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セラ嬢との連絡が途絶えてから、気がつけば半年以上もの歳月が流れていた。
季節はすでにいくつも巡り、あれほど頻繁に交わしていた手紙も今では完全に途絶えたまま。
ユフィ夫人が命を落としたあの事件についても、僕なりに裏で調査を続けてはいたけど、手掛かりと呼べるものは何ひとつ得られず、ただ時間だけが虚しく過ぎ去っていった。
そして先日、さらに胸を重くする報せが届いた。
アストリア公爵家は、すでに一連の事件についての調査を完全に打ち切ったという。
少なくとも公爵家の中では、ユフィ夫人を死に追いやった黒幕は僕の母で間違いないという結論に落ち着いたのだろう。
そうでなければ、調査を終わらせる理由がないからだ。
状況証拠だけを並べれば、最も疑わしい人物だったのは間違いなく母だったから仕方ないことなのかもしれない。
でも母を信じたい気持ちと、否定しきれない現実との狭間で揺れ続ける日々は、思っていた以上に心を削っていくものだった。
加えて、この半年の間、僕自身も次期帝国の剣として与えられる任務に追われ続けていた。
国内外の要人警護や国境付近での騒乱の鎮圧、帝国に牙を向ける勢力への対応。
どれも一歩間違えれば命を落としかねない案件ばかりで、心が休まる時間はほとんど存在しなかった。
朝から夜まで剣を握り、任務が終われば今度は報告書や軍務の処理に追われ、休息の取れる時間にはアストリアの事件についての情報をまとめる日々。
眠りにつく頃には心も身体も擦り切れているのに、目を閉じれば思い浮かぶのはセラ嬢のことだった。
今はどうしているんだろう。
元気で過ごせているだろうか。
僕のことを、少しでも思い出してくれているだろうか。
そんな答えの出ない問いばかりが胸の中を巡り続けていた。
その夜も、深夜を過ぎた執務室で書類に目を通していた時だった。
静まり返った廊下から控えめなノックの音が響き、許可を出すと相馬が姿を現した。
「やはりまだ起きていらしたんですね」
「相馬こそ。最近は任務が立て込んでいたんだし、君もそろそろ休みなよ」
「そう思ったんですが、こちらを届けにまいりました」
そう言いながら差し出された封書に視線を向け、僕は苦笑いを溢した。
「なに、書状?そんなもの明日でいいのに」
「それもあるんですが、もう一件、早めにお伝えしておくべきかと思った話がありまして」
「何かあったの?」
首を傾げると、相馬は僕の向かい側へ腰を下ろし、少し声を落として言った。
「実は、ユフィ夫人を襲撃した男の一人と顔見知りだったという人物から、話を聞くことが出来たそうなんですよ」
その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
ここ数か月、何ひとつ進展がなかったからこそ、僕は思わず目を見開いていた。
「え?本当?」
「いえ、期待させるほどの内容ではないんですが……」
「それでもいいよ。どんな些細なことでも、そこから何か繋がるかもしれないし」
相馬は頷き、真剣な表情のまま話し始めた。
「その男が以前、今回話を聞いた相手に依頼主のことを少し漏らしていたそうなんです。どんな人物だったかと尋ねたところ、詳しくは覚えていないらしいのですが、金持ちそうな女だったと。そして、薔薇のような匂いがしたと話していたそうです」
「薔薇?」
「はい。恐らく香水でしょう。その襲撃者は薔薇の匂いが苦手だったらしく、依頼主と会うたびにそれが苦痛だったと愚痴を零していたそうですよ」
それだけでは、ほとんど意味を成さない情報だった。
香りなんてその日の気分で変えることもできるし、意図的に別のものを纏うことだって難しくない。
仮に犯人が正体を隠そうとしていたのなら、なおさら当てにならないだろう。
そう考えながら小さく息を吐いた時、不意にある記憶が脳裏に蘇る。
あれはセラ嬢が毒を口にして倒れた日のことだった。
彼女はパメラ夫人と香水の話をしていた。
僕の母が身につけていた香水と同じ香りだと。
確か、薔薇の香りだと言っていたはずだ。
そしてパメラ夫人自身も、昔からずっと同じ香水しか使っていないと話していた。
「やはり大した情報ではありませんでしたね。申し訳ありません。俺はこちらの書状を整理してから部屋に戻ります」
「…………」
「隊長?どうかされましたか?」
「いや……」
言葉を返しながらも、思考は別の場所へ向かっていた。
依頼主は確実に女性で、襲撃者たちが証言した体格や髪の長さ、髪の色の特徴も一致している。
さらに依頼主は、自分の身元を示すために襲撃者たちへ正体を明かしていた。
だからこそ母は容疑者となった。
髪色はいくらでも偽装できるけど、背丈や体格となると話は別だ。
そして僕はふと、母とパメラ夫人が並んでいた姿を思い出していた。
あの二人は体格も背丈も似ていた。
さらに、僕たちがアストリアに滞在していた期間、パメラ夫人も同じく公爵邸に滞在していた。
公爵家の客人である彼女は屋敷内を自由に歩き回ることができたし、使用人たちも昔馴染みの彼女を怪しむことはない。
今までそんな可能性を考えたことはなかったけど、もし犯人が内部事情を知る人物であり、なおかつ自由に行動できる立場だったのだとしたら。
使用人や外部の人間を疑うよりも、むしろ彼女の方が遥かに条件を満たしているのではないか。
そんな考えが頭をよぎると、背筋に冷たいものが走った。
それはまだ確信ではなかったけど、長い間動かなかった盤面の上に、初めて置かれた新しい駒のように思えた。
「東部のレーヴェルン公国」
思考の流れを整理するように小さく呟くと、書状をまとめていた相馬が怪訝そうに顔を上げた。
「え?」
「そこの家の人達を調べることはできるかな。特に、パメラ夫人っていう人なんだけど」
相馬は少し驚いたように目を瞬かせたものの、すぐに真剣な表情に戻り、頷いた。
「レーヴェルン公国のパメラ夫人ですね。次からは不自然にならない程度に探るよう指示を出しておきます。ですが、どうして急にその方を?」
「ちょっと気になることがあるんだ」
それ以上は言わなかった。
まだ自分の中でも形になっていない疑念を、軽々しく口にしたくなかったからだ。
仮にパメラ夫人が関わっていたのだとしたら、資金を用意することは難しくないだろう。
貴族社会の中でも相応の地位を持つ人物だ。
襲撃者たちを雇うだけの金銭を工面できたとしても不思議ではない。
それに、あの頃の僕とはじめ君の関係は決して良好とは言えなかった。
実戦試合では容赦なく剣を振るい、結果として彼を深く傷つけてもいる。
もし息子を傷つけられたことに対して怒りを抱いていたのだとしたら、その感情自体は理解できなくもなかった。
でも、そこから先がどうしても繋がらなかった。
ユフィ夫人を殺害する理由が見当たらない。
ましてセラ嬢に毒を盛る必要なんて、なおさら理解できなかった。
はじめ君がセラ嬢に特別な想いを寄せていることくらい、母親であれば気づいていてもおかしくない。
そんな彼女が、自らセラ嬢を害するだろうか。
考えれば考えるほど無理のある仮説に思えた。
それでも、もし僕の知らない事情があったのだとしたら。
もしあの事件の裏側に、誰も知らない動機が隠されていたのだとしたら。
答えのない思考は次々と枝分かれし、静かな執務室の中で僕だけがその迷路を彷徨っていた時だった。
「隊長……っ!!」
突然響いた大声に、僕は反射的に顔を上げる。
「え?何?」
「大変ですよ!ついに届きましたよ!」
「だから何が……」
折角真剣に考えを巡らせていたのに、相馬が珍しく大声を出すものだから思考が乱されてしまった。
やや苛立ちながら目を細めると、目の前に差し出されたのは見覚えのある蝋印。
長いこと待ち侘びていたアストリアからの手紙が、今僕の目の前にあった。
「……え、これ……」
「アストリア家からです!しかも差出人は……」
「……セラ嬢だ」
信じられなかった。
目の前にある筆跡は紛れもなくセラ嬢のもので、その名前を目にしただけで、長い間胸の奥に沈み続けていた重苦しい感情が浮かび上がるような気がした。
半年以上、待ち続けても返事はなくて、それでも書かずにはいられなくて何度も便箋を広げた夜を思い出す。
もう届いていないのかもしれない。
あるいは、読まれてすらいないのかもしれない。
そんな考えが頭を過るたびに打ち消してきたけど、心のどこかでは不安でたまらなかったのも事実だった。
だからこそ、その文字を目にして、嬉しくて堪らなくなった。
情けないほど震えそうになる指先で封書を受け取りながら、僕はしばらくそれを開くことすらできなかった。
向かい側では相馬も固唾を呑むようにこちらを見守っている。
なぜ今になって手紙が届いたのかは分からないけど、理由なんて後でよかった。
「なんて書いてあるんですかね……」
「それをこれから読むんじゃない」
「俺、ここにいてもいいんですか?」
「別にいいよ、今更。相馬には色々助けられてるからね」
そう言うと、相馬はどこかほっとしたように表情を緩めた。
この半年の間、僕がどれだけ返事を待っていたかを彼は知っている。
だからこそ、この手紙が届いたことを自分のことのように喜んでくれていた。
僕は一度だけ深く息を吸い込み、慎重に封を開いた。
便箋を傷つけないよう指先で折り目をほどきながら、胸の奥では落ち着かない鼓動が鳴り続けている。
読むのが怖くないと言えば嘘になる。
そこに何が書かれているのか分からない以上、不安がないはずもなかった。
それでも、何も届かないまま待ち続ける苦しさに比べればずっと良い。
こうしてセラ嬢の言葉を受け取れるだけで十分だと、その時の僕は本気でそう思っていた。
便箋を広げると最初に目に飛び込んできたのは、僕の身体を気遣う言葉だった。
忙しい毎日を送っているだろうから無理をしないでほしいこと。
どうか自分を大切にしてほしいこと。
その文章は、記憶の中にいるセラ嬢のままだった。
自分のことよりも先に相手を気遣い、常に優しい言葉を選ぶ。
読み進めながら、自然と心が温かくなっていくのを感じていた。
続く文章には、僕が送った手紙への感謝が綴られていた。
返事を出せなかったことへの謝罪と、今まで届いた手紙はすべて読んでいたこと。
自分を想い続けてくれたことへの感謝。
その言葉を読んだ時、胸の奥で張り詰めていたものがようやく報われたような気がした。
僕の言葉は届いていたんだ、セラ嬢にずっと。
その事実が心を温かく染めたけど、その安堵は長くは続かなかった。
文章の調子が変わったことに気付いたのは、ほんの数行先だった。
そこには、今後は手紙を送らないでほしいという願いが、彼女らしい穏やかな言葉で綴られていた。
僕のことを考える度に、どうしても悲しい記憶ばかりが蘇ること。
思い出す度に心が痛み、前に進めなくなってしまうこと。
読み進めるにつれ、胸の奥が嫌な音を立て始めていた。
けれど、本当に僕を打ちのめしたのはその先だった。
セラ嬢は僕への気持ちはもう残っていないと、はっきり文字にして書いていた。
だからこそ、僕のことを忘れたいという。
僕と過ごした日々や思い出を、できるだけ早く忘れるつもりだと。
そして僕にも同じことを望んでいた。
自分のことは忘れてほしい、過去に縛られず生きてほしい。
そこまで読んだ時には、もう便箋の文字を追うことさえ苦しかった。
そして最後には、もし今後どこかで顔を合わせることがあったとしても、その時は他人として接してほしいと綴られていた。
声をかけないでほしいこと、他人として生きていきたいこと、自分もそうするつもりでいること。
手紙には、ほんの僅かな希望を残す言葉もなかった。
いつかまた、なんていう未来を示唆する一文ですらどこにも存在しない。
決して覆ることのないセラ嬢の決意だけが記されているだけだった。
「隊長?手紙、どうしてしたか?」
読み終えたはずなのに僕は便箋を畳むこともできず、ただその文字を見つめ続けていた。
目の前には確かにセラ嬢の筆跡がある。
半年以上も待ち続けて、ようやく手元に届いた彼女の言葉がある。
それなのに、今は不思議なほど何も感じられなかった。
嬉しさも、悲しさも、怒りさえも。
あまりにも大きな衝撃は、人から感情を奪うものなのだと、その時初めて知った気がした。
執務室は静まり返っていた。
相馬が何か言ったような気もしたけど、耳には入らなかった。
ただ便箋の上に並ぶ文字だけが、焼き付くように脳裏に刻まれていく。
もう気持ちは残っていない、忘れたい、忘れてほしい、会っても話しかけないでほしい、これからは他人として生きていきたい。
その言葉の一つひとつが、まるで鈍い刃のようにゆっくりと心に沈んでいく。
一息に断ち切るのではなく、時間をかけて肉を裂いていくような残酷さがあった。
どうして、そんなことが言えるんだろう。
僕には分からなかったし、分かりたくもなかった。
ユフィ夫人のことで、彼女が苦しんでいたことは知っている。
母親を失った悲しみがどれほど深いものだったのかも、理解しようとしてきた。
それでも僕は、どうしてもこの手紙を受け入れることができなかった。
なぜならあの日、セラ嬢は僕の話を聞くこともなく、僕に背を向けた。
向き合うことすらして貰えないまま、一気に切り捨てられた気がした。
忘れたい……その一文だけが何度も頭の中で繰り返される。
僕との日々を、僕との時間を、僕との思い出を、忘れたい。
それはつまり、セラ嬢にとって僕との時間が、これ以上抱えていたくないものになってしまったということなのだろうか。
前に進むために捨てなければならないものになってしまったということなのだろうか。
そう考えれば、胸の奥が痛み始めて、呼吸をするたびに傷口が開いていくようだった。
この半年以上、僕は何をしていたんだろう。
返事の来ない手紙を書き続けながら、それでもどこかで信じていた。
彼女も同じように僕を想ってくれているんだと。
苦しんでいても、離れていても、心のどこかでは僕を必要としてくれているんだと。
だから待つことが出来た。
どれだけ不安でも、どれだけ眠れなくても、彼女を信じていたから。
けれど、その信頼はあまりにも一方的だったらしい。
僕だけだったんだ、あの日から一歩も動けずにいたのは。
僕だけが彼女を求めて、僕だけが手を伸ばしていた。
僕だけが、まだ終わっていないと思っていた。
その事実が、堪らなく惨めだった。
滑稽だ、本当に。
次期帝国の剣だなんだと持ち上げられながら、実際にはたった一人の女性に心を奪われたまま、半年もの間同じ場所に立ち尽くしていたのだから。
でも……ただ会いたかった。
会って話がしたかったし声が聞きたかった。
触れたかったし、大好きなあの笑顔が見たかった
本当はずっとそれだけだったはずなのに、今は違う。
会いたいという願いそのものが苦痛になっている。
なぜなら、会えないから。
もう二度と以前のようには会えないのだと分かってしまったから、求めるほど苦しい。
想うほど苦しい。
忘れろと言われるほど忘れられなくなる。
それはまるで、僕を蝕む呪いだった。
彼女を愛したことや彼女を失ったことが、まるで呪いのように身体へ絡み付き、少しずつ息の仕方を奪っていく。
任務をしていても思い出す、剣を握っていても思い出す。
朝も夜も関係なく、気付けば彼女のことばかり考えている。
そのくせ、彼女は僕との全てを忘れたいと言う。
その現実がどうしようもなく苦しかった。
そしてその苦しみの底で、自分でも認めたくない感情がゆっくりと形を持ちはじめる。
どうして僕だけがこんなにも苦しいのだろう、と。
本当は分かっている。
彼女だって苦しんだのかもしれないし、何度も悩んでこの手紙を書いたのかもしれない。
それでも本気で想っていたからこそ、生まれる怒りが確かにあった。
信じていたからこそ、生まれる絶望があった。
そんな醜い感情が胸の奥から顔を覗かせるたび、自分自身に嫌悪する。
けれど決して消えてくれないのは、今でもどうしようもないほど、セラ嬢を愛してるからだ。
だから憎しみに似た痛みが生まれるし、愛してるからこそこの憎しみすら手放せない。
手放せないから苦しくて、苦しいから傷付き、傷付くから彼女を責めたくなる。
その繰り返しだった。
便箋の上には最後まで優しい言葉しかなかった。
相手を気遣い、未来を願い、穏やかな別れを選ぼうとしたセラ嬢らしい文章だった。
けれど彼女は優しいまま僕を拒絶した。
優しいまま僕との未来を閉ざした。
そして僕だけが、まだ彼女を忘れられずにいる。
あれほど大切だったセラ嬢という存在が、僕の中に深く根を張り、僕の心を壊していくようだった。
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