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それからどれほどの時間が経っただろう。
公爵邸の中を慌ただしく行き交う人々の足音と、張り詰めた空気の中でひたすら吉報を待ち続けていた僕の元に、ようやくセラ嬢の容体に関する知らせが届いた。
セラ嬢はまだ意識を取り戻していないものの、命に別状はないとのことだった。

医務室に運び込まれた直後、担当した医師達が異変の原因を毒物による中毒症状と判断し、迅速に処置を施したらしい。
幸いにも毒の大部分は早い段階で体外へ排出することができたため、重篤な臓器障害には至らなかったそう。
強い刺激性を持つ毒だったために消化器官の粘膜が傷付き、その影響で出血が見られたという説明を受けた。
あと少し処置が遅れていたら危険だった可能性が高いと聞き、怒りが込み上げてくる。
でも今は峠を越えているという報告も聞き、僕はようやく肺の奥に溜まっていた息をゆっくりと吐き出すことができた。

……本当に良かった。
セラ嬢が変わらず生きていることが何より救いで、視界が潤むのを感じる。
今はまだ目を覚ましていないけど、彼女が起きた時には、真っ先に会いに行きたいと考えていた。


そして毒物が混入された以上、公爵家としても原因を究明しないわけにはいかず、あの場にいた人間は一人ずつ別室へ呼ばれ、当時の状況について詳しい聞き取りを受けることになった。
はじめ君は勿論、使用人達も、護衛騎士達も、給仕係達も例外ではない。
そして最後に呼ばれた僕は、静かな執務室で山南さんと向かい合い、彼の口から告げられた言葉に思わず目を見開いた。


「……僕が渡したお菓子から毒が検出されたんですか?」


信じられなかった。
けれど山南さんは表情を曇らせたまま静かに頷く。


「セラお嬢様が口にされたものだけでなく、本日テラスに運ばれた菓子類や茶葉、飲料に至るまで、念のため全てを確認いたしました。その結果、お嬢様の体内から検出されたものと同種の毒物が、総司殿から贈られた菓子の一部に混入していたことが判明しております」


毒は無色に近い液状のもので、強い刺激によって消化器官を損傷させる性質を持っていたらしい。
摂取量によっては命に関わる危険な代物であり、今回セラ嬢が助かったのは処置が極めて迅速だったからこそだという。
セラ嬢を苦しめた毒は、僕が手渡した贈り物に仕込まれていた事実を知り、背筋が冷えていく想いだった。


「我々は最初から総司殿が犯人だと考えているわけではありません」


山南さんはそう前置きしてから、少し言葉を選ぶように視線を落とした。


「ですが、現時点ではどうしても総司殿に疑いの目が向いてしまいます。君が購入し、君が保管し、そして君自身の手でお嬢様へ渡した品ですからね。我々としても可能な限り公平に調べなければなりません。これから君のお部屋も確認させていただく予定ですが、ご協力いただけますでしょうか」


責めるような口調ではかなく、むしろ申し訳なさそうですらあった。
だからこそ僕も真っ直ぐ頷く。


「もちろんです。あのお菓子を渡したのは僕ですし、疑われるのも仕方ありません」


そう言いながらも、胸の奥には怒りにも似た感情が静かに広がっていた。
それは自分が疑われたことに対してではなく、セラ嬢を傷付けた奴が身近にいるという事実に対してだった。


「僕は毒なんて仕込んでいません。でも、あのお菓子が原因だったのなら、必ずどこかで誰かが手を加えたはずです。どうか犯人を見つけてください。僕にできることなら何でも協力します」

「ありがとうございます。君がそう言ってくださると、こちらとしても非常に助かります」


それから僕は、お菓子を購入した日時や店の名前、持ち帰った後の保管場所、今日の一部始終を一つずつ思い出しながら説明していった。
けれど話の途中、不意に部屋の扉が叩かれる。
山南さんの許可を受けて開かれた扉の向こうに立っていたのは、慌てた様子の母だった。


「ただいま戻りました。先ほど事情をうかがったのですが……セラさんのご様態はいかがですか?」

「アンナ夫人、お帰りなさいませ」


山南さんは立ち上がると、まずセラ嬢の容体について説明し、その後で今日起きた出来事を順を追って伝えていった。
そして、毒物が僕の贈った菓子から検出されたことや、その関係で僕にも疑いが向けられていることを話すと、母の顔色がより緊迫したものに変わった。


「そんな……総司は違います。この子がセラさんを傷付けるはずがありません。彼女のことをどれほど大切に思っているか、私は知っていますから」

「ええ。私も同じ認識です。ですが、だからといって調査を止めるわけには参りません。アンナ夫人にもご不便をお掛けしますが、ご協力をお願いできますでしょうか」

「もちろんです。私の部屋も、荷物も、必要であれば全て調べてください」


その時の僕は、自分に向けられた疑いについて深く考える余裕なんてなかった。
ただセラ嬢が生きていてくれたことへの安堵と、まだ意識が戻らないという不安だけで精一杯だった。

けれど、その日の夜になって事態は思ってもみなかった方向へ動き始める。
母と共に外出していたはずのユフィ夫人が、日が落ちても公爵邸へ戻って来なかった。
最初は誰もが単なる予定の遅れだと思っていた。
でも約束の時刻を大きく過ぎても連絡一つ届かず、迎えに出した者達からも居場所が分からないという報告が入る頃には、ただでさえ重苦しかった公爵邸の空気はさらに張り詰めたものへと変わり始めていた。


「では、ユフィ夫人はアンナ夫人に、用事を済ませてから戻ると伝えていたのですね」


山南さんの問いかけに、母は不安げな表情のまま静かに頷いた。


「はい。直接聞いたわけではありませんが、御者の方からそのように聞きました」


母の説明によれば、声劇の会場近くで買い物をしていた最中、ユフィ夫人は急な用事ができたらしく、公爵邸の御者へ伝言を託したのだという。

母には先に帰ってもらいたいこと。
公爵家の馬車はそのまま使って構わないこと。
自分は後ほど別の手段で戻ること。
それが御者を通じて伝えられた内容だったらしい。
山南さんはしばらく考え込むように沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。


「そうですか……。ですが、一つだけ気になる点がありまして」

「気になる点、ですか?」

「先ほど厩舎へ確認を取ったところ、本日出された公爵邸の馬車のうち一台が、未だ帰還していないことが分かりました。本日は他に馬車を使用した者もおりませんので、少々状況が噛み合わないのです」


その言葉に、僕も思わず顔を上げる。
山南さんは母から視線を外さないまま続けた。


「確認ですが、アンナ夫人は本当に公爵邸の馬車でこちらまで戻られたのですね?」

「……ええ。そのように認識しております。馬車には公爵家の紋章がありましたし、御者も当然公爵邸の者だと思っておりましたので……」

「なるほど。では、その御者が行きに担当していた人物と同一だったかどうかは分かりますか?」

「申し訳ありません。そこまでは確認しておりません……。何より御者の方は帽子を深く被っていたので、お顔は拝見できていないのです」

「そうですか……」


部屋の空気が重く沈み、誰も言葉を発しない。
時計の振り子が刻む規則正しい音だけが妙に大きく聞こえ、その静けさがかえって不吉な予感を掻き立てていた。

何かがおかしい、それだけは分かる。
でも何が起きているのかは分からない。
セラ嬢の毒物混入事件だけでも十分異常だというのに、今度はユフィ夫人の所在まで分からなくなっている。
まるで見えない誰かが裏で糸を引いているような不気味さに、胸の奥がざわついた。

重苦しい沈黙に耐えきれず口を開こうとした時、扉が激しくノックされる。
今までとは明らかに違う、切迫した音だった。
山南さんがすぐに立ち上がって扉を開くと、そこに立っていたのは山崎卿だった。
普段の冷静さを保ってはいるものの、その顔色は決して良くない。
ほして何事かを耳打ちされた直後、今度は山南さんの表情が僅かに強張る。
そして彼は無言のまま一歩横へ退いた。
その動きに違和感を覚えるより早く、数名の騎士団員が部屋の中に入ってくる。
何が起きたのか理解する間もなく、彼らは真っ直ぐ母の元に向かい、その腕を掴んだ。


「なっ……」


思わず声が漏れる。
母も突然の出来事に目を見開き、呆然と騎士達を見回していた。
けれど山崎卿の口から告げられた言葉は、僕の予想を遥かに超えるものだった。


「アンナ夫人の部屋から毒物および、それを混入する時に使用したと見られる注射器が発見されました。申し訳ございませんが、確認のため、お話を伺わせていただきます。ご同行ください」


自分が何を聞いたのか理解できなかった。
頭の中で彼の言葉だけが反響して、意味が結び付かない。
僕は反射的に母を見たけど、母もまた信じられないものを見るような表情のまま唇を震わせていた。


「そんな……。そんなはずがありませんわ……。私は何も存じません。本当に……何も……」

「その点も含めて確認させていただきます。どうかご協力ください」


山崎卿の口調は終始丁寧だった。
けれど拒否を許さない硬さがあった。

僕は思わず立ち上がったけど、足は前に出なかった。
母を庇うべきなのか、事情を聞くべきなのか、何を言えばいいのか。
まるで悪夢の中にいるようで、何が正解なのか何一つ分からなかった。

ただ目の前で連行されていく母の姿が、あまりにも鮮明で現実味があり過ぎる。
次々と浮かぶ疑問に答えはなく、ただ混乱だけが大きくなっていく。
やがて母が部屋を連れ出されると、静まり返った室内で山南さんが静かに口を開いた。


「総司殿のお部屋からは、不審な物品は発見されなかったと報告を受けましたよ」

「……はい。ですが、母もセラ嬢に危害を加えたりしません。第一、動機がないじゃないですか。セラ嬢は僕の婚約者なんですよ」

「私もそう思います。ですが、アンナ夫人のお部屋から毒物と注射器が発見された以上、確認を行わないわけには参りません。疑うためではなく、事実を明らかにするためです」

「ですが……」

「一つ確認させてください」


山南さんは話を切り替えるように続ける。


「例のお菓子ですが、購入された後はずっと総司殿がお持ちだったのでしょうか」

「ええ。僕の部屋に置いてありました」

「常に管理されていたと?」

「いいえ。ご存じの通り、僕は日中ほとんど部屋にいません。騎士団の訓練場や図書室、庭園にいることも多いですし、部屋を空ける時間の方が長かったと思います」

「つまり、第三者が接触できる可能性はあったと」

「十分にあります。それに、包みに名前入りのカードを添えていましたから、誰へ贈る予定だったのかもすぐに分かったはずです」

「ですが、包みの中身までは分からなかったのではありませんか?」

「いいえ」


僕は先ほどの庭園でのやり取りを思い出す。


「セラ嬢は包みを見ただけで桜館のお菓子だと気付きました。つまり、あの店の商品を知っている人間なら中身を推測することは十分可能だったと思います」


その説明を聞き終えた山南さんは、しばらく考え込むように沈黙した後、小さく頷いた。


「承知しました。そのお話も、参考にさせていただきます」


そう言った彼の表情には疲労が滲んでいる。
今日一日で起きた出来事の異常さを考えれば当然だった。


「引き続き調査を進めます。総司殿も落ち着かないとは思いますが、本日はお部屋でお休みください」


その言葉に、僕は頷くことしかできなかった。
部屋に戻った後も眠れるはずはなく、椅子に腰掛けたまま何度も深いため息を吐いた。

セラ嬢はまだ目を覚まさない。
母は拘束され、ユフィ夫人の行方もいまだに分からない。
たった半日で当たり前だった日常が音を立てて崩れていくのを感じていた。
それでも僕は、きっと大丈夫だ、明日になれば全て元通りになると無理矢理自分に言い聞かせる。
そう信じなければ、胸の奥に渦巻く不安と恐怖に押し潰されてしまいそうだった。


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