8
その日は一日中、悲しそうに僕を見上げていたセラ嬢の顔が頭から離れなかった。
自分から距離を取ったくせに、今更後悔しているなんて愚かだと思う。
でもあの時は、自分の苛立ちを上手く飲み込める自信がなかったし、あれ以上一緒にいたらきっとセラ嬢を傷付けるようなことを言っていた気がする。
だから雑念を振り払うために一人で剣を振り続け、明日になればまたいつも通り接しようと何度も自分に言い聞かせていた。
「あーあ、疲れた」
部屋に戻った僕は、水差しの水をグラスへ注いで一気に飲み干す。
本当なら先に湯を浴びるべきなのだろうけど、今はその気力も湧かずにそのままソファーへ身体を沈めた。
すると視界の端に見慣れない籠が映り込み、僕は小さく首を傾げる。
見覚えがあるこの籠は、去年セラ嬢が僕にクッキーを焼いてくれた時に使っていたものだった。
「セラ嬢が持ってきてくれたのかな」
中を覗けば予想通り綺麗に並べられたクッキーが入っていて、僕は一枚摘み上げながら小さく笑った。
たぶん彼女は気付いていたんだろう。
僕が普段と少し違うことにも、無理に笑っていたことにも。
だからこうして気遣ってくれたのかもしれない。
その優しさが嬉しくて、胸の奥のささくれ立っていた部分が少しだけ和らいでいく。
クッキーを口に運ぶと、馴染みのある甘さが広がった。
「……おいしい」
今日はいらないことばかり考えていたけど、このクッキーのおかげで少し気持ちが落ち着いた気がした。
明日になればまた優しくできるし、ちゃんと彼女と向き合える。
そう思った時だった。
『……くちゅっ』
……ん?
なんだか凄く可愛いらしい、くしゃみのような音がした気がするんだけど。
何かに遮られたような小さな音だったけど、感覚的には部屋の中から聞こえた気がする。
まさかとは思うけど……この部屋に誰かいる?
「…………」
僕は周囲に意識を向ける。
暗闇の中での訓練も積んでいるから、人の存在を察することは得意な方だ。
もっとも、それは相手が警戒していたり、敵意を抱いていたり、あるいは見つかるまいと神経を張り詰めている時の話で、何の害意もなくぼんやり身を潜めている相手となると、案外気付けないこともある。
たとえば、そう……セラ嬢みたいな相手とか。
「ねえ、誰かいるの?」
念のため声を掛けてみるけど、返事はない。
部屋の中はしんと静まり返ったままで、まるで僕が一人で話しかけている怪しい人みたいだった。
さすがに気のせいかな。
そう思いながら視線を巡らせた時、ふと違和感に気付く。
寝る時以外ほとんど開けっ放しにしているクローゼットの扉が、何故か綺麗に閉じられていた。
「おかしいな。ここ、確か開いてた筈だけど」
半分独り言を呟きながら立ち上がり、そのままクローゼットへ近付いていく。
もちろん本当に誰かが隠れているとは思っていなかった。
むしろ全部僕の勘違いで、後で思い返したら笑い話になるだろうくらいに考えていた。
だから何の気負いもなく扉へ手を掛け、そのまま勢いよく開けたけど。
『あ……』
そこにいたのは僕のコートに埋もれるように身を縮こませたセラ嬢だったから、数秒の間は本気で言葉を失った。
『あの、こんばんは……』
「…………」
えっと、これはどういう状況なんだろう。
僕を驚かせようとしていたわけではないだろうし、かくれんぼをしていたわけでもないよね。
それに夕方までのセラ嬢は、どこか僕に遠慮しているような、気まずそうな様子だった。
そんな子がわざわざ僕の部屋へ忍び込み、クローゼットに身を潜めているなんてこと、自ら進んでするとは思えない。
でももしその理由が、僕を隠れて監視するためだとしたら……
「もしかして、はじめ君に言われた?隠れて僕を監視してみろって」
『ち、ちがいますっ……』
セラ嬢は目を丸くしながら勢いよく首を振った。
その反応があまりにも必死で、僕は少しだけ安心してしまう。
「それならどうしてこんなところで隠れてたの?」
『えっと、それは……』
「それは?」
問い返すと、セラ嬢は困ったように視線を泳がせたあと、小さな声で事情を話し始めた。
クッキーを渡すために、ここまで来てくれたこと。
山南さんから隠れるために、つい部屋に入ってしまったこと。
僕の服が気になって、ついクローゼットを眺めてしまったことや、僕が帰ってきたことに驚いて、つい中に身を隠してしまったことも。
『ごめんなさい。本当に悪気はなかったんです。はじめに言われたわけでもないですし、総司様を監視するつもりもなくて……でも、結果的には覗き見になってしまいました……』
申し訳なさそうに肩を縮めながら謝る姿を見ていると、怒る気なんて少しも湧いてこない。
むしろ、今はただ僕のところへ来てくれたことが嬉しかった。
『総司様、怒っていらっしゃいますか……?』
不安そうに見上げてくる瞳と目が合う。
僕のコートに囲まれたまま上目遣いでこちらを見ている姿は、反則だと思うくらい可愛いかった。
素直で嘘がつけないところも、しっかりしているようで時々妙に危なっかしいところも、こうして必死に言葉を探しながら僕を見上げてくるところも。
その全部が愛らしくて、僕は思わず小さく息を吐く。
「怒ってないよ」
そう伝えれば、セラ嬢の不安そうな顔も和らぐと思っていた。
でも彼女は瞳を揺らすと、小さく覚悟を決めたようにぽつりと言った。
『たまには思い切り怒ってくださってもいいのですよ?』
この言葉はどういう意味なんだろう。
僕は本当に怒ってなんかいないけど、もしかして怒ってると思われてる?
怒ってもいいって言っている割に、セラ嬢は若干びくびくしているようにも見えるし、この子が僕にどうして欲しいのかいまいちよくわからないな。
「僕に怒ってほしいの?」
『怒って欲しいというか……総司様のありのままの気持ちをぶつけてほしいと言いますか……』
「多分、ありのままをぶつけちゃったらセラ嬢は受け止めきれなくて困っちゃうんじゃない?」
ちょっとした意地悪でそう言ったつもりだったけど、実際本当にそうだと思う。
僕はきっと人より独占欲が強いし、思っている以上に面倒な人間だ。
今日だって本当は、はじめ君より僕を優先してほしかったし、誰より先に僕の話を聞いてほしかった。
そんなことを口にしたところでセラ嬢を困らせるだけだから言わないけど、胸の奥ではずっと燻り続けている。
だからこそ、彼女の前ではなるべく穏やかでいようとしているのに。
『でも……私は、総司様が何を考えているのかわからなくなる方が怖いです』
クローゼットの中で僕のコートに埋もれたまま、彼女は真っ直ぐこちらを見上げている。
逃げ道を探しているような目ではなく、ちゃんと向き合おうとしてくれている目だった。
『総司様は今日もずっと優しかったです。でも、優しいのに遠くて……それが凄く悲しかったんです。私は総司様が優しくしてくださるのは嬉しいですけど、無理に優しくして欲しいわけではありません』
セラ嬢は以前、優しい人が好きだと言っていた。
だから僕は無意識に、自分を偽ってでも優しい自分を演じなければいけない思っていた。
本当の僕は優しくなんてないし、どちらかと言えばかなり冷酷な部分があると思う。
それでも彼女のことは好きで、大切にしたいから、自分の醜い部分が見えないように必死に隠そうとしていた自覚はあった。
だからこそ、こうして綻びを見せてしまった今、セラ嬢にどう接していけばいいのかわからなくなってしまったんだろう。
彼女に嫌われることを恐れたからこそ、距離を取ることを選んでしまったのかもしれない。
「セラ嬢」
静かに名前を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと揺れた。
「クローゼットから出ておいで」
『え?』
「そのままだと話しにくいでしょ」
そう言いながら手を差し出すと、セラ嬢は少し躊躇ったあと、おずおずとその手に自分の手を重ねた。
小さくて柔らかい手だった。
そっと引き寄せると、彼女はようやくクローゼットから出てくる。
けれど狭い場所に長くいたせいか足元がおぼつかず、ふらりと身体が傾いた。
反射的に腰を支えると、セラ嬢の身体がそのまま僕の胸へ寄りかかる体勢になった。
『あ……ごめんなさ……』
至近距離で見上げられた顔が真っ赤になっていて、僕の方まで変な緊張をしてしまいそうだ。
慌てて身体を離そうとする彼女を見ながら、僕は苦笑する。
「そんなに慌てなくてもいいのに」
『でも……恥ずかしくて』
「僕の部屋に勝手に入って、クローゼットに隠れて、挙げ句の果てに僕に捕まったんだから、今さら恥ずかしくもなんともないでしょ」
『そんなことを言われたら、余計に恥ずかしいです……』
肩を竦めて頬を染める彼女が可愛くて、心が和んでいく気がしていた。
「それにしても、まさか君が僕の部屋でかくれんぼして遊んでるとは思わなかったよ」
『かくれんぼをしていたわけではありません。それに、かくれんぼでしたら私はもっと上手に隠れられますよ』
「へえ、例えばどこに隠れるの?」
『えっと、例えば……』
そう言って部屋を見回したセラ嬢は、何か思いついたみたいに嬉しそうな顔をする。
『あのカーテンの後ろとかです』
指差された先を見ると、窓辺には重厚感のあるカーテンが一纏めにされていた。
「それはすぐ見つかると思うけど」
『そんなことありません』
「絶対見つかるよ。だって足が見えるじゃない」
『ええ?見えませんよ。ちゃんとつま先立ちすれば、見えない筈です』
少し膨れても見える顔で言い返されて、思わず笑ってしまう。
ついさっきまであんなにしおらしく謝っていたのに、少し安心した途端にいつもの調子に戻っているところも可愛らしかった。
『総司様はすぐに見つけてしまうかもしれませんけど、他の方なら分からないと思います』
「そうかな」
『そうです』
自信満々に頷く姿を見ながら、僕は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
少し前まで、気兼ねなく話せる気分ではなかったはずなのに、今は他愛のない会話をしているだけで心が軽くなっていく。
案外、僕は単純なのかもしれない。
セラ嬢が僕だけに笑顔を向けてくれるだけで、それまで抱えていた不満や淋しさが小さなことのように思えてしまうんだから。
『総司様?』
気付けば彼女が不思議そうにこちらを見上げていた。
どうやら無意識に見つめてしまっていたらしい。
「ううん。なんでもないよ」
そう答えると、セラ嬢は少しだけ首を傾げた。
その仕草さえ愛らしくて困る。
しばらく二人で見つめ合ったあと、彼女は急に何かを思い出したように口を開いた。
『あっ、クッキー』
「クッキー?」
『総司様、召し上がってくださっていましたよね』
そう言いながら、彼女の視線がソファーに置かれた籠に向かう。
僕もつられてそちらを見ると、食べかけのクッキーがまだ残っていた。
「うん。すごく美味しかったよ」
その言葉は自然に出た。
気を遣ったわけでも、お世辞でもなく、本当にそう思ったから。
『よかった……』
ほっとしたように胸元へ手を当てる姿を見ていると、胸が疼くように熱を帯びる。
たった一言伝えただけなのに、こんなに嬉しそうな顔をしてくれるから、僕はどうしたって彼女には優しくしたくなるんだろう。
『今日はあまりお話できなかったので、どうしてもお渡ししたくて。もしご迷惑だったらどうしようと思ったのですが、やっぱり持って来てよかったです』
僕は正直、素直な人間じゃない。
思っていることをそのまま口にするのはあまり好きじゃないし、誰かに弱いところを見せるくらいなら一人で抱え込む方を選ぶ人間だ。
だからこそ、駆け引きも、計算も、くだらない見栄もなく、ただ真っ直ぐに気持ちを差し出してくれるセラ嬢といると、不思議なくらい心が安らぐ気がしていた。
勿論、まだ全てを話せるわけじゃないし、彼女に見せていない感情も、隠している部分もある。
それでも、これだけは伝えておきたかった。
「もし今日の僕の態度が原因で、君を悲しい気持ちにさせてたらごめん。でもそれは君のせいじゃないからね」
そう告げると、彼女の瞳が小さく揺れた。
本当はもっと色々な想いがある。
自分自身への苛立ちもあるし、はじめ君への複雑な思いもある。
彼女が僕をどう見ているのか分からなくて不安になることだってある。
数え始めたらきりがないくらいだ。
けれど今、それを全部説明しなくてもいいと思えるのは、僕が彼女を信じているからだった。
僕を見上げるその澄んだ瞳が、何も変わらず僕を想ってくれていることを教えてくれているから。
『私こそ、総司様を悲しませてしまったんじゃないかって、ずっと考えていたんです』
セラ嬢はしゅんとした様子でそう言った。
そんなことないよって伝えたとしても、セラ嬢はかえって気にしてしまうかもしれない。
それなら少しだけ話してみようかと、敢えて軽い口調で言葉を紡ぐことにした。
「まあ、はじめ君と仲良くしてるから面白くはなかったかな」
少し肩を竦めながら言うと、セラ嬢がぱちぱちと瞬きをする。
「それにはじめ君は僕を警戒してるみたいだから、セラ嬢にも同じように思われてたら嫌だなって思ったし」
『私は総司様のこと、警戒なんてしていません』
返ってきた答えは驚くほど早かった。
「本当に?」
『本当です』
きっぱりと言い切る声に思わず笑ってしまう。
こんな夜更けに僕の部屋まで一人で来てくれた時点で答えは分かっていたけど、改めて聞けるとやっぱり嬉しかった。
「そっか。それなら良かったよ」
そう言うと、彼女は少しだけ頬を染めながら唇を結ぶ。
何か言いたそうにしているのに、なかなか言葉にならないらしい。
膝の上でぎゅっと手を握りしめ、何度か視線を彷徨わせたあと、意を決したように僕を見上げた。
『私はもうとっくに総司様のことが大好きなんです』
胸の鼓動が一つ大きく鳴る。
彼女は恥ずかしそうに頬を染めながらも、言葉を止めなかった。
『総司様の優しいところも、真っ直ぐ努力されるところも、一緒にいると安心できるところも大好きです。だから、もし総司様がご自分では好きになれないところがあったとしても、私は気にしません。誰かに誤解されてしまうことがあったとしても、私はちゃんと総司様を見ています。だって私にとっての総司様は、いつも私を大切にしてくださる総司様ですから。だから全部ひっくるめて大切なんです』
そこまで言うと、彼女はふわりと微笑む。
『なので、総司様がどんな総司様でも、私の気持ちは変わりません。私はずっと、総司様のお隣にいたいと思っています』
胸の奥でずっと張り詰めていた何かが静かにほどけていくのを感じた。
しばらく言葉が出てこなくて、ようやく漏れたのは小さな笑みだった。
「本当に君は……人の心を掴むのが上手だよね」
『え?そんなことはありません』
「あるよ」
どれだけ不安を抱えていても、どれだけ答えの出ないことを考え続けていても、セラ嬢はいつも変わらず真っ直ぐに僕を見つめてくれる。
何かを求めるわけでも、急かすわけでもなく、ただ当たり前のように信じてくれる。
その優しさに触れるたび、胸の奥が熱を帯びた。
「セラ嬢」
『はい』
名前を呼ぶと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その優しい笑顔を目にしてしまえば、胸の奥へ押し込めていた感情が、静かに溢れ出してくる。
気付けば僕は手を伸ばし、そっと彼女の肩を引き寄せていた。
突然のことにセラ嬢は小さく目を見開いた。
でも逃げることも身を強張らせることもなく、ただ静かに僕を見上げている。
その澄んだ瞳に背中を押されるように、僕はそっと彼女を抱きしめた。
腕の中に収まった身体は華奢で、それでいて不思議なくらい温かい。
「ありがとう。その言葉、忘れないからね」
そう囁くと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
潤んだ瞳が、真っ直ぐに僕を映している。
『はい。これからも何度でもお伝えします』
後頭部に添えた手で優しく引き寄せると、安心したように僕の胸元へ額を預けた。
より強く抱き締めようと自然と上半身をかがめていたから、さらりと流れた髪が頬を掠める。
くすぐったさに思わず目を細めた時、ふわりと石鹸の香りが鼻先を擽った。
「あ」
『はい?』
反射的に少し身体を離すと、セラ嬢が不思議そうに首を傾げた。
「ごめん」
『え?』
「セラ嬢、お風呂あがりだよね」
『はい』
「僕、さっきまで稽古してたから汗くさかったかも」
体臭なんてないと思いたい。
思いたいけど、つい先ほどまで汗だくで木剣を振っていたのも事実で、そんな状態のまま何の疑問も抱かず抱き締めていたんだから、我ながらどうかしている。
でもセラ嬢は、僕の言葉の意味がよく分からないというようにぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、なぜか離れた距離を埋めるようにまた近付いてきた。
そして当然のように、さっきと同じ体勢で僕へ身体を預けてくる。
「……え、ちょっと。だから、くさいってば」
『くさくないですよ』
「でも汗だってついちゃうし」
『ついてもいいです』
「よくないでしょ」
『いいんです』
セラ嬢は少しだけ照れたように視線を伏せ、それでも僕から離れることなく、頬を寄せながら呟いた。
『総司様の匂い、大好きです。安心しますし、一緒にいるって感じがするんです』
躊躇いなく言われたその言葉を聞いて、僕はもう一度腕を伸ばしていた。
今度はさっきより少しだけ強く、でも苦しくないように。
腕の中へ閉じ込めると、セラ嬢はまた嬉しそうに擦り寄ってきてくれる。
その仕草が可愛くて、胸の奥がどうしようもなく甘く焦がれた。
だから僕は、石鹸の香りに包まれた小さな身体を静かに抱き寄せながら、腕の中の温もりだけを確かめるように目を閉じた。
この時間が、終わることなく続けばいい。
そう願ってしまうくらい、幸せな夜だった。
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