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あれから数日が過ぎ、学院生活は問題もなく穏やかに始まった。
オリエンテーションも無事に終わり、教室にはお母様が以前開いてくださっていたお茶会で親しくなった方々の姿も多い。
久しぶりの再会に自然と会話が弾み、懐かしい笑顔に囲まれながら過ごす時間はとても楽しくて、少しずつ新しい学院生活に馴染んでいった。

でも、そんな中でまだきちんとご挨拶ができていない方が一人だけいた。
それは以前の騒動以来、一度もお会いする機会のなかったディラント大公国のベリアル様だ。

その日、私は昼休みに友人二人と一緒にテラスへ足を運んでいた。
おいしそうなクレープが並ぶお店の前で立ち止まり、どれにしようか真剣に悩んでいたけど、目の前のクレープに気を取られていたせいで、ふと隣にいた方の足を踏んでしまった。


『あ、ごめんなさい』


慌てて謝りながら顔を上げた私は、思わず目を瞬かせる。
そこに立っていらっしゃったのは、ベリアル様だった。
彼は私の顔を見るなり僅かに目を見開いたものの、すぐにその瞳を細めてこちらを見下ろした。


「痛いんだけど」

『ごめんなさい。ベリアル様、お久しぶりですね。元気にされてましたか?』

「ああ」


返事はそれだけだった。
会話はあっという間に途切れてしまい、私は何となく気まずさを覚えながら再びクレープへ視線を戻す。
すると、少し上から降ってくるようにベリアル様の声が聞こえてきた。


「災難だったな」

『え?』

「ユフィ夫人のことだよ。話は聞いて、知ってる」


不意にそう言われて胸が小さく揺れる。
もしかして気遣ってくださっているのだろうかと思い顔を上げると、ベリアル様はどこか居心地が悪そうな表情を浮かべていた。


「最近、茶会も開いてないらしいな」

『はい……』

「まあ、あんなことがあったら無理もないか。でもお前が引きこもってるって、周りが結構心配してるぞ」

『引きこもっていたわけではないんです。ただ父が私の身を案じて、なるべく外出は控えるようにと言われてて』

「だから護衛を引き連れて登校してんのか。騎士連れてんの、殿下以外はお前くらいだもんな」


そう言ってにやりと笑ったベリアル様の表情は、昔と変わっていなかった。
どこか意地悪そうで、それでいて悪気のないその笑みに懐かしさを覚え、私は思わずくすりと笑ってしまう。


『ふふ、そうなんです。もしかして羨ましいですか?』

「んなわけあるか。見張られてるみたいで窮屈そうだと思っただけだ」

『全然窮屈ではないですよ。伊庭君も平助君も護衛というより大切なお友達ですから』

「それならいいけどな。でも今後は変な奴と関わるなよ」

『変な奴?』

「あのヴェルメルの大公子みたいな奴のことを言ってるんだ」


その名前を耳にした時、胸の奥がどくりと大きく脈打った。
最近は総司様のことが話題に上ることもほとんどなくなり、ようやく周囲の噂も落ち着いてきたのだと安堵していたのに、こうして不意に名前を聞くだけで心は簡単に揺れてしまう。


「あの大公子、相当やばい奴だとは思ってたけど。やっぱりあいつ、まともじゃなかったんだな」

『母の事件と総司様は何の関係もないですよ』

「だが母親が狂人だったってことだろ。だったらその息子もやっぱりおかしいんだよ」

『そんなことはないと思いますが……』


小さく反論しながらも、声には力を込められなかった。
以前から、お母様の話になるたび周囲は似たような反応を見せていた。
私やお母様を気遣う言葉をかけてくださった後で、今度はアンナ夫人や、その息子である総司様への非難が始まる。
皆が私を心配してくださっていることは分かっていたし、悪意から言っているわけではないことも理解していた。

だからこそ苦しかった。
私は被害者の娘であり、お母様を失った側の人間だ。
そんな立場の私が総司様を強く庇えば、きっと周囲は困惑するだろう。
分かっているのに、それでも総司様を悪く言われるたび胸の奥がちくりと痛んで、何も言えない自分が嫌になってしまう。


「そんなことはないって、本気か?あいつの目、普通じゃなかっただろ」


総司様のことを何も知らない人たちは、きっとそう思うのだろう。
けれど私の知る総司様は、そんな言葉だけで決めつけられるような方ではなかった。
優しくて、本当は誰よりも繊細で、不器用なくらい真っ直ぐな方だ。

だから私は俯きながらも、胸の奥でそっとその名前を抱きしめる。
誰に理解されなくても、私だけは知っている。
総司様がどんな方なのかを。


「まあでも、今は連絡は取ったりしてないんだろ?」

『はい。あの事件以降からは一度も……』


小さくそう答えると、ベリアル様はどこか安心したように肩の力を抜いた。


「関係が切れたなら良かったな。お前は呑気な奴だから変なのに狙われやすそうだし、気をつけろよ」

『別に呑気ではありません』

「十分呑気だろ」


即座に返されてしまい、私は無意識に唇を少し尖らせていた。
けれど、そんな私の様子を見たベリアル様はなぜか少しだけ視線を逸らし、居心地が悪そうに頭を掻いた。
そして数秒ほど妙な沈黙が流れた後、不意にぽつりと呟く。


「……それと、悪かったよ」

『え?何がですか?』


思わず目を瞬かせる。
何を言われたのか理解できずにいると、ベリアル様はますます機嫌が悪そうな顔になった。


「だから、前の茶会の時はお前に意地悪をして悪かったって言ってるんだよ!」


なぜか怒ったような口調だったけど、その頬はほんのりと赤く染まっている。
まさかベリアル様の方からそんな言葉を聞けるとは思っていなかったから、驚きながら彼の顔を見つめてしまった。
以前のお茶会では確かに色々なことがあったけど、私自身はもう気にしていなかったし、今となっては懐かしい思い出の一つ。
それよりも、こうして自ら謝罪してくださったことの方がずっと意外で、ふと以前、友人の一人から聞いた噂話を思い出した。

総司様との一件以来、ベリアル様は女の子に対して以前のような横暴な態度を取らなくなったらしい。
その話を聞いた時は半信半疑だったけど、今のベリアル様を見ていると、もしかしたら本当にベリアル様は変わられたのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は自然と微笑みを浮かべていた。


『気にしていませんよ。子供の頃のお話ですし、それにベリアル様がそこまで悪いことをしたとも思っていませんから』

「いや、普通に悪かっただろ」

『そうでしょうか?』

「そうだよ」


呆れたように言い返されたけど、私は小さく笑った。


『でも、謝ってくださってありがとうございます』


そう告げると、ベリアル様は拍子抜けしたように一度言葉を失い、それから気まずそうに視線を逸らして小さく舌打ちする。
その反応がどこか照れ隠しのようにも見えたけど、ベリアル様は話題を変えるように、並んでいるクレープに顎を向けた。


「クレープ、どの味にするんだ?」

『あ、クレープ。どうしよう、このアップルジンジャー美味しそうですね』

「わかった」


そう答えたかと思うと、ベリアル様は迷いなく店主の方に向かい、アップルジンジャーのクレープを二つ注文した。
そして銀貨を渡して代金を支払い、受け取った二つのクレープのうち片方を私へ差し出してくる。


『え、宜しいのですか?』

「ああ」

『お金、お返ししますね』

「いらないって。前に俺がお前のペンダント壊しただろ。その詫びみたいなもんだから、食ってくれ」


ぶっきらぼうな言い方だったけど、その言葉に胸が温かくなる。


『ありがとう……ございます』


そっとクレープを受け取ると、焼きたての生地と甘いりんごの香りが優しく鼻先をくすぐった。
思わず嬉しくなって顔を上げると、ベリアル様はそんな私を見下ろしながら、少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべている。


「今度はちゃんと周りを見ろよ。また足踏まれたらたまったもんじゃない」

『ふふ、ごめんなさい』

「ったく、全然反省してねぇな」


呆れた声を残しながら背を向けるベリアル様を見送り、私は一人微笑んだ。

以前のベリアル様となら、きっとこんなやり取りにはならなかった気がする。
少し素直じゃないところは相変わらずだけど、こうして気遣ってくださる今の姿を見ていると、胸の中に温かな気持ちが広がっていった。

総司様……、心の中でそっとその名を呼ぶ。
総司様があの日、真剣にベリアル様を叱ってくださったからこそ、今の私たちがあるのかもしれません。
あの頃は衝突してしまったお二人だけど、あの日総司様がいなければ、今日こうして穏やかに言葉を交わすこともなかったかもしれないから。

以前よりもずっと柔らかくなったベリアル様の態度を嬉しく思う一方で、その変化の理由を考えるたびに、どうしても総司様の姿が浮かんでしまう。
甘いりんごの香りに包まれながら私は小さくクレープを抱きしめたけど、胸の奥では懐かしい笑顔を思い出して、切ない気持ちが広がっていた。

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