4

はじめ君が居座るアストリアでの日々は、正直言って最悪だった。
彼も僕と同じように騎士団で稽古を受けているから、朝も昼も夕方も、気が付けば視界のどこかに彼がいる。
そしてそれ以上に厄介なのは、僕がセラ嬢に会いに行こうとする度に、まるで示し合わせたみたいに彼も同じ場所へ現れることだった。

僕とセラ嬢が一緒に過ごしてきた庭園もそうだ。
僕にとってはあの子との思い出が積み重なった大切な場所なのに、最近はそこへ行く度に当たり前のようにはじめ君がいる。
セラ嬢の隣に立つはじめ君の姿を見る度に苛立ちが募り、その感情を上手く飲み込めないまま三日が経過した。

そして今日の昼食も最悪だった。
剣術の話になった途端、はじめ君と意見がぶつかり、セラ嬢とはほとんど話すことさえ出来なかった。
しかも、守りが雑だとか、剣が勢い任せになっているとか。
好き勝手言われた挙句、最後には呆れたような顔までされたから、僕の機嫌はこれ以上ないくらい悪かった。


苛立ちを抱えたまま騎士団広場へ戻り、午後も苛立ちをぶつけるかのように鍛錬に没頭する。
そしてあたりを夕日が染めていく頃、訓練を取り仕切っていた騎士団員が全員を見回しながら声を張り上げた。


「午前中は様々な相手と剣を交えたが、ここからは同格の相手と何度も立ち合ってもらう。互いの癖や弱点を見極め、自分に足りないものを見つけろ。一度や二度では見えないものも、繰り返し剣を交えれば見えてくるはずだ」


その言葉を聞いて、僕は思わずはじめ君を見た。
すると、ほとんど同じタイミングではじめ君もこちらを見ていて、互いの視線が真っ向からぶつかる。
数秒の沈黙の後、どちらからともなく眉がひそめられた。
 

「なに?僕とやりたいの?」
 

そう言うと、はじめ君は腕を組んだまま少しも視線を逸らさない。


「あんたが俺と組みたいのならば付き合ってやっても構わない」

「僕は別にどっちでもいいけどね。でも僕とやり合ったら、多分はじめ君、ずたぼろだよ」


挑発混じりにそう言った僕に対して、普段なら受け流すはずの彼はその目を鋭く細めた。
剣の話になると、はじめ君も案外大人げないらしい。


「総司が勝つかはわからないと思うが。なにせ、あんたの守りは穴だらけだからな」

「……へえ、言ってくれるね。そんなに自信があるならいいよ、付き合ってあげても。その代わり、すぐにへばるのはやめてね」

「望むところだ」


互いに剣を握り、距離を取る。
木剣を持つ手に力を入れ、間合いを測ろうとした時だった。


「一つ提案がある」


はじめ君が不意にそう言うものだから、僕は視線だけを向ける。
彼は既に木剣を構えていたけど、まだ踏み込んでくる気配はない。
ただ静かにこちらを見据えながら、落ち着いた声で続けた。


「先程の指示では、同じ相手と何度も立ち合い、互いの課題を探れと言われた。ならば勝負も一太刀ごとに区切るのではなく、実戦を想定したものにしないか」

「実戦を想定したもの?」

「一本取られたから終わりではないということだ。実践であれば、傷を負っても相手は倒れないかもしれないだろう。それに一度優勢になっただけで戦いが決するわけでもない。戦闘不能になるか、自ら負けを認めるまで続ける。それでこそ、本当の意味で相手の剣が見えてくる」

「ああ、なるほどね」


はじめ君が何を考えてこの提案をしてきたのかはすぐに分かった。
昼食の時から、彼は僕の守りについて散々口にしていた。
隙がある、雑だ、攻めに偏り過ぎているって。

一本勝負では、その答えは出ない。
だけど長く剣を交え続ければ、僕の欠点は必ず表に出る。
そう考えているんだろう。

つまりこれは、はじめ君なりの証明だ。
自分の見立てが正しいことを、剣で示したいらしい。


「いいよ、実戦形式で。一本取って終わりじゃ、正直あっという間だしね。丁度退屈してたところなんだ」

「俺はそう簡単に一本取られるつもりはない」

「ふうん、そう」


口元の笑みが深くなる。
その言葉を聞けば聞くほど、負けたくなくなるから不思議だ。


「でも、本当にいいの?まいったってはじめ君が言うまで、僕は絶対に手を止めないよ」

「構わない。俺も同じだ。遠慮も加減も必要ない。目の前の相手を打ち倒さなければ終わらない、そのつもりで来い」


どうやら本気らしい。
だったら僕も遠慮する理由はない。

この数日、はじめ君には嫌というほど苛立たされてきたから、この実戦訓練は都合がいい。
言葉で何かを語るよりも、剣を交えればわかることがあるからだ。
僕が必死に積み重ねてきたものも。
セラ嬢を護るために磨いてきた強さも。
そして何より、はじめ君が思っているほど僕は甘くないということも。
その全部を、今から嫌というほど教えてあげようと思った。


「いくぞ!」


はじめ君の声を合図に間合いへ飛び込み、同時に木剣を振り下ろすけど、はじめ君はそれを正面から受け止め、そのまま流れるように反撃へ転じてくる。
受けられること自体は予想していたから構わない。
僕もすぐに身体を捻って次の一撃へ繋げるものの、打ち込んでも打ち込んでも彼の剣は途切れることなく返ってきて、木剣同士がぶつかる乾いた音だけが広場に響き続けた。


はじめ君の剣はかなり速い。
それだけなら問題ないけど、彼は左利きだった。
左から繰り出される斬撃も、身体の運び方も、僕が慣れ親しんできたものとは微妙に違う。
普段なら自然に見えるはずの軌道が僅かにずれて感じられるし、その違和感が思った以上に厄介だった。
対応できないほどではないけど、一瞬の判断が遅れれば勝敗を左右するのが剣だ。
だからこそ、いつも以上に神経を研ぎ澄ませながら相手の動きを追う。


「っ……」


踏み込んだ勢いのまま胸部を打つと、確かな手応えが伝わった。
だけど次の瞬間には僕の肩にも衝撃が走る。
はじめ君の木剣が届いていたのだ。

互いに一本。
それでも僕達は止まらない。
距離を取ることもなく再び踏み込み、今度は僕が肩を打ち、彼が腕を打ち、互いに傷を負った兵士みたいに構わず剣を振り続ける。


ああ、そうか。
もしこれが真剣だったなら、先程胸部へ入れた一撃で勝負は決まっていたはずだ。
どれだけ鍛えられた騎士であっても、急所へ届く刃を受けて平然としていられるはずがない。
でも相手が鋼鉄の胸甲や鎖帷子に身を包み、多少の攻撃では倒れない状況だったなら、おそらく今のような戦いになるのだろうと僕は考えた。

木剣を打ち合わせる度に腕へ重い衝撃が伝わり、額から流れ落ちる汗が視界を掠めていく。
それでも不思議なことに意識だけはどんどん冴えていき、騎士団広場の喧騒も、周囲で訓練を続ける騎士達の姿も、いつしか僕の意識から遠ざかっていた。

目の前にいるのはただの訓練相手ではない、そんな感覚が次第に強くなっていく。
ここは戦場で、僕は命を懸けて剣を振るっている。
相手を倒すか、自分が倒されるか。
本当ならそんな場所ではないと分かっているのに、剣を交え続けるうちに身体の奥がそう認識し始めていた。

けれど、それでいいと思った。
実際の戦場では相手が倒れるまで終わらないし、一撃を与えた程度で安心できるほど甘くもない。
だから僕は目の前のはじめ君を見据えながら、その身体のどこに隙が生まれるのかを探し続けた。
胸が守られているなら腹を狙えばいいし、腹が駄目なら肩を狙えばいい。
肩でも崩れないなら首筋へ繋げればいい。
どこかに必ず綻びはあるはずで、その綻びを見つけ出して突き崩すことこそが僕の戦い方だった。

だから僕は攻め続けた。
はじめ君が剣を振れば受け流し、そのまま踏み込みながら腕を打ち、反応したところへ肩を狙い、さらに胸元へ木剣を叩き込む。
攻撃を受けられても、流されても構わない。
相手に考える時間を与えず、こちらの流れへ引きずり込んでしまえばいいだけの話だった。

何度も木剣が身体へ当たり、確かな手応えがある。
その度にはじめ君の表情が歪み、苦しそうに呼吸を吐き出しているのが分かった。
それでも彼は倒れないし、膝もつかない。
降参もしない。
苦痛を押し殺しながら僕を見据え、少しでも反撃の機会を見つけようとしている。
その執念深さには正直驚かされた。
でも、だからこそ倒したいと思った。

はじめ君の剣が大きな軌道を描きながら僕の脇腹へ向かってくる。
鋭い一撃だった。
受けることも出来たし、避けることだって出来た。
けれど僕は敢えてそうしなかった。
この程度ならまだ動けると判断した時には、既に自分の剣を振り上げていたからだ。

はじめ君の目が僅かに見開かれるのが見えた。
おそらく予想外だったのだろう、僕が彼の攻撃を受けに回ると思っていたに違いない。
でも勝負というものは、相手の想定から外れた瞬間に大きく傾くことがある。

実際、僕は命を懸けた戦いを幾度も経験してきた。
怪我を負う覚悟で踏み込み、その代わりに相手を倒すための機会を掴む。
そうしなければ生き残れない場面もあった。
だから脇腹へ衝撃が走った時も、痛みに意識を向けることはなかった。
鈍い音が響くと同時にはじめ君の剣が僕の脇腹を打ち据え、同時に僕の木剣も彼の脇腹へ深く叩き込まれていた。


「……くっ」


苦しそうな声が漏れたけど、僕は構わず前へ出た。
脇腹には確かな痛みが走っているものの、この程度なら十分耐えられるし、そもそも痛みを理由に剣を止めるつもりもない。
昔から兄達に散々殴られてきたからか、多少打たれたくらいでは怯まなくなっていたし、それ以上に今は目の前の相手から意識を逸らしたくなかった。

そして実際、はじめ君は今の一撃で僅かに動きを止めていた。
それはごく僅かな時間のことだったけど、剣士同士の戦いでは十分過ぎるほど大きな隙だった。
だから僕は迷わずその懐へ踏み込み、腕を打ち、肩を打ち、そのまま胸元へ木剣を叩き込む。
たとえ受けられようと反撃されようと構わない。
今は流れを渡したくなかったし、このまま攻め続ければ必ず崩せるという確信にも似た感覚があった。

木剣が身体へ当たる度にはじめ君の表情が苦痛に歪み、呼吸も更に乱れていく。
その姿を見ているうちに、胸の奥から得体の知れない熱が込み上げてきた。
確実に追い詰めている、あと少しで崩せる。
そんな確信が全身を支配する中で、僕は次にどこを狙うべきなのかを考え続けていた。
肩は何度も打ったし腕も打った。
胸も脇腹も十分過ぎるほど叩いている。
ならば残るのはどこだろう。
どうすればこの男を完全に崩せるのだろう。
その答えを探し続けた末に、僕の視線は自然と一箇所へ吸い寄せられていた。

意識が頭部へ辿り着いた時、不思議なほど迷いは消えていた。
ここだと確信すると同時に僕は大きく木剣を振り上げる。
はじめ君も危険を察したらしく咄嗟に身体を動かし、防ごうとしているのが見えたけど、僕は構わず踏み込んだ。

この一撃で終わらせる。
そう決めて振り下ろした木剣は大きな弧を描きながら一直線に落ちていき、掌が痺れるほどの凄まじい手応えが伝わってきた。


「……うっ……」


決まった、そう思った。
確かな手応えがあったし、振り下ろした木剣は間違いなくはじめ君の頭部を捉えていた。

でも僕の視界に飛び込んできたものは勝利の実感ではなく、打たれた箇所を押さえた彼の指の隙間から滲む赤だった。
はじめ君の頭部を捉えた木剣が弾かれるように離れた後、額から赤い血が溢れ、やがて額を伝って流れ落ちていく。
はじめ君の身体が大きく揺れて、それまで何度打ち込んでも踏み留まっていた足がついに支えを失い、そのまま膝を折るようにして地面へ崩れ落ちた。
そして耳に届いたのは、よく知っている声だった。


『はじめ……!』


その声を聞いた瞬間、まるで冷水を浴びせられたみたいに意識が現実へ引き戻されて、はっと息を呑んだ。

いつの間にか周囲は騒然としていた。
ざわめきが聞こえ、誰かが駆け寄ってくる足音も聞こえる。
その光景は、以前街であの男を地面へ叩きつけた時とどこか似ていた。

気付かないうちに熱中し過ぎていた。
試合だということを忘れ、戦場にいるかのような感覚へ引きずり込まれていた。
そう理解したのは、倒れたはじめ君の姿を改めて見た時だった。
肩には何度も木剣を受けた痕が残り、腕にも赤く腫れた箇所が見える。
胸元や脇腹には打撃を受け続けたことで制服の布地が乱れ、荒い呼吸を繰り返す姿は明らかに満身創痍だった。


『はじめ、大丈夫……?』


セラ嬢は震える声でそう問い掛けながら、慌てた様子で彼の傍へ駆け寄っていた。


「……ああ、問題ない」


はじめ君はそう答えたものの、その声には普段の落ち着きはなく、頭部を押さえる手にも力が入っている。


『でも、凄い血が……』


セラ嬢は不安そうに眉を寄せながらハンカチを取り出し、震える手で傷口へ押し当てていた。

どうして彼女がここにいるのか分からない。
いつからこの試合を見ていたのかも分からない。
ただ、目の前にいるセラ嬢が明らかに動揺していて、その視線がずっとはじめ君へ向けられていることだけは嫌でも分かった。
その光景を見ていると胸の奥が妙に重くなり、先程まで身体を満たしていた熱が呆気なく冷えていくような感覚があった。


「おい、総司殿。さすがにやりすぎだって。どうしちまったんだよ」


聞き慣れた声に振り返ると、平助君が難しい顔をしながらこちらを見ていた。
その隣では伊庭君も普段よりずっと険しい表情を浮かべていて、その視線には戸惑いと心配が混ざっているように見える。


「僕達が止めていた声、聞こえなかったんですか?」


伊庭君は責めるような口調ではなく、むしろ確認するように静かにそう問い掛けてきたけど、その言葉は思っていた以上に重く胸へ沈んだ。

僕は何も答えられなかった。
聞こえていなかった。
いや、本当は聞こえていたのかもしれない。
周囲が何か言っていたことも、誰かが声を上げていたことも、今になって思い返せば微かに記憶に残っている。
でも、その時の僕は耳に入っていなかった。
目の前の相手を崩すことしか考えていなかったし、どうすれば倒せるのか、それだけを考えながら剣を振り続けていたからだ。
だから返す言葉も見つからないまま、僕の視線は自然とはじめ君へ向かい、その隣で心配そうに寄り添うセラ嬢の姿をぼんやりと見つめていた。

つい先程までは勝つことしか考えていなかったのに、今はセラ嬢が僕をどう見ているのかばかりが気になって仕方がない。

やり過ぎたと思われただろうか。
怖がらせてしまっただろうか。
それとも、失望されてしまっただろうか。
考えたくもないのに、そんな想像ばかりが頭に浮かんでくる。

いつだって優しく笑っていてほしいし、僕を見た時には安心したような顔をしていてほしい。
だからこそ、はじめ君の傍に寄り添う彼女の姿を見ているだけで胸の奥が落ち着かなくなっていく。

すると、その時だった。
セラ嬢がふと顔を上げる。
まるで僕の視線に気付いたみたいに、ゆっくりとこちらを見上げてきた。

視線が重なると、胸の奥が強く掴まれたような気がした。
そこにはいつもの微笑みがなかったからだ。
庭園で話している時に見せてくれる柔らかな笑顔も、僕の冗談に小さく肩を揺らして笑ってくれる時の穏やかな表情もなく、ただ悲しそうに揺れる瞳だけが真っ直ぐ僕へ向けられていた。

どうしてはじめにこんなことをしたの。
その瞳は何も語っていないはずなのに、そんな問いだけが静かに伝わってくる。
そして、その奥には責める気持ちよりも、不安や戸惑いの方が強く見えてしまうから余計に苦しかった。

僕は目を逸らせなかった。
逸らしたら駄目な気がしたし、この子が向けてくれている視線から逃げてしまったら、本当に取り返しのつかないことになる気がした。
本当なら何か言うべきだったのだと思う。
訓練だったのだと説明することもできたはずだし、わざとではないと伝えることもできたはずだ。
けれど言葉は一つも出てこなかった。
先程まであれほど迷いなく剣を振っていたというのに、たった一人に掛ける言葉すら見つけられない。
そんな自分が情けなくて仕方がなかった。

そして何も言えないまま見つめ合っているうちに、セラ嬢は何かを言い掛けるように僅かに唇を動かしたものの、そのまま言葉を飲み込み、ゆっくりと視線を伏せてしまう。
その仕草を見た瞬間、僕はようやく気付いた。

僕が本当に怖かったのは、はじめ君を怪我させてしまったことだけじゃない。
この出来事をきっかけに、セラ嬢の中で僕を見る目が変わってしまうことだった。
セラ嬢の笑顔が好きだからこそ、その笑顔を曇らせる存在にはなりたくなかった。

それなのに今の彼女は、僕の知っているいつものセラ嬢とは違う顔をしている。
その事実が、どんな怪我よりも胸に痛かった。


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