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私は先日のお茶会の途中で毒を口にしてしまい、そのまま意識を失ったらしい。
腹部を焼かれるような激痛に襲われ、堪え切れず血を吐いたところまでは覚えているけど、その後の記憶は曖昧だった。
医師の方々が懸命に処置をしてくださったおかげで、どうにか命は取り留め、今は公爵邸の医務室で療養の日々を送っている。
それでも身体の痛み以上に、胸の奥に引っかかったままの不安が消えないまま、私はぼんやりと扉の方を眺めていた。
やがて控えめなノックの音が響き、入室してきたのは、はじめとパメラ夫人だった。
「お加減はいかがですか、セラさん」
パメラ夫人に優しく問いかけられ、私は小さく微笑む。
二人は私が思わず事態になったことを気にかけて、帰国を少し遅らせてくれていた。
『おかげさまで、だいぶ良くなってまいりました』
「それは何よりです。まだ本調子ではありませんから、どうかご無理なさらず、しっかりお身体を休めてくださいね」
「医師達からも順調に回復していると聞いている。焦る必要はない故、今は療養に専念してくれ」
『ありがとう』
二人にお礼を伝えながらも、私の心は少しも軽くならなかった。
はじめやパメラ夫人がこうして何度も顔を見せてくださることは嬉しい。
でもお母様も総司様も、私が目を覚ましてから一度も姿を見せてくださらない。
お父様ですら目を覚ました直後に一度会いに来てくださったきりで、その後は忙しそうにされているらしい。
ここ数日の公爵邸には、どこか言いようのない張り詰めた空気が漂っているように感じた。
廊下を行き交う使用人達は皆落ち着かず、騎士達の姿も普段より明らかに多い。
それなのに、誰も私に何が起きているのかを話してくれなかった。
『母をお見かけしませんでしたか?』
昔から私が熱を出した時も、怪我をした時も、真っ先に駆けつけてくださるのはいつだってお母様だったし、私が泣けば抱き締めてくださり、不安な時には大丈夫だと優しく頭を撫でてくださった。
だから今回だって、本当なら誰より先に私のもとへ来てくださるはずなのに、お父様に尋ねても「後で来る」としか仰らず、その後も一度もお顔を見ることができていない。
子供みたいだと思われるかもしれないけど、身体を壊した時ほど、お母様に会いたくなってしまう。
あの優しい顔を見るだけで、どんな不安も和らいでくれる気がするからだった。
「ユフィ夫人も、そのうちお見えになると思いますよ」
パメラ夫人は穏やかに答えてくださったものの、その声音にはどこか不自然なものが混じっているような気がしてしまう。
『何か、来られない理由があるのでしょうか?』
「そういうわけではありません。ただ今は、ご自身のお身体を第一に考えてくださいませ」
そう言われても、胸のざわめきは消えてくれない。
そして私の心を落ち着かなくさせている理由は、もう一つあった。
私は少し迷った末に、そっとはじめを見上げた。
『総司様は、まだアストリアにいらっしゃるんだよね?』
私がここまで不安になっているのは、お母様だけが理由ではなかった。
総司様もまた、私が倒れたと知れば誰より心配してくださる方だと思っていた。
それなのに、目を覚ましてから丸二日以上経っているというのに、一度も会いに来てくださらない。
何か事情があるのだろうと思いながらも、それでも何かおかしい気がしてならなかった。
「……総司は、もういない」
その言葉に、私は思わず目を瞬かせた。
『え……?』
「ヴェルメルに戻ったからな」
『もう戻られたの?』
「ああ」
そんな話、お父様は何も仰っていなかったし、総司様からも何一つ聞いていない。
もちろん、お忙しい立場だということは理解している。
それでも一言もなく帰られてしまったのだと思うと、どうしても淋しさを感じてしまう私がいた。
けれど、その時だった。
ふと窓の外から、普段では考えられないほど騒がしい物音が聞こえてくる。
何事だろうと思って視線を向けた私は、息を呑んだ。
屋敷の前には見慣れない黒い馬車が停められていて、その周囲を大勢の騎士達が取り囲んでいる。
そしてその中に見覚えのある姿を見つけて、胸が大きく跳ねた。
『……っ』
複数人の騎士達に抑えられているのはアンナ夫人だった。
そして、そのすぐ近くには同じように拘束されている総司様もいる。
何が起きているのかまるでわからないけど、総司様の表情を見れば、ただ事ではないことだけは理解できた。
必死に何かを訴えるような姿に、胸の奥から嫌な予感が一気に込み上げてきて、気付けば私はベッドから降りていた。
腹部に鋭い痛みが走ったけど、それでも構っていられなかった。
「セラさん!」
パメラ夫人の慌てた声が聞こえる。
「セラ、待て!」
はじめもすぐに追いかけてきたけど、私の足は止まらなかった。
医務室を飛び出したところではじめに腕を掴まれ、ようやく立ち止まる。
『どうして……』
振り返った私は、はじめを見つめた。
『どうしてヴェルメルへ戻られたなんて言ったの?総司様、まだいらっしゃるのに』
「それには事情がある」
『事情って何なの?』
「俺の口からは話せない」
『でも様子がおかしいの。総司様があんな顔をされているの、見たことがないの。すぐに行かないと』
「セラが行く必要はない。これは近藤閣下が決められたことだ」
『お父様が何を決断なさったの?』
はじめは瞳を揺らして黙り込んでしまうから、結局何もわからない。
私だけが何も知らないまま、何か大変なことが起こっている。
それだけは確かだと感じた。
『ごめんね、とにかく離して』
はじめの手を振り払ってしまったのは、それだけ私が焦っていたからだったと思う。
胸の奥で鳴り続ける不安は、もう気のせいだと誤魔化せるものではなかった。
総司様の身に何か取り返しのつかないことが起ころうとしている、そんな根拠のない予感だけが胸を締め付け、私は痛む身体を支えながら廊下を急ぐ。
玄関ホールが近付くにつれ騒がしさははっきりと耳に届くようになり、その喧騒の中から聞こえてきた声に、私は思わず息を呑んだ。
「待ってください!セラ嬢に会わせてください……!彼女と話をさせてください!」
それは間違いなく総司様の声だった。
切羽詰まったその響きに鼓動は早くなり、私はほとんど駆け込むようにしてホールに辿り着く。
するとそこには大勢の騎士達に囲まれながら拘束されている総司様の姿があり、私の姿に気付いて、その瞳が大きく見開かれた。
「セラ嬢……!」
いつも穏やかな総司様が、まるで溺れる人が最後の救いを求めるかのように私の名前を呼んでいる。
その姿を見てしまえば、胸の奥を掴まれるような苦しさが込み上げ、私は反射的に彼の元に向かおうとした。
けれど、その肩を強く掴まれて足が止まる。
振り返ると、お父様がそこに立っていた。
「セラ!何をしているのだ、まだ起きてはならんだろう……!」
『お父様、これはどういう事態ですか?どうして総司様がっ……』
掠れた声で問いかけると、お父様は苦しそうに眉を寄せながらも私を離そうとはせず、むしろ逃がすまいとするように私を引き寄せた。
「詳しい話は後だ。今は身体のことを考えなさい。まだ安静にしていなければならん」
『嫌です……!総司様をこのままにはしておけません……!』
「ならんと言っているだろう!」
それは叱責というより、悲鳴に近い声だった。
あまりにも強い声音に思わず息を呑み、私は初めてお父様の顔をまともに見上げる。
その時になってようやく気付いた。
お父様の瞳は赤く腫れ、その奥には今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていたことに。
いつも堂々としていて、どんな時でも私達を守ってくれるお父様が、こんな表情をしているのを見たことがなかった。
『お父……さま……?』
震える声で呼ぶと、お父様は唇を強く噛み締めた後、震える声で言った。
「ユフィが……」
『え……?』
「母様が……亡くなった」
その言葉を聞いて、世界から音が消えた気がした。
何を言われたのかわからない。
理解できないまま立ち尽くしていたはずなのに、気付けば瞳には涙が溢れ、頬を伝って次々に零れ落ちていく。
それはきっと、私の心のどこかが先に真実を理解してしまったからだった。
目を覚ましてから今日まで、お母様は一度も私の元に来てくださらなかった。
いつだって優しくて、私が少し熱を出しただけでも夜通し看病してくれるのに、今回だけはお母様のお姿を見ることは一度もなかった。
だから本当は、どこかで不安だったのかもしれない。
その不安が最悪の形で現実になってしまった今、私は震える唇を押さえることもできず、お父様を見上げることしかできなかった。
『そんな……、ど……して……』
「冷静に聞いてくれ。ユフィの殺害を計画した容疑で、アンナ夫人が拘束されている。セラが口にした毒と同じものも、アンナ夫人の部屋から発見された」
お父様の口から零れ落ちた言葉は、あまりにも現実味がなくて、私はしばらくその意味を理解することができなかった。
けれど、お父様は静かに残酷な言葉を続けた。
「総司殿もこの件に手を貸していないとは断言できん。だからもう……関わってはならんのだ」
信じられなかった。
お母様が亡くなったというだけでも受け止めきれないのに、その死にアンナ夫人が関わっているかもしれないこと、そして総司様までも疑われていることを告げられ、私の心は一度に押し寄せてきた現実に耐え切れなくなっていた。
悲しいとか苦しいとか、そんな言葉では到底足りなかった。
胸の奥を何か重たいものがゆっくりと押し潰していくようで、息を吸うことさえ苦しくなり、視界は滲み、足元は頼りなく揺れる。
そのまま身体が傾きかけた時、泣き崩れそうな私を支えるようにお父様が肩を抱き寄せてくれた。
見上げた先にあったのは、私が今まで見たこともないほど疲れ果てた顔だった。
深い悲しみと、どうしようもない後悔と、自分自身を責めるような苦しみが滲んでいて、その表情を見ただけで更に胸が締め付けられる。
「中に入ろう」
酷く弱々しい声だった。
以前のお父様なら、こんな声は出されなかったと思う。
だからこそ、その一言だけで、お父様も壊れてしまいそうなほど傷付いているのだとわかってしまった。
私は何も言えないまま、その腕に支えられて屋敷の中へ戻ろうとする。
けれど、その時だった。
「セラ嬢…… 、お願いだから……!僕の話を聞いて!」
張り裂けるような声が響いた。
混乱しきっていた意識が、その声によって一気に現実へ引き戻される。
総司様だった。
混乱と悲しみでぐちゃぐちゃになっていた頭の中に、その声だけが不思議なほど鮮明に響いた。
お母様の死を告げられたばかりの私には、もう何が現実で何が悪い夢なのかもわからなくなっていたけど、それでも総司様が私を呼ぶ声だけは聞き間違えるはずがない。
反応して顔を上げた私の手を、今度ははじめがそっと引いた。
「セラ、医師が呼んでいるぞ。取り敢えずは医務室に戻るべきだ」
『でも……』
「はじめ殿もこう言っているではないか。俺達と行こう」
お父様も苦しんでいて、お母様を失った悲しみの中にいる。
それはわかっているはずなのに、足だけは総司様の方へ向かおうとしてしまう。
そんな時、今いる場所から一歩も動けないままになっている私の背後から再び総司様の声が聞こえてくる。
それは先ほどよりもずっと切実なものだった。
「セラ嬢っ……!」
その声を聞き、堪えていた涙がまた溢れた。
総司様は私を呼んでいる。
何かを伝えようとしている。
それなのに、このまま何も聞かずに別れるなんて出来るはずがなかった。
たとえ今どれほど恐ろしい話を聞かされたとしても、総司様の口から何かを聞く前に終わりにしてしまうことだけは間違っているような気がして、私は涙を拭うこともできないままお父様を見上げた。
『お父様、事情はわかりませんが、一度だけ総司様とお話をさせてください』
「ならんと言っているだろう!」
『ですが、このままでは総司様が……』
「セラ……!」
低く、重く呼ばれた自分の名前に肩が震える。
お父様が私を叱ることなんて、今まで一度もなかった。
だからこそ、その声に込められた感情の重さが痛いほど伝わってくる。
顔を上げた先にあったのは、父親としての威厳よりも深い悲しみに押し潰されそうになっている一人の人間の姿だった。
「母様が殺されたのだ。セラは……母様を蔑ろにするのか?」
『ち……がっ……』
そんなことあるはずがない。
お母様は私にとって誰よりも大切な人だった。
優しくて、温かくて、どんな時も私を抱きしめてくれた人だった。
蔑ろになんてしていない。
そんなこと、一度も。
けれど否定の言葉は涙に呑まれ、上手く声にならなかった。
「ならば……頼む、行かんでくれ……」
私は何も言えなくなってしまった。
私のために気丈でいようとしてくれているお父様の願いを振り切ることが、私にはどうしてもできなかった。
視界は涙で滲み続け、何もはっきり見えなかったけど、それでも私は小さく唇を噛み締めた。
大好きだったお母様のことを思うと、ここで振り返ってはいけないような気がした。
だから私は総司様の方を振り向かないまま足を進め、背中越しに聞こえる声だけを胸の奥へしまい込もうとした。
『……っ』
けれど屋敷の扉が閉まり、その音が静かに響いた刹那、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。
思い出したのは総司様と過ごした数え切れない日々だった。
庭園で交わした何気ない会話も、優しく名前を呼んでくださる声も、私が落ち込んでいる時にそっと寄り添ってくださったことも。
その一つ一つが鮮やかによみがえり、あの人と何も話さないまま終わってしまうことだけは絶対に違うと強く思った。
お母様を失った悲しみと、総司様を失うかもしれない恐怖が胸の中で絡み合い、息が苦しくなるほどだったけど、それでも私は立ち止まっていられなかった。
だからこそ、お父様とはじめの制止を振り切るように踵を返し、再び屋敷の外へ飛び出した。
「……セラ!」
けれど、扉を開いた先にはもう誰もいなかった。
総司様の姿はなく、騎士達の姿もなく、ただ彼を乗せた黒い馬車だけが遥か先の道を進んでいて、その距離は私が追いつけるものではなかった。
『……ふ……ううっ……』
力が抜けて、膝が震える。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
数日前まで当たり前のように続いていた日々が、まるで砂の城のように崩れ去ってしまった。
大好きなお母様はもういない。
総司様も連れて行かれてしまった。
何が真実で何が嘘なのかもわからないまま、ただ大切な人達が次々と私の手の届かない場所へ消えていく。
泣き崩れた私をお父様は支えてくださったけど、その温かさに触れれば触れるほどお母様がもう帰ってこないことが現実として胸に突き刺さる。
総司様の声も、お母様の笑顔も、もう二度と取り戻せないもののように思えて、私はただ溢れ続ける涙を止めることができなかった。
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