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母の離宮への移送は即日ではなかった。
父が処分を言い渡したその日のうちに実行されるのかと思っていたけど、数日が経っても母は本邸の客室棟に留め置かれたままだった。
その理由はアストリア公国から届いているのは事件の概要をまとめた報告のみで、証言記録や捜査資料の原本はまだ届いていなかった。
大公家の第三夫人を何の説明もなく離宮へ送れば、北部貴族達の間で余計な憶測を招きかねない。
だからこそ正式な書類が揃い、皇帝への報告を終え、誰の目にも処分の正当性を示せる状態になるまでは移送を見合わせることにしたのだと言う。
勿論、離宮への移送が数週間先に延びたところで、母に待ち受けている結末そのものが変わるわけではなかった。
社交界からは既に名を消され、大公家の一員としての立場も失われている以上、その猶予はただ処分の日を先送りにしているだけに過ぎない。
それでも、そのわずかな時間が残されたからこそ、母はある日、父に一つだけ願いを申し出た。
離宮へ向かう前に、一度だけ家族全員で食卓を囲みたい。
長年この屋敷で暮らしてきた者の最後の願いとして語られたその申し出は、意外にも退けられることなく受け入れられ、数日後の夜、久しく開かれていなかった家族だけの晩餐の席が設けられることになった。
それが温かい団欒になるはずもないことは、誰より僕自身が理解していた。
長い楕円形の食卓には父を筆頭に、第一夫人のクラウディア夫人、第二夫人のマルグリット夫人、その子供達が並び、そして末席に母と僕が座っている。
華やかな料理が並べられ、使用人達が静かに給仕を続けているにもかかわらず、空気は妙に冷え切っていて、まるで誰もが建前だけで席についているようだった。
「でも、本当に淋しくなりますわ。アンナ夫人が離宮へ行かれてしまうなんて」
クラウディア夫人はそう言いながら優雅に微笑み、隣に座るマルグリット夫人もすぐさま同調する。
「ええ、本当に。こうして皆様とご一緒に夕食をいただく機会もなくなってしまいますものね。今夜は久しぶりに家族揃って食卓を囲めて嬉しいですわ」
その言葉が本心ではないことくらい、ここにいる全員が理解しているだろう。
それでも二人は微笑み続け、母もまた穏やかな笑みを崩さないまま相槌を打っていた。
けれど僕の胸には、席についてからずっと拭えない違和感が残っていた。
そもそも母がこの晩餐を望んだこと自体が不自然だった。
僕と母は長い間、この家の中で歓迎される存在ではなかったし、特に母は家族が集まる席では口数が減り、目立たないよう身を縮めることの方が多かった。
僕が認められるようになってからは露骨な扱いこそ減ったものの、それでも本当に受け入れられたわけではない。
そんな母が、自ら皆を集めて最後の晩餐を開きたいなんて言い出した理由が、どうしても僕にはわからなかった。
「それにしても総司は残念だったな」
食事が半ばに差しかかった頃、シリル兄上がワイングラスを揺らしながら口を開く。
「アストリア家との縁談は消え、帝国の剣の任官も保留になった。せっかく順風満帆だったのに、一夜で随分と転げ落ちたものだ」
悪意を隠そうともしない物言いだったけど、今さらその程度の挑発に付き合う気力もなかった。
僕は視線すら向けずにただ食事に手を伸ばしていたけど、反論したのはまさかの母だった。
「そうでしょうか」
静かな声が食卓に落ちる。
顔を上げると、母が穏やかな微笑みを浮かべたままシリル兄上を見ていた。
「私はシリル様より、総司の方が適任だと思いますけれど」
母がこうして正面から誰かへ異を唱える姿を、僕はほとんど見たことがない。
だからこそ、クラウディア夫人もマルグリット夫人も言葉を失い、シリル兄上ですら一瞬だけ表情を固めている。
父もまた興味深そうに母に視線を向けると、口元に薄い笑みを浮かべた。
「今夜は随分と威勢がいいな。ならば聞こう。何故そう思う」
試すような声音だったのに、今夜の母は少しも怯まなかった。
「理由は簡単ですわ。総司が旦那様のお子様方の中で最も旦那様に似ているからです」
その言葉が発せられた直後、食卓の空気がぴたりと止まった。
第一夫人も第二夫人も目を見開き、兄姉達も皆訝しげに眉をひそめている。
ただ一人、父だけは何も言わずに母を見つめていた。
思えば以前、母は僕にあなたは旦那様と同じ目をしているわ、と言ったことがあった。
あの時は意味がわからなかったし、今だって完全には理解できていない。
ただ、敵を斬る時に躊躇しないところや、目的のためなら感情を押し殺せる部分は、確かに父と似ているのかもしれない。
「旦那様は常に結果を求めるお方です。そして総司もまた、一度決めたことのためならどれほど嫌われても、どれほど傷付いても歩みを止めません。ですから私は、総司が誰よりも旦那様の後継に相応しいと思っておりますの」
「なるほど」
低く呟いた父は、グラスを手に取ると僅かに口元を歪める。
「アンナにしては面白い評価だな。私はてっきり、お前は総司を私とは正反対の人間だと思っているものだと考えていた」
「昔はそう思っておりました。けれど総司は成長するにつれ、旦那様によく似るようになりましたわ。誰よりも執念深く、一度手に入れたいと思ったものを決して諦めないところなど、特にそうですもの。それに総司は以前、弱い者は切り捨てられる、生き残れるのは強者だけだと話しておりました。そのような考え方も、旦那様とよく似ていると思いましたわ」
母は穏やかな微笑みを浮かべながらそう語っていたけど、その横顔を見ているうちに、僕の中では違和感が広がっていた。
離宮へ送られることが決まっているとはいえ、母は妙に落ち着いていた。
いや、落ち着いているというよりも、どこか達観しているように見えたのかもしれない。
長年過ごした屋敷の人々を一人ずつ目に焼き付けるような視線や、普段なら決して口にしないような言葉の数々は、まるで遠い旅へ出る者が最後に景色を眺めているようで、僕はその理由をうまく言葉にできないまま母を見つめていた。
やがて食事も終盤に差しかかり、食卓には色鮮やかな果実のタルトや蜂蜜を使った焼き菓子などのデザートが並べられる。
その頃になると、母はふと思い出したように席を立ち、控えていた侍女に視線を向けた。
「そうだわ。せっかくですもの、今夜のために取っておいたワインを皆様にも味わっていただきましょう。本当は一人でこっそり楽しむつもりで購入しておいたのですが、私にはもうその機会もなさそうですし、こういう席で開ける方がきっとワインも喜びますわ」
その言葉に、侍女が静かに一礼して部屋を下がる。
しばらくして運ばれてきたのは、美しい金の装飾が施された一本のワインだった。
それは南方の名門葡萄園で作られる極めて希少な貴腐ワインで、貴族達の間でも滅多に手に入らないことで知られている年代物だった。
琥珀色に輝くその液体は、甘い果実香と蜂蜜にも似た芳醇な香りを漂わせていて、デザート用の酒としては最高級品の一つと言われている。
「まあ……これは随分と良いものですこと」
マルグリット夫人は思わず目を見開き、普段の嫌味を忘れたような声を漏らした。
「アンナ夫人がお持ちだったなんて知りませんでしたわ」
「隠しておりましたもの。こういう楽しみくらいはあっても許されるでしょう?」
母がくすりと笑うと、その場に小さな笑いが生まれる。
それは久しく見なかった光景だった。
侍女は静かに食卓を回りながら、一人ずつグラスにワインを注いでいく。
琥珀色の液体は燭台の灯りを受けて宝石のように輝き、ゆっくりと揺れていた。
その途中で母は不意に僕へ視線を向ける。
「総司はまだ十五になって間もないけれど、少しくらいなら嗜んだことがあるわよね?」
「ええ」
「母との最後の晩餐ですもの。付き合ってくれる?」
その言葉に、僕はわずかに眉を寄せた。
最後の晩餐なんて離宮に移るだけなんだから大袈裟な表現だと思ったけど、母はどこか嬉しそうに微笑んでいる。
「ええ、勿論いただきますよ」
そう答えると、母は満足そうに頷いた。
やがて全員の前にグラスが置かれる。
父を含めて九人、それぞれのグラスには同じ量のワインが注がれ、琥珀色の光が静かに揺れていた。
母はそのグラスを手に取り、穏やかな笑顔を浮かべる。
「皆様、本日はありがとうございました」
短い言葉だったけど、それに合わせるように皆もグラスを持ち上げ、それぞれがワインへ口をつける。
甘く豊かな香りが広がり、舌の上では熟した果実の風味がゆっくりと溶けていく。
確かに見事な味だった。
クラウディア夫人もマルグリット夫人も満足そうな表情を浮かべ、クラウス兄上でさえ珍しく機嫌を損ねていない。
そんな中で、シリル兄上だけは楽しげな笑みを浮かべながら再び僕へ視線を向けてきた。
「そういえば先程、アンナ夫人は総司が弱い者は切り捨てられる、生き残れるのは強者だけだと話していたとおっしゃっていましたよね」
グラスを指先で揺らしながら、兄上はゆっくりと続ける。
「今の総司は任官保留の身ですし、だとすれば総司自身が言うところの弱者に成り下がったということになるのではありませんか?」
シリル兄上は自信に満ちた様子でそう言い放ったけど、剣の腕ひとつ取っても僕に遠く及ばない人間が、よくもそこまで堂々と口にできるものだと内心で呆れた。
僕が黙ったまま反応を返さずにいると、代わりに口を開いたのは母だった。
「誰が弱者で、誰が強者になるのかは今夜で決まりますわ」
「今夜?」
怪訝そうな声音だった。
でも母が何を言いたいのか、まったく理解できないのは僕も同じだった。
今夜で決まるとは、一体何のことなのか。
離宮に移される前夜だから感傷的になっているのだろうかと思いながら彼女の顔を見ると、母はただ静かに微笑んでいるだけだった。
穏やかな微笑みのはずなのに何故か胸の奥に、小さな棘が刺さるような感覚があった。
でもその違和感の正体を考える暇はなく、事は起きた。
「っ……ごほ、ごほっ……!」
突然、食卓の向こうから苦しげな咳き込みが聞こえた。
音のする方に視線を向けると、エリザベート姉上が白い指で胸元を掴み、激しく身体を震わせていた。
みるみるうちに顔から血の気が引いていき、その変化があまりにも急激で、まるで誰かが絵筆で色を塗り替えているかのようだった。
でも、その光景には見覚えがある。
アストリアで毒に倒れたセラ嬢が見せた苦しみ方と、あまりにもよく似ていた。
「エリザベート?」
アルベリク兄上が怪訝そうに声を掛けたその直後、兄上自身の表情が不意に歪む。
眉間に深い皺が刻まれ、口元を押さえた手の指の隙間から、鮮血を吐き出した。
「アルベリク!」
クラウディア夫人が立ち上がったものの、彼女自身も呼吸を乱しながら胸元を掴み、椅子の背にすがりついていた。
「な、何なの……これ……」
椅子が倒れる音が響き、エリザベート姉上までも床へ崩れ落ちる。
続いてアルベリク兄上も身体を支えきれなくなり、食卓に倒れ込んだ。
「アルベリク、母上……っ、どうされたのですか!」
クラウス兄上の叫びが部屋に響いた。
でもその声が消えるより早く、今度はシリル兄上が激しく咳き込み、血を吐き出し始めた。
先程まで余裕に満ちていた顔から表情が剥ぎ取られ、まるで自分の手を見知らぬ他人のものであるかのように、ただ呆然と見つめていた。
「げほっ……」
「いやあっ、シリル!?エリザベート……!」
マルグリット夫人が駆け寄ろうとするけど、数歩進んだところで身体をよろめかせ、ドレスの裾を巻き込みながらその場に膝をつき、血を吐き出した。
食卓は一瞬にして混乱に包まれた。
苦しげな咳や悲鳴、倒れる音、割れたグラスが床を転がる音。
さっきまで豪華な晩餐が広げられていたはずの部屋が、わずか数十秒で地獄のような光景に変わっていた。
「……まさか」
恐らくこれは毒だ。
そう察したからこそ、自分の身を案じて立ち上がったけど、不思議なことに僕の身体には何の異変もなかった。
胸は苦しくないし、呼吸も正常だった。
「何をしている!早く医師を呼べ!」
食堂に響き渡った父の怒声は、それまでの混乱を押し流すほどの迫力を帯びていた。
先ほどまで呆然と立ち尽くしていた使用人たちは、その声に弾かれるように動き出し、慌ただしい足音があちこちで重なる。
「衛兵も呼べ!誰一人、この部屋から出すな!」
父は椅子を引いて立ち上がると、食卓全体をゆっくりと見渡した。
その眼差しに浮かんでいたのは狼狽ではなく、異変の中心を見極めようとする冷徹な警戒だった。
帝国の北部を束ねる大公として幾度となく陰謀や裏切りを見てきた人だからこそ、目の前で起きていることが偶然ではないと瞬時に悟ったのだろう。
父の視線は並べられた料理の一皿一皿をなぞるように移り、やがて食卓の中央に置かれたワインボトルの上で止まった。
「アンナ」
低く呼ばれた名前に、母は静かに顔を上げる。
悲鳴が飛び交い、人々が混乱し、使用人たちが駆け回っているというのに、母だけがまるで別の場所にいるかのように穏やかだった。
その穏やかさが、僕には何より恐ろしく感じられた。
「これはお前の仕業か?」
父の問いが落ち、食堂から音が消えたような気がした。
ただ重苦しい沈黙だけが広がり、僕自身も息を詰めたまま母を見つめていた。
何かの誤解だと否定してほしかったけど、母は視線を逸らすことなく父を見返し、かすかに微笑んだ。
それは離宮への移送が決まってから時折見せるようになった、あの静かな微笑みだった。
どこか諦めにも似ていて、それでいて不思議な満足感を含んでいるように見える笑み。
「そうですけど、何か」
「目的は何だ?」
改めて周囲を見渡すと、生き残っているのは、父とクラウス兄上、そして僕だけだった。
僕はゆっくりと視線を巡らせながら、この光景の意味を頭の中で整理していた。
仕込まれた毒が、最後のワインの中に混じっていたんだろう。
そして今ここで倒れなかった者達には、一つの共通点があることに気付いた。
父は帝国の剣として長年生きてきた人だ。
暗殺の危険など、いつ降りかかっても不思議ではない立場にあるからこそ、若い頃からあらゆる種類の毒を少量ずつ体に馴染ませてきたと、かつて聞いたことがあった。
クラウス兄上もまた、ヴェルメルの騎士団長として、そして帝国第一皇女殿下との婚儀を控えた身として、以前から父と同じ鍛錬を課されていた。
そして僕もいずれ帝国の剣を継ぐと決まったあの頃から、苦しい思いをしながらも、時折毒を口にしてきた。
慣れることなんて一度もなかったけど、それでも積み重ねてきた。
母はそれをすべてわかっていたからこそ、今夜、この毒を仕掛けたのかもしれない。
本当に強くなろうとして、苦しみに耐え続けてきた者だけが生き残れるように。
「旦那様はいつも仰っていましたわね。強い者だけが生き残れば良いのだと」
「質問に答えろ」
「答えておりますわ。私はただ、この家の教えを最後まで信じただけですもの。私は思ったのですわ。この家が本当に旦那様の仰っているような場所なら、最後までその理屈に従わせて差し上げるべきだと」
その言葉を聞いて、僕はようやく母の意図を理解した。
母は誰か個人への恨みだけで動いたわけじゃない。
父が長年この家に植え付けてきた価値観そのものを、この食卓の上へ突き付けたんだ。
強者だけが生き残り、弱者は切り捨てられる。
それが正しいというのなら、その結末もまた受け入れるべきだと。
「愚かな真似をしたな」
父の声は静かな声音だったにもかかわらず、その奥には凄まじい怒りが潜んでいるのがわかった。
けれど母は少しも怯まず、まるで長い旅路の終わりに辿り着いた人のような穏やかな表情を浮かべている。
「……母上、アルベリク……」
クラウス兄上はクラウディア夫人とアルベリクの亡骸に手を添え、涙を浮かべると、憎しみを込めた瞳で母を睨み上げた。
「父上!このようなことを起こした者を許してはなりません!たとえ誰であろうと、大公家の秩序を乱した罪は裁かれるべきです!」
食堂に再び沈黙が落ちる。
父はしばらく何も言わなかったけど、やがて冷ややかに母を見据えた。
「皮肉なものだな、アンナ。お前自身の理屈に従うならば、お前には死を与えるべきということになる」
「ええ、その通りですわ」
そう言うと母は自らの前に置かれたグラスへ手を伸ばす。
「私はただ最後まで見届けたかっただけですもの。それが叶いましたから、もう思い残すことはありませんわ」
ゆっくりとグラスを持ち上げる母の姿を見て、全身の血が凍り付いたような気がした。
「母上……!」
気付けば身体が動いていた。
咄嗟に母の手首を掴むと、母が驚いたように僕を見上げた。
「どうしたの、総司」
柔らかな声だった。
昔と変わらない母の声。
でもその顔には優しい微笑みが浮かんでいた。
幼い頃、僕はずっとこの人に微笑んで欲しかった。
ただこの人の笑顔が見たくて、どうして僕は自分の母親を笑顔にしてあげることさえ出来ないんだろうとずっと自分を責めてきた。
それなのに、どうしてこんな時に限って僕に笑顔を向けるのさ。
「母上……」
ようやく絞り出した声は、自分でもわかってしまうほど情けなく掠れていた。
「何故止めるの?あなたは私を憎んでいたでしょう?」
その表情は穏やかだった。
でも瞳の奥には、長い年月押し殺してきた感情が滲んでいるように見えた。
「なぜです?どうしてこんなことをしたんですか?」
離宮へ送られたとしても、母はまだ生きていけるはずだった。
不自由な生活ではあっても、生きる道は残されていた。
それなのに、なぜ自らすべてを終わらせるような選択をしたのか、僕にはわからなかった。
「私はね、この家の考え方がずっと嫌いだったの。でも、生き残るためには従うしかなかった。そして気付けば、自分自身も同じ価値観であなたを縛るようになっていたわ。強くなりなさい。弱いのあなたが悪い。私はそう言い続けてきたでしょう」
「それがなんだっていうんです?今回のことに何の関係もないですよね」
「許せなかったのよ。あなたをここまで追い立てて、傷付けて、苦しませて、それでもようやく手に入れたはずの未来を、この家が認めないことが許せなかったの。だってあなたがどれだけ努力をしてきたか、私は知っているわ。帝国の剣の候補に選ばれてからも、どれだけ苦しい訓練に耐えてきたかも知ってる。小さい頃だって、何度も熱を出して、それでも弱音一つ吐かずに立ち上がっていたわよね」
母の瞳から涙が溢れ、僕は言葉を失う。
それでも母は、更に言葉を続けた。
「それなのに今になって、お前には資格がないだの、保留だのと言われるなんて……そんなことがあっていいはずがないでしょう。しかもその原因を作ったのは、この私だなんて」
「ですが母上は、濡れ衣を着せられただけじゃないですか」
「そうだとしても、世の中はいつだって結果しか見ないのよ。私が犯人かどうかなんて関係ない。私が疑われた、その事実だけであなたの未来まで傷付けられようとしている。それが怖かったの」
母は震える唇でそう言った。
「離宮へ行くことも、私が嫌われることも構わなかった。でも私のせいで、あなたが積み上げてきたものまで失うかもしれないと思ったら、それだけは耐えられなかったの」
これまで母はいつだって自分の立場ばかり気にしているように見えていた。
僕のことを案じるより、自分が見捨てられないために僕に期待を押し付けているのだと思っていた。
けれど今の母の姿は、そんな僕の認識を根底から揺るがすものだった。
「私は良い母親ではなかったわ。あなたを守る方法なんて、本当は何一つ知らなかったもの」
そう言って母は微笑んだ。
その顔には涙が伝っていたけど、取り乱した様子はなく、むしろ長い苦しみからようやく解放された人のようにも見えた。
「でも、これでもう大丈夫よ。ヴェルメル大公家には、本当の意味で強い人だけが残った。旦那様もクラウス様も、そして総司、あなたも。もう誰もあなたの足を引っ張らないわ」
母は僕が帝国の剣を継ぐことを誇りに思っていた。
表立って褒めることはなくても、候補に選ばれてからの二年間、誰よりもその行く末を気にかけていたことを僕は知っている。
苦しい訓練の後に顔を合わせれば体調を気遣うような視線を向けていたし、任務から戻れば何も聞かずに安堵したような顔をしていた。
きっと母なりに見守ってくれていたんだろう。
だからこそ、アストリアで起きた一件によって僕の将来が揺らぎ始めたことが耐え難かったのかもしれない。
ようやく掴みかけた未来が、本人の努力とは無関係な理由で失われようとしている。
その現実を、僕と同じように受け入れられなかったんだろう。
そして同時に母は、この家のことを憎んでいた。
人の価値を力で測り、弱い者を切り捨てることを当然としてきた価値観を。
その中で生き延びるためとはいえ、自らも同じ言葉で僕を追い立ててきた過去を。
だから母は最後に裁きを下した。
自分自身も含めて、この家そのものに。
父が長年語り続けてきた「強者だけが生き残る」という理屈を誰よりも忠実に形にしたんだ。
これは復讐だったのかもしれない。
長い年月、この家に縛られ続けた母が、最後に残した痛烈な心の叫びのようだった。
そう考えると、僕には母を責めることができなかった。
その孤独だけは理解できてしまうから。
「僕は母上を恨んでいませんよ」
気付けばそんな言葉が口から零れていた。
母の瞳がわずかに見開かれる。
「欲しいものを手に入れるためには強さが必要だと、今はそう思っています」
それが正しいことなのかは正直今もよくわからない。
だけど少なくとも僕は、何も持たないままでは大切なものを守れないことを知った。
実際セラ嬢の隣に立つためにも、彼女を守るためにも、力も地位も名誉も必要だった。
理想だけでは何一つ守れない。
その現実を、僕は嫌というほど思い知らされていた。
母はしばらく僕を見つめていたけど、やがて安堵したように微笑んだ。
まるで長年抱えていた重荷がようやく下ろせたと言わんばかりに。
だから僕もゆっくりと手を離した。
もう止めることはできないと悟っていた。
今さら何をしたところで、母を待つ結末は変わらない。
それなら最後くらい、自分の意思で歩かせてあげるべきなのかもしれないと思った。
「それなら、あなたらしく生きて」
静かな声だったのに、不思議なほど胸に残る声だった。
「あなたは強いわ。私の自慢の息子よ。その強さを武器にして、欲しいものをその手で掴みなさい」
それが母の最後の言葉になった。
母は静かにグラスへ口をつける。
食堂には誰一人声を発する者はいなかった。
父も、クラウス兄上も、使用人たちも、ただ息を潜めてその瞬間を見つめていた。
母はゆっくりと椅子へ身を預けた後、そっと目を閉じた。
その表情は苦痛に歪むこともなく、どこか穏やかだった。
「……母上」
呼んでも返事はなかった。
その細い肩が再び動くことはなく、僕はただ立ち尽くしていた。
何かを失った実感だけが胸の奥に重く沈んでいるのに、涙は出てこなかった。
悲しいのか、苦しいのか、自分でもよくわからない。
ただ一つだけ確かなのは、この日を境に僕はもう以前の僕ではいられないということだった。
静まり返った食堂の中で、僕は母の眠るような横顔を見つめながら、失われたものの大きさを初めて思い知っていた。
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