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あの日以降、胸の奥にわだかまっていた不安は薄れ、僕はアストリアで穏やかで満たされた日々を過ごしている。
今日もセラ嬢と公爵邸の薔薇庭園を訪れ、温室に隣接した陽当たりの良い場所へ敷物を広げていた。
冬の庭園に薔薇は少ないものの、丁寧に手入れされた枝々は静かな美しさを保ち、温室の硝子越しには色鮮やかな花々が咲いているのが見える。
澄み切った冬の空気の中で飲む温かい紅茶は格別で、隣に座るセラ嬢の頬もほんのり桜色に染まっていた。
『今日の夕方にはじめがレーヴェルンへ戻るそうなんです。その前に一時間ほど三人でお茶でもどうかとパメラ夫人が仰っていて。三時からの予定なのですが、総司様も来てくださいますか?』
はじめ君は順調に回復していた。
騎士団での稽古はまだ制限されているらしいけど、その分勉学に励みながら静養の日々を送っていると聞いている。
医務室で会ったあの日以来、ここ数日は顔を合わせる機会もなかったし、帰国前に挨拶くらいはしておくべきだろうと頷いた。
「うん、勿論行くよ」
その返事にセラ嬢は目に見えて安堵した様子を浮かべた。
そして嬉しそうに微笑んだかと思うと、遠慮がちに手を伸ばしてくる。
何をするのかと思えば、その小さな指がそっと僕の人差し指へ絡められた。
甘えるようなその仕草に胸がくすぐられ、自然と笑みが零れる。
互いに見つめ合いながら微笑みを交わしているこの時間が幸せだった。
『総司様』
「ん?」
『一つ、お願い事をしてもいいですか?』
セラ嬢からこうして何かを強請られることは珍しい。
だからこそ嬉しく思い、すぐに頷いていた。
『私が十七歳のデビュタントを迎えたら、なるべく早く私を迎えに来てくださいませんか?』
小さな声で呟くように告げられた言葉は、とてつもなく可愛いらしいものだった。
このまま今すぐヴェルメルに連れて帰ってしまいたくなるけど、あと五年の辛抱だと今度は僕が彼女の小指に自分の小指を絡めた。
「いいよ。セラ嬢がデビュタントを迎えて、そうだな……八月中には君を迎えに行こうか」
『嬉しい。ありがとうございます。絶対ですよ?』
「うん、約束ね」
『約束。総司様が迎えに来てくださる日を、楽しみにずっと待っています』
一緒にいるだけで伝わってくる彼女の想いが、僕の心を色付けてくれる。
その日を待ち遠しく思っていると、不意に後ろから足音が聞こえて、僕達はそっと指先を離した。
「あら。こんなところにいらしたのですね」
振り返った先にいたのははじめ君の母親であるパメラ夫人だった。
僕達は揃って立ち上がり、彼女に挨拶をした。
「三時まで少し時間はあるけれど、テラスでのお茶会の準備が整ったそうですよ」
『教えてくださりありがとうございます。はじめももう席につかれていますか?』
「ええ、先程。皆であなた方二人を探していたの」
「それは失礼致しました。僕達もすぐに向かいます」
僕がそう答えると、パメラ夫人は穏やかに微笑んだ。
そのまま僕達は彼女と並んで庭園の小道を歩き始める。
すると途中で、セラ嬢がふと何かに気付いたように顔を上げた。
『パメラ夫人の香水、アンナ夫人がつけていらっしゃる香水と同じですね』
その言葉に、パメラ夫人は意外そうに目を瞬かせる。
「まあ、そうなの?アンナ夫人とは一度しかお茶をご一緒したことがないから、香りまでは気付かなかったわ」
『そうなのですね。もしかして、ルナールのローズ・ブランシュではありませんか?』
「あら、正解よ」
パメラ夫人は感心したように笑った。
「セラ嬢は本当に鼻が良いのね」
『この香り、大好きなんです。優しくて落ち着きますし、とても素敵だと思います』
香水については正直よく分からない。
僕に分かるのは、セラ嬢からいつも良い香りがするということくらいだ。
だから二人の会話には口を挟まず、ただ微笑みながら聞いていた。
するとパメラ夫人がふと思い出したように僕に視線を向けた。
「そういえば今日、ユフィ夫人とアンナ夫人はご一緒に声劇をご覧になっているのよね?」
「はい。数日後には僕達もアストリアを発ちますので、その前にぜひ観ておきたいと仰っていたんです。幸い席も確保できたそうで、お二人とも朝から大変楽しみにされていましたよ」
「それは良かったわ。私も今日が帰国日でなければ、ぜひご一緒したかったもの」
「パメラ夫人もご一緒でしたら、きっと母上達も喜ばれたでしょうね」
そんな会話を交わしながら歩いているうちに、白い大理石のテラスが見えてきた。
そしてその中央には、すでに席についているはじめ君の姿がある。
以前より顔色も良くなり、穏やかな表情でこちらを見ていた。
「お待たせ、はじめ君」
『遅くなってごめんね』
「いや、急だった故、時間をとってもらえただけでありがたい」
一時間ほどの茶会は、始まる前に思っていたよりもずっと短く感じられた。
テラスでは他愛のない会話が続き、はじめ君も以前と変わらない態度で接してくれていたから、僕も余計なことは考えないようにしていた。
あの庭園で耳にした言葉や、その後に抱いた感情が完全に消えたわけじゃない。
それでも今は、それらに振り回されるよりも、この時間を大切にしたいと思えた。
セラ嬢は楽しそうに笑い、はじめ君も時折穏やかな笑みを見せる。
そんな二人を眺めながら過ごしているうちに、気付けば茶会も終わりの時間に近付いていた。
そこで僕は近くに控えていた侍女へ声をかけ、自室に置いてあった包みを持ってきてもらう。
ほどなくして届けられたそれを受け取ると、僕は袋の中から二つの包みを取り出し、それぞれ二人に差し出した。
「これ、君達に。少し前に母と街へ出た時に買ったんだ」
本当ならもっと早く渡すつもりだった。
だけど買い物から戻った直後、偶然耳にしてしまったあの庭園での会話があって、そのまま渡す機会を失っていた。
一時は、はじめ君への分は渡さないままにしておこうかとも考えた。
でもセラ嬢のおかげで心に余裕が生まれ、いまは当初の予定通り渡そうと思えた。
『わあ、ありがとうございます。これ、私の大好きな桜館のお菓子です』
包みを見た瞬間、セラ嬢の表情がぱっと明るくなる。
「そうなんだ。好きなら良かった。はじめ君は甘いものが得意じゃないって聞いていたから、君には紅茶の詰め合わせにしてみたんだ。祖国へ戻ったら飲んでよ」
「すまないな、総司。ありがたく頂こう」
二人は表に添えられていた名前入りのカードを見つけると嬉しそうに微笑み、それぞれの包みを開くと礼を言ってくれた。
その中でもセラ嬢の反応は特別で、宝物でも見つけたかのような顔で僕を見上げている。
『早速いただいても良いですか?』
「もちろん」
『ではいただきます。まずは一番好きな苺のジャム入りから』
そう言いながら、彼女は嬉しそうに綺麗に並んだマシュマロに手を伸ばした。
すると向かいに座るはじめ君が小さく笑う。
「ふ、その味から食べるのは相変わらずだな」
はじめ君はセラ嬢がこの店の菓子を好んでいることも、その中で苺味を真っ先に選ぶことも知っているらしい。
以前の僕なら、その事実に少なからず面白くない気持ちを抱いていたかもしれないけど、今は違う。
それは昨晩セラ嬢が僕に真心のこめられたクッキーと一緒に、温かい言葉をかけてくれたからだった。
『んん、とってもおいしいです。総司様とはじめは食べませんか?』
「俺は遠慮しておこう」
「僕もいいかな。今はお腹いっぱいだし」
『はじめはともかく、総司様が甘いものを召し上がらないなんて珍しいですね』
そう言ってセラ嬢は嬉しそうに笑い、飲み込んだ。
僕とはじめ君はそんな彼女を見守りながら自然と微笑んでいたけど、その穏やかな空気は何の前触れもなく崩れ去った。
『……あ……』
小さく漏れた声に顔を上げると、セラ嬢の表情が強張っている。
つい先ほどまで柔らかく緩んでいた頬からみるみる血の気が引き、その細い指先がお腹を庇うように腹部へ添えられていく様子を見て、僕は妙な胸騒ぎを感じた。
「セラ嬢?」
『……ううっ……』
苦しそうに息を詰まらせた彼女は身体を折り、肩を小刻みに震わせる。
向かいでははじめ君も異変に気付いたらしく、すぐに椅子から立ち上がった。
「セラ、どうした?」
『……っ、……お腹……いた……』
掠れた声だった。
額にはじわりと汗が浮かび、顔色は見る見るうちに青白くなっていく。
ただ事ではないと思った僕は立ち上がり、彼女へ手を伸ばした。
けれどセラ嬢は何かに耐えるように口元を両手で覆い、その大きな瞳を見開く。
『……っ……げほっ……』
彼女の身体が大きく震え、細い指の隙間から、鮮やかな赤が飛び散った。
真っ赤な雫が白いテーブルクロスに溢れ、彼女のドレスへと落ちていく様子は、どんな悪夢より僕の心を抉った。
『っうう……かはっ……!』
さらに苦しそうに顔を歪ませると、再び血が吐き出される。
押さえた手のひらを濡らすように赤い液体が溢れ、彼女の白い指先を染めていった。
「セラ嬢……!」
叫びながら身体を支えたけど、彼女は苦痛に顔を歪めるばかりで、まともに声も出せない。
肩が震え、呼吸が乱れ、その身体から力が抜けていった。
『……っ……う……』
「医師を呼んでくれ!早く!」
近くで待機をしていた山崎卿が怒鳴るように叫び、周囲が一気に騒然となる。
使用人達が駆け出し、椅子が倒れ、誰かの悲鳴が聞こえた。
けれど僕は腕の中のセラ嬢しか見えず、支える腕は情けなくも震えている。
つい数分前まで笑っていたのに、どうして突然……
「しっかりして、セラ嬢……」
震える声で呼びかける。
けれど彼女は苦しそうに呼吸を繰り返すばかりで、その瞳には滲む涙が浮かんでいた。
恐怖で心臓が潰れそうになる。
剣を握っている時ですら感じたことのないような冷たい恐怖が全身を駆け巡り、僕は彼女を抱き寄せたまま、ただ必死にその名前を呼び続けることしかできなかった。
「お退きください!お嬢様をお預かりいたします……!」
顔を上げると、山崎卿が真っ青な顔でこちらへ踏み込んできて、セラ嬢を僕の腕から素早く奪い取り、そのまま抱き上げた。
振り返る間もなく公爵邸の中へと走り出す彼を、僕ははじめ君と並んで追いかける。
けれど玄関ホールへ続く入り口に差し掛かったところで、山崎卿は突然立ち止まり、勢いよく振り返った。
「申し訳ありませんが、ここから先はご遠慮願えますでしょうか」
丁寧な口調だったけど、その声音に込められた拒絶はあまりにも明確だった。
「待ってくれ、俺も行く」
「僕も同行させて」
「申し訳ございません」
山崎卿はそう繰り返した後、一瞬だけ僕を見る。
その眼差しには僅かに警戒の色が滲んでいるようにも見えた。
「今はお嬢様の治療を最優先させていただきます。どうかこちらでお待ちください」
それだけ言い残すと、彼は再び走り出し、セラ嬢を抱えたまま邸の奥へ消えていった。
有無を言わせない言葉だった。
気が動転しきっていた頭に、その一言はひどく唐突に響いた。
反論する言葉も、頷く言葉も、何一つ出てこないまま、僕はただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
はじめ君も同じだったのだろう、気づけば二人で閉ざされた扉の前で足を止めていた。
「……なんで……」
状況が何もわからなかった。
なぜこんなことになったのか、頭が理解を拒んでいるようだった。
ただ腕の中で力を失っていくセラ嬢の感触が、胸の奥に貼り付いて離れなかった。
手の震えが、まだ止まらない。
あの子にもしものことがあったら……その想像が脳裏をよぎった瞬間、背筋に冷たいものが走った。
僕は今まで幾つもの命をこの手で奪ってきた。
それでも僕の心は全くという程揺れなかったし、ここ最近は何も感じなくなっていた。
それなのに今、セラ嬢の身に何かあったらと考えるだけで、こんなにも怖い。
この感情は、心のどこにも行き場がなかった。
「……総司か?」
心ここに在らずのまま隣に視線を向けた直後、胸元が強い力で引き寄せられた。
何事かと思うより早く、はじめ君の手が僕の胸ぐらを掴み上げていることに気付く。
彼の顔は青ざめていたけど、その瞳だけは異様なほど鋭く、抑え切れない感情が渦巻いているのが分かる。
「あんたがやったのか……!?」
何を言われたのか、理解できなかった。
あまりにも突飛な言葉だったし、何より今の僕にはそんな発想自体が存在していなかったからだ。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「僕?」
問い返した僕を、はじめ君はさらに強く睨み付けた。
「あんたが渡した菓子を食べた直後にセラの容体が急変した!あんたが毒でも仕込んだのではないのか……!」
「何を言って……」
「俺だけではない!この場にいた者達も皆見ていた筈だ……!」
その言葉に促されるように周囲へ視線を向けると、そこには侍女達だけではなく、執事や給仕係、護衛騎士達、庭園の管理を任されている庭師達までが集まっていて、誰もが不安そうな顔でこちらを見ていた。
もちろん全員が僕を犯人だと思っているわけではないかもしれない。
でも戸惑いの混じった視線や警戒を含んだ眼差しが向けられているのも事実で、その光景を目にしてしまえば、先ほどの出来事が鮮明によみがえってくる。
確かにセラ嬢の容体が急変したのは、僕が渡したお菓子を口にした直後だった。
自分が疑われているのだと認識するまでにも数秒の時間を要したけど、理解した途端、胸の奥が重く沈むような感覚に襲われる。
「僕は……何も……」
していない、するわけがない。
誰よりも大切な人を、どうして傷つけられる?
傷付けたいと思ったことなんて一度もないし、守りたいと願い続けてきた相手なのに。
でも、そんな当たり前のことさえ上手く言葉にできないまま立ち尽くしてしまうのは、今この瞬間もセラ嬢が苦しんでいるかもしれないという恐怖が僕の心を支配していたからだった。
彼女は無事なんだろうか。
助かるんだろうか。
そんなことばかりが頭の中を埋め尽くし、自分の潔白を訴えることさえ後回しになってしまう。
僕は悔しさと悲しみを滲ませながら、僕を睨むはじめ君の視線を受け止めることしかできず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
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