7

総司様はずっと微笑んでいた
医務室でも、廊下でも、私に向けられる声はいつも通り穏やかで、言葉だって優しかった。
それなのに、見上げた先の笑顔だけはいつもと違う。
本当は色々なことを感じているのに、それを無理に押し殺しているような笑顔だった。


『ぐすっ……』


気付けば涙が滲み、私は慌てて目元を擦る。
折角ヴェルメルから私に会いに来てくださったのに、私はきっと総司様を傷付けてしまった。
はじめとの会話を聞かれてしまったのかもしれないし、婚約者である総司様ではなく、はじめの傍にいたことが良くなかったのかもしれない。
総司様が他所他所しくなった明確な理由は分からなかったけど、総司様が私との間に壁を作ったことだけははっきりと感じていた。

冷たくされたわけではないし、怒られたわけでもない。
それなのに、今まで当たり前のように向けられていた温もりが遠ざかってしまった気がして、胸の奥が痛んだ。

本当は腹を割ってお話ししたい。
無理に笑うのではなく、思うことがあるなら正直に言ってほしい。
怒っているなら怒っている、悲しいなら悲しいって。

でも、総司様はきっとそういう人ではない。
悲しい時も、苦しい時も、それを誰かにぶつけるのではなく、自分の中に静かに閉じ込めてしまう。
今日のあの笑顔も、きっとそうだった。
私を困らせたくなくて、抱えているはずの想いを隠したまま微笑んでくださっていたんだろう。
それは総司様らしい優しさなのかもしれない。
でも、その優しさに甘えることしかできない自分が情けなくて、胸の奥が苦しくなった。

それに、私も同じだった。
聞きたいことも伝えたいこともたくさんあるのに、言葉にするのが怖い。
もし総司様を傷付けてしまったらどうしよう。
もし嫌われてしまったらどうしよう。
そんなことばかり考えて、結局何も聞けないまま今日まで来てしまった。

窓の外はすっかり夜になっている。
あと数日もすれば総司様はヴェルメルへ帰ってしまうのに、このまま何も伝えられずにお別れするなんて嫌だった。
だから私は夕食を終えると急いで厨房に向かった。
総司様の好きなクッキーを焼こう。
そう思いながら生地を混ぜていると、不思議と少しだけ気持ちが落ち着いていく。
甘い香りが漂う厨房の中で、私は焼き上がったクッキーを一つずつ丁寧に籠へ並べた。

総司様と分かり合いたい。
私の気持ちを聞いてほしい。
そしてできることなら、総司様の本当の気持ちも聞かせてほしい。
そんな願いを胸に抱きながら、私はそっと籠を抱きしめた。


気付けば夜も九時を過ぎていた。
普段ならとっくに湯浴みを済ませ、自室でゆっくり過ごしている時間だったけど、今日はどうしてもそんな気分になれなかった。
頭の中に浮かぶのは総司様のことばかりで、あの無理をしたような微笑みを思い出すたびに胸が落ち着かなくなる。
だから私はクッキーの籠を抱え、そのまま総司様のお部屋に向かった。

けれど何度ノックをしても返事はなく、しばらく待ってみても扉が開く気配はない。
結局そのまま自室に戻り、沈んだ気持ちを洗い流すように湯浴みを済ませた。
髪を乾かし、寝間着に着替え、眠る準備を整えた頃には時計の針は十時を回っている。
このまま朝まで悩み続けるくらいなら、もう一度だけ会いに行こうと、薄いガウンを羽織り、誰にも見つからないことを願いながら静かに部屋を出た。

夜の公爵邸は昼間とはまるで違う。
灯りを落とした廊下は静かで、遠くから聞こえる時計の音だけがやけに大きく感じられた。
私はそっと二階へ降りると、総司様のお部屋の前で立ち止まり、小さく息を整えてから扉を叩く。
コンコン、と静かな廊下に音が響いた。

こんな時間に男性のお部屋を訪ねていることを誰かに知られたら大変だ。
そう思うと妙にそわそわして、私は何度も廊下の先へ視線を向けながら返事を待った。

だけど、待っても待っても総司様は出てきてくださらない。
少しだけ中を覗いてみようかと迷いながらドアノブへ手を伸ばした時、不意に廊下の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
それが山南さんだと気付いた時、私は反射的に扉を開き、そのまま部屋の中へ滑り込むように身を隠していた。
慌てて扉を閉めたところで、自分が何をしてしまったのか理解する。


『あ……』


思わず小さな声が漏れた。

どうしよう……。
総司様のお部屋に勝手に入ってしまった。
たとえお客様として滞在していただいているとはいえ、これは絶対に褒められたことじゃない。
早く出なければ思いながらも、今扉を開ければ山南さんと鉢合わせてしまうかもしれないと、クッキーの籠を胸に抱き締めながら、その場で小さく肩を縮めた。

しばらく様子を窺ったあと、恐る恐る室内に視線を向ける。
部屋の中は静かで、当然だけど総司様の姿はない。
でも、そこには確かに総司様が過ごしている気配が残っていた。

クローゼットの扉が開いていて、中には丁寧に整えられた衣服が掛けられている。
深い紺色のフロックコート、銀の飾り釦が並ぶ騎士用のジャケット、白いシャツに黒のベスト。
訓練の時に着ている生成り色のシャツや、動きやすい細身のトラウザーズまで見えて、思わず足がそちらへ向かっていた。

本当はいけないことだと分かっていたけど、総司様を感じられる気がして、少しだけ近付きたかった。
私は近くのチェストに籠を置くと、そっと指先を伸ばし、クローゼットに掛けられた服の裾へ触れる。
その中には、以前総司様が着ていた濃紺の上着もあった。
私を見つめながら優しく微笑んでくれた時のことが自然と思い出される。
返事はないとわかっていても、名前を呼ばずにはいられなかった。


『総司様……』


もう夜も遅いのに、どちらにいらっしゃるのですか?
私は総司様に会いたいです。
また以前みたいに他愛ない話をして、一緒に笑って、穏やかな時間を過ごしたい。
総司様といると胸が苦しくなるくらい緊張することもあるけど、その時間がどうしようもなく幸せだった。

だからこそ、ここ数日の距離がこんなにも淋しい。
正式に婚約が決まった時、ようやく総司様に近付けた気がしたのに、今は手を伸ばしても届かない場所へ行ってしまったような気がしてしまう。

もしかしたら総司様の私への気持ちは、少しだけ変わってしまった?
私に少し失望してしまった?
そんな不安が一度生まれてしまうと止めることができなくて、視界はあっという間に滲み始めた。
私は慌てて瞬きを繰り返したけど、零れそうになった涙はなかなか引っ込んでくれなかった。

でも、泣いてはいけない。
まだ何も聞いていないのに、一人で勝手に落ち込むなんて絶対に駄目だ。
そう自分に言い聞かせながら目元を擦った、その時だった。
不意に部屋の扉が開く音がして、私は驚きのあまり肩を震わせる。
総司様かもしれないと思った時にはもう身体が動いていて、咄嗟にクローゼットの中へ身を滑り込ませ、慌てて扉を引き寄せていた。


『…………』


あれ?どうして隠れたんだろう。
自分でも分からない。
普通に声を掛ければ良かったのに。
クッキーを渡しに来ました、って言えば済む話だったのに。
でもこの涙目の顔を見られたくなかったし、勝手に部屋へ入っていたことをうまく説明する自信もなかった。

何より、今の私は少しだけ怖かった。
もし総司様が私に会いたくないと思っていたらどうしよう。
もし迷惑そうな顔をされたらどうしよう。
そんなことを考えていたからか、結局隠れてしまっていた。

でもこれは一番駄目な選択だった気がする。
勝手に部屋へ入った上にクローゼットに隠れているなんて、どう考えても怪しい。
不法侵入した挙句、こそこそ隠れているおかしな子だと思われるに決まっている。 


『どうしよう……』


小さく呟いた声は、自分でも情けなくなるほど弱々しかった。
けれど後悔してももう遅い。
総司様は帰ってきてしまったんだから。

私はクローゼットの隙間からそっと外を覗く。
総司様は部屋の扉を閉めると、気だるそうに肩を回しながら大きく息を吐き出した。


「あーあ、疲れた」


いつもの穏やかな声ではなく、本当に疲労が滲んだ声だった。
訓練用ジャケットは肩口に砂埃が付いていて、白いシャツの袖は肘まで捲られている。
額には汗が滲み、総司様の髪も少し乱れていて、どう見てもつい今まで外で鍛錬をしていた様子だった。
剣帯こそ外しているものの、腕にはうっすらと赤い痣が残り、握り込んでいただろう掌にも新しい擦り傷が見える。
こんな時間まで一人で鍛錬していたのかと思ったら、今夜はもう総司様に余計な負担はかけたくないと思った。

だから……お願いです。
お願いだから、バスルームに直行してください。
その間にこっそり出ていきますから。
そうすれば総司様にも迷惑を掛けずに済むし、こんな恥ずかしい状況もなかったことにできる。
でも、願えば願うほど心臓は早鐘を打ち続け、総司様の一つ一つの動きに意識が向いてしまう。
クローゼットの薄暗い空間には総司様の服から移ったほのかな香りが残っていて、それだけで胸が苦しくなるほどドキドキしてしまう自分がいた。

そんな時、不意にあることに気付き、全身から血の気が引いていく。
私の視界が捉えたのは、チェストの上に置いたままになっているクッキーの入った籠だった。


『…………』


今のところ総司様は気付いていない。
首に掛けたタオルで汗を拭きながら水差しのお水をグラスへ注ぎ、一気に喉を潤しているところだった。
でもゆっくりとソファーへ腰掛けた総司様の動きが、不意にぴたりと止まる。


「あれ?」


その声に心臓が飛び跳ねた。

お願いです。
お願いだから気付かないでください。
そんな願いも虚しく、総司様は首を傾げながらチェストの上の籠を手に取る。
私はクローゼットの中で身を縮こまらせながら、その様子を固唾を呑んで見守った。


「あ、クッキーだ」


まだ大丈夫かもしれない。
クッキーだけで、差出人が私だって分かるはずがない。
そう自分に言い聞かせながら必死に落ち着こうとしていると、総司様は再びソファーに腰を下ろし、籠の中から一枚のクッキーを摘み上げた。


「セラ嬢が持ってきてくれたのかな」

『…………』


やっぱり分かってしまうのですね。
思えば去年焼いた時も星型とハート型だったし、総司様はそういうところをきちんと覚えていてくださる。
今度は街で違う型を探してみよう。
そんな場違いなことを考えながらも、私の視線は総司様から離れなかった。

だって今は誰もいない、総司様だけの時間だ。
誰かに気を遣う必要もなく、ただ一人で過ごしている時間だからこそ、私は総司様がどんな表情で私のクッキーを食べてくださるのか気になってしまった。

盗み見なんて良くないことだと分かっている。
だけど、好きな人の素の顔は、どうしたって気になってしまうものだった。

はじめの言葉をそのまま信じているわけじゃない。
それでも、私の知らない総司様がいるのなら知りたいと思ってしまうし、今はそんな総司様を少しだけ見られる機会のような気がしていた。
いつも私の前では嬉しそうに微笑んで、「おいしいよ」と言いながら食べてくださるクッキー。
でも、それは私を喜ばせるための優しさなのかもしれない。
そんな不安が胸のどこかに残っていたから、私は祈るような気持ちで総司様を見つめていた。
すると総司様はふっと口元を緩めて、小さく齧ったあと、そのまま愛おしそうに手の中のクッキーへ視線を落とす。


「……おいしい」


その声はとても穏やかで、まるで大切なものに触れるみたいに優しかった。
総司様は少しだけ目を細めながら微笑んでいる。
それは誰かに見せるための笑顔ではなく、無理に作った笑顔でもなくて、私がずっと好きだった総司様そのものの笑顔だった。
大切そうにクッキーを見つめる顔はどこか幸せそうで、私の前で見せてくださる時と何も変わらない。
その表情を見た瞬間、胸の奥で固く結ばれていた何かがふっとほどけた気がした。


『……っ』


気付けば涙が溢れていた。
ぽろり、ぽろりと零れ落ちる雫を慌てて拭おうとしても次から次へと込み上げてきてしまう。

きっと私は怖かったんだと思う。
長い間見つめ続けてきた総司様が、私の知らないところでまるで違う人だったらどうしようって。
私が好きになった彼の優しさや笑顔が、作られたものだったらどうしようって、知らないうちに怯えていたのかもしれない。

はじめが言っていたように、私の知らない総司様の一面は確かにあるのかもしれない。
それでも私が想い続けてきた総司様も、間違いなく本当に存在している。
誰よりも優しくて、時々意地悪で、私が作ったお菓子を嬉しそうに食べてくださる総司様は、ちゃんとここにいるんだ。
そう思っただけで、この数日間ずっと胸を覆っていた不安が一気に晴れていくようだった。

けれど安心したのも束の間で、私はすぐに現実へ引き戻される。
総司様に距離を置かれているような気がすることも、もしかしたら少しがっかりされてしまったかもしれないことも、何一つとして解決していない。
それに何より、私は今、総司様のお部屋に勝手に入り込み、クローゼットの中に隠れている。

冷静になればなるほど、とんでもない状況だった。
総司様に見つかる前に部屋を出て、早く自分のお部屋へ戻らないと。
そう思いながらそっと身体を動かした、その時だった。
目の前に掛けられていた総司様の濃紺の上着が僅かに揺れ、その肩口に付いた飾り房がふわりと鼻先を掠める。


『っ……』


しまったと思った時にはもう遅かった。
鼻の奥をむずむずとした感覚が駆け抜け、私は慌てて両手で口元を押さえる。

お願い、今だけは駄目。
必死に堪えようとするけど、涙を流したせいで呼吸まで乱れていて、くしゃみは容赦なく込み上げてくる。
小さく肩を震わせながら耐えたものの、次の瞬間には限界が訪れた。


『……くちゅっ』


できるだけ小さくしたつもりだった。
けれど静まり返った部屋の中では、その音ははっきり響いてしまう。
そして同時に、ソファーへ腰掛けていた総司様の動きがぴたりと止まった。


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