7
気付けばヴェルメルに帰国してから、三週間が過ぎていた。
任官保留という立場になっても、僕の日常から軍務や鍛錬が消えるわけではない。
むしろ余計なことを考えないためにも身体を動かしていた方が楽だった。
夜明け前には訓練場へ出て剣を振り、昼は与えられた職務をこなし、夜になれば執務室に戻る。
その繰り返しの中で、僕は近藤閣下とセラ嬢宛に手紙を書き続けていた。
返事は当たり前のように一通も来ない。
それでも書くことをやめられなかった。
近藤閣下には再調査を願う言葉を、セラ嬢には身体を案じる言葉を綴り続ける。
読まれている保証もなかったけど、何もしないまま時間だけが過ぎていくことの方が、僕には耐え難かった。
その夜も最後の報告書に目を通し終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
机の上には東部方面の交易記録が積まれている。
今の状況で東部に接触すれば、アストリアだけでなくルヴァン王国そのものを刺激することになるからこそ、慎重に動いていた。
東部と北部を行き来する商会や、港に出入りする輸送船。
軍需品を扱う商人や護衛任務に就く平民出身の傭兵達。
そうした人間達から、ユフィ夫人殺害の事件そのものを尋ねるのではなく、アストリアの最近の様子について少しずつ話を拾い集めていた。
「失礼いたします」
執務室の扉が叩かれ、聞き慣れた声に顔を上げる。
入室した相馬は書類の山を見るなり眉を寄せ、僕の顔を見てさらに険しい表情を浮かべた。
「隊長、まさかまた夕食を抜かれたんですか?」
「よくわかったね」
「わかります。顔色が酷いですよ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫な方は、そのような顔をされません」
「そんなに酷い?」
「正直に申し上げれば、かなり」
相馬はため息を吐き出しながら、机の向かいへ腰を下ろした。
「ここ数日、訓練量も増やされておりますし、休息も不足しています。このままでは身体を壊しますよ」
「身体を動かしている方が楽なんだよ」
「考え事をしなくて済むからですか?」
図星だった。
僕が何も答えないでいると、相馬は小さく息を吐き、持ってきた書類を差し出した。
「東部方面の件ですが、新しい情報が入りました」
「何かわかった?」
「直接ではありませんが、アストリアへ出入りしている交易商から話を聞くことができました。事件以降、公爵邸周辺だけでなく屋敷内部の警備も大幅に強化されているそうです。さらに、公爵閣下が騎士団の増員と拡張を正式に王国へ要請し、それが承認されたことで、今後は東部全体の軍事力が大きく上がるだろうとも噂されています。事件についても関係者への聞き取りは続いているようですが、現時点では新たな進展はなく、有力な手掛かりが見つかったという話も聞いていません」
「そう……。じゃあ、他の容疑者は上がってないってこと?」
「恐らくは。王都でも噂は流れているようですが、アンナ夫人が首謀者だという話しか今の所は出ていないようです」
暴漢達に接触した日、母は一人で街に出かけていたため、彼女のその日の動向を証明してくれる相手はいなかった。
でも昔から誰よりも体裁を気にしながら生きている気弱な母が、あのような事件を起こすなんて到底考えられない。
ヴェルメルに送還される途中、馬車の中で母は何度も言っていた、「私ではない」って。
あの時の様子は、とても嘘をついているようには見えなかった。
それに、不可解なのは母に全ての罪をなすりつけるように仕掛けられた毒。
その毒がアストリアで母が生活していた公爵邸の客室から見つかったということは、本当の首謀者は自由に公爵邸を出入り出来る人物ということになる。
つまりこのまま犯人を割り出せなければ、セラ嬢が危ない。
だからこそ節操感に苛まれ、苛立ちから書類を掴む指先に力が入った。
「隊長」
相馬が不意に僕を呼ぶ。
「俺は法律にも外交にも詳しくありません。ですが、今隊長が動けば状況が悪くなるということだけはわかります」
「わかってるよ」
「本当にわかっておられますか?隊長が東部へ向かえば、向こうは必ず警戒します。近藤閣下も立場がありますし、ルヴァン王国だって他国の貴族が勝手に動くことを歓迎するはずがありません」
「だから行かない。行きたいけどね」
本音を言えば、今すぐ馬を走らせてアストリアへ向かいたい。
セラ嬢に会いたいし、あれからちゃんと快方に向かったのか確かめたい。
それに、今も変わらず僕を想ってくれているのか聞きたかった。
でも、僕が無鉄砲に動いてしまえば彼女をさらに苦しめることになってしまうかもしれない。
だからこの気持ちを抑えて必死に我慢しているだけだった。
「その理性があるのなら良かったですが……」
「僕が理性すら失ってるように見えるの?心外だな」
「最近の隊長は以前に増して荒れてますからね。あの訓練の様子を見たら、誰だって気になりますよ。伊吹も殺されかけたと言っていましたよ」
「あれで?僕は十分手加減してあげてるんだけど。龍之介が弱過ぎるだけでしょ」
こうしてくだらない話をしていても、心を覆う闇は晴れることはたい。
むしろ日が経つごとに僕の内部を侵食し、僕をより醜い感情に沈めようとしてくるようだった。
あの日、僕の方を見ずに去って行ったセラ嬢の背中が忘れられない。
現実だと認めたくなくて、ただ足掻くしかない現状が辛かった。
でも人間というのは弱い生き物だから、どうしても最悪の想像をしてしまう。
もしかしたら嫌われたのではないか。
もしかしたら、もう必要とされていないのではないか。
そんな考えが頭をよぎるたびに、どす黒い感情が胸の奥から湧き上がってきて、その度に剣を振るうしかなかった。
ただ、胸の内側に溜まり続ける焦燥と不安を押し潰す方法が、それしか思いつかなかっただけだ。
「このようなことを申し上げていいのかわかりませんが」
相馬はそう前置きしてから、どこか迷うような表情を浮かべながらも真っ直ぐ僕を見た。
その眼差しには遠慮があったものの、それ以上に今の僕を放っておけないという気持ちが滲んでいる。
「アストリア家のご令嬢は何をしているのでしょうか」
不意の問いに、僕は手にしていた書類から顔を上げた。
「何をしてるって?」
「隊長は彼女の婚約者だったわけでしょう。本来なら隊長のために何かしら動きを見せてもいいと思うんです。もちろん、ご令嬢が大変な状況に置かれていることは理解していますが、それでも何も伝わってこないのは少しおかしい気がします」
「仕方ないよ。毒を飲まされた直後だったし、お母上も亡くなったんだ。セラ嬢だって今は辛い時期だと思うから、僕が動けばいい話でしょ」
彼女が置かれている状況を考えれば、手紙の返事ひとつ書く余裕がなくても不思議ではない。
誰よりも愛情深い子だからこそ、自分自身の悲しみを整理するだけでも精一杯なのかもしれない。
でも、そう考える一方で胸のどこかに別の感情があることも否定できなかった。
返事が欲しい、たった一言でいいから無事だと知りたい。
まだ僕を必要としているんだと確かめたい。
そんな身勝手な願いが、日に日に大きくなっていた。
「ですが手紙の返事すらないんですよ。そんな相手のために隊長がぼろぼろになっていく姿を俺は見ていたくありません。それに今回の件で、帝国の剣を継ぐ話も保留になったと聞きました」
「……どうして相馬がそのことを知ってるの?」
「ヴェルメルの騎士団内で噂されているからですよ。シリル殿下が触れ回っているようです。次期帝国の剣の座はシリル殿下かアルベリク殿下になるだろうと」
あまりにもシリル兄上らしくて、思わず苦笑が漏れた。
昔からそうだ。
自分が優位に立てる話となれば、誰よりも嬉しそうに周囲へ吹聴する。
ましてや、いつも見下していた腹違いの弟が失敗したとなれば尚更だろう。
今回の件で僕の評価が落ちたことが愉快で仕方ないに違いない。
だからといって、帝国の剣の座を諦めるつもりはなかった。
帝国の剣はただの名誉職ではないし、その肩書きの裏には常に死が付きまとう。
命令ひとつで人を斬り、時には罪人を処刑し、時には戦場の最前線で兵を率いる。
綺麗事だけで務まる役目ではなく、必要ならば躊躇なく血に染まる覚悟が求められる。
僕はその重さを知っているからこそ、自分以上の適任者がいるとは思えなかった。
優しすぎる者には務まらないし、考えが甘い者にも務まらない。
人を殺す覚悟を持った者でなければ、その剣は振るえないんだから。
でも僕がどう考えていようと、最終的な決定権は父にある。
そして、その話がすでに騎士団中へ広がっているということは、父は本気で選定をやり直すつもりなのかもしれない。
もしそうなら、今の僕はもう絶対に失敗できない。
アストリアへ向かうことも、感情に任せて行動することも、何ひとつ許されない。
それが正しいとわかっているからこそ苦しかった。
「周りがどう喚こうと、僕がやるべきことは一つだよ」
そう言いながら机の上の資料へ目を落とした。
「真実を見つけること。そして誰にも文句を言わせない立場になること。今の僕にはまだ信用がない。だからまずは取り戻さないとけないんだ」
「帝国の剣ですか」
「うん。強さも地位も名誉もない人間が、欲しいものを手に入れられるほど世の中は甘くないからね」
「それを聞いて安心しました。隊長が全部投げ出して東部へ向かうと言い出すかと思っておりましたので」
「僕って、そんなに無鉄砲に見える?」
「少し。いえ、かなり」
真顔で言われて思わず笑ってしまうと、相馬も僅かに表情を和らげた。
こんなふうに誰かと笑ったのは、凄く久しぶりだった。
「でしたら俺も協力いたします」
「ありがとう」
「ただし条件があります」
「条件?」
「きちんと食事を取ってください。そして睡眠も」
「厳しいな」
「隊長が無茶をなさるからです」
呆れたように言われたけど、その言葉が少し嬉しかった。
一人ではないって感じられたから。
窓の外では夜が更けていく。
それでも僕は便箋を取り出し、慣れた手つきでペンを握った。
いつか必ずまたセラ嬢の隣に立ってみせる。
その日が来るまで諦めるつもりはなかった。
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