6
あれから流れるように歳月が過ぎた。
僕が率いる帝国騎士団第一部隊は、その間も各地を転戦し続けていた。
北方国境では長年帝国軍を悩ませていた盗賊連合を壊滅させ、帝国西部では反乱を起こした諸侯軍をわずか数日で制圧し、さらに帝都に向かう皇帝陛下の行幸の最中には大規模な襲撃計画を未然に阻止した。
勿論僕一人の力ではなく、相馬をはじめとする部下たちがいてくれたからこそ成し遂げられたものだったけど、第一部隊の名は帝国内に急速に広がり、いつしか「帝国最強の騎士団部隊」とまで呼ばれるようになっていた。
そして十七歳を迎えて数ヶ月後、その功績が正式に認められる日が訪れた。
皇帝陛下自ら執り行われた叙任式の場で、僕は帝国最高位の騎士称号である「帝国の剣」を拝命した。
代々、帝国の歴史に名を刻む英雄だけが許される称号。
父から引き継ぐようにして与えられたこの地位は、長年の僕が目標にしていたものだったけど、実際にその名を授かった時は不思議と実感が湧かなかった。
ただ陛下から剣を受け取った時、母の顔が脳裏をよぎったことだけは覚えている。
空のどこかで、僕の叙任を喜んでくれているのだろうかと考えていた。
そして叙任と同時に、僕には新たに公爵位が授けられた。
皇帝陛下の勅命によって創設された新たなアルディオン公爵家の初代当主として、帝国の東側には広大な領地が与えられ、帝国の防衛拠点として整備された新たな領都と城館、そして公爵家の本邸となる壮麗な屋敷まで用意された。
使用人たちについては、皇室管理局から推薦された者たちだけではなく、武田が各地から能力の高い人材を集めてくれた。
執事長や家令、会計官、侍女長、庭師に至るまで、ほとんどが実績ある者ばかりだ。
気付けば僕が何も知らないうちに公爵家らしい体裁が整えられていて、初めて屋敷に戻った時には自分の家だという実感がまるで湧かなかった。
とは言え帝国の剣である以上、僕の主戦場は領地ではなく帝国全土にある。
だから僕自身は今も帝国騎士団第一部隊隊長のままだし、領地運営の大半は僕ではなく信頼できる人間に任せる必要があった。
だから皇室から派遣された家令や財務官、それに帝都でも名の知れた行政官たちがアルディオン公爵領の運営を担っていた。
でも問題は、それだけでは人材が足りないことだった。
最終的な判断を下す人間は必要だし、使用人たちをまとめる人間も必要だった。
「相馬、領主代理兼執政官になってくれない?」
執務机に積み上がった書類を見ながらそう頼むと、向かい側に立っていた相馬は静かにため息を吐いた。
「無理です」
「即答だね」
「当然ですよ。俺は第一部隊所属ですから。騎士の仕事をしながら出来るわけがないでしょう」
「少しくらいならいいじゃない」
「少しどころか、かなり手伝ってると思いますけど」
真面目な顔のままぴしゃりと言われてしまった。
「隊長はご自分がどれだけ問題を抱えているか理解されていますか?」
「問題って?」
首を傾げて聞いてみると、相馬は額を抑えて、先程よりさらに大きなため息を吐き出した。
「アルディオン公爵家は創設されたばかりです。屋敷の運営、使用人の管理、来客対応、社交、領地との連絡調整。やることは山ほどあります」
「だから相馬に頼んでるんじゃない」
「俺一人ではとても出来ません。俺を殺す気ですか?」
僕は敢えて少しだけ肩を落としてみせる。
すると相馬はしばらく黙ったあと、呆れたように言った。
「そもそも、それらの仕事は本来ならご夫人が中心となって管理されるものです。公爵夫人が侍女長や執事長を統括し、屋敷全体を取りまとめる。貴族社会では一般的なことです」
「まあ、そうかもしれないけどね。でも僕、結婚してないし。したくもないし」
「したくもないし、ではありません」
なぜか叱られたから、僕は思わず苦笑いを溢した。
「隊長は帝国の剣であり、公爵家当主です。いつまでも独り身でいるわけにはいかないと思いますよ」
「まあ、気が向いたらそのうち」
「そのうち、では遅いんです。俺は急いでいますから」
「どうして相馬が僕の結婚を急ぐのか、意味がわからないな」
「困るからですよ」
あまりにも真顔だったから、思わず笑いそうになる。
けれど相馬はどうやら本気らしかった。
「早く結婚してくださらないと、公爵家の運営体制がいつまでも不安定なままですよ」
「そんな理由で結婚しないといけないの?」
「十分な理由ですよ。それに俺は、隊長にも幸せになっていただきたいんです」
そう言った相馬は、いつもの真面目な表情を少しだけ和らげていた。
でも、幸せなんて言葉を向けられること自体が、なんだか柄じゃない気がした。
けれど相馬はそんな僕の反応を気にする様子もなく続けた。
「隊長は女性に人気なんですから、いつまでも取っ替え引っ替え遊んでばかりいないで、誰か一人に絞られてはどうですか?」
「別に遊んでないよ。時間がある時に性欲処理を手伝ってもらってるだけだし」
「ですから……それが問題なんですよ」
案の定、即座に返された。
相馬は呆れたようにため息を吐きながらも、どこか本気で心配しているような顔をしている。
「隊長はご自分を過小評価しすぎです。今の隊長が帝国内でどれほど有名な存在なのか、本当に分かっておられるんですか?」
「それは帝国の剣として?」
「それは勿論ですが、今はそれだけではありません」
相馬は小さく首を振って、眉を下げながら言葉を続けた。
「社交界では隊長の話題を聞かない日の方が珍しいそうですよ。どの夜会に行っても隊長の名前が出るらしくて、若い令嬢方はもちろん、ご婦人方まで騒いでいるそうです。更には、隊長の一夜限りの相手として名を売るのが、女性たちの間で一種のステータスみたいになっているんだとか」
「はい?何それ。僕はただ、互いに気持ちよくなれて、終わったら綺麗に別れる約束で、手伝ってもらってるだけなんだけど」
「隊長がそのつもりでも、相手が割り切れているかは別物です。隊長が優しく接するから、女性たちは自分は特別なのかもしれないと期待してしまうんです。実際、一夜で夢中になって、翌朝には手紙や贈り物が届くことも少なくありません。最近では隊長との一夜について語り合うような集まりまであるそうですよ」
「いや……、そんな集まりのことまで知らないよ。こっちは相手の名前も顔も、覚えてないのに」
そもそも、優しくしているつもりは毛頭なかった。
優しく感じるとしたら、僕が必ずセラ嬢を思い浮かべてその行為に及んでいるからだろう。
情けないことだとは思うけど、あの子の面影を重ねないと気持ちが削がれてしまうんだから仕方ない。
その点については、余計なことを考えずに割り切ることにしている。
「だからこそ厄介なんです。隊長は興味がない相手に対しては、いつも適当に受け流しているでしょう。だから余計に噂が広がるんです」
「適当って失礼だな」
「事実ですよ。誰に対しても一定以上は近付かせないですし、期待を持たせるようなこともしないですが、突き放しもしない。だから皆さん諦めきれないんです。でも隊長は、同じ相手と夜を過ごすことは決してしないでしょう。失恋して傷ついている子が、後を絶たない状況だということをもっと自覚して行動してください」
「じゃあそういうことをする前に、僕のことは好きにならないでねって言えばいいの?」
「それで解決するなら誰も苦労しません。そんな前置きをされたところで、人を好きになる気持ちまで抑えられるわけじゃないんです。むしろ、自分だけは特別になりたいと意地になる方も多いようですから」
「へえ」
「へえ、じゃありませんよ。何故そんなに他人事なんですか?隊長の話をしてるんですよ!」
思わず苦笑が漏れた。
ヴェルメル大公家を出て、このアルディオン公爵家の当主になってからというもの、相馬は以前にも増して口うるさくなった気がする。
もちろん、それが僕を心配してのことだというのは分かっている。
帝国の剣になった今、僕一人の問題では済まなくなったことも理解している。
それでも時々、説教を聞かされる側としては少し耳が痛かった。
窓の外に視線を向けながら小さく息を吐き、僕はぼやくように言う。
「でもさ、僕は別に何も特別なことなんてしてないよ。周りだって皆、適当に遊んでるでしょ。それと何が違うの?」
すると相馬は、待っていましたと言わんばかりの顔になった。
「その件については一応調査しました」
「え?調べたの?」
思わず聞き返すと、相馬は真顔のまま頷く。
「女性たちの話によると、隊長の冷徹な戦い方と、ベッドの上での優しいギャップに弱いんだそうです。一度味わったら忘れられなくなる……という意見が大半でした」
「……そんなこと、調査しなくていいから」
心の底からそう思った。
けれど相馬はまったく怯まず、淡々と報告を続ける。
「ですが、その結果として隊長の周囲には隊長に選ばれたいという方々が競うように集まり始めています。すでに小さな揉め事も発生していますし、このまま放置すれば帝国内の士気や人間関係にも悪影響を及ぼしかねません」
真面目な顔でそこまで言われると、さすがに笑い飛ばすこともできない。
とはいえ、だからといって僕に何ができるっていうんだろう。
好きにならないでほしいとも言えないし、近寄るなと突き放すのも違う気がする。
結局、考えれば考えるほど面倒になるだけで、僕は椅子の背に体を預けながら長いため息を吐いた。
「はあ……面倒だな」
本音がそのまま口から零れると、相馬は僕に問い掛けてくる。
「どなたかいらっしゃらないんですか?好ましいと思える方や、共に人生を歩みたいと思える方とか」
「全然いないし、興味もないね。それに同じ子と何度も会うと後々面倒だし。僕は後腐れのない関係の方が好きなんだ」
本心だった。
僕にとって女性との関係は、その程度で十分だった。
ところが世の中の女性というのは不思議なもので、一夜を共にしただけで特別な意味を見出してしまう人も少なくない。
付き合ってほしいだの、結婚を考えてくれないのかだの、時には涙ながらに訴えられることもあったし、こっちが距離を置こうとしても執拗に関係を求めてくる相手もいた。
正直なところ、そうした感情は僕には重すぎた。
誰かから好意を向けられることを嬉しいと思ったことはほとんどないし、一方的に向けられる強い感情は、時として面倒でしかない。
だからこそ最初から深入りしないし、その方がお互いのためだと思っている。
だけど相馬はそんな僕の考えを理解しようともせず、静かに机の脇に歩み寄った。
「ですが隊長」
そう言って彼が抱えてきたのは、一束や二束では済まない量の書簡だった。
封蝋の押されたもの、高級な紙が使われたもの、煌びやかな紋章入りのものまで様々で、それらがまとめて僕の机の上へ置かれた瞬間、ずしりと重い音が響く。
「……なにこれ」
「全て隊長宛に届いた縁談の申し入れです」
うんざりした気分のまま視線を向けると、相馬は淡々と説明を続けた。
「隊長が帝国の剣に叙任されてから、以前にも増して縁談が殺到しているんです。各家から届く申し入れの整理だけでも大変なのに、お断りの返書を用意する家令室の者たちからは悲鳴が上がっています」
「そんなこと僕に言われても困るよ。向こうが勝手に送ってきてるだけでしょ」
「ですが隊長はまだお若いとはいえ、公爵家当主であり帝国の剣でもあります。その立場にありながら婚約者すらいらっしゃらないんですから、各家が動くのは当然でしょう」
そう言いながら、一通の書簡を手に取る。
「実際、貴族院でも帝国の剣が未だ後継や将来設計について何も示していないのはいかがなものかという声が出始めているそうですよ」
「余計なお世話だね」
思わずそう返してしまう。
結婚なんてしたくない。
誰かと生涯を共にするだなんて考えたくもないし、これから先もそんな気持ちになるとは思えなかった。
だから黙り込んだまま書簡の山を見つめていたけど、しばらくしてふと別のことが頭を過ぎる。
そして気付けば、その名前を口にする代わりに僕は別の言葉を選んでいた。
「……最近、東部の様子はどうなの?」
相馬の表情がわずかに変わった。
僕が何を聞きたいのか、誰のことを知りたいのか。
きっと瞬時に悟ったんだろう。
相馬は小さく息を吐き、少し困ったように眉を下げながら答えた。
「変わらず定期的に情報は入っていますが、特に大きな変化はありません」
その言葉に、胸の奥が僅かに疼く。
相馬は僕の表情を見つめ、それから静かに言葉を続けた。
「セラ嬢は、現在もどなたとも婚約はされていないそうです」
胸の奥が大きく揺れた。
表情に出したつもりはないけど、僕が心底安堵してしていることは相馬にきっと気付かれている。
ここ最近、僕は意識してセラ嬢の名前を口にしないようにしていた。
最後の手紙を受け取ってから、もう二年。
それなのに未だに引き摺っているなんて情けないと思ったからだ。
時間が経てば忘れると思っていた。
他にも大切なものができると思っていた。
実際、その通りになったはずだ。
帝国の剣に叙任され、公爵位を授かり、自分の城と領地を与えられ、多くの部下たちを率いる立場になった。
幼い頃から追い続けてきた夢は、今はほとんど僕の手の中にある。
それなのに、どうしてもたった一人だけが消えてくれない。
忙しさに追われても、剣を振るっていても、誰かと酒を飲んでいても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
どうしてこの想いが薄れてくれないのか、僕には理解出来なかった。
ただ一つ分かるのは、どれだけ多くのものを手に入れようと、僕自身は何も変わっていないということだった。
結局僕はあの頃のまま、一歩も前に進めないまま今も同じ場所に立ち尽くしている。
どれだけ歳月が流れても、セラ嬢の存在だけは少しも色褪せていなかった。
「やっぱり隊長は、一途な方だったんですね」
相馬から向けられた柔らかな声に、僕は思わず視線を逸らした。
そんなふうに言われるのは居心地が悪い。
まるで心の奥まで見透かされたような気がしてしまうからだ。
「別にそんなんじゃないよ。今日までずっと忘れてたしね」
わざと軽い調子で返すと、相馬は小さく笑う。
「そういうことにしておいても構いませんけど」
その言い方が妙に含みを持っていたからこそ、僕は先回りするように言葉を重ねた。
「言っておくけど、別にセラ嬢を諦められないから結婚しないとかじゃないから。本当に興味がないだけだよ」
「どうして興味がないんですか?結婚願望というのは、多かれ少なかれ誰にでもあるものだと思っていましたが」
僕は椅子の背にもたれながら、しばらく天井を見上げていた。
結婚なんてものを真剣に考えたのは、きっと人生で一度だけだ。
「家庭とか家族っていうものに、いい思い出がないからかな」
ヴェルメルで過ごした日々は、幸せな家庭とは程遠いものだった。
僕を含め、皆が常に父上の機嫌を窺いながら生きていたし、家族の温もりなんてものを感じた記憶はないに等しい。
僕たちは皆、政界の中に置かれた駒でしかなく、それぞれが役割を果たすことばかり求められていた。
だから家族だからといって心を許せるわけでもなく、本音を語り合えるわけでもない。
そんな場所で育った僕にとって、家族というものは安らげる場所ではなかった。
だからこそ、セラ嬢が過ごすアストリアに憧れたんだろう。
あの人たちのいる場所には、僕が知らなかった温かさがあった。
自然に笑い合い、互いを大切に想い、当たり前のように手を差し伸べる。
優しくて心地よくて、ただ羨ましかった。
だから一時期は本気で願っていた。
こんな僕でも、セラ嬢となら温かい家庭を作れるかもしれないと。
だけど結局、それは僕の独りよがりだった。
近藤閣下にとっても、セラ嬢にとっても、僕は思っていたほど大きな存在ではなかった。
実の父のように慕っていた人と、心から愛した人。
その二人に見限られた時、僕は何かに期待することをやめた。
期待しなければ傷付かない、そう思ったからだ。
「俺も家族には恵まれませんでした」
しばらく沈黙が落ちた後、その静けさを破ったのは相馬だった。
「気付いた時には孤児でしたから、生きるために必死で、その日を越えることしか考えられない毎日でしたね」
その横顔を見ながら、僕は初めて出会った頃の彼を思い出していた。
まだ少年だった相馬は痩せていて、それでも真っ直ぐ前を見ていた。
「俺は明日には死んでいるかもしれないと思いながら毎日を生きていましたけど、そんな俺を隊長は見つけてくださったんです。そしてここまで引き上げてくださった。だからこそ俺は、少しでも隊長のお役に立ちたいと思っています」
相変わらず真っ直ぐで、こういうところは昔から変わらない。
少し照れくさかったけど、その言葉は素直に嬉しかった。
「じゃあ、これからも僕を手伝ってよ」
「勿論です」
「良かった。僕には相馬がいてくれるから、無理に結婚しなくてもいいかな」
「言っておきますけど、俺は隊長の伴侶にはなれませんよ」
その返しに思わず笑ってしまうと、同じように笑った相馬は再び言った。
「それに隊長は、別に結婚したくないわけじゃないでしょう」
「なんで?」
「セラ嬢とは婚約していたじゃないですか」
再びその名前が出て、僕は一度言葉を失った。
相馬は静かに僕を見つめていたけど、声を和らげ言葉を続けた。
「まだ気持ちがあるなら、一度会いに行かれてはどうですか?」
相馬の口から告げられたその言葉に、胸の奥が不意に強く脈打った。
予想もしていなかった提案だったのに、いざ真正面から向けられると、心の奥深くに押し込めていたものまで揺さぶられてしまう。
「……今さら?」
ようやくそれだけを返すと、相馬は穏やかな表情のまま頷いた。
「もう三年近く経つんです。向こうの気持ちも変わっているかもしれませんよ。それに最後は手紙だけで終わってしまったから、いつまでも引き摺ってしまうんじゃないですか?」
図星だったのかもしれない。
だからこそ気の迷いを起こす前に、すぐに否定しなければならなかった。
「いいよ。だって、会っても話しかけないでって言われてるんだよ。それなのにわざわざ会いに行ったら、普通に迷惑でしょ」
そうだ、迷惑に決まってる。
きっとセラ嬢はそれを望まない。
だから僕はこの数年間、自分にそう言い聞かせ続けてきたんだ。
セラ嬢が望む通り、この北の地で大人しくしていればいい。
彼女の人生にもう関わらなければいい。
そうしていれば、いつかはこの想いも薄れていくだろうと。
でも、実際は違った。
時間は流れたはずなのに、心だけは少しも変わってくれなかった。
会いたい。
ただそれだけの願いが、未だに胸の奥から消えてくれない。
今、どんなふうに成長しているんだろう。
昔と変わらず、あの愛らしい笑顔で笑うんだろうか。
あの柔らかな瞳は、今は誰を映しているんだろうか。
そして、僕が好きだったあの明るい笑い声は、今も変わらず響いているんだろうか。
一度考え始めてしまえば駄目だった。
必死に閉じ込めていた感情は簡単に溢れ出し、押さえ込んでいた熱が鮮やかに蘇ってしまう。
本当は会いに行きたかった。
何度も手紙を書こうとしたし、何度も声が聞きたいと思った。
でもその度に思い出す、手紙に書かれた最後の言葉を。
全てを忘れて他人として生きていきたいという、あの子の願いを。
もし会いに行って迷惑そうな顔をされたら。
もし話しかけても返事さえ返してもらえなかったら。
そんな光景を想像するだけで胸の奥が重く締め付けられる。
三年近く会わなかった間に、セラ嬢がどんな人になったのかも分からない。
今の彼女が僕をどう思っているのかも分からない。
そんな相手の前に、自分から会いに行く勇気なんて僕にはなかった。
しばらく黙り込んでいると、相馬が静かに口を開いた。
「確かに、迷惑だと思われるかもしれません」
その言葉に胸が沈む。
だけど相馬はそこで言葉を止めず、穏やかな声のまま続けた。
「でも、それならそれでいいじゃないですか。その時は割り切ればいいんです。綺麗さっぱり決別してしまえばいい」
思わず顔を上げると、相馬は真っ直ぐこちらを見つめていた。
あまりにも簡単に言うものだから、僕は苦笑してしまう。
「それが出来なかったら?」
問い返すと、相馬は少しだけ困ったような表情を浮かべた。
「出来なかったら確かに傷を抉るだけになってしまうかもしれません」
そう認めながらも、彼の瞳は少しも揺らがない。
「ですが隊長。今のままでも、その傷は治っていないのでしょう?」
その一言に、返す言葉が見つからなかった。
否定しようと思えばいくらでも出来たはずなのに、言葉が出てこない。
相馬はそんな僕を見ながら、少しだけ笑う。
「それなら当たって砕けろですよ」
窓の外では夕暮れが街を茜色に染め始めていた。
僕はしばらく黙ったままその景色を眺め、それから小さく息を吐く。
「ありがとう」
胸の奥に沈んでいた何かが、少しだけ軽くなった気がした。
「少し、考えてみるよ」
そう呟くと、相馬はどこか安心したように微笑んでいた。
僕もいい加減、前に歩き出さないといけないのかもしれない。
そんなことを考えながら、夕日に沈む街並みを眺めていた。
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