!」
視線は僕たちを通り越し、血を流して蹲る男へ目を向けたところで言葉を失う。
そんな山崎卿を横目に、セラ嬢は慌てて事情を説明した。
『私が街を見ていたところ、あの方に腕を掴まれてしまって……乱暴されそうになったところを総司様が咄嗟に助けてくださったのです』
どこか僕を庇うような口調で告げると、続いてはじめ君も静かに口を開いた。
「セラにも俺たちにも怪我はない故、安心してくれ」
その言葉を聞き、山崎卿はようやく安堵したように息を吐いた。
「そうですか……。それでしたら良かったですが……」
『はい。この方の手当てだけお願い出来ればと……』
山崎卿の視線は再び男へ向けられた。
額から血を流し、呻きながら倒れている男の姿を見れば思うところがあるのだろう。
その表情には理解と困惑の両方が浮かんでいた。
しばらく黙り込んだ後、山崎卿は手にしていたマントを広げると、セラ嬢の肩へ丁寧に掛ける。
そしてすぐに申し訳なさそうに頭を下げた。
「俺が離れるべきではありませんでした。皆様を危険に巻き込んでしまい申し訳ありません」
『いいえ、山崎卿のせいではありません』
「護衛を任されていた以上、俺に責任はあります」
そう言って表情を引き締めると、周囲へ視線を巡らせる。
「俺は衛兵を呼んで参りますので、皆様は先に馬車へお戻りください。詳しいお話は、公爵邸へ戻られてから改めて伺います」
その言葉に頷きながらも、山崎卿が最後に男へ向けた視線だけは見逃せなかった。
あれはきっと、後で色々聞かれるだろう、そんな予感がした。
やがて僕たちは近くで待機していた公爵邸の馬車へ乗り込む。
けれど、行きとは違って馬車の中は静かだった。
先程まで楽しそうに街並みを眺めていたセラ嬢も今は大人しく座っていて、時折窓の外へ目を向けながら山崎卿の帰りを待っている。
はじめ君も何を考えているのか分からない表情のまま黙り込んでいた。
そんな静かな空気の中で、落ち着かないのは僕も同じだった。
あの男が何を証言するのか分からない。
山崎卿は間違いなく今日の出来事を近藤公爵やユフィ夫人へ報告するだろう。
もし僕が危険だと思われたら。
もしセラ嬢の相手として相応しくないと言われたら。
そこまで考えたところで、胸の奥が嫌な音を立てた。
男を相手にしていた時には少しも感じなかった不安が、今になって押し寄せてくる。
そんな僕を見ていたのか、不意にセラ嬢が僕の名前を呼んだ。
『総司様、大丈夫ですよ。先程のことは正当防衛でしたと、私からも後でちゃんとお話ししますから。総司様は私を助けてくださっただけです』
その言葉を聞いて胸の奥に溜まっていた重苦しいものが少しだけ軽くなった。
結局のところ、僕はいつだってそうだ。
どれだけ周囲に何を言われても構わない。
だけど、セラ嬢にだけは嫌われたくない。
その本人が変わらない眼差しで僕を見てくれている。
ただそれだけで、どうしようもなく救われてしまう僕がいた。
それからしばらくして山崎卿が戻ってくると、僕たちは公爵家の馬車へ乗り込み、そのまま邸へと帰った。
そして夕食を終えた後、僕とセラ嬢は近藤閣下の執務室へ呼ばれることになった。
重厚な扉を開くと、そこには近藤閣下と山崎卿が待っている。
丁寧に用意された紅茶からは柔らかな香りが立ち上っていたけど、さすがに今は味わう余裕もなかった。
僕とセラ嬢が向かいへ腰を下ろすと、近藤閣下は僕たちの顔を見比べながら穏やかに口を開いた。
「今日は災難だったな。二人とも大丈夫だったか?」
『はい、総司様が護ってくださったので大丈夫でしたよ』
「俺が不甲斐ないばかりに申し訳ありません。護衛を任されていたにもかかわらず、お嬢様を危険な目に遭わせてしまいました」
『そんなことありません』
セラ嬢は慌てたように首を振る。
『山崎さんは私のためにマントを取りに戻ってくださっただけじゃないですか。ほんの数分のことだったのに、ごめんなさい。私がしっかりと対応できれば山崎さんに謝っていただくことも、総司様にご迷惑をお掛けすることもなかったと思うんです』
そう言って肩を落とす姿に、思わず苦笑してしまう。
何も悪くない人ほど自分を責めるものだ。
山崎卿も同じことを思ったのだろう、「お嬢様のせいではありませんよ」と少し慌てた様子でそう言った。
「悪いのはどう考えてもあの男です。お嬢様が気になさる必要はありません」
『でも……』
「ありません」
珍しくきっぱり言い切られ、セラ嬢は困ったように口を閉ざした。
そんなやり取りを見ていた近藤閣下は小さく笑った後、今度は僕へ視線を向ける。
「山崎君から聞いたぞ。総司殿が咄嗟にセラを護ってくれたそうだな。まずは礼を言わせてくれ。本当にありがとう」
「いえ、セラ嬢は僕の大切な婚約者ですから。護るのは当然ですよ」
それは本心だった。
あの場で同じことが起きれば、僕は何度でも彼女を護る。
だけど、その一方であれが行き過ぎだったことも理解していた。
そんな複雑な心境でいると、近藤閣下は少しだけ頬を掻きながら続ける。
「いや、心から感謝しているぞ。だがな……聞いた話によると、その男はかなりの怪我を負ったらしいが」
その言葉に、室内の空気が少し静かになった。
「衛兵からの報告では、頭部を何度も強く打ち付けたような傷だったそうだ。額だけではなく後頭部にも裂傷があって、かなり血が出ていたと聞いている。そんなに激しくやり合ったのか?」
責めるような口調ではないものの、僕は返答に少し詰まった。
実際に何が起きたのかを一番知っているのは僕自身だ。
男の髪を掴み、地面に何度も叩きつけた。
その結果があの怪我なのだから、言い訳をするつもりはなかった。
「申し訳ありません。あの時は僕も、頭に血が上ってしまいました」
素直に頭を下げたその時だった。
『総司様は悪くありません。あの方はお酒を飲んでいて、とても酔っ払っていらしたんです』
隣から聞こえた声に、僕は思わずセラ嬢を見る。
彼女は真剣な顔で近藤閣下を見つめていた。
『なので、自然と出血量も多くなってしまったのだと思います』
「なるほど。酒を飲んでいると血の巡りが良くなってしまうものだからな」
近藤閣下が頷くと、セラ嬢はさらに言葉を続けた。
『それに、あの方はかなりふらふらしていらっしゃいましたし……その……最後の方は、ご自身で頭を地面に、ごんって……』
そこまで言ったところで、さすがに無理があると思ったのか、声がだんだん小さくなっていく。
どう考えても必死に僕を庇っているのがわかってしまうけど、その健気さに胸が温かくなった。
そして彼女の言葉を聞いた山崎卿が、どこか納得したように頷く。
「確かに、あの男はかなり泥酔しているようでしたからね。近くにいた時も酒の臭いがかなり強かったですし、足元も随分ふらついていました。酔った状態で転倒したのであれば、傷が大きくなった可能性はあるかもしれません」
『そうですよね』
セラ嬢の表情がぱっと明るくなる。
まるで援軍を得たかのような顔だった。
そんな彼女を見た近藤閣下はしばらく真顔を保っていたものの、やがて堪えきれなくなったように笑い出した。
「はははっ、セラは本当に総司殿を庇いたいのだな」
『だ、だって……本当のことですよ?』
少し頬を赤くしながら言い返すセラ嬢に、近藤閣下はますます可笑しそうに笑う。
そしてひとしきり笑った後、優しい目で僕たちを見た。
「まあいい。事情は理解しているし、何よりセラと総司殿が無事だった。それが一番大切なことだからな」
その言葉を聞きながら、僕は隣に座るセラ嬢を見た。
彼女はまだ少しだけ納得していない顔をしていて、もし僕が責められれば、きっとまた必死に庇おうとするのだろう。
そんな姿が愛おしくて、思わず小さく笑ってしまう。
するとセラ嬢は不思議そうにこちらを見上げた。
その視線に微笑みを返しながら、彼女の優しさに救われたことを感謝していた。
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