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事件の後、公爵邸では大規模な調査が行われた。
来客用の客室を担当していた侍女。
私が毒を口にした当日、テラス周辺の管理を任されていた使用人。
給仕に関わった人や公爵家に勤めて日が浅い人達など、多くの人達が屋敷を去ることになった。
長年仕えてくださっていた方々もいた。
幼い頃から顔を知っている方もいた。
けれど、お父様は一切迷わなかった。
たとえ少しでも危険があるのなら残してはおけない。
そんな決意が伝わってくるほど、その判断は徹底していた。
お母様が亡くなられてから、お父様は変わってしまわれた。
もちろん、あのようなことがあったのだから無理もないと思う。
最愛の人をあんな悲しい形で奪われてしまえば、平然としていられるはずがない。
それでも、以前のお父様を知っている私には、その変化が痛々しく感じられてしまった。
お父様は以前から厳格な方ではあったけど、同時に温かくよく笑う人でもあった。
私が少し失敗をしてしまった時も優しく笑い、お母様と楽しそうに言葉を交わしながらお茶を飲んでいる姿も珍しくなかった。
けれど今のお父様は違う。
何かを警戒するように常に神経を張り詰め、些細な物音にも反応し、以前なら見過ごしていたようなことにまで目を光らせている。
そしてその変化は屋敷全体にも及び、公爵邸の警備は息苦しく感じる程、厳重化されている。
つい先日は騎士団を拡大し、騎士団員も増員することが正式に決定された。
そして、一番に変わったのは私への接し方だった。
以前から大切にしてくださっていたことは分かっていたけど、今はまるで壊れ物を扱うようだった。
屋敷の庭を散歩するだけでも護衛が付く。
外出は原則として認められない。
王都の店へ行くことも、孤児院を訪ねることも、お気に入りだった花屋へ立ち寄ることさえ許されなくなった。
もちろん、今の私に外に出掛けたい気持ちはなかった。
お母様を失った悲しみは今も消えていないし、人混みの中に出る気力もない。
それでも、お父様のその変わりようを見るたびに胸が苦しくなる。
お父様が懸命に私を守ろうとしてくれている気持ちは理解しているけど、その代償としてお父様自身から笑顔が消えてしまったように思えた。
だから私は、お父様の前ではなるべく笑うようにしていた。
悲しい顔をしていたら、お父様はきっと自分を責めてしまう。
山南さんも、山崎さんも、周囲の皆も、もっと心配してしまう。
だから毎日のレッスンにも真面目に取り組んだし、学業にも精を出した。
本を読み、語学を学び、刺繍をして、お母様がいてくださった頃と同じように過ごそうと努力した。
けれど、昼間はどうにか誤魔化せても、夜になると駄目だった。
部屋に戻り、一人になり、机の引き出しから日記帳を取り出すたびに、胸の奥へ押し込めていた感情が一気に溢れ出してくる。
ページをめくれば、そこにはお母様と過ごした日々の記録がある。
庭園で一緒に花を見た日のこと。
お茶会で笑い合った日のこと。
誕生日にいただいた贈り物のこと。
幸せだった日々を思い出すだけで涙が滲んだ。
それに私を苦しめるのはそれだけではなかった。
総司様……まるでそうするのが当たり前のようにその名前を心の中で呼ぶだけで、胸が痛くなる。
お母様はどれほど願っても帰ってこないけど、総司様は違う。
同じ空の下で今も生きているからこそ、余計に諦められなかった。
あの日、総司様が何を伝えようとしていたのか、どうしてあんな表情をしていたのか、聞きたいことが沢山あった。
何も知らないまま終わってしまうことだけは嫌だった。
だから私は、何日も悩んだ末に一度だけお父様にお願いしたことがある。
それは先週の夜だった。
執務を終えたお父様に時間をいただき、総司様にお手紙を出させていただけませんか?と勇気を振り絞って尋ねた。
私はお父様に、自分の気持ちを正直に伝えた。
このまま何も知らないまま終わりにしたくないこと。
総司様が話そうとしていたことを聞きたいこと。
最後に一度だけでも、自分の気持ちを伝えたいこと。
けれど、お父様は険しい顔のまま、静かに首を横に振った。
その表情は厳しかったけど、同時に苦しそうでもあった。
ヴェルメル大公国との関係断絶は両国間で正式に取り決められたものであり、すでに国王陛下も承認されていること。
私個人の感情で覆してよい話ではないこと。
そして、今は何よりも私の安全が優先されるべきだと言われ、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
それでも諦めきれず、自室へ戻った後もしばらく考え続けた。
けれど冷静になればなるほど、それが不可能に近いことも分かってしまう。
貴族の書簡は平民のように自由に投函できるものではない。
特に公爵家から他国の貴族に送る正式な手紙となれば、公爵家の紋章印による封蝋が必要となるし、発送記録も執事や文官によって管理される。
誰宛てに送ったのか、どの経路で送るのか。
そうしたことは全て記録に残されるため、勝手に手紙を送り出すことはできない。
仮に私が隠れて手紙を書いたとしても、公爵家の印章を持ち出すことは不可能だし、無印のまま他国へ送られた書簡は途中で止められてしまう可能性が高い。
何より今の公爵邸は以前とは比べものにならないほど警備が厳しくなっている。
出入りする郵便商人も、伝令も、運搬人も厳しく確認されていて、私の手紙一通を誰にも知られず外に出すことなんて到底できそうになかった。
だから本来なら諦めなければならないと分かっている。
分かっているのに、夜になるたび机の引き出しに視線が向いてしまう。
もし届くのなら、総司様に何を伝えるだろう。
そう考えて、出せない手紙を書いては引き出しにしまうということを、もう何回も繰り返していた。
そんな日々を送っていたある日のことだった。
季節は少しずつ移ろい始めているというのに、私の時間だけはあの日から止まったままのようで、毎日を懸命に過ごしていても、気付けば胸の奥に残る喪失感へ意識が引き戻されてしまう。
そんな中、珍しく来客があると知らせを受けた時、私は少しだけ驚いた。
お母様の事件以来、公爵邸を訪れる方は以前よりずっと減っていたからだ。
案内されたテラスへ向かうと、そこには見慣れた二人の姿があった。
ルヴァン王国の王太子殿下である薫様と、王女殿下である千鶴様。
二年ほど前からご友人として親しくさせていただいているお二人は、私の姿を見た途端、揃って僅かに表情を曇らせた。
きっと私が思っている以上に、今の私はやつれて見えるのかもしれない。
それでも心配をかけたくなくて、私はいつも通り微笑みながら一礼した。
『ご機嫌よう。薫様、千鶴様』
お二人は事件の頃、王国を離れていたらしい。
王太子としての公務と王女としての随行で長く不在にされていて、戻られたのはつい最近だったと聞いている。
そのため、お母様の葬儀に参列できなかったことをお手紙で詫びてくださっていたし、今日こうして足を運んでくださったのも、きっと私を気遣ってくださっているからなのだろう。
そう思うと有り難くて、私は改めて頭を下げた。
『お忙しい中、わざわざ御足労ありがとうございます』
「そんなかしこまった挨拶はいい。それより、平気なのか?」
薫様は眉を寄せながらそう言い、その横から千鶴様が呆れたようにため息を吐く。
「何を言っているの、薫。平気なわけがないでしょう?」
「わかってるけど、取り敢えず聞いたんだ」
「わかりきったことを聞いてどうするの?」
「煩いな。千鶴は黙ってなよ」
『ふふ、相変わらずですね』
「相変わらずってなんだよ。王族を馬鹿にしてるの?」
「馬鹿にされてるのは薫だけだと思うけれど」
「おい、千鶴」
最初にお会いした頃のお二人は、決して今のように気軽に話せる相手ではなかった。
薫様は人を寄せ付けないような鋭さを纏っていたし、千鶴様も王女としての距離感を崩されなかった。
けれど、お母様が毎月開いてくださっていたお茶会で何度も顔を合わせるうちに、少しずつ言葉を交わすようになり、気付けばこうして冗談を言い合えるほど親しくなっていた。
お二人とも私より遥かに重い責任を背負っているはずなのに、それを感じさせないほど堂々としていて、私はいつも尊敬してしまう。
だからこそ、今は自分のことで心配をかけたくなかった。
『私はもう大丈夫です。千鶴様こそ体調はいかがですか?』
「私の心配はいらないわ。最近は以前より体調も良いの。セラさんこそお辛いでしょう?ユフィ夫人のこと、本当に驚いたもの」
『悲しいですけど……最近は少しずつ前を向けるようになってきました。なので、元気にしていますよ』
微笑んでそう告げると、千鶴様は悲しそうに目を伏せた。
「私達の前では無理なさらないで。私も薫も、ユフィ夫人には本当にお世話になったの。あのお茶会だって毎月楽しみにしていたし……残念だわ。もうお茶会は開かれないの?」
『はい。父が、もうやめようと。いつかまた開催出来たらいいのですが』
言葉にして、お母様の姿が脳裏を過った。
お茶会の準備を楽しそうにしていた姿や、私と一緒に茶葉を選んでいた時間。
もう二度と戻らない光景だと思うと胸が締め付けられた。
『私より、父の方が塞ぎ込んでしまっているかもしれません。あまり人と交流しなくなってしまって』
お父様は以前と変わらず執務をこなし、公爵としての責務も果たしている。
けれど人を信じることだけは難しくなってしまったように見える。
夜会への招待は全て辞退しているし、公爵邸でのお茶会も当分は開く予定はないと聞かされた。
あれほど社交を大切にしていたお父様がそう決断されたこと自体、今回の事件がどれほど深い傷を残したのかを物語っているようで、私はそのことも悲しかった。
「近藤公の気持ちは分かるよ」
薫様はそう言って紅茶のカップを置く。
「まさかセラの婚約者の母親がそんなことをするなんて、思いもよらなかったと思うしね」
私と総司様の婚約は正式には公表されていない。
けれど東部と北部の貴族同士の婚約である以上、国王陛下の承認は必要になる。
そのため王太子である薫様と王女である千鶴様だけは事情をご存知だった。
「その婚約者の方、以前お茶会に出席されていたと聞いたわ。私達が欠席した時だったのでしょう?どんな方かも存じ上げないけれど、許せないわ。今からでも引き摺り出して鞭打ちの刑にしたいくらい」
「そもそも、セラは見る目がないんだ。そんな奴、最初から選ぶべきじゃなかった」
お二人の言葉を聞いて、私は胸の奥が痛むのを感じた。
もちろん、お二人に悪気はない。
私を心配してくださっているからこその言葉だということも分かっている。
でも、総司様のことを何も知らないまま否定されてしまうことが苦しかった。
もしここで黙ってしまったら、本当に総司様との繋がりが消えてしまうような気がして、私は思わず顔を上げた。
『いいえ。総司様は、とてもお優しい方なんです』
お二人が驚いたようにこちらを見る中、私はぎゅっと膝の上で手を握り締めた。
『それに、犯人だと言われているアンナ夫人も、とても優しい方でした。私にはどうしても、アンナ夫人が関わっているなんて信じられなくて』
もちろん王国騎士団の方々も捜査に関わっている以上、私が判決そのものを否定できる立場ではない。
けれど、思い出せば思い出すほど、どうしても胸の中に残る違和感は消えてくれなかった。
あの日、別れ際の総司様は、確かに私に向かって何かを伝えようとしていた。
話を聞いて欲しいと、必死な声で叫んでいた。
あの時の総司様の表情が忘れられない。
もし本当にアンナ夫人が犯人なのなら、総司様はあんなにも必死に私を呼び止めただろうか。
考えれば考えるほど答えは見つからず、胸の奥ではずっと同じ想いが燻り続けていた。
もしかしたら、まだ私達の知らない真実があるのではないか。
もしかしたら、アンナ夫人とは別に犯人がいるのではないか。
そんな考えを、証拠も何もないのに安易に口にすることはできない。
それでも、総司様の最後の表情を思い出すたびに、その疑念だけはどうしても消えてくれなかった。
「お前は、馬鹿がつく程お人好しだからね」
私の表情を見ていた薫様が、半ば呆れたように肩を竦める。
「信じたくないのは分かるけど、王国騎士団とアストリア騎士団が揃って同じ結論を出したんだ。他に有力な容疑者もいなかったらしいし、その男の母親で間違いないんじゃない?」
「でも、もしそのご夫人が犯人ではなかったとしたら、それはそれで恐ろしい話だわ。真犯人が別にいるということでしょう?」
「確かにね」
千鶴様が静かに紅茶のカップを置きながら言葉を継ぐと、薫様も頷いた。
「毒はその夫人が滞在していた客間から見つかったんだろ?そうなると公爵邸を自由に出入りできる人間は全員容疑者になる。近藤公は念のため使用人も何人も解雇したそうだけど、使用人如きが暗殺の報酬として大金を用意できるとは思えないしね」
「つまり別の犯人がいたとしても、それなりの身分の方ということになるわ。そしてセラさんの近くにいた方」
「しかも、アンナ夫人は最後まで犯行を認めなかったと聞いた。だから近藤公も、犯人が捕まったとは言え、安心しきれないんじゃないか?万が一のことが起こらないように、騎士団の拡張も考えたんだろ」
「怯えさせるつもりはないけれど、念のためセラさんも暫くは気をつけた方がいいと思うわ」
確かにその通りだった。
もしアンナ夫人が無実なのだとしたら、疑いは別の誰かへ向かう。
公爵邸でそれなりの立場を持つ方々や、騎士の皆さん。
あの日、屋敷に滞在していたはじめやパメラ夫人まで。
考えれば考えるほど苦しくなる。
私は誰のことも疑いたくなかった。
皆、お母様を大切に思っていた方ばかりだ。
だからこそ真実を証明する術もなく、ただ胸の中に残る違和感だけが静かに膨らんでいく。
そう考え込んでいた時だった。
「そうだ!」
突然、薫様が声を上げる。
何か名案でも思いついたかのように顔を輝かせるその姿に、私と千鶴様は同時に目を瞬いた。
「セラはこれから王宮で暮らせばいい」
『え?』
思わず間の抜けた声が出てしまう。
けれど薫様は真面目な顔のまま続けた。
「俺が護ってあげるよ。そうすれば毒を盛られる心配もないだろ」
『ええ?でも、いきなり理由もなく王宮で生活するなんて無理なのでは……』
「その点なら問題ない。俺と婚約すればいいんだ」
『え?婚約?』
「婚約者なら妃教育を受ける名目で王宮に滞在できる。つまり俺と結婚すれば全て解決だな」
得意げに胸を張って言われた言葉を聞いて、何を言われたのか理解できなかった。
ぽかんとしている私の横で、千鶴様が呆れたように額を押さえる。
「セラさん、ごめんなさいね。薫ったら、セラさんが婚約されたと聞いた時からずっと文句を言っていたの。俺にしておけばよかったのにって」
「言ってない」
「言っていたわ」
「それは別に変な意味じゃない」
「でも、毎回言ってたでしょう」
ぴしゃりと言い返され、薫様は不満そうに口を閉じた。
その様子が可愛くて私は思わず笑ってしまったけど、千鶴様も同じように笑い出す。
こんなふうに誰かと笑ったのは、凄く久しぶりだった。
「とにかく、薫は今が絶好の機会だと思ってるみたい。だからセラさんは気をつけてね」
「違う。俺は純粋にセラの身を案じてるだけだ」
『ふふ、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ』
そう答えた途端、薫様が目を見開いた。
「おい、大丈夫とは何だ」
なぜか少しだけ傷付いたような顔をしている。
「まさか俺からの求婚を断るつもり?」
『求婚ではありませんよね?』
「俺は割と本気だった」
『ええ?』
そんなやりとりをしていると、不意に背後から落ち着いた声が聞こえた。
「殿下。求婚とは、どういうことでしょうか」
聞き慣れたその声に振り返る。
すると、いつの間にかテラスの入口に立っていたはじめが、わずかに眉を寄せながらこちらを見ていて、薫様の顔が露骨に引き攣った。
「げっ、斎藤じゃないか。いつからそこにいた?」
「殿下が妙な話を始められた辺りから、ずっとここにおりましたが」
「妙な話じゃない。というか急に現れるな」
「普通に歩いてきたのですが」
あまりにも真顔で返され、薫様が苦い顔をしていると、千鶴様がまたくすくす笑っている。
私も釣られて笑いながら、はじめに言った。
『はじめ、ごきげんよう。びっくりしたよ。今日は騎士団で稽古だったの?』
「ああ、その帰りだ。山南さんに尋ねたら、セラがテラスにいると聞いた故、顔を出してみた」
はじめはそう答えると、少しだけ表情を和らげた。
その言葉が何だか嬉しくて、胸の奥が少し温かくなる。
以前なら当たり前だった何気ないやり取りも、今は懐かしく感じられた。
「はじめさんもこちらへどうぞ。この前のお茶会以来ですものね」
「かたじけない」
千鶴様が席を勧めると、はじめは丁寧に一礼して空いている席へ腰を下ろした。
その様子を見ながら、私はほんの少しだけ肩の力を抜く。
お母様を失ってから、公爵邸で過ごす時間はどこか息苦しく感じることが多かった。
けれど今だけは違う。
大切な人達がこうして傍にいてくれることが、張り詰めていた心を少しだけ和らげてくれるような気がした。
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