3
近藤閣下はしばらく沈黙したあと、ゆっくりと僕へ視線を向ける。
その眼差しに宿るものを見て、僕の心臓が嫌な音を立てた。
「そして、総司殿。セラとの婚約は、本日をもって破棄とする」
呼吸が止まった気がした。
その言葉を理解することはできるはずなのに、頭がそれを現実として受け入れることを拒んでいた。
それは僕がずっと信じてきた未来そのものを断ち切る宣告であり、今まで当然のように続いていくと信じていた日々を根こそぎ奪い去る言葉でもあった。
「また、ヴェルメル大公家とアストリア公爵家との婚姻に関する協議についても、今後は全て白紙とする」
つい先日まで、僕たちは五年後の未来を語り合っていた。
薔薇庭園で小指を絡めながら、必ず迎えに行くと約束したばかりだった。
それなのに、その未来が一方的に奪われようとしている。
そんな理不尽なことを認められるわけがなかった。
「……閣下、待ってください」
近藤閣下は何も答えてくれない。
その沈黙があまりにも恐ろしくて、僕は無意識のうちに一歩前へ出ていた。
「待ってください……!」
もう一度そう告げると、近藤閣下は苦しげに目を伏せたまま口を開く。
「そして今後、ヴェルメル大公家にはアストリアへの関与を一切控えていただきたい」
その言葉は鋭い刃のように胸へ突き刺さった。
婚約破棄だけではない。もうアストリアへ来るな、セラ嬢に会うな、彼女の人生に関わるなと言われているのと同じだった。
「……僕は認められません。セラ嬢は僕の婚約者です」
「今は違う」
その一言が胸の奥深くへ沈み込む。
息を呑みながらも、僕はどうしても諦めることができなかった。
「近藤閣下!お願いですから、きちんと調べてください!母は無実です!証言も証拠も不自然じゃありませんか!襲撃犯の証言だって誰かに誘導された可能性がありますし、毒物だって誰かが部屋へ持ち込んだのかもしれない!どうしてそれを……っ」
「総司殿」
山南さんが静かに制したけど、もう止まらなかった。
「お願いです!もう一度だけ調べてください!セラ嬢が目を覚ましたなら話も聞けるはずです!母上がそんなことをする理由なんてどこにもありません!彼女の意見も聞いてください!」
「総司殿!」
近藤閣下の怒声が部屋中に響き渡り、思わず身体が強張る。
いつも穏やかな優しい彼からは、今まで聞いたことのない声だった。
「俺がどれだけ調べたと思っている!」
近藤閣下の拳が机を叩き、鈍い音が室内へ響く。
「襲撃犯は全員別々に取り調べた!証言の裏付けも取り、金の流れも追った!毒物の入手経路も洗った!王国騎士団も公爵家も、それぞれ独自に調査した結果が同じ結論へ辿り着いたのだ!俺だって信じたくなかった!アンナ夫人を疑いたかったわけじゃない!だが妻は帰ってこないのだ!ユフィはもう帰ってこない……!」
怒りに震える声だった。
けれどその奥にあるのは、消えることのない悲しみだった
「ユフィは俺の大切な妻だった。セラの母親だった。十五年以上、共に生きてきたのだ。その妻が殺され、娘まで殺されかけたにも関わらず、この件をなかったことにしろと言うのか……?」
返す言葉が見つからなかった。
何か言わなければと思うのに、喉が張り付いたように声が出ない。
「……セラはまだ病床にいる。目を覚ましたとはいえ、いつ容態が変わるか分からない状態だ。俺は父親だからこそ娘を守る責任がある。だからこの件に関して、決定は覆らない」
その宣告を聞き、僕はようやく理解する。
どれだけ訴えても、どれだけ叫んでも、今の近藤閣下には届かない。
母は犯人としてヴェルメルへ送還され、婚約は破棄され、僕はセラ嬢から引き離される。
信じていた未来が音を立てて崩れ去っていく中で、僕は拳を握り締めたまま立ち尽くし、その現実を受け止めることすらできなかった。
重苦しい沈黙が部屋を支配する中、近藤閣下はゆっくりと顔を伏せた。
それまでどれほど辛い話をしていても決して崩れることのなかった表情が僅かに歪み、その大きな手が目元へと伸びていく。
誰にも見られたくないものを隠すようにしばらくそのまま瞼を押さえていた彼は、やがて深く掠れた息を吐き出した。
「……それにセラは、まだ何も知らんのだ」
低く落ちた声に顔を上げると、近藤閣下は既に手を下ろしていたものの、その瞳は痛々しいほど赤く染まっていた。
「意識を取り戻したとはいえ、あれだけの毒を受けた直後だ。医師達からも心身に負担をかけるなと強く言われている。そんな娘に今すぐ真実を告げろと言うのか。大好きだった母親が路地裏で襲われ、変わり果てた姿で見つかったことを。もう二度と会えないのだと、セラに告げろ言うのか……?」
その言葉を聞き、胸の奥を強く掴まれたような苦しさが込み上げた。
セラ嬢は優しく微笑みながら病室へ入ってくるユフィ夫人の姿を、今もまだ待っているかもしれない。
そんな彼女が真実を知った時のことを想像するだけで、僕の視界まで滲みそうになる。
「目を覚ましたばかりの娘が、お母様はどちらですかと聞いてきた時、俺は何も答えられなかった。また後で来る、としか言えなかったよ。だがもう何日も姿を見せていないのだ。あの子だって聡い子だ。きっと何かがおかしいと感じ始めているだろう。今一番恐ろしいのは、これから俺自身の口でセラに真実を伝えなければならないことだ」
絞り出されるようなその声には、先程まで見せていた公爵としての威厳はなかった。
ただ妻を失った夫としての悲しみと、娘を傷付けることを恐れる父親としての苦悩だけが滲んでいる。
その場にいた誰も言葉を挟むことができないまま、山南さんも山崎卿も沈黙したまま視線を伏せ、拘束された母でさえ何も言えずに唇を震わせていた。
「だからこそ俺は、二度と同じことを繰り返させるわけにはいかんのだ。今の俺にはセラを守ることしかできん。母親を失った現実だけでも十分過ぎるほど残酷なのに、その上で事件の渦中に引きずり込み、証言だの判断だのを求めるような真似を俺は父親としてしたくない。頼む、分かってくれ」
その言葉から伝わってくるのは憎しみではなかった。
近藤閣下は僕を憎んでいるわけではないし、本心では母を憎みたいわけでもないのだろう。
ただ彼はあまりにも多くを失った。
愛する妻を失い、あと少しで娘まで失いかけた。
そしてようやく取り戻したその娘を、今度こそ守り抜かなければならないと決意している。
そのためなら、たとえ残酷だと分かっていても、危険の芽を一つ残らず断ち切る覚悟を決めているのだと痛いほど伝わってきた。
それでも僕は母が犯人だとはどうしても思えなかったし、何よりセラ嬢との約束をこんな形で終わらせたくなかった。
それにセラ嬢だって、少なからず僕を大切に想ってくれている。
この話を聞けば、きっと彼女も僕と同じ考えを持ってくれるはずだった。
そう信じていたからこそ、セラ嬢と会わないまま全てを終わりにされることだけは受け入れられなかった。
だからせめて、セラ嬢とこの件について話せるようになるまで、僕だけでもアストリアへの滞在を許してもらえないか。
そう願いを口にしようとした時だった。
近藤閣下が何かの合図を送るように、静かに右手を上げる。
その直後、部屋の隅で控えていた騎士団員達が一斉に動き出した。
僕と母上の元に迷いなく歩み寄ると、そのまま両腕を掴み、部屋の外へ連れ出そうとする。
あまりにも突然のことに、一瞬だけ思考が追いつかなかった。
だけど自分がこのまま強制的に追い出されようとしているのだと理解した途端、全身を駆け巡った焦りが言葉となって溢れ出した。
「閣下、待ってください!セラ嬢と話をさせてください……!彼女が回復するまで、僕だけでもここでの滞在を許可してください!」
必死に叫びながら身を捩っても、騎士達の拘束はびくともしない。
閣下は、僕の訴えに耳を傾ける様子すら見せなかった。
「連れて行ってくれ」
返ってきたのはその一言だけで、閣下は最後まで僕の方を見ようともしなかった。
胸の奥が冷えていくのを感じながら、僕は騎士達に押さえつけられたまま屋敷の外へと連れ出される。
どれだけ抵抗しても状況は変わらずに、足を止めることすら許されなかった。
屋敷の前には既に数十名の騎士団員が配置されていて、その中央には重厚な黒い馬車が停められていた。
それは公爵家の紋章が刻まれた来客用の馬車ではなかった。
窓には鉄格子が嵌め込まれ、扉には外側からしか開閉できない頑丈な錠が取り付けられている。
罪人や重要な被疑者を移送するための護送車両を目の前にして、僕達は完全に犯人として扱われているのだと悟った。
「待ってください!セラ嬢に会わせてください……!彼女と話をさせてください!」
声が掠れるほど叫んでも、僕の腕を掴む騎士達の力が緩むことはなく、ただ職務を遂行する者らしい冷静な表情のまま僕を連行し続ける。
その様子に個人的な悪意は感じられなかったけど、だからこそ余計に残酷だった。
彼らにとって僕は守るべき客人ではなく、もはや警戒対象でしかないのだと、その態度が何より雄弁に物語っていたからだ。
先に馬車へと連れて行かれる母の後ろ姿を見つめながら、僕は諦めきれずに振り返る。
公爵邸の玄関に立つ近藤閣下は、一度もこちらを見ることはなかったけど、まだ期待を捨てきれなかった。
もしかしたら今からでも近藤閣下が呼び止めてくれるのではないか。
もしかしたら誰かが再調査を提案してくれるのではないか。
もしかしたらセラ嬢が来てくれるのではないか。
そんな僅かな希望に縋るように公爵邸を見つめていると、不意に玄関の方から慌ただしい足音が響き、その場にいた騎士達が一斉に視線を向けた。
僕も反射的に顔を上げると、現れたのは薄いネグリジェの上からガウンを羽織っただけのセラ嬢だった。
まだ病み上がりなのは一目で分かるくらい顔色は雪のように白く、身体を支えることさえ辛そうなのに、それでも必死にこちらへ向かって走ろうとしている。
その姿を見てしまったから、胸の奥で消えかけていた希望が一気に燃え上がった。
セラ嬢は僕を見つけるなり大きく目を見開き、その瞳に明らかな動揺を浮かべる。
その様子から、きっと今初めてこの状況を知ったんだということがわかった。
「セラ嬢……!」
僕は騎士達の拘束から逃れようと身を捩りながら、必死に彼女の名前を呼んだ。
けれどセラ嬢がこちらへ駆け寄ろうとしたところで、その肩を近藤閣下が掴む。
遠く離れているせいで会話の内容までは聞こえない。
それでもセラ嬢が何かを訴え、近藤閣下がそれを制していることだけは分かった。
でもセラ嬢が僕を見捨てるはずがないという確信だけはまだ失われていなかったから、胸を締め付けるような焦燥感の中でも、僕は彼女ならきっと話を聞いてくれると信じていた。
「セラ嬢……!僕の話を聞いて……!」
聞いてほしいことがあった。
母は犯人じゃないし、僕も何もしていない。
君にだけは信じてほしい、ただそれだけだった。
でもセラ嬢は近藤閣下に肩を抱かれながら、その場から離れようとしている。
その隣には、いつの間にかはじめ君の姿もあった。
彼は何も言わずセラ嬢の傍に立ち、まるで彼女を守るように寄り添っている。
その光景が胸を鋭く抉った。
「セラ嬢っ……!」
喉が裂けそうになるほど声を張り上げると、彼女の肩がぴくりと揺れる。
その後ろ姿に縋るように、僕は声を重ねた。
「セラ嬢、お願いだから……!僕の話を聞いて!」
だって君が僕に言ってくれたんじゃないか。
どんな時も僕の味方でいてくれると。
僕のことを信じてくれると。
これからも僕の隣にいてくれると。
あの日、薔薇庭園で微笑みながら交わした約束も、僕の手を握ってくれた温もりも、何一つ忘れていない。
だから行かないでほしかった。
お願いだから振り返ってほしかった。
「セラ嬢……!」
最後の願いを込めて呼んだ名前は、夕暮れの空気の中へ虚しく消えていく。
セラ嬢は僅かに肩を震わせたものの、最後までこちらを振り返ることはなく、そのまま近藤閣下に支えられながら静かに屋敷の中へと戻っていった。
その姿が完全に見えなくなった時、胸の奥で辛うじて繋ぎ止めていた希望が音もなく崩れ落ちていく。
彼女は何も知らないのかもしれない。
近藤閣下に止められているだけなのかもしれない。
体調だって万全ではないだろう。
頭ではそう理解していても、今の僕には彼女が僕を置いて行ったようにしか思えなかった。
やがて騎士団員に肩を押され、僕は抵抗する力も失ったまま黒塗りの護送馬車の中へ押し込まれる。
重たい扉が閉まり、外側から鍵の掛かる鈍い音が響いた時、その音はまるで僕とセラ嬢を繋いでいた最後の絆までも断ち切る音のように聞こえた。
暗い車内の中で拳を握り締めながら、僕は閉ざされた扉を見つめ続ける。
もう二度と会えないなんて、まだ信じられなかった。
それなのに胸の奥では、信じていたはずの彼女にさえ置いて行かれたような痛みが、じわじわと黒い感情へ変わり始めていることに気付いてしまい、僕は目を閉じたまま唇を強く噛み締めることしか出来なかった。
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