5

あの後、はじめは公爵邸の医務室へ運び込まれ、先生の診察を受けることになった。
診断の結果、身体中に打撲や裂傷はあるものの命に関わるような怪我はしていないらしい。
時間をかけて治療すれば問題ないとのことだった。
でも額の傷だけは深かったらしく、縫合が必要になった。
ようやく治療が終わり、静かになった医務室の中で、私はベッドへ横たわるはじめの姿を複雑な気持ちで見つめていた。


『身体はつらくない?先生がしばらくは胃に負担をかけない方がいいっておっしゃっていたから、今料理長にお願いして野菜を柔らかく煮込んだスープを作ってもらってるの。食欲がなくても少しは食べられると思うよ』

「ああ、すまないな」

『額の傷は?血は止まったみたいだけど、しばらくは安静が必要だって先生がおっしゃってたよ』

「そうか。身体が鈍らないといいのだが」


その返事を聞いて、私は思わず小さく息を吐いた。
こんな状態になっているのに、はじめが気にしているのはやっぱり剣術のことみたい。
でも先生の話によれば、もし傷の位置があと少しだけ下へずれていたら視力に影響が出ていた可能性もあったらしい。
そう聞かされた時には本当に血の気が引いた。
今こうして無事でいてくれることが何よりだったけど、包帯から覗く腕や肩には青紫色の痣がいくつも残り、胸元や脇腹にも強く打たれた痕が見えていて、診察をしていた先生でさえ驚いた様子を見せていた。


『総司様と何があったの?』


私が騎士団の訓練場へ向かった時には、もう勝負は終盤だった。
最初から見ていたわけではないけど、それでも目に飛び込んできた光景は今も頭から離れなかった。

あの時のはじめの様子は私から見ても限界を超えているように見えたのに、総司様は今にも倒れそうなはじめに次々と打ち込みを続け、受け身を取ることさえ難しくなっていた彼に容赦なく剣を振るっていた。
だから慌てて総司様の名前を呼んだけど、その時にはもう振り上げられた木剣が勢いよく振り下ろされ、次の瞬間にははじめの額から血が流れていた。

本当はあの場で総司様へ直接聞こうと思っていた。
どうしてあんなことになったのか。
どうして止まれなかったのか。
けれど私が見上げた総司様の瞳には、はっきりと動揺の色が滲んでいた。
周囲には大勢の騎士団員達もいたし、あの場で問い掛けるべきではないと思った。
だからまずは、実際に総司様と剣を交えていたはじめの話を聞こうと考え、静かに彼の言葉を待っていた。


「今回の課題は、同じ相手と繰り返し剣を交え、その中で自分の弱点と相手の長所を見極めることだった。俺は総司と組み、訓練をしていた」

『あれが……訓練なの?』


思わずそう尋ねると、はじめは少しだけ視線を伏せた。


「訓練に見えなかったというのなら、俺が総司に圧倒されたということだろう。少なくとも俺はそう感じた」


その言葉を聞いて、私はゆっくり首を横に振る。


『私は最初から見ていたわけじゃないの。でも訓練場へ着いた時には、もうはじめが一方的に打たれているように見えたから……』

「元々あの形式を提案したのは俺だ。一本取られたら終わりではなく、どちらかが戦闘不能になるか、自ら負けを認めるまで続けようと言った。実戦では一度打たれたから終わりということはない。最後まで剣を握り続ける状況で向き合えば、見えてくるものもあると思ったのだがな」

『それなら、今回の訓練はためになった?』

「……ああ。ためにはなった」


その声はどこか自嘲するようでもあり、同時に納得しているようにも聞こえた。


「俺は今まで実戦を想定して剣を振るっているつもりだった。だが今日総司と打ち合って分かったことがある。俺は訓練場で実戦を想像していただけだったが、総司は違う。怪我を負うことも、自分が打たれることも前提にしながら、それでも相手を倒すことだけを考えて剣を振るっていた。俺は相手の攻撃を受けることを避けようとしていたが、総司は必要なら自分が傷付くことさえ厭わなかった。あの迷いのなさは、実際に命のやり取りを経験した者にしか持てないものだろう」

そこで一度言葉を切ると、はじめは静かに息を吐いた。


「俺はまだ訓練の中でしか剣を振るっていない。その差など大したものではないと思っていたが、実際に向き合ってみれば想像以上だった。総司がどれほどの場を潜り抜けてきたのか、その一端を見せつけられた気がする」


確かに総司様は圧倒的に強かった。
だけど、それだけじゃない。
あの時の総司様は、まるで剣を交えることそのものに魅入られているようだった。

本来なら剣は何かを護るためのものだと私は思う。
けれど今日の総司様は違った。
目の前の相手を打ち倒し、自分が相手より強いと示すことだけが、あの時の総司様にとって何よりも大切なことのように見えた。

だからなのだろうか。
はじめが傷付いても、周囲が止めようとしても、私が名前を呼んでも。
総司様は決してその手を止めなかった。
その意識はただ剣の先にだけ向けられていて、一撃ごとに研ぎ澄まされ、追い詰めるほど鋭さを増していく。
相手を圧倒しているはずなのに止まろうとせず、その瞳には高揚に似たどこか危うい熱が宿っていた。

その姿を見ているうちに、私は胸の奥が少しずつ冷えていくのを感じていた。
だって、それはまるで戦いの熱に呑まれ、人として抱くはずの迷いや躊躇いさえ置き去りにしてしまったかのように見えたから。

それは私の知る優しい総司様とはあまりにも違っていて、訓練場に立っているはずなのに、私には戦場の真ん中で命を奪い合っている人のように感じた。
だからこそ、あの時の総司様を思い出すと胸が苦しくなる。
あの姿は、私が長年憧れていた総司様とは違う人のようだった。


「だが俺がこの訓練を提案したのは、ただ単に剣術の腕を競うためだけではない」


そう言ったはじめの表情は真剣そのもので、少しの沈黙を挟むと、私を真っ直ぐ見据えながら静かに口を開いた。


「以前セラは迷っていただろう。街での一件が単なる衝動だったのか、それとも総司という人間の本質なのか、答えを出せずにいたように見えた」


あの日以来、私は総司様のことをもっと知りたいと思っていた。
いいところもそうでないところも含めて、総司様を大切に想える自信があったから。
でもそう想う反面、あの日はじめから聞かされた話や、街で目にした光景が頭から離れず、私はずっと心のどこかで答えを探していたのだと思う。


「だから確かめたかった。もしあの時だけ理性を失っていたのなら、まだ理解できなくはない。だが、そうではなく普段から人を傷付けることに躊躇いがない人間なのだとしたら話は別だ」

『それで……総司様と打ち合いを?』

「ああ。正直に言えば、技量で俺が総司に及ばないことくらい最初から分かっていた。だからこそ意味があった。俺が劣勢になった時、総司がどう行動するのかを見ることができたからな」


私は思わず唇をきつく結ぶ。
訓練場で見た光景が脳裏に浮かび、はじめの言葉だけが重く響いた。


「言葉の上では、どちらかが戦闘不能になるか、自ら負けを認めるまで続けるという約束だったが、そもそも普通の人間であれば、訓練中に相手がまともに戦えなくなれば、そのような口約束がなくとも誰でも途中で剣を収める。戦えない相手を一方的に打ち続ける意味などないからだ」


はじめの言っていることは理解できる。
私が見ていても、今日のあの光景はとても訓練と呼べるものの域を超えていた。


「だが総司は俺が受け身を取れなくなっても尚、剣を振るい続けた。それどころか、俺が弱れば弱るほど総司の瞳は生き生きとしていったように感じる。勝負をしているというより、相手を追い詰めることそのものに没頭していたように見えたのだ」


私だけではなく、きっとあの場にいた騎士団員達もきっと気付いていた。
何度も木剣を振り下ろしながら、総司様の口元が僅かに吊り上がっていたこと。
相手を追い詰めるほど鋭くなっていく眼差し。
そして、打ち据えるたびにどこか高揚しているように見えた横顔を。

だから私は怖くなった。
だから止めなければと思って総司様の名前を呼んだ。
けれど私の声が届くより先に、振り上げられた木剣ははじめの頭部へ振り下ろされてしまっていた。


「俺は知りたかったのだ。総司が怒りに任せて暴走しただけの人間なのか、それとも人を攻撃することに躊躇いのない人間なのかをな」


医務室に沈黙が落ちる。
そして、はじめはゆっくりと結論を口にした。


「恐らく、総司は相手より自分の衝動を優先する。理性がないと言いたいわけじゃない。むしろ総司は冷静だったが、止まらなかった。相手が戦えなくなっても剣を振るい続け、人を傷付けることに戸惑いを見せなかった。それは俺が以前から危惧していたことの証明でもある」

『…………』

「今はセラに優しいかもしれないが、それがいつまで続くのかは分からない。今日の総司を見ただろう。弱った人間にあれほど容赦がないのなら、いつかセラに対しても何をするか分からないぞ」

『そんなこと……ないよ。きっと今日のことだって、総司様には悪意はなくて』

「どうだろうな。総司にとって俺がここに滞在していることは不本意なはずだ」

『でも、総司様はそんなことで人を傷付けたりしないよ』

「俺もそうであってほしいと思っている。だが実際のところは総司にしか分からないことだ」


もっと強く否定したかった、総司様はそんな人ではないって。
私に向けられる眼差しがどれほど優しいものか知っているし、誰よりも私を大切にしてくれていることだって分かっている。
それなのに言葉が続かなかったのは、訓練場で見たあの姿が脳裏から離れなかったからだった。

勿論、信じたい気持ちは今も変わらない。
それでも胸が苦しいのは、はじめがこれほどまで総司様を危険視していることだった。

はじめからしたら、私と総司様は年に一度会えるかどうかという関係でしかない筈。
それなのに、はじめはこれほど真剣に警戒している。
もし彼が、私と総司様が婚約していることを知ったらどう思うのだろう。
きっと祝福はしないで、むしろ本気で止めようとするに違いない。
そんなことが容易に想像できてしまったからこそ、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。

けれど、これ以上この話を続けるのは違う気がした。
今一番に考えなければならないのは、目の前でベッドに横たわっているはじめの身体のことなんだから。


『色々気にかけてくれてありがとう。でも今はまず、はじめが元気にならないとね。先生も安静にしていてくださいって言ってたし、もうあんまり危ないことはしないで?』


そう言うと、はじめは少しだけ眉を動かした。


「危ないことをしたつもりはないが」

『してるでしょ?』


思わず呆れた声が出てしまう。


『そもそも、どうして降参しなかったの?途中から反撃も難しくなってたんでしょ?それならもっと早くに止めれば良かったのに』


私の問いに、はじめは少しだけ視線を天井へ向けた。
その横顔には困ったような色が浮かんでいて、私は思わず小さく息を吐く。
きっと本人にも言い分があるのだろう。
けれど、額を縫う怪我を負い、身体中に痛々しい痣を作っている人間が言う言葉としては説得力がない。


「そうするべきだったのかもしれないな」


珍しく歯切れの悪い返答だった。


『だったらどうして?』


すると、はじめは少しだけ苦笑に近い表情を見せる。


「総司がどうするのか知りたかった。途中から訓練というより確認になっていた。俺が止まればそこで終わる。だが、それでは知りたいことが分からないからな」

『だからって、自分がぼろぼろになるまで続けることないでしょ?』

「そうかもしれないな」


そう答えながらも、はじめの声音には後悔より納得が混じっているように聞こえた。
だから私は余計に困ってしまう。
総司様も頑固だけど、はじめも十分頑固だと思う。


『もう、本当に無茶ばっかりするから困ります』

「心配をかけたのなら悪かった」


その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜く。
とにかくはじめが致命傷を負わなくて良かった。


『ううん。私のためにありがとう。はじめが怪我をしてまで伝えてくれたことは無駄にしないし、総司様とのことはちゃんと心に留めておくね。だから早く元気になって』


今回の出来事を、自分の中でどう受け止めればいいのか分からなかった。

はじめの言葉は理解できるし訓練場で私自身が見た光景も事実だった。
だからといって総司様が危険な人だと簡単に結論付けることもできない。
あの時の総司様を思い出せば思い出すほど、私の心は迷ってしまう。
だって、私が駆けつけた時に見せたあの瞳には、悪意がなかったように思えたからだ。

誰かを憎んでいたわけでも、傷付けてやろうとしていたわけでもない。
むしろ総司様は、目の前にいる相手との戦いそのものに全力で向き合っていて、剣を交えることへ誠心誠意没頭していただけのようにも見えた。
けれど、それこそがはじめの言う危うさなのかもしれないとも思う。

本来ならば止まるべき場面で止まれないこと。
相手が限界を迎えていても、自分の中に生まれた衝動に歯止めを掛けられないこと。
そして何より、あの時の総司様は相手を傷付けているという事実そのものへの意識が薄かったように見えた。

その姿は残酷というよりも、何か一つのことへ深く没頭し過ぎるあまり、それ以外が見えなくなってしまった人のようで、だからこそ私は余計に答えが分からなくなる。
もしそこに悪意があったのなら、きっともっと簡単だった。
怖いと感じることも、離れることも考えたかもしれない。
けれど私が見た総司様はそうではなかった。

だからこそ、はじめの言葉を否定し切れない自分と、総司様を信じたい自分との間で心が揺れてしまい、胸の奥には答えの見えない不安だけが静かに残り続けていた。

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