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それは、私が誕生日を迎える少し前のことだった。
アストリアの公爵邸で、騎士団の稽古を終えたはじめと一緒にテラスでお茶をしていると、来客として薫様と千鶴様が訪ねてきてくださった。
夏の始まりを感じさせる穏やかな風が庭を吹き抜け、色とりどりの花々が揺れているのに、その日の私はどこか落ち着かない気持ちを抱えていた。

お母様のことがあってから、皆は以前にも増して私を気遣ってくれる。
薫様も千鶴様も、伊庭君や平助君も、騎士団の皆さんも、屋敷の方々も。
その優しさは本当にありがたくて胸が温かくなる反面、これ以上心配をかけたくないという思いもあった。
だからこそ私はできるだけ明るく過ごそうとしていたけど、その日の薫様は席につくなり、どこか言葉を選ぶような表情を浮かべていた。


「今日はさ、純粋にセラに会いに来たっていうのもあるんだけど」


そう言って一度口を閉ざした薫様は、小さく息を吐いてから静かに続けた。


「ヴェルメル大公家のことで、話したいことがあったんだ」

『総司様のことで……?』


私が思わずそう尋ねると、千鶴様は心配そうにこちらを見つめながら口を開いた。


「詳細については、国王陛下から近藤公にも書状が届いていると思うわ。でも近藤公は、セラさんにはお話しされないかもしれないでしょう?」

「だから俺と千鶴で相談したんだ。セラには知っておいてほしいと思ったから」


薫様の声は穏やかだったけど、その表情は少しばかり重かった。
隣に座るはじめと視線を交わすと、はじめも同じことを感じたのか、わずかに眉を寄せていた。
きっと良い話ではない。
それでも、総司様に関わることならば聞かないという選択肢は私にはなかった。


『教えてください』


そう言うと、薫様は真っ直ぐ私を見返した。


「先月、ヴェルメル大公家で毒殺事件が起きたらしい」


どくんと大きく心臓が脈打ち、息が詰まる。
頭の中に浮かんだのはただ一人、総司様だった。
ご無事なのだろうか。
お身体を壊していないだろうか。
何か言葉を発したかったのに、喉が強張って声にならなかった。


「セラと交流があった四男は生きてるよ」


薫様は私を安心させるようにそう前置きをしてくださったから、思わず息をほっと吐く。
けれど、その後に続いた言葉はあまりにも重かった。


「ただ、死者は六人だ。ご夫人と、ご子息、ご息女が亡くなられたそうだ」


私は思わず震える指先で口元を押さえた。
だって、その方々のことは知っている。
数年前、私は確かにお会いしたことがあるから。
総司様がご無事だったことは本当に良かった。
けれど、それだけでは喜べないほど悲惨な出来事を聞いて、胸が締め付けられる想いだった。


「生き残ったのは長男と、その四男、それから大公閣下だけらしい」

『それでは……アンナ夫人も……』

「そのアンナ夫人が犯人だ」


私は息を呑む。
だって、そんなこと……とても信じられなかった。


「報告書によれば、離宮への移送を前に精神を病み、突発的に犯行に及んだとされている」

「大公家ではユフィ夫人毒殺の罪でアンナ夫人を離宮に追放し、大公家の権利も剥奪する予定だったそうなの。その精神的な衝撃が引き金になったみたいね」


千鶴様の説明を聞きながらも、私はうまく考えがまとまらなかった。
ただ胸の奥だけが苦しくて苦しくてたまらない。
総司様は今、どんなお気持ちでいらっしゃるのだろう。
お母様を失ったあの日のことが不意に蘇った。
突然、大切な人がいなくなる悲しみ、何も考えられなくなるほどの喪失感。
あの苦しみを私はよく知っている。
だからこそ、総司様の胸にある悲しみを思うと耐えられなかった。

気付けば視界が滲んでいた。
慌てて俯き、袖で目元を拭う。
泣いてはいけないと思うのに、次から次へと涙が込み上げてきてしまう。


『ご、ごめんなさい……。私……総司様がご無事だと聞いて安心したのに……でも、ご家族のことを考えたら……』


最後まで言葉にならなかった。
胸がいっぱいになり、唇を噛みしめると、隣からは静かな声が聞こえた。


「セラは自分が同じ悲しみを知っているから苦しいのだろうな」


顔を上げると、はじめはいつものように落ち着いた眼差しで私を見つめている。
その言葉に、堪えていた涙がまた溢れそうになった。


「総司もきっと辛いだろうが、今はただ生きていてくれて良かったと、そう思ってやればいい」


その言葉を聞いて、胸の奥で張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
でも同時に、総司様に会いたいという気持ちがどうしようもなく込み上げてくる。
今すぐ会って、そのお顔を見て、ご無事を確かめたい。
そしてもし総司様がお一人で悲しみを抱えているのなら、少しでも寄り添いたい。
けれど、それは叶わない願いだった。


『言い難いことを教えてくださってありがとうございます』

「いや、まだ続きがあってさ。その毒はセラが以前飲んだものと同じだったらしいんだ」


それはつまり……そう考えてしまった私の横で、はじめが眉を顰めて言った。


「やはりアンナ夫人が、先日の事件に関わっていた可能性が高いと?」

「ええ。そう言われているわ。勿論、これは可能性の話だけれど」

「その毒は予めワインに仕込んでいたそうだ。しかも驚くことに、そのワインは家族全員が飲んだらしいよ」

『……では総司様も飲まれてしまったのですか?』

「ああ、そうだ。ただ亡くなったのは六人だけだった。生き残った三人は毒への耐性があったのかもしれない」


私が言葉もなく薫様を見つめると、彼は言葉を続けた。


「それが分かっていたからこそ、アンナ夫人は自分の息子にも同じワインを飲ませたんじゃないかって見られているんだ」


あまりにも恐ろしい話だった。
母親が自分の子供に毒を飲ませる。
それも生き残ると分かっていたから。
頭では理解しようとしているのに、心がどうしても受け入れられなかった。


「普段から日常的に摂取していたとなれば、その毒はヴェルメルでは入手しやすいものだったということなのだろうな」

「そうなんだ。だから帝国側も王国側も、アンナ夫人が犯人である可能性は極めて高いと判断したらしい」


そう言ったあと、薫様はどこか気遣うような眼差しで私を見た。


「セラ、前に言っていただろ?あの夫人が事件に関わっているとは思えないって」


確かにそう言った。
アンナ夫人は穏やかで、優しく微笑む方だったから。
だからこそ信じたくなかった。


「だから、一応伝えておこうと思ったんだ」


薫様の言葉を聞きながら、私は膝の上で握り締めた手に力を込める。
信じたい気持ちと、現実を受け入れなければならない気持ちが胸の中でぶつかり合っていた。
けれど何よりも苦しかったのは、その真実がどうであれ、総司様が今、ご家族を失った悲しみの中にいらっしゃるという事実だった。
遠く離れた帝国の空の下で、総司様は今どんな表情をなさっているのだろう。
そう考えるだけで胸の奥が締め付けられ、言いようのない切なさが広がっていった。


その日の夜、私はお父様の執務室を訪れた。
廊下を歩く足取りは決して軽くなかったけど、それでも行かなければならないと思った。
今日聞いた話を胸に抱えたまま眠ることなどできそうになかったし、何より今のまま何もせずにいることの方がずっと苦しかったからだ。

扉を叩いて中へ入ると、お父様は机に向かって書類へ目を通していたけど、私の姿を見るなり手を止めた。
きっと私が何を言いに来たのか、もう分かっているのだろう。
しばらく静かな時間が流れたあと、お父様は低く口を開いた。


「それで、話とは何だね」

『お父様もご存知ですよね。ヴェルメルで起こった毒殺事件のことです』

「ああ。今朝、陛下より報告が届いた。俺も一通り目を通したよ」


その声音には事件の重大さを理解しているからこその重苦しさが滲んでいる。
私は膝の上で握り締めた指先に力を込めた。


『わがままを承知でお願いします。どうか、総司様にお手紙を出すことをお許しいただけませんか』

「それはならんと何度も言っているだろう。この前も山南君に頼んだそうだな。いい加減、彼のことは忘れなさい」


忘れなさい……それはもう、何度聞いたかわからない言葉だった。
けれど私は静かに首を横に振った。


『忘れようと思って忘れられるのなら、とっくにそうしています。けれど総司様は、私にとって大切な方なんです。お父様なら……そのお気持ちがどれほど簡単には消えないものか、お分かりになるのではありませんか?』


我ながら狡い言い方だと思った。
けれど、お父様の胸に今も深く残っている悲しみを私は知っている。

お母様を失った悲しみ。
忘れたいと思っても忘れられない苦しみ。
大切だったからこそ消えない想い。
それは私も同じだった。

人の心は理屈だけでは動かない。
総司様を想う気持ちも、やめようと思ったからといって消えてくれるものではなかった。


「あれから半年も経ったのだ。総司殿からも一通の手紙も届いていないというのに、今さら何を書くというのだね」


その言葉に胸がちくりと痛む。
総司様の気持ちが見えない今、お手紙を出してしまうことも怖く感じられたけど、それでも私は迷わなかった。


『今の私の正直な気持ちを書きます。総司様を案じていることも、最後の日にきちんとお話を聞けなかったことを申し訳なく思っていることも、そして……』


そこで一度言葉を止める。
胸の奥から込み上げてくる想いを誤魔化したくなかった。


『今でも、総司様のことを大切に想っているということも、お伝えしたいのです』


お父様とこうして話すたびに、いつもお母様の話になった。
お母様を死なせた事件。
その加害者の息子と、これからも関わろうとするのかと。
もちろん、お父様の仰ることは間違っていない。
お父様や亡くなったお母様のことを思えば、普通なら距離を置くべきなのかもしれない。
けれど総司様は何も悪くない。
私は今でもそう思っている。
だから私達の話し合いは、いつもどこかで平行線を辿ってしまうのだった。


『けれど、お父様。どうか誤解なさらないでください。私は今、総司様との婚約を元に戻してほしいとお願いしているわけではありません。そのようなことを申し上げられる状況ではないことくらい、私にも分かっています』


今日聞いたヴェルメルでの惨劇。
そしてアストリアで起きた出来事。
その全てを思えば、私達の婚約が両家に歓迎されるものではなくなってしまったことくらい理解できる。

もちろん未来のことまでは分からない。
だから希望を捨てたくはないけど、私は今すぐ何かを求めているわけではなかった。


『ただ、総司様は私にとって今でもかけがえのない大切な方なんです。それなのにあの日、何もお話しできないままお別れになってしまいました。伝えたかったことも、聞きたかったことも、たくさん残ったままなのです。このまま何も伝えられずに終わってしまったら、きっと私はずっと後悔します』


私はあの日からずっと後悔している。
どうしてあの日の私は、総司様と向き合えなかったんだろう。
どうして総司様のあの悲しそうな表情から目を逸らしてしまったんだろう。
どうして、あんなにも苦しそうに私に手を伸ばしてくださっていたのに、その気持ちを受け止めようとしなかったんだろう。
思い返すたびに胸が酷く痛んだ。

総司様はどんな時も私を大切にしてくださっていた。
それなのに私は、一番大切な時にその手を取ることができなかった。
あの日の総司様の姿を思い出すたび、胸の奥が締め付けられて、自分自身が許せなくなる。
本当に酷いことをしてしまったと思う。

何度も何度も考えた。
眠れない夜のたびに思い返しては、自分を責め続けてきた。
あの時の私はただ怖かったんだ。
お母様を失った現実を受け入れることも、その事件と向き合うことも。
そして、総司様と向き合うことも。
全てが恐ろしくて、苦しくて、私は逃げてしまった。
目を閉じてしまえば何も見なくて済むような気がして、傷付くことから逃げることばかり考えていた。

でも今ならそれは間違いだったんだと分かる。
逃げたままでは何も終わらない。
伝えなければならない言葉は、ちゃんと伝えなければならない。
だから私は今からでも伝えたいと思った。
あの日、何も言えなかったことへの謝罪も、総司様を案じ続けていたことも。
そして今でも変わらず大切に想っているということも。

もし総司様が、あの日伝えられなかった何かを今でも胸に抱えてるのなら。
もし私に話したいと思ってくださるお気持ちが少しでも残っているのなら。
私は今度こそ逃げずに、その想いを受け止めたい。
そう願わずにはいられなかった。

私は熱くなる目元を堪えながら、お父様を見つめる。


『総司様からお返事がいただけなくても構いません。既に総司様のお気持ちが離れてしまっていて、私の想いを受け取っていただけなかったとしても』


想像してしまうと、声が少し震えた。
そうなってしまったら悲しいけど、それは私が悪いのだからその結末は受け入れなければならない。
だから私は俯かなかった。
今だけは、自分の気持ちから逃げたくなかったから。


『ただ……自分の言葉を届けたいのです。ですからどうか、一度だけ総司様にお手紙を出すことをお許しください』
 

震える指先をぎゅっと握りしめながら、私はお父様の返事を待つ。
静まり返った執務室には時計の音だけが響いていて、その一秒一秒がひどく長く感じられた。
静かに私を見つめていたお父様は、しばらく考えるような沈黙を挟んだあと、低く落ち着いた声で問いかけた。


「その手紙を書けば、セラの心は少しでも前に進めるのか?」


前に進む……その言葉が意味するものを、私はすぐには理解できなかった。
総司様を忘れることなのか、それともこの苦しみを終わらせることなのか。
けれど、どちらも違うような気がして、私は懸命に答えを探した。

総司様への想いを忘れられるかと聞かれれば、正直なところ自信はなかった。
あの日からどれほど時間が過ぎても、胸の奥にある気持ちは少しも薄れてくれない。
むしろ思い出すたびに鮮やかになり、優しかった声も、穏やかに微笑む表情も、昨日のことのように蘇ってくる。
そんな気持ちを手放せるとは、とても思えなかった。
するとお父様は、私の迷いを見透かしたように静かに続けた。


「たとえ総司殿から返事が届かなかったとしても、セラ自身が伝えたい想いを届けることで、このまま抱え続ける後悔に区切りをつけられるのか?」


正直、手紙を出すことは少し怖かった。
総司様の気持ちが離れてしまっているのなら、その事実を知らないままでいたいと思う気持ちもある。
でも今のまま何も伝えずにいれば、あの日の後悔だけが残り続ける。
最後に総司様が伝えようとしてくださった言葉に耳を傾けることもできず、傷つけたまま離れてしまったことを、私はきっと一生悔やみ続けるだろう。

何より、総司様を傷つけたままでいたくなかった。
その想いだけは、はっきりと胸の中にあったから、私はゆっくりと顔を上げた。


『はい』


小さな声だったけど、その返事に込めた気持ちは決して小さくなかった。
お父様はしばらく私を見つめ、それから静かに頷いた。


「わかった。そこまでの覚悟で願うのであれば、俺は止めんぞ」

『本当ですか……?』

「ああ。ただし一つだけ約束してほしい」


お父様は穏やかながらも、厳しさを宿した眼差しで私を見据える。


「その手紙を、セラ自身の区切りとすることだ。想いを伝えたなら、その先は相手に委ねなさい。何度も追いすがるような真似はせず、その手紙を最後にして自分の人生を歩むのだと約束してくれ」


私は目元を熱くしながら何度も頷いた。


『はい……約束します。ありがとうございます、お父様』


そうして深く頭を下げた私は、執務室を後にした。
廊下を歩く足取りは自然と速くなり、そのまま自室に戻ると、机の引き出しをそっと開く。
中には、これまで書いては出せなかった手紙が何通も眠っていた。
総司様に届けたかった言葉、伝えられなかった想い、行き場を失った気持ちの数だけ、そこには便箋が重なっている。

けれど、今から書く手紙は本当に総司様に届けられる。
そう思ったら、胸の奥から込み上げた感情に耐えきれなくなり、ぽろりと涙が零れ落ちた。


『総司様……』


会いたい。
お話がしたい。
聞いてほしいことがたくさんある。
そして、聞かせていただきたいことも。
私は涙を拭いながら便箋を広げ、ペンを握った。

総司様のお身体を案じていること。
あの日、お話を聞くことができなかったことを今も後悔していること。
もし許していただけるのなら、今からでも総司様のお気持ちを聞かせてほしいこと。
胸の内に抱え続けてきた言葉を、一つひとつ丁寧に綴っていく。

そして、誰にも隠せない私自身の想いも。
今も変わらず総司様が大好きなこと。
すぐには叶わなくても、いつかまた笑い合いながらお話しできる日が訪れることを願っていること。
そしてデビュタントを迎えるその時まで、あの約束を心の中に抱きしめながら生きていこうと思っていることも。

便箋の上に言葉を重ねるたび、涙が静かに滲んでいく。
それでも私は書く手を止めなかった。
この想いだけは、後悔だけは、もう二度と伝えられないままにしたくなかったから。
たとえこの手紙が最後になったとしても、総司様を想う気持ちだけは偽らずに届けたい。
そんな願いを込めながら、震える指先で最後の一文字まで丁寧に書き綴った夜だった。


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