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セラ嬢から届いたあの手紙を読んで以来、僕はユフィ夫人殺害事件の調査から、まるで糸が切れたように手を引いた。
あれほど真相を追い求め、どんな些細な情報にも食らいつくように動いていたはずなのに、不思議なくらい未練はなくなった。
アストリア公爵家が母を犯人だと断じ、その結論を覆す意思がないというのなら、それで構わないと思った。

もちろん納得したわけではないし、悔しさも怒りも消えたわけじゃない。
ただ、それ以上に疲れてしまったんだと思う。
どれだけ足掻いても覆らない現実を前にしながら、たった一人で真実を追い続けることにも、二度と手の届かない相手を想い続けることにも。
だからすべてを胸の奥に押し込めて剣を振るい、強くなることだけを考えて生きていこうと思った。

それに今は無理でも、半年後には少し楽になっているだろうし、一年後には思い出として受け止められるようになっているかもしれない。
そして数年も経てば、きっと今の苦しさもなくなり、セラ嬢のことを思い出しても平気な顔でいられるようになるだろう。
そんなことを半ば自分に言い聞かせるようにしながら、ただ目の前の日々をこなしていた。

だけど現実は、僕が思っていたよりずっと厄介だった。
あの手紙を読んだ頃にはまだ夏の日差しが街を照らしていたというのに、今では帝都の並木道もすっかり色を失い始め、夜になれば吐く息が白く染まるようになっている。
それだけの月日が流れたにもかかわらず、胸の奥に残り続けている感情は少しも薄れてはいなかった。
むしろ忘れようとすればするほど鮮明になり、思い出さないようにすればするほど不意に蘇ってきて、そのたびにどうしようもない悲しみや苛立ちが胸の内に積み重なっていく。
季節が一つ巡ったくらいでは、心は少しも前に進んではくれなかった。

そんな気分のまま迎えた夜。
僕たちは任務帰りにいつもの酒場へ立ち寄り、それぞれ好きな酒を手にしながら今日の疲れを癒していた。
帝都の中心街にあるその店は、西方諸国から輸入された葡萄酒やブランデー、果実酒などを取り揃えていることで知られていて、帝国騎士団の人間もよく利用している。
重厚な木製の扉を開けば暖炉の火が赤々と燃え、香辛料の効いた料理の香りと酒の匂いが混じり合い、仕事を終えた客たちの笑い声が絶えず響いていた。

今日は帝国北東部のアルフェルト地区に出向いていた。
街道沿いの市場で、祭りの準備に使われる資材が何度も行方不明になるという相談が持ち込まれたものの、調べてみれば犯人は盗賊でも犯罪組織でもなく、近隣の牧場から抜け出した馬たちだった。
荷車に積まれた干し草の匂いに引き寄せられて市場に入り込み、あちこちの荷を引っ掻き回していたらしい。
結局、僕たちは一日中馬を追い回し、逃げた家畜を捕まえて農場に返す仕事をする羽目になった。


「はああ、今日も疲れちまったよ」


龍之介が肩をぐるぐる回しながら、大袈裟なため息を吐き出した。


「騎士団に入ったはずなのに、なんで俺は馬追いの名人みたいになってんだろうな」

「伊吹君が馬に追い回されていたように見えましたけどね」


相馬が苦笑いをしながら、即座に突っ込みを入れていた。


「違うって。あれは向こうが勝手に追いかけてきたんだよ」

「干し草を持って走り回っていたからでしょう」

「誘導してたんだ!」

「馬に遊ばれていたようにしか見えなかったけどな」


三木が酒を飲みながら小さく笑うと、武田がグラスを傾けながら穏やかに口を開いた。


「まあ平和な任務だったじゃないか。毎回こうならありがたいものだ」

「それはそうですね。俺も書類整理よりは外の任務の方が好きですし」

「俺も賛成だな!馬ならまだいいが、これが猪だったら死んじまうって話だ」

「大袈裟だな」


三木が呆れたように言う。
そんなやり取りを聞きながら僕は静かに酒を口に運んだけど、不意に龍之介がこちらを見た。


「そういや隊長、最近はやけに静かだな」

「そう?」

「そうだろ。今日も任務中もぼーっとしてたし」

「疲れてるだけだよ」


剣を抜く機会は一度もなかったけど、朝から晩まで街中を歩き回らされたせいで、それなりに疲労は溜まっている。
ため息を吐き出していると、龍之介はグラスを卓に置きながら僕の方に身を乗り出してきた。


「隊長さ、まだ失恋引き摺ってんのか?」


その言葉を聞いて、相馬が盛大にむせた。
武田は眉を上げ、三木は面白そうに目を細める。
けれど当の本人だけは、自分が何を言ったのか分かっていないような顔をしていた。


「龍之介。君、よくそんなこと聞けるね」

「だって気になるだろ。ここ数か月ずっとそんな感じじゃないか。前より元気ないし、たまにぼーっとしてるし、酒飲んでても全然楽しそうじゃないだろ」


言葉を重ねる龍之介の声を聞きながら、僕は静かにグラスの中の酒を見つめた。
琥珀色の液面に暖炉の火が揺れている。
その揺らめきの向こうに見えるのは、結局いつだって同じ顔だった。
忘れようと思ったはずなのに、時間は何一つ解決してくれなかった。

半年も経てば楽になると思っていたのに、実際には季節が変わるたびに彼女のことを思い出し、今頃アストリアでは何をしているのだろうと考えてしまう自分がいる。
だから龍之介の言葉を否定することはできなかった。


「そうかもね」


酒の入ったグラスを指先で弄びながらそう呟くと、龍之介はまるで僕が認めるとは思っていなかったのか意外そうに目を見開き、相馬はどこか気まずそうに視線を伏せる。
武田と三木は顔を見合わせたけど、少しばかり重くなりかけた空気を真っ先に壊したのは、やっぱり龍之介だった。


「でもさ、俺はまだ諦めなくていいと思うんだよな」


そう言って彼はどこか励ますような顔でこちらを見る。


「復縁できること、俺は願ってるからさ!」


その言葉に、思わず小さな笑みが漏れた。
馬鹿だなと思うし、龍之介らしいとも思う。
でもそれは絶対に叶わない願いだということを、多分この世で一番よく分かっているのは僕自身だった。


「別に復縁なんて望んでないよ」

「そうなのか?なんで?」


なんで、なんて……そんなことを聞かれても説明できるわけがない。
あるいは説明したところで理解してもらえるとも思えなかった。

僕の中にあったセラ嬢への愛情は、今も確かに残っている。
残っているどころか、半年以上経った今でも胸の奥にしつこく居座り続けていて、忘れようとしても消えてくれない。
けれど、その形はもうとっくに昔とは違っていた。

僕の心を満たしていたはずの彼女の愛情が、絶対に失われないものだと信じていた彼女の想いが、ある日突然、まるで最初から存在しなかったかのように消えてしまうものだったと知ってしまった今、もう一度あの頃と同じものを求めたいとは思えない。
信じていたものが壊れたあとで、再び同じものを信じろと言われても無理な話だ。
それなのに忘れられないんだから、本当に救いようがない。
そんな複雑で歪んだ感情を一から説明する気にもなれず、僕は曖昧に肩を竦めた。


「とにかく、そういうんじゃないんだよ」


すると今度は三木がグラスを置きながらこちらを見た。


「じゃあ隊長はどうしたいんだ?」


その問いに少し考え込んでしまったのは、本当に分からなかったからだ。
会いたいのかと聞かれれば、たぶん会いたい。
忘れたいのかと聞かれれば、それもそうだ。
許したいのか、憎みたいのか、取り戻したいのか、二度と顔も見たくないのか、そのどれもが正しいような気がするし、そのどれもが違うような気もする。
ただ一つだけ確かなのは、もし叶うなら時間を戻したいということだった。
セラ嬢のことを純粋に想えていた頃に。
彼女の言葉を疑うこともなく、彼女の笑顔を見ているだけで幸せだった頃の自分に。

けれど、そんなことはもう絶対に叶わない。
失ったものは戻らないし、一度知ってしまったことを忘れることもできない。
だから僕はグラスを揺らしながら少し考え、それからぽつりと呟いた。


「うーん……ぐちゃぐちゃにして殺したいかな」


静まり返る卓。
僕は、明らかに引いた顔をする四人の反応を見ながら苦笑する。


「だってさ。僕をこんなに苦しませるの、あの子くらいなんだよね。やられっぱなしは癪じゃない」


僕の心をこんなにも掻き乱して、忘れたくても忘れられなくして、それでもまだ愛情だけは残していく。
そんな人は他にいない。
いずれ誰かのものになってしまうくらいなら、その喉を掻き切っていっそ全て終わらせてしまえたら楽なのかもしれないなんて……そんな醜い感情が頭を過ぎったこともある。
でもその一方で、実際にセラ嬢の前に立ち、剣を向ける自分を想像してみれば、その考えがどれほど馬鹿げているかすぐに分かる。
なぜなら、僕にはそんなことは絶対に出来ない。
その事実が、自分でも嫌になるほど情けなかった。

そんなことを考えていると、四人が何とも言えない表情でこちらを見ていた。


「何?みんなして変な顔して」


僕が首を傾げて尋ねると、最初に口を開いたのは三木だった。


「隊長は、やっぱり誰より敵に回したくねぇな」

「怖いこと言わないでくれって。俺、今ちょっと本気で背筋寒くなったぞ」


龍之介も引き攣った笑みを浮かべていて、武田がふんと鼻を鳴らした。


「なかなか物騒なことを申すではないか。もっとも、それを実行せずに済んでいる辺り、まだ理性は残っているようだな」

「褒められてるのかな、それ」

「知らんな」


けれど相馬だけは三人とは反応が違った。
彼は静かにグラスを置くと、僕を庇うように口を開く。


「でも俺は、隊長の気持ちが少し分かります」


その言葉に皆の視線が集まる。
相馬は迷うように視線を伏せたあと、小さく息を吐いた。


「あの最後の手紙、あれはないですよ。俺ですら腹が立ちました。隊長がどんな気持ちであの手紙を読んだのかと思ったら……正直、怒りを覚えたくらいです。しかもアンナ夫人が亡くなられた直後ですよ」


龍之介がきょとんとした顔をした。


「そんなに酷かったのか?」

「俺たち、その話詳しく聞いてねぇもんな」


三木が腕を組みながら言うと、武田は興味深そうに目を細めた。


「ほう。そこまで申す以上、相当な内容だったのだろうな」


相馬は一瞬だけ僕を見た。
話してもいいのかと確認するような視線だった。
今さら隠すようなことでもないし、僕は止めることはせず苦く笑った。


「酷いという言い方が正しいのかは分かりません。セラ嬢は隊長を罵ったわけでもありませんし、嫌いになったと書いていたわけでもありません。むしろ隊長を気遣っていましたし、感謝の言葉もありました。でも、それが余計に残酷だったんです」

「気遣ってくれてたのに腹立ったのか?」

「そうです。体を大事にしてくださいとか、無理をしないでくださいとか……優しさを見せた後で、隊長のことを完全に切り捨てたんですよ」

「何か理由があって嫌いになったとか、憎んでるとか、そういうことなら僕もまだ諦められたかもしれない。でも違ったんだよ。感謝してるとも書いてあったし、一緒に過ごした時間は大切な思い出だったとも書いてくれてた。それなのに最後には、もう気持ちは残っていません、忘れたいんです、忘れてください、他人として生きていきたいんですって書いてあったんだよね。もし今後どこかで会うことがあっても、話しかけないでほしいとも書いてあったかな」


そこまで口にすると、胸の奥がまた軋んだ。
何度思い返しても慣れない。


「……きっつ。そこまで言われたのかよ」

「それはさすがの隊長も堪えただろう」


三木も苦笑いをしていたし、武田はやれやれと言う表情を浮かべていた。


「だが前は隊長のこと好きだったんだろ?だったらなんでそんなこと言うんだよ」


龍之介は本気で理解できないらしかった。
その反応は、ある意味で正しいのかもしれない。
僕だって何度も同じことを考えた。
何故あそこまで綺麗に切り捨てる必要があったのか。
どうして僕たちは他人にならなければならなかったのか。
答えは今でも分からない。


「中途半端に期待させたくなかったんじゃねぇのか?」


三木が静かに言うと、龍之介がすぐに聞き返した。


「期待?」

「そうだろ。もし嫌いになったわけじゃないとか、そういう中途半端な言葉を残したら隊長は待っちまうじゃねぇか」


その言葉に誰も反論しなかった。
なぜなら、それは事実だったからだ。
僕はたぶん待っただろう、一年でも二年でも。
どれだけ時間が掛かったとしても、あの子が戻ってくる可能性を信じ続けたと思う。
でもセラ嬢は、それを許さなかった。


「だからってなぁ……好きじゃなくなったなら仕方ないけどさ、忘れたいとか、話しかけないでほしいとか、そこまで言う必要あったのか?」

「きっと必要だったんだろうね」


セラ嬢は本当に優しい子だった。
誰かを傷付けることを嫌い、人の痛みに敏感で、いつだって周囲を気遣っていた。
そんな彼女が好きだったからこそ、あの手紙は一番残酷だった。


「だから復縁なんて望んでないよ。だって、あの子は僕との未来を拒絶しただけじゃなく、僕との過去そのものを手放したかったんだから」


誰もすぐには口を開かなかった。
やがて相馬が珍しく音を立ててグラスを置き、どこか悔しそうな顔で言った。


「俺は今でも納得していません!彼女にも事情があったのかもしれませんし、苦しんだ末の決断だったのかもしれません。でも、それでも隊長にあんな手紙を送るべきではなかったと思っています。隊長がどれだけあの方を大切に思っていたか、俺は見てきましたから!」

「なんだよ、相馬。お前、酔ってんのか」

「俺は酔っていませんよ!ただ、腹が立って仕方ないんです。まともに話すこともないままアンナ夫人を容疑者にしただけでなく、何も悪くない隊長の想いを踏み躙ったんですから。隊長は今こうして笑っていますけど、本当は全然笑えていないじゃないですか。これも全部、セラ嬢のせいです!俺は絶対にアストリアを許しません!」


相馬は完全に酔っているらしい、その目は若干座っている。
すると重苦しい空気を嫌ったのか、龍之介が勢いよく身を乗り出した。


「でも俺はよく分からないな!だってさ、本当に忘れたい相手なら、わざわざそんなに丁寧な手紙書くか?俺だったら面倒だから一行で終わらせるぞ!」

「お前の場合はそれ以前の問題だろ」

「貴様に繊細な手紙を期待する者など、はなからいないだろうな」


三木が即座に突っ込み、武田も小馬鹿にした様子で笑うと少しだけ笑いが戻る。
けれど僕はグラスを傾けながら、胸の奥に沈んだ感情を持て余していた。

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