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次の日になれば、少しは状況が動くだろうと思っていた。
セラ嬢が目を覚ますかもしれないし、母への疑いも晴れるかもしれない。
行方の分からないユフィ夫人についても何か進展があるかもしれない。
そんな希望にも似た考えを抱きながら朝を迎えたものの、現実は僕の期待通りにはいかなかった。
部屋の扉を開ければ、視界に入ったのは昨日までいなかった二人の騎士団員の姿で、彼らは廊下の左右に立ちながら、僕が部屋の外に出ようとすると静かに前へ進み出て、その行動を制止した。
態度そのものは礼儀正しいけど、それが監視であることは誰の目にも明らかだった。
セラ嬢の容態はどうなっているのか。
母の取り調べはどこまで進んでいるのか。
ユフィ夫人は見つかったのか。
聞きたいことはいくらでもあるのに、彼らは命令を受けているのだろう、申し訳なさそうな顔をするばかりで何も答えてくれない。
やがて朝食も昼食も部屋に運ばれるようになり、自由に廊下を歩くことすら許されない状況に、まるで見えない牢獄に閉じ込められたような息苦しさを覚えた。
もちろん僕だって感情だけで動くつもりはない。
ここはアストリア公爵家の城内であり、僕はあくまで客人だ。
しかも毒物混入事件が発生し、容疑者まで出ている状況だから、公爵家が慎重にならざるを得ないことも理解している。
平時では到底考えられないような緊張状態の中にある以上、警備が厳重になるのも当然だった。
それでも何も知らされないまま待たされ続けることは想像以上に苦痛で、僕は少しでも状況を知ろうと窓辺に歩み寄る。
窓を細く開き、カーテンの陰へ身を隠しながら庭園や正門の方角へ視線を向けるものの、見えるのは巡回する騎士達の姿ばかりだった。
ただ屋敷全体に漂う張り詰めた空気だけが、事態が終息から程遠いことを物語っていた。
そして異変が現れたのは夕刻を迎える頃だった。
それまで比較的静かだった屋敷の外が急に慌ただしくなり、正門と本館を行き来する騎士団員の数が目に見えて増え始める。
伝令と思しき者が何度も駆け込み、厩舎の方角からは馬のいななきが聞こえ、まるで何か大きな動きがあったかのような緊迫した空気が広がっていった。
そして、その騒ぎの中心に近藤閣下の姿を見つけた時、僕の胸は嫌な音を立てる。
閣下は数名の騎士を従えながら急ぎ足で正門へ向かうと、自ら馬へ跨り、短く指示を飛ばした直後、そのまま屋敷を飛び出していった。
「……まさか、何かあった?」
窓越しの景色だけでは何も分からない。
分からないまま想像だけが膨らみ、どこかでさらに悪いことが起きているのではないかという拭いきれない不安が、頭の中から離れなかった。
結局、その日は夕食が運ばれてきても食欲なんて湧かずに、セラ嬢のことばかりを考えていた。
そして、そのまま長い夜を過ごし、ほとんど眠れないまま迎えた翌朝。
僅かな期待を抱きながら扉を開いた僕を待っていたのは、昨日と同じ光景だった。
二人の騎士団員が変わらず廊下に立っている。
僕は小さく息を吐いた後、半ば諦めながらも声を掛けた。
「何か進展はありましたか?」
二人は一瞬だけ顔を見合わせる。
これまでは何を聞いても口を閉ざしていた彼らだったけど、今日は違った。
年長の騎士が慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「本日未明、お嬢様が意識を回復されたと報告を受けております」
「本当ですか……!?」
思わず身を乗り出してしまう。
「容態は安定しているんですか?」
「詳細な診断内容までは把握しておりませんが、医師団からは危険な状態は脱したとの報告を受けております。現在も経過観察は続いておりますが、順調に回復へ向かわれているとのことです」
「そうですか……良かった……」
それ以外の言葉が見つからない。
胸を満たしていた重苦しい不安が少しだけ和らぎ、僕は思わず目を伏せる。
でも安堵したのも束の間、どうしても別の感情が込み上げてしまう。
会いたいし、顔が見たい。
自分の目で無事を確かめたいという衝動を抑えきれず、僕は再び顔を上げた。
「面会はできないんでしょうか?」
「申し訳ございません。現在も捜査および警備体制が継続されており、我々は大公子殿をお部屋からお出ししないよう厳命されております」
若い騎士が申し訳なさそうに頭を下げる。
「今はまだ犯人の特定には至っておらず、どのような危険が残っているか判断できない以上、客人である大公子殿の安全を最優先に確保せよとの命令です。誠に心苦しくはありますが、今しばらくご辛抱いただきたく存じます」
その言葉に反論はできなかった。
彼らもまた命令に従っているだけだ。
それでも、すぐ近くにいるはずのセラ嬢に会えない現実は想像以上に辛く、僕は胸の奥に残る焦燥感を押し込めながら、静かに扉を閉めた。
そしてそれから二日後だった。
何一つ状況も聞かされないまま過ごしていた僕に、外にいた騎士団員が硬い表情で告げる。
「大公子殿。近藤公爵閣下がお呼びです」
その言葉に胸が大きく脈打った。
ようやく何かが分かるのかもしれない。
そう思いながら案内された先は、公爵邸の応接間ではなく、騎士団が使用する会議室だった。
重厚な扉が開かれた時、僕は思わず足を止める。
そこには近藤閣下と山南さん、山崎卿をはじめとした騎士団幹部達が集まっていた。
そして部屋の中央には、両手を拘束された母の姿があった。
「母上……?」
思わず呼びかけると、母は青白い顔でこちらを振り返り、泣きそうな表情を浮かべた。
「総司……」
その顔には見るからに疲労の色が滲んでいて、その姿を見るだけで胸騒ぎが強くなる。
「座ってくれ」
近藤閣下の低い声に促され、僕は空いている席へ腰を下ろす。
けれど、ゆっくりと顔を上げた近藤閣下の表情を見た時、僕は息を呑んだ。
今まで何度も見てきた彼の穏やかな眼差しはなく、深い悲しみと、抑え込まれた激しい怒りが宿っていた。
「まず伝えなければならないことがある。一昨日の晩、ユフィが発見された」
「見つかったんですか……!?」
思わず身を乗り出した僕に対し、近藤閣下は僅かに目を伏せた。
「……遺体で、だ」
その言葉を聞いて、頭の中が真っ白になった。
ついこの前まで普通に笑っていた人が、もう二度と帰ってこないなんて信じられるはずがない。
言葉を失って黙り込む僕を見つめたまま、閣下は再び言葉を続けた。
「護衛として同行していた二名の騎士も同様だった。街道から離れた森の中で襲撃を受けた形跡が確認されている」
近藤閣下がどれほどユフィ夫人を大切にされていたか知っている。
それなのに今の彼は涙一つ見せず、この場にいる。
それがどれ程、身を抉ることなのかがわかるからこそ僕の胸も苦しくなった。
「犯人は……」
僕が掠れた声で尋ねると、山南さんが代わりに答えた。
「襲撃に関与した者達は既に全員の身柄を確保しております。そして取り調べの結果、拘束された者達は例外なく、アンナ夫人から金銭を受け取って犯行を指示されたと証言しております」
「……っ」
山南さんの静かな声が室内に響き、僕は反射的に母の方に視線を向けた。
母は僕を見るなり顔色を失い、激しく首を横に振った。
「違います……!何度もお伝えしていますが、私はそんなこと命じておりません!そのような者達に会ったこともありません!」
悲鳴にも似た声だった。
普段はどんな時でも品位を崩さない母が、必死になって否定している。
それでも近藤閣下も山南さんも表情を変えなかった。
感情で判断できる段階は、とっくに過ぎてしまっているんだろう。
重苦しい沈黙の後、近藤閣下が低い声で続けた。
「それだけではない。先日お伝えした通り、セラへの毒物混入事件についても騎士団が調査を進めた結果、アンナ夫人の部屋から毒物と注入器具が発見されている」
「違うのです!私はそのような物を所持しておりません!誰かが置いたのです!信じてください!」
その必死な訴えを聞きながら、僕の胸の奥も激しく掻き乱される。
母がそんなことをするはずがない。
セラ嬢を傷付ける理由なんてどこにもない。
ましてユフィ夫人を襲わせるなんて、絶対にあり得ない。
けれど現実には、暴漢達の証言も、発見された証拠も、全て母を犯人だと示しているらしかった。
「お気持ちは理解しております。しかし現時点で確認されている証拠と証言は、残念ながら全て貴女を指し示しているのです。他に容疑者になり得る者の存在も一切上がってきておりません」
「誰かが意図的に私に罪をなすりつけようとしているのです!現に私にはセラさんを傷付ける理由などございません!あの子は総司の大切な方ですし、私にとっても可愛い未来の娘同然の子なのです!」
「その通りです!母がそのようなことをするはずありません!」
気付けば僕も椅子を蹴るように立ち上がっていた。
自分でも驚くほど大きな声だったけど、それほどまでに目の前で語られている内容が受け入れ難かった。
「考えてみてください。母にはセラ嬢とユフィ夫人を傷付ける動悸がどこにもないですよね」
張り詰めた空気の中でそう訴えると、近藤閣下はゆっくりと僕へ視線を向けた。
その眼差しを見て、胸の奥が重く沈む。
そこには今まで見たこともないほど深い悲しみと疲弊が滲んでいて、まるで短期間のうちに何年も歳を重ねてしまったかのような表情をしていた。
「総司殿、俺も証拠がなければ信じたくはなかったよ」
その言葉には偽りがないように思えた。
近藤閣下も母をよく知っているし、ユフィ夫人も母と親しく交流していた。
だからこそ、こんな結論には辿り着きたくなかったはずだ。
「だが娘は毒を盛られ、妻は命を奪われた。そして我々は感情ではなく事実に基づいて捜査を進めなければならない」
そう言うと、近藤閣下は机上に積まれた書類へ視線を落とした。
「襲撃犯のうち生存していた六名は、それぞれ別の場所で取り調べを受けた。互いに接触できない状態で証言を取ったが、全員が同じ内容を口にしている」
「同じ内容……?」
山南さんが静かに頷いた。
「はい。彼らは皆、依頼人はアンナ夫人だったと証言しています。金貨の入った袋を受け取った日時、受け渡し場所、その時のアンナ夫人の特徴まで一致しておりました。供述に大きな食い違いもありません」
信じられなかったし、信じたくなかった。
けれど山南さんはさらに続ける。
「また、襲撃現場近くの宿屋でも聞き込みを行いました。事件前日、アンナ夫人の特徴に酷似した女性を見たという証言も複数得ています」
「特徴に酷似していただけで、母だと決めつけるんですか?」
「ですが事件前日のその時刻、アンナ夫人のアリバイを証明できるものはありませんでした」
「それだけではありません」
今度は山崎卿が口を開いた。
「騎士団では毒物混入事件についても調査しております。お嬢様が口にされた菓子は残っていたものを全て回収し、王立研究所で成分検査を行いましたが毒物は総司殿がお嬢様にお渡しした菓子から複数検出されました。混入されていたのは即効性の強い植物由来の抽出毒で、少量でも内臓出血や呼吸障害を引き起こす危険なものです。あの毒物についても調査を進めた結果、同種の毒がアンナ夫人のお部屋から発見されております」
「違います!私は知りません!」
「毒物は化粧台奥の小箱から見つかりました。その毒液を注入する際に使用したと考えられる注射器も同じ場所から発見されています。また、発見時には騎士団だけでなく、公爵家側と王国側双方の立会人がおりました。発見状況について虚偽はありません」
あまりにも証拠が揃い過ぎている。
まるで最初から母を犯人に仕立て上げるために準備されていたかのように。
けれど、それを証明する材料はどこにもなかった。
「それでも母が犯行に及んだとは思えません。そもそも普通であれば毒殺の証拠になるものをそのまま部屋に置いておくことはしませんよね」
「総司殿の信じたくない気持ちはわかる。だが調べれば調べるほど、証言も証拠も全て同じ人物へ辿り着く。俺にこれ以上どうしろと言うのだ」
「ですが母がやるはずありません!何かの間違いです!証言だって口裏を合わせることはできます!引き続き調査をしてください!」
「調査は既に終えている。公爵家の調査隊だけではなく、ルヴァン王国騎士団も全てを精査した上で同じ結論に達している。これ以上時間をかけたところで覆るものはないだろう。国王陛下にも既に報告は上がっており、アンナ夫人は重大事件の被疑者として扱われている」
近藤閣下の声は低く重く、議論の余地なんて残されていなかった。
僕は拳を握り締めたまま立ち尽くす。
母は拘束されたまま青白い顔をして何度も首を横に振っているのに、その訴えに耳を傾ける者は誰もいなかった。
「だが、アンナ夫人はヴェルメル大公家のご夫人だ」
近藤閣下は感情を押し殺すように続ける。
「ここはアストリアであり、ルヴァン王国領ではあるが、北部を統治しているのはタルタリア帝国だ。我々が独断で裁きを下せば、両国間に不要な火種を生むことになりかねん。よってアンナ夫人の身柄は一度ヴェルメルへ送還する。今回の事件に関する証拠、供述調書、捜査資料の全てを帝国へ提出し、その後は帝国法に基づいて裁いてもらう」
それは形式上こそ送還という言葉だったけど、実際には犯人として帝国へ引き渡されるという意味に他ならなかった。
そして僕にとって本当に恐ろしかったのは、その決定ですらまだ終わりではなかったことだった。
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