10
母が最後に起こしたあの事件は、ヴェルメル大公家を大きく変えてしまった。
一夜にして失われたのは五人の命だけではない。
父が長い年月をかけて築き上げてきた後継体制そのものが崩れ去った。
アルベリク兄上はヴェルメル騎士団を率いていたし、シリル兄上は商務卿として領地経営を担う予定だった。
エリザベート姉上にも有力侯爵家との縁談が決まっていて、それぞれがヴェルメルの未来を支える柱になるはずだったのに、その全てが失われた。
当然ながら空いた席は埋めなければならず、クラウス兄上は予定通り大公家嫡男として正式に後継者へ据えられると同時に、本来なら他の兄二人が担うはずだった役目も引き継ぐことになった。
そして僕は、正式に帝国の剣候補として推薦されることになり、所属もヴェルメル騎士団から帝国騎士団に移された。
本来ならば母の一件によって遠のくはずだったその地位は、皮肉にも母の命と引き換えに僕の手の中にもどってきた。
母の事件は公式には、離宮移送を前に精神を病んだ第三夫人による突発的犯行として処理されたらしい。
詳細を知る者は限られ、食堂にいた使用人たちにも厳しい口止めが行われた。
帝国に提出された報告書にも、大公家内部の不和や後継争いについては一切記されていない。
精神錯乱の末に凶行に及び自ら命を絶った第三夫人、それが公式に残された母の最期だった。
でも、僕は知っている。
母は最後まで正気だった。
正気のままこの家の価値観を憎み、その価値観に縛られ続けた自分自身を憎み、僕の未来を守ろうとした。
そのやり方が正しかったとは思わない。
失われた命が戻ることはないし、母の罪が消えることもないから。
それでも、あの日母が流した涙と、最期に僕に向けた眼差しだけは忘れられなかった。
不器用な人なりに、最後まで僕を案じていたのだろうということは痛い程伝わってきた。
だからこそ僕は立ち止まることはできなかった。
ただ僕自身の意志として前へ進むために、帝国の剣になる。
誰にも奪われない力を手に入れて、自分が守りたいと思ったものを守り抜く。
そのためなら、どれほど険しい道であっても進んでいくつもりだった。
遠く離れた東の空の下にいるセラ嬢のことを思い浮かべながら、僕は静かに剣の柄へ手を添えた。
あの日から失ったものはあまりにも多かったけど、それでもまだ諦めるつもりはなかった。
けれど、僕がどれだけ手紙を書き続けても、アストリアから返事が届くことはなかった。
近藤閣下に宛てた書状も、セラ嬢へ向けて綴った手紙も、読まれているかすらわからない。
それでも書くことをやめられなかったのは、そうしなければ本当に繋がりが途絶えてしまう気がしたからだった。
母が命を絶ったことで、ユフィ夫人殺害とセラ嬢毒殺未遂の嫌疑は、より一層母へ集まることになった。
さらにヴェルメルで起きたあの惨劇は、母が四人を巻き込んで命を奪ったという結果だけを残し、母という人物に拭い難い残虐な印象を刻みつけたに違いない。
そう考えれば、アストリアが僕達を危険視するのも無理はなかった。
たとえ僕自身に罪がなくとも、僕という人間を見る前に、アンナの息子という肩書きが先に見られるのが現実なんだろう。
だからこそ今の段階で正面から関係修復を望むことは難しいということは、嫌でも認めざるを得なかった。
それでも僕はセラ嬢を信じていた。
東部と北部を結ぶ横断鉄道の建設は着実に進められていて、完成すれば移動に要する時間は大幅に短縮されると言われている。
これまで何週間も必要だった距離が数日に縮まり、各国の貴族たちの往来も今以上に活発になると予想されていた。
だから今後は社交の場で顔を合わせる機会はきっと増えていくだろうし、今は会えなくても永遠に会えないわけじゃない。
セラ嬢の気持ちが変わっていない限り、僕達の未来はまだ終わっていない筈だと希望を持つことが出来た。
だからこそ僕は帝国騎士団での任務をこなし、誰よりも剣を振り続けた。
どれほど遠回りになろうと、どれほど長い年月が掛かろうと、僕は必ずその未来に辿り着く。
そう心に誓いながら、今日もまた剣を握り締めていた。
「……はあ」
夜気の中へ細く息を吐き出しながら、僕は血の滴る剣を静かに振った。
今夜、第一部隊に下された任務は、帝国の安寧を脅かす反逆分子の粛清だった。
表向きには記録に残らない仕事だけど、帝国の影で蠢く者たちを排除し、火種が大きくなる前に摘み取ることもまた僕たちに与えられた役目のひとつだ。
最後の標的が崩れ落ちるのを見届けてから剣を鞘へ収めると、張り詰めていた神経が僅かに緩み、それとほぼ同時にごつりと重い感触が肩に乗った。
「おつかれ、隊長。今夜もすげぇ暴れっぷりだったな」
振り返れば、三木が豪快に笑っていた。
その顔には敵味方の区別もつかないほど返り血がこびりついていて、笑顔なのに随分物騒に見える。
「三木こそ、随分活躍したんじゃない?」
「まあな。今日はなかなか楽しめたぜ」
悪びれもなくそう言うあたり、彼らしい。
その隣では、血に濡れた剣先を布で拭っていた武田が、ゆっくりと長い髪をかき上げながら口元を歪めた。
「今夜は私も三人ほど斬り捨てたが、なかなか骨のある連中だったぞ」
どこか満足そうなその声音に、僕は苦笑する。
武田は軍略家として優秀だけど、いざ剣を握れば妙なところで好戦的になる。
そんな彼の様子を横目に見ていると、今度は軽い足音が近づいてきた。
「隊長。俺は二人ですが、今回は無傷です」
嬉しそうに報告してきたのは相馬だった。
血に汚れた外套の下に怪我は見当たらず、本人も誇らしげに胸を張っていた。
「偉いじゃない。みんな、お疲れ様」
そう言って周囲を見回せば、誰も大きな怪我はしていないらしい。
それだけで十分だった。
僕がヴェルメル騎士団を離れ、帝国騎士団へ籍を移した時、この四人にも残るか同行するかを選ばせた。
無理に連れてくるつもりはなかったし、それぞれの人生がある以上、別の道を選んでも構わなかった。
でも、彼らは誰ひとり残らなかった。
相馬は迷いなく僕の後ろに立ち、三木も当然のようについてきて、武田は面白そうだからという顔で笑い、龍之介に至っては流されるまま気付けば同行していた。
こんな血塗れの仕事ばかりをさせていることに、後ろめたさがないわけじゃないけど、皆は誰も文句を言わなかった。
それぞれ過去に事情を抱え、綺麗事だけでは生きられなかった人間だからだろう。
特に三木と武田は、人を斬ることへの躊躇いをとうの昔に捨てている。
それは良いことではないのかもしれないけど、少なくともこの場所では必要な資質だった。
「それじゃあ、帰ろうか」
任務は終わった。
あとは報告書だけだと踵を返しかけたところで、遠くから慌ただしい声が飛んできた。
「待ってくれって!俺の今日の成果も聞いてくれ!」
勢いよく現れたのは龍之介だった。
剣の腕前は未だ発展途上で、部隊の中では間違いなく最弱。
それなのに不思議なほど生存運だけは良く、今夜も傷ひとつ負わずに剣を肩へ担いでいる。
「龍之介は何人しとめたの?」
そう尋ねると、彼は待ってましたとばかりに胸を張った。
「聞いて驚くなよ!一人だ!」
まるで英雄譚の続きを語るかのような、誇らしげな笑顔だった。
僕が何か言うより早く、すぐ隣から深いため息が聞こえた。
振り向けば武田が額へ手を当て、心底呆れたような表情を浮かべていた。
「ふん、その程度でよくそこまで得意になれるものだな。貴様の場合、まずは足を引っ張ったことを詫びるべきではないのか」
「なんだよ、その言い方!」
「ほう、違うと申すのか?一体何度相馬に助けられたか、詳しく詮議してやっても構わんのだぞ」
「うっ……」
反論しかけた龍之介の声が止まる。
その様子を見た三木が吹き出し、相馬は困ったように笑いながら視線を逸らした。
殺し合いの直後だというのに、こうして馬鹿みたいなやり取りを続けている。
血の臭いが漂う夜道を歩きながらも、彼らの声を聞いていると不思議と気が楽になる気がした。
命を預け、命を預かり、明日になればまた同じ場所へ集まる。
そんな当たり前のことが、ここ最近は少しだけ心地良かった。
でも夜風に吹かれながら帝都の拠点に戻る道すがら、龍之介は相変わらず口を閉じていることが出来なかった。
「そういや、アストリア家のご令嬢とはどうなったんだ?まだ手紙の返事こないのか?」
あまりにも遠慮のない問いに、隣を歩いていた相馬がすぐさま眉を寄せ、龍之介の肩を掴んだ。
「余計な詮索はしないでください」
「いや、俺は心配してるだけで!」
「心配するにしても聞き方というものがあります」
相馬は本気で咎めている様子だったけど、龍之介はまったく堪えた様子もなく首を傾げている。
そんな二人を見ながら、武田が口元を歪めた。
「ほう……相馬のその慌てぶりからすると、どうやらまだ返事は届いていないようだな」
図星だったからこそ、僕は何も言わなかった。
あの事件から数ヶ月が経った今も、セラ嬢からの手紙は一通も届いていない。
だけど最近の僕は、その答えに正面から向き合うことを避けていた。
いつか返事が来るかもしれない。
半年後かもしれないし、一年後かもしれない。
あるいは数年後には、また笑って話せる日が来るかもしれない。
そんな根拠のない希望に縋らなければ、胸の奥に抱えている想いが、嫉妬や不安や疑念で汚れてしまいそうだった。
セラ嬢を想う気持ちは、僕の中で一番綺麗な感情であってほしかった。
だからこそ、考えないようにすることで自分の感情を押さえ込んでいた。
「下世話だね、君達」
努めて軽くそう返すと、三木が肩を竦めた。
「隊長の命令なら、俺がアストリアまで馬でひとっ走り行ってきてやってもいいぜ。セラ嬢って子に話を聞いてくればいいんだろ?」
「駄目だよ。三木がいきなり押しかけたら、あの子が怖がっちゃうじゃない」
「なんでだよ」
「鏡見たことある?」
「あるわ!」
「なら分かるでしょ」
三木の顔についた返り血を指差すと、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
その様子に相馬が笑い始めた。
「しかも、ひとっ走りで行ける距離でもありませんよ」
「だが、まどろっこしいだろうが。会って話せば相手が何考えてるかなんて一発でわかるだろ」
「三木さんは脅して聞き出しそうですからね」
「おい相馬」
「違うんですか?」
「……否定は出来ねぇな」
その返答に皆が笑った。
けれど武田だけは、何かを考えるように顎へ手を当てていた。
やがて意味ありげに僕の方に視線を向ける。
「しかし、隊長も随分と律儀な男だな」
「何が?」
「何が、ではない。数ヶ月も音沙汰がないのだろう?ならば、そろそろ他の女へ目を向けても良い頃合いではないか」
思わず足を止めそうになった。
「……は?」
「ほう、聞こえなかったか。もう一度言ってやろうか?」
「聞こえたよ」
「ならば話は早い。隊長ほどの男なら、女など選び放題だろう。いつまでも一人の娘に拘る必要などあるまい」
武田は当然のことを口にするような顔でそう言った。
すると、その隣を歩いていた相馬までもが真面目な表情で頷く。
「それはそうですね。隊長は容姿も優れていますし、家柄も申し分ありません。剣の腕に関しては言うまでもなく帝国屈指ですし、実際、女性から人気があるのは当然だと思います。隊長ご本人がまったく気にされていないだけで、周囲はかなり騒いでいますよ」
「持ち上げても何も出ないよ」
苦笑しながら返すと、相馬は困ったように笑った。
「持ち上げているつもりはありません。本当に事実なんです。隊長宛てに届く舞踏会の招待状や贈り物の数は騎士団内でも有名ですし、隊長目当てで女性が騎士団を覗きに来ることも珍しくありませんよ」
「そんな話、初めて聞いたんだけど」
「隊長はそういう話に興味を示されないので、耳に入らないだけですよ。どうせ聞いても興味なさそうな顔をされるだろうと分かっていますし」
相馬がさらりと言えば、龍之介が目を丸くした。
「いや、待て待て!本当にそんなに人気あるのか!?俺、隊長って強いし顔もいいとは思ってたけど、女に騒がれるようなタイプだとは思ってなかったぞ!」
失礼なことを言う龍之介を僕が睨みつけると、隣にいた三木が吹き出した。
「お前、それ褒めてるのか?貶してんのか?」
「褒めてるだろ!ただ俺の中の隊長って、恋愛とかそういうのより剣振り回してる印象の方が強いんだよ!」
そして龍之介は本気で不思議そうな顔をしたまま僕を指差した。
「だって隊長、こんなに戦闘狂なのに。女ってそういうの気にしないのか?」
その言葉に三木は更に肩を震わせ、武田は面白そうに目を細め、相馬は額を押さえていた。
僕はゆっくり微笑む。
「龍之介」
「ん?なんだ?」
「次の任務では、君から斬ってあげようか。敵を相手にする前に、まず龍之介で肩慣らしをするのも悪くないかもしれないね」
「すみませんでした!本当にすみませんでした!今のは失言でした!」
龍之介は慌てて数歩飛び退き、両手を振りながら必死に謝っている。
その姿を見て、三木が声を上げて笑った。
「馬鹿だな、お前は。隊長相手にその言い方はねぇだろ」
「だって事実だろうが!戦場での隊長、めちゃくちゃ怖いぞ!笑ってるのに目が全然笑ってない時あるし!」
「それは否定出来ませんね」
相馬がぽつりと呟く。
「いえ、もちろん尊敬していますよ。ですが正直に申し上げるなら、隊長が本気で怒った時は敵より怖いと思います」
「相馬までそんなこと言うんだ」
「事実ですから」
「実際、敵に回したくねぇ人間第一位だろ」
「違いないな」
相馬と三木の言葉を聞いて、武田まで同意する。
「剣の腕もそうだが、隊長は執念深そうだからな。一度狙われたら最後まで追い詰められそうだ」
「皆ひどくない?」
僕が呆れて言葉を返しても、四人ともどこか楽しそうだった。
そんな空気の中で、三木がふと気を取り直したように口を開く。
「だがまあ、冗談抜きで次行った方がいいんじゃねぇか?」
「まだ言うの?」
「言うさ。返事も来ねぇんだろ?なら一人の女ばっか考えてても仕方ねぇじゃねぇか。今度みんなで帝都のいい店に行こうぜ。酒もうまいし、女も綺麗だし、気晴らしにはちょうどいい」
「ふん、三木の案も悪くはないがな。私ならもっと上等な場所を紹介出来るぞ。帝都には表では語られぬ名店が幾つもある。酒も女も一流、貴族や高官が密かに通うような場所だ。隊長ならば歓迎されるだろう」
「武田が勧める時点で、なんか怪しい店のような気がするんだけど」
「失敬な。私は善意で言っているのだ」
「その善意が信用出来ないんですよ」
相馬が即座に突っ込む。
「武田さん、隊長に変なことを教えないでくださいよ」
「ほう、まるで私が悪人のような言い方だな」
「違うんですか?」
「ふん」
武田は鼻を鳴らしながらも、否定はしなかった。
すると、それまで黙っていた龍之介が急に身を乗り出した。
「でもな!俺、この前初めて武田さんに連れていってもらったんだ!」
「へぇ」
「いや、ほんとすごかったんだって!酒はうまいし飯もうまいし、店にいる女の人達はみんな綺麗だし、しかも俺なんかにも優しくしてくれるんだぞ!?あんな世界があるなんて知らなかった!」
龍之介は興奮したまま力説を続ける。
「俺、最初は緊張して何話していいか分からなかったんだけどさ、向こうから話しかけてくれるし、笑ってくれるし、もう夢みたいだったんだ!あれは一回行った方がいい!絶対隊長も行くべきだって!」
「だから興味ないよ」
「なんでだよ!人生損してるぞ!」
「そうかな」
「絶対そうだ!隊長だって少しくらい楽しんだ方がいいって!」
龍之介は本気で勧めてくるけど、僕はただ苦笑するしかなかった。
皆の言いたいことは分かる。
返事の来ない手紙を待ち続けるより、新しい出会いを探した方が建設的だという理屈も理解出来る。
それでも、不思議なくらい興味が湧かなかった。
どれだけ綺麗な女性がいたとしても、どれだけ魅力的な出会いがあったとしても、その姿を思い浮かべようとすると、気付けば別の人の顔が浮かんでしまう。
遠く離れた東の地にいる、セラ嬢。
数ヶ月も返事のないまま、それでも忘れられない人。
胸の奥に沈んだ想いは消えるどころか、時間が経つほど静かに深く根を張っていくようだった。
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