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夏の名残がゆっくりと薄れていく頃、私は新しい制服に袖を通し、伊庭君と並んで公爵邸の玄関ホールに立っていた。
今日から始まる、セレスティア王立学院での新しい毎日。
幼い頃から何度も憧れていた学院生活がいよいよ始まるのだと思うと、胸が弾むようで、私は自然と笑みを浮かべながらお父様の方を振り返った。
『では、行ってまいります』
「行ってきます」
「ああ、気をつけて行ってきなさい」
「代表の挨拶、頑張ってくださいね」
「お帰りをお待ちしています」
お父様と山南さん、そして山崎さんに微笑みを向けてから屋敷の外に出ると、朝の柔らかな陽射しの中で、同じく新しい制服に身を包んだ平助君が待っていてくれた。
「おはようございます、平助君」
「はよ!」
『おはよう』
この春から伊庭君は正式に私の専属騎士となり、平助君も変わらず護衛として傍にいてくれている。
学院に通うことになっても二人が一緒だと思うと、とても心強くて、不安よりも楽しみの方がずっと大きかった。
『ふふ、楽しみだな』
「そうですね。話によると、顔見知りの方が同じクラスに多いみたいで安心です」
「あー、そうだよな。はじめ君も一緒らしいし」
二人の言葉に頷きながら空を見上げると、澄み渡った青空の中にはまだ少しだけ夏の気配が残っていて、風が運んでくる香りもどこか懐かしく感じられた。
十五歳になった私は、こうしてアストリアの空の下で元気に過ごしています。
総司様も、変わらず元気に過ごしていらっしゃいますか?
空に語りかけるようにそんなことをぼんやり考えていると、突然前方から聞き慣れた声が飛んできた。
「セラ!」
名前を呼ばれて顔を上げた先、公爵邸の門の前で学院の制服姿の薫様が大きく手を振っているのが見えた。
『薫様?どうしてこちらに?』
「お前を迎えに来てあげたんだ。王家の馬車で学院まで一緒に行こう」
『ええ?わざわざ来てくださったのですか?』
「ああ。セラが喜ぶと思ってね」
薫様はお母様のことがあって以来、以前にも増して気遣ってくださるようになった。
その優しさは本当にありがたくて嬉しいのだけど、さすがに毎日の送迎までお願いするわけにはいかない。
案の定、伊庭君と平助君も「また始まった」と言いたげな顔で苦笑していた。
『ありがとうございます。でも大丈夫ですよ?公爵家の馬車で向かいますから』
「まさか俺のせっかくの誘いを断るの?」
『でも、伊庭君と平助君も一緒ですし』
「伊庭と藤堂はアストリアの馬車で行けばいいだろ」
「殿下、それは駄目ですよ。僕は彼女の専属騎士ですので、離れるわけにはいきません」
「俺だってセラの護衛役なんだけど」
「お前達二人が一緒にいるより、俺といた方が安全だ。だから俺と行くべきだ」
『ううん……』
こうしたやり取りは今に始まったことではなく、いつの間にかよく見る光景になっていた。
どうしたものかと困っていると、公爵家の馬車と王家の馬車の隣に、さらにもう一台の馬車が滑り込むように止まった。
そして扉が開き、見慣れた姿が現れる。
「セラ、迎えに来たぞ」
『はじめも来てくれたの?』
「ああ。だが、何故殿下がこちらに?」
「斎藤こそ何故ここにいる?セラは俺と行くんだ。斎藤は先に行きなよ」
「殿下こそ先に行かれては?セラは俺が連れて行く故、ご安心を」
「ご安心を、じゃない。俺が先にここに来たんだ。俺が一緒に行く」
「早い者勝ちではないと思いますが」
穏やかな口調のはじめと、譲る気のない薫様。
二人とも真面目な顔で話しているのに、どこか子供のような言い合いになっていて、少し可愛い。
そんな私の隣で、伊庭君と平助君が揃って深いため息をついた。
「どうするんだよ、あの二人。このままだと遅刻しちまうぞ」
「厄介ですね。いっそ早く出発してしまいたいところです」
私は苦笑しながら頷いた。
『私は伊庭君と平助君と一緒に行くよ。馬車、乗ろうか』
私が先に馬車へ乗ってしまえば、この言い合いも終わるかもしれない。
そう思ったその時、王家の馬車の扉が開き、千鶴様が優雅な所作で降りてきた。
「皆さん、ごきげんよう」
『千鶴様、ごきげんよう。制服姿、とっても良くお似合いです』
「ふふ、セラさんも。私も公爵家の馬車に乗せてくださる?このままだと本当に間に合わなくなりそうだから」
千鶴様がくすくすと笑いながらそうおっしゃるので、私も思わず笑みを零してしまう。
『そうですね。四人で先に行きましょうか』
私達は顔を見合わせながら馬車に乗る。
その後ろではまだ言い合いを続ける薫様とはじめの声が聞こえていたけど、新しい学院生活の始まりを思うと胸は期待でいっぱいで、朝の陽射しさえいつもより眩しく感じられた。
「ははっ、殿下とはじめ君、今頃になって俺達が先に出発したことに気付いたみたいだぜ」
「随分と慌てていますね」
『少し可哀想だったかな』
そう言いながら後ろを振り返ると、馬車の窓越しに慌ただしく自分達の馬車へ乗り込む薫様とはじめの姿が見えた。
その様子がどこか微笑ましくて思わず笑ってしまうと、隣に座る千鶴様も肩を揺らしてくすくすと笑っていた。
「ごめんなさい。薫がセラさんに付き纏っていて」
『いいえ。お二人に仲良くして頂けて嬉しいですよ。母のことがあってからたくさん気にかけてくださって、本当にありがたいです』
「ふふ、セラさんは鈍感ですね」
『鈍感?何がですか?』
「全部?」
「ええ?どういうことですか、千鶴様」
私が首を傾げると、千鶴様は何も答えず意味ありげに微笑むばかりで、その横では平助君が何とも言えない顔をしながら窓の外を見ていた。
「まあ、セラはそのままでいてくれ」
『何が?何の話をしてるの?』
「いや、なんでもない」
「平助さんもなかなか大変そうですね」
千鶴様が穏やかに言うと、平助君はわざとらしくため息をついた。
「大変なんだよ、本当に」
『私、鈍感じゃないけど』
「ではそういうことにしておきましょうか」
『もう伊庭君まで、なに?』
馬車の中でもわいわい皆で話しながら、学院に向かう。
馬車は街道を進み、久しぶりに見る街並みが窓の外を流れていく。
賑やかな商店や行き交う人々、色とりどりの花が飾られた店先を眺めているうちに、自然と頬が緩んだ。
『外に出たの久しぶり。これからは頻繁に出れると思うと嬉しいな』
お母様の件があってから、私は自由に外出できなくなった。
無理矢理強制されたわけではないけど、学院に通うようになるまではなるべく公爵邸で過ごして欲しいと言ったお父様の意向を無視したくなかったから、素直に従うようにしていた。
「近藤さん、セラのことすげー心配してるもんな」
「そうですね。でも今日からはきっとまた前まで通りになりますよ」
伊庭君の言葉に私は笑顔で頷いた。
でも、私の生活は決して前と同じには戻らないことはわかっていた。
お母様はもういない。
そして、総司様ももう私の隣にはいない。
あの日から変わってしまったものはたくさんあって、どれだけ時間が過ぎても、その事実だけは変わらなかった。
今はもうこの淋しさにも慣れたと思いたいけど、私はいまだにふと二人を思い出すと泣いてしまう夜がある。
会いたくて会いたくて堪らない気持ちは、時間が経っても消えないのだということを身をもって知った。
それでも前を向こうと思えるのは、今こうして支えてくれる人達がいるからなのだと思う。
少しだけ胸の奥がきゅっと痛んだけど、私は窓の外へ視線を向けて小さく微笑んだ。
すると空気を変えるように、千鶴様が大げさに肩を竦めた。
「学院に着いたら薫がうるさそうだわ。この前も、どうして俺達はセラと違うクラスなんだって怒って、今にも学院に抗議しに行きそうだったの。止めるのに本当に大変だったんだから」
『ふふ、薫様の行動力は凄いですね』
「いや、突っ込むところそこなのかよ」
平助君が呆れたようにそう言うものだから、私は思わず笑ってしまった。
『だって、本当に薫様らしいと思うよ』
「だから問題なんだって」
「殿下の場合、思い立ったら即行動されますからね」
「実際、あの日も学院長への面会を申し込もうとしてたの。王太子命令でクラスの変更ができないのかって」
「それは流石に無理ですよね」
「当たり前だろ。私情挟みまくりじゃん」
三人の言葉に私はますます可笑しくなってしまい、小さく肩を揺らした。
『でも薫様のそういうところ、可愛いよね』
「セラさんは薫に甘いわね。薫のこと、好きなの?」
千鶴様にそう尋ねられ、私は特に迷うこともなく頷いた。
『はい、好きですよ』
すると何故か馬車の中がしんと静まり返り、三人が揃ってこちらを見つめてくる。
その反応に戸惑ってしまい、私は慌てて言葉を続けた。
『え?あの、別に変な意味じゃなくて』
「びっくりした。一瞬、そういう意味の好きなのかと思っちまったし」
「僕もですよ。アストリア家から未来の王太子妃が誕生するのかと思いました」
『あはは、飛躍し過ぎだよ。薫様に怒られちゃう』
「いや、むしろ喜ぶと思うけど」
「ですね」
二人が真顔で頷くものだから、私は思わず苦笑してしまう。
王太子妃なんていう立場は、私にはあまりにも遠い世界の話だった。
そんなことを考えたこともないし、考える資格すらないような気がする。
すると千鶴様が何かを思い出したように微笑んだ。
「そう言えばセラさんって、十七歳のデビュタントを迎えるまでは誰とも婚約しないって以前薫に言ったの?」
『え?』
「ユフィ夫人が亡くなられたばかりの頃、俺と婚約して王宮に住んだ方が安心だって薫が煩くしていた時期があったでしょう?その時にセラさんがそう仰っていたと薫が話していたのだけど」
アンナ夫人の訃報を知ったあの日、私は総司様に手紙を書いた。
何枚もの便箋を使って、自分でも驚くほどたくさんの言葉を綴った。
総司様が大好きなこと、今でも変わらず想い続けていること。
そして、十七歳のデビュタントを迎えるその日まで、総司様との約束を胸に待ち続けること。
あの時の私は、迷いなくそう書いていた。
結局、その手紙に返事が届くことはなかったけど、それでも私はまだ信じている。
総司様があの約束通り、デビュタントを迎えたら私を迎えに来てくれることを。
そしていつか約束の日が来た時、再び総司様と会えることを。
もちろん、それは私の都合の良い願いなのかもしれない。
返事が来なかったという事実こそが、総司様のお気持ちが離れてしまった証なのかもしれない。
それでも、どうしても諦めきれなかった。
好きな人を信じたいという気持ちは、理屈だけでは消えてくれないから。
私はそっと膝の上で指を重ねながら微笑んだ。
『はい、そのつもりです。父も急ぐ必要はないと言ってるので』
「それは何か理由があるの?」
『理由?』
「だってなんだか少し具体的でしょう?」
優しい口調だったけど、その問いに私は少しだけ言葉を探した。
本当の理由は言えない。
総司様との約束を守りたいからだなんて。
今の私の立場では、軽々しく口にできることではなかった。
だから私は少し考えてから、なるべく自然に微笑む。
『まだ十五歳ですし、今は学院生活を楽しみたいなと思っているんです』
「あー、なるほど」
「それは確かにそうですね」
平助君と伊庭君が納得したように頷く。
けれど千鶴様は私の顔をじっと見つめたまま、ふと柔らかく微笑んだ。
「本当にそれだけ?」
『はい』
「そう」
その笑顔はどこか意味深で、まるで何かを見透かされているような気がしてしまう。
私は少しだけどきりとしながら視線を逸らすことしか出来なかった。
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