2

公爵邸へ戻ると、庭園の奥にセラ嬢の姿を見つけた。
柔らかな陽射しを浴びながら空を見上げている様子は儚くて、ただそこにいるだけで目を奪われてしまう。
風が吹く度に淡い髪が揺れ、その度に覗く愛らしい横顔に思わず口元に笑みが浮かんだ。

本当ならすぐに声を掛けるつもりだった。
でも、それだと少し面白くない。
せっかくなら驚かせたいと思った僕は、近くの低木の陰へ回り込み、この前セラ嬢が喜んでくれた花飾りをもう一度作ることにした。
冬でも育つ小さな花や葉を選びながら手を動かしていると、自然とあの日のことを思い出す。
僕が渡した時、セラ嬢は本当に嬉しそうだった。
まるで宝石でも受け取ったみたいに大事そうに両手で包み込みながら笑っていたものだから、その顔を思い出すだけで胸の奥が温かくなり、今度はどんな反応をしてくれるだろうと考える時間さえ楽しかった。
だけど、そんな穏やかな時間は長く続かなかった。


「セラ」


聞こえてきた声に、僕は思わず盛大なため息を吐き出す。
はじめ君だった。
せっかく二人きりになれると思ったのに、どうして彼はこうも絶妙なタイミングで現れるんだろう。

でも、今日は祖国のレーヴェルン公国に帰る予定だったはず。
あと一日だけの辛抱だと自分に言い聞かせながら再び手元へ視線を落としたけど、聞こえてきた会話の内容に指先が止まる。

最初は聞くつもりなんてなかった。
だけど、自分の名前が出されてしまえば、それはどうしても無理だった。


「総司とは距離を置いた方がいいということだ」


はじめ君が昨日の僕の行動を良く思っていないのは分かっていた。
あの場にいたのだから当然だし、僕だって昨日の自分を正当化する気はない。
だけどその言葉を聞いて、気付けば手の中の花飾りを握り潰していた。
細い茎が折れ、それでも力を緩めることができなかった。

僕と距離を置くと言ったその言葉が、思った以上に胸に刺さる。
だけど、続いて聞こえてきたセラ嬢の声に僕は息を呑んだ。


『私は、総司様と距離を置くことはしないよ』


胸の奥が熱くなる。


『私ははじめより総司様と長く過ごしてるから、総司様のことちゃんと知っているつもりなの。だから大丈夫だよ』


嬉しかった、本当に。
はじめ君に何を言われても僕を信じると言ってくれた。
離れないと言ってくれたし、優しい人だから大丈夫だと、当たり前のように僕の隣にいようとしてくれている。
その言葉だけで十分だったはずなのに、僕はその後も動くことができず、二人の会話を聞き続けてしまった。

はじめ君は昨日見た僕の姿を危険視していた。
あれは単なる怒りではなく僕の本質だと言い、優しい部分だけを見て安心するべきではないとセラ嬢に伝えている。

正直に言えば、反論できなかった。
だって僕自身、自分が綺麗な人間だとは思っていないからだ。
昨日の僕は冷静ではいられなかったし、あんな顔を見せるつもりもなかったのに抑えられなかった。
だから、はじめ君の警戒は理解できる。
理解できるけど。


『私、総司様のこと、ちゃんと真剣に考えてみる。ありがとう、はじめ』


その言葉を聞いて、胸の奥が抉られたように傷んだ。
セラ嬢はきっと、はじめ君の言葉から目を背けずに向き合おうとしているだけなのだろうし、実際それは彼女らしい誠実さなのだと思う。
それでも僕は、その言葉を聞いてどうしようもない不安に襲われた。
昨日見せた僕の姿を理由に婚約を考え直すつもりなのではないかとか。
僕との未来そのものを見つめ直そうとしているのではないかとか。
そんな考えが次々に浮かんできて、気付けば苦しくなった胸元を無意識に押さえていた。

我ながら、情けないと思う。
だけど仕方がない。
だって僕の心の真ん中にはいつだってセラ嬢がいたんだから。

どうしたら笑ってくれるのか。
何をしたら喜んでくれるのか。
どんな言葉を掛けたら安心してくれるのか。
そんなことばかり考えてきた。
それが僕の日常だったし、頑張る理由だった。
彼女がいるから強くなりたいと思えたし、彼女がいるから未来を欲しいと思えた。

仕事を頑張れるのも、強くなろうと思えるのも、全部あの子がいたからで、もしセラ嬢がいなくなるのなら、その先にどんな栄光や地位が待っていたとしても僕には何の価値もなかった。

だから他の誰かと歩む未来なんてあり得ないし、そんな未来を望んだこともない。
後にも先にも僕にはセラ嬢しかいない。
その気持ちだけは誰にも否定できないのに、肝心の本人にどれだけ伝えられているのだろうと思うと、急に不安になった。

今すぐ会いたかった。
今すぐ僕がどれだけ君を好きなのか伝えたかった。
出会った日から今日まで、君のことを考えなかった日は一日もないんだって。
僕の未来には最初から君しかいなかったんだと、そう伝えたかった。


『あ、もう次のレッスンの時間だ。私行くね』


その声が聞こえた時には、セラ嬢は立ち上がっていた。
僕が慌てて身を乗り出した頃にはもう遅く、彼女ははじめ君へ別れを告げながら城内へ向かい、そのまま扉の向こうへ消えてしまう。
結局、僕が見られたのは遠ざかっていく後ろ姿だけで。
取り残された庭園の中、僕の足元ではがさりと枯葉が鳴った。

その音に反応して、はじめ君がこちらを見る。
僕に気付いた瞳が揺れたものの、それは本当に一瞬で、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻っていった。


「いつからいたのだ」

「ずっといたよ。はじめ君が来る前からね」


そう答えると、はじめ君は僅かに眉を顰めた。
今まで交わされていた会話について弁明するつもりもなければ、聞かれていたことを気まずく思っている様子もない。
そんなところは、相変わらずだなと思う。
正しいと思ったことは曲げないし、誰が相手でも態度を変えない。
そんな誠実なところははじめ君のいい所だと思っていたけど、今は好意的に捉える余裕もなかった。

セラ嬢を失うかもしれないという考えが胸の奥に刺さったまま抜けずに、さっき聞いた言葉が何度も頭の中で繰り返されている。
だから僕は潰れた花飾りを見下ろしてから、ゆっくりとはじめ君へ視線を戻した。


「ねえ、はじめ君」


穏やかな声を出したつもりだった。
だけど、自分でも分かるくらい感情が滲んでいるように感じた。


「そんなに僕をセラ嬢から遠ざけたい?」

「そう聞こえたのなら残念だが、違う」

「違う?どこが?」


思わず笑ってしまう。


「あれだけ僕と距離を置けって言っておいて、それで違うは無理があるんじゃないかな」

「俺は故意にセラを総司から遠ざけようとしているのではない。ただセラを案じて思ったことを告げたまでだ。総司とこれからどうしていくかは、セラ自身が決めることだからな」


淡々とした声だった。
あまりにも落ち着いていて、その態度が妙に癇に障る。


「そう言うわりに随分食い下がってたよね。あの子は僕のことを信じるって言ってくれてたのに」

「だからこそだ。信じることと、見たものから目を背けることは別だ。俺はその違いを伝えただけだ」


はじめ君は少しも声を荒げない。
感情的になる僕とは対照的なくらい冷静だった。


「僕がいずれセラ嬢に危害を加える可能性があるみたいな話までしてたよね」

「可能性の話だ」

「同じことだよ。それに、そんなことするわけないでしょ。僕があの子を傷付ける?どれだけ勝手なこと言えば気が済むのさ。君は僕の何を知ってるの?」


はじめ君は黙って僕を見ていた。
まるで僕を観察しているみたいなその視線が気に入らなくて、苛立ちは募る一方だった。


「勝手な決め付けばかりして、セラ嬢に余計なことを吹き込むのはやめてもらいたいな。洗脳紛いな真似までされると、流石に迷惑なんだけど」

「あんたはセラのことをわかっていないのだな」

「は?」

「セラは自分で考えられる人間だ。俺の言葉一つで考えを変えるほど軽い人間ではない。セラのことを知っていれば、あの程度の会話でセラが洗脳されるなどとは思わない筈だが」

「僕だって、セラ嬢のことはよく知ってるよ。はじめ君の言う通り、彼女は芯がある子だって思ってるしね。でもそれとこれとは話が別だ。僕のいないところでいい加減なことを言うなって言ってるんだよ」

「俺がセラと何を話そうがあんたにとやかく言われる筋合いはない。それにセラが自分で判断すると分かっているのなら、先程の話もその判断材料の一つに過ぎないだろう。あれほど信じると言われていたのに、なぜそこまで焦る必要がある」


淡々とした声だった。
責めるでもなく、怒るでもなく、ただ事実を述べているだけの口調だからこそ余計に腹が立つ。
悔しさに奥歯を噛み締めていると、はじめ君は僅かに目を細めながら続けた。


「それとも、あんたはセラが考えた末に自分から離れる可能性があると思っているのか」


恐れていることを言い当てられた気がした。

セラ嬢の気持ちを疑いたいわけじゃない。
今日までは、本当に一度だって疑ったことなんてなかった。
出会った日から今まで、どうしたら彼女の隣に立てる人間になれるだろうと必死に足掻いてきたし、最近になってようやく自分も少しは胸を張って彼女の婚約者だと思えるようになった気がしていた。
それなのにたった一度見せた醜い姿だけで、その積み重ねが揺らぐのではないかと不安に思う自分がいた。


「思ってないよ、これっぽっちもね」

「ならばあんたもセラを信じればいい」

「信じてるよ」

「そうは見えないな」

「……はじめ君は本当に人を苛立たせるのが上手だね」

「褒め言葉として受け取っておこう」

「褒めてないんだけど」


そう返しても、はじめ君は少しも表情を変えなかった。

本当に気にしていないのか、それとも気付いていて敢えて流しているのか、その辺りが分からないところは相変わらず厄介で。
僕がどれだけ苛立っていても、彼だけは最初から最後まで感情を揺らすことのないまま立っているように見える。


「まあ、いいや。はじめ君はこれから自国に帰るんでしょ?せいぜい道中お気をつけて」


本音を言えば、もう十分だった。
せっかくセラ嬢に会えたんだから、これ以上あの会話を思い出したくもなかったし、今ははじめ君の顔を見ているだけで腹が立つ。
だけどはじめ君は僕の内心など知ったことではないという顔で、あっさりと言った。


「悪いが、まだ暫くは帰らない。あと一週間はアストリアに滞在する。近藤閣下にも今朝お許しをいただいた」


その言葉を聞いて、僕は思わず彼を見返した。
今日帰るはずだったのに、予定を変えてまで残る理由なんて一つしか思い浮かばない。


「……は?なんで……」

「今のあんたなら、理由くらい分かるのではないか?」


つまり昨日のことがあったから、僕を警戒しているんだ。
セラ嬢と二人きりにならないように、自分が残って見張るつもりなんだろう。
そう考えた途端、胸の奥から込み上げてきたのは怒りだけではなかった。

僕は年に一度しかアストリアに来られない。
会えない時間の方がずっと長くて、それでも頑張れたのは、この国で過ごす僅かな日々を楽しみにしていたからだ。
次に会えたら何を話そうとか、どんな顔で笑ってくれるだろうとか、そんなことばかり考えて過ごしてきた。
その大切な時間まで奪われようとしている今、悔しさと怒りが胸の中で絡み合う。


「つまりはじめ君は、昨日のことにかこつけて僕とセラ嬢の仲を裂きたいんでしょ?僕の悪口を吹き込んでもあの子が自分に靡かないから、悔しくて残ることにしたんだよね。随分必死じゃない」


皮肉を込めてそう言うと、はじめ君は露骨に感情を見せることこそなかったものの、それまで微動だにしなかった表情がほんの僅かに揺らぎ、こめかみがぴくりと動いた。


「何か勘違いをしているようだが、俺は邪な感情で総司の話をしたわけではない。ただ警戒しているだけだ」

「とてもそうは思えないけどね」

「そう思うのは勝手だ。だが俺はセラに幸せでいてほしいと思っている。傷付いてほしくもない。だから気付いたことがあれば伝える。それだけだ」


迷いのない声だった。
取り繕っているわけでもなければ、自分を良く見せようとしているわけでもない。
本気でセラ嬢を案じ、本気で僕を警戒している。
彼の中ではきっと、自分は正しいことをしていると疑ってないんだろう。
セラ嬢を守るために必要なことをしただけだと、本気で信じているんだろう。
そのことが余計に気に入らなかった。

僕がどれだけ彼女を大切に思っているかも知らないくせに。
どれだけ彼女のことを考えて生きてきたかも知らないくせに。
たった一日の出来事だけで僕という人間を決め付けて、あの子から遠ざけようとしている。
そう思うと胸の奥がざらついた。


はじめ君はそれ以上何も言わずに背を向ける。
話は終わった、そういうことなのだろう。
でもその背中を見るなり、頭の中に浮かんだのはさっきの会話だった。

セラ嬢が真剣な顔で耳を傾けていたことも、不安そうに瞳を揺らしていたことも。
そして最後に、総司様のことを考えてみると言ったことも。

はじめ君さえ来なければ、あの会話さえなければ。
僕は花飾りを渡して、セラ嬢は笑ってくれて、ただ穏やかな時間を過ごせていたはずなのに。

そんな思いが胸の中を埋め尽くし、気付けば身体が動いていた。
自分でも何故引き止めたのかは分からない。
ただ、このまま何事もなかったように立ち去られることだけは許せなかった。

伸ばした手は彼の肩を強く掴み、そのまま無理やり足を止めさせる。
振り返ったはじめ君は驚くこともなく、ただ一度だけ僕の手へ視線を落とし、それから静かに顔を上げた。


「今度は俺を殴るつもりか」


その言葉を聞いて、胸の奥で黒い感情が大きく揺れた。
殴りたいわけじゃない。
そんな生温いものではなかった。
できることなら、この男を今すぐぐちゃぐちゃに斬り殺してしまいたいとさえ思った。

二度とセラ嬢へ余計なことを言えないように。
二度と僕たちの間へ入って来られないように。
そんな衝動が理性を飲み込みかける。
だけど、その時浮かんだのはセラ嬢の顔だった。
優しく笑ってくれたことも、僕を信じると言ってくれたことも、全部覚えている。

もしここで僕がはじめ君を傷付けてしまえば、もう彼女は僕に微笑んでくれなくなるだろう。
彼女に嫌われることだけは、どうしても耐えられない。
だから僕は歯を食いしばりながら衝動を押し殺し、掴んでいた肩からゆっくりと手を離した。

はじめ君は何も言わなかった。
ただ静かに僕を見つめ、それから再び前を向く。
やがて庭園の向こうへ消えていくその背中を睨みながら、僕はきつく拳を握り締めていた。

怒りは消えないし悔しさも消えない。
それでも本当に苦しかったのは、はじめ君の言葉ではなかった。


『私、総司様のこと、ちゃんと真剣に考えてみる』


その一言だけが、今も胸の奥へ刺さったまま僕の心中を暗闇に落としていくようだった。


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