9
それからまた少し時が流れ、春の風がアストリアの大地に吹き始めた頃。
自室に戻った私は、窓際のテーブルに腰を下ろし、毎週届けられる王都の新聞や各地の情報をまとめた定期報を静かに広げていた。
我が家ではお母様が亡くなられてから北部の話題が語られることはほとんどなくなっている。
食事の席でも応接室でも、誰かが北部の話に触れそうになると自然に別の話題へ移ってしまうし、お父様も決して口になさらない。
きっと皆、あの事件を心に留めて私やお父様を気遣ってくださっているのだと思う。
だから私も普段は北部のことは語らなかったけど、総司様が暮らしている北の地が今どうなっているのかは知りたかった。
そのため私は時折こうして新聞や定期報に目を通し、北部の情勢が載っていないか密かに確かめていた。
その日も何気なく頁をめくっていると、ある記事を見つけて私の指先はぴたりと止まる。
そこには大きな見出しで、タルタリア帝国にて新たな帝国最強の騎士が叙任されたと記されていた。
思わず身を乗り出しながら文章を追っていくうち、私は息を呑む。
記事には帝国の剣の役職を拝命した人物の名前が記されていて、総司様の名前が目に飛び込んできた途端、胸の奥が大きく震える。
私は思わず両手で口元を覆い、熱いものが込み上げ、視界が滲んでいくのを感じていた。
『総司様、おめでとうございます……』
震えるような声が静かな部屋に溶けていった。
嬉しかった。
総司様がずっと目指していた夢を叶えられたことが。
帝国の剣になることは、総司様にとって一番大切な願いだったと知っているから。
けれどその道は決して平坦ではなかったはずだ。
アンナ夫人の事件が起こり、きっと想像もできないほど辛い思いをされたに違いない。
それでも総司様は立ち止まらなかった。
誰かに与えられたのではなく、ご自身の力で前へ進み続け、ついに帝国の剣になられたんだ。
その事実が誇らしくて、胸がいっぱいになる。
涙を拭いながら更に記事を読み進めていくと、そこにはもう一つ大きな知らせが載っていた。
総司様は皇帝陛下より公爵位を授かり、アルディオン公爵家の正式な当主になられたらしい。
誰よりも真面目に鍛錬を重ねていた総司様の成果が認められたことが、自分のことのように嬉しかった。
だけど同時に、胸の奥に小さな淋しさが生まれる。
総司様はどんどん遠くに行ってしまう。
帝国の剣になられて、公爵家の当主になられて、多くの人々を率いる立場になられた。
それは喜ばしいことなのに、まるで手の届かない場所へ行ってしまったような気がしていた。
今まで何度も考えてきた。
どうして最後に出した手紙にお返事がいただけないんだろうって。
でも私は総司様を信じていたし、私達の関係が切れてしまったなんて思いたくなかった。
きっと何か事情があるのだろうと、自分に言い聞かせてきた。
もしかしたら総司様も私と同じように、アストリアとの交流を禁じられているのかもしれない。
あるいはヴェルメル家にいる限り、自由に手紙を出せない状況だったのかもしれない。
そんな風に考えていたからこそ、新たに公爵家の当主になられたのなら、もしかしたらいつかお返事が届くのではないかと、密かに期待してしまっていた。
けれど……その記事を読んでから数週間が経っても、総司様からのお手紙は一通も届かなかった。
夜になると何度も机の引き出しを開けては閉じる。
便箋を取り出しては、またしまう。
アルディオン公爵家にお手紙を書いてみようかと思ったことも一度や二度ではない。
でも、お父様や公爵邸の人達が北部の情勢を知らないはずがない。
きっと私が手紙を出そうとすれば止められてしまうだろう。
それに最後のお手紙を出す時、返事がもらえなくとも相手に縋ることはしないってお父様と約束もした。
その言葉は最もだと思ったから、その約束を破ることはできなかった。
書きたい言葉はたくさんある。
お祝いの言葉も、伝えたい気持ちも、本当は山ほどある。
それなのに、そのどれ一つとして届けることができない。
胸の奥で膨らみ続ける想いを行き場のないまま抱えながら、私は無理やりその気持ちに蓋をした。
窓の向こうでは夕暮れの光が静かに庭を染めている。
総司様も今頃どこかで、この同じ空を見上げていらっしゃるのかな。
そんなことを考えてしまった自分に小さくため息を溢しながら、私は滲みそうになる視界をそっと伏せた。
総司様のことを知ってからというもの、胸の奥に残る淋しさは簡単には消えてくれなかった。
想い一つ届けられないまま日々が過ぎていくたび、心のどこかが空っぽになったような気持ちになる。
そんな風に過ごしていたある日の昼下がりのことだった。
私は学院のテラスで友人二人と昼食を楽しんでいた。
陽射しが降り注ぐ中、他愛ないお話をしながら食事をしていると、そのうちの一人がふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、アストリア家のお茶会で以前お会いしたヴェルメルの総司様。帝国の剣に叙任されたんでしょう?」
その名前が耳に届いて、心臓が小さく跳ねた。
何気ない会話の中で突然総司様のお名前が出てくるだけで、どうしてこんなにも胸が反応してしまうんだろう。
私が言葉を失ったことに気付いたのか、友人は少し慌てたように眉を下げた。
「あ……ごめんね。このお話はしない方がいい?」
『ううん、大丈夫。私もこの前、北部の定期報を読んで驚いていたところだったの』
「え?そうだったの?知らなかったわ。総司様って凄い方なのね」
隣の友人も感心したように目を丸くする。
この二人は以前、お茶会で総司様と言葉を交わしたことがある子たちだった。
もちろん私と総司様が婚約していたことは知らない。
でもお母様の事件については知っているから、北部の話題になるといつもこうして私の様子を窺いながら話してくれる。
その優しさがありがたくて、同時に少しだけ申し訳なくもあった。
「十七歳で帝国騎士最強に選ばれるなんてすごいことよね。しかも公爵位まで授かるなんて」
『本当。きっと凄く努力されたんだろうね』
そう答えながら、私は新聞の記事を読んだ日のことを思い出していた。
あの時の誇らしさや嬉しさは忘れられそうにない。
「セラ嬢は総司様と、もう連絡は取っていないの?」
『うん』
「そうよね、あんなことがあったんだもの……」
友人が気遣うような表情を浮かべる。
私はできるだけ自然に微笑みながら首を横に振った。
『元々総司様とはそこまで交流があったわけじゃないの。私の母と総司様のお母様が幼い頃のお知り合いだったから、以前もたまたまお茶会に出席してくださっていただけだし』
なるべく重い空気にならないよう、軽く言葉を添える。
すると友人はほっとしたように表情を緩めた。
「そうなのね。良かった。それなら、この話もしていいのかしら」
『え?何のお話?』
「実はあまり大きな声では言えないんだけどね、この前、総司様のことで面白い話を聞いちゃったの」
総司様の面白い話?
思いがけない言葉に私の心は素直に反応してしまう。
今の総司様に関する話なんて想像もつかない。
でも物凄く気になってしまうから、気になって少しうずうずする。
彼女は私ともう一人の子へ顔を寄せると、内緒話をするように声を潜めた。
「北部に住んでいるの私の叔母が、この前までうちの屋敷に滞在していたの。それで帝国の剣の話題が出た時に聞いたのだけど、総司様って帝国内の女性陣に物凄く人気なんだって。社交の場で総司様の名前が出ないことはまずないし、若いご令嬢からご婦人まで大騒ぎしてるって話よ」
小さく相槌を打ちながら、どこか納得してしまっている自分がいた。
だって、総司様は昔から素敵な方だった。
同年代の男の子たちよりずっと大人びていて、凛としていて、近寄り難く見えることがあっても本当はとても優しい。
鋭く見える瞳も笑う時には柔らかく細められて、その笑顔を向けられるだけで胸がいっぱいになったことを今でもよく覚えている。
昔の私は、総司様と目が合うだけで嬉しかった。
総司様の横を歩けるだけで、一日中幸せな気持ちでいられたほどだ。
そんな懐かしい記憶が不意によみがえり、胸の奥がちくりと痛んだ。
今はもう、その笑顔を見ることもできない。
その事実を改めて思い知らされたような気がした。
けれど友人は興奮した様子でさらに身を乗り出してくる。
「でもね、まだ続きがあって」
「ええ?なになに?」
「総司様って戦場では別人みたいになるって有名らしいの。剣を抜いたらまるで人が変わったみたいに躊躇わずに人を斬るから、凄く恐ろしい方だって帝国内では恐れられているらしいんだけど、でも本当に凄いのはそれだけじゃなくて……」
そこで一度会話が途切れたから、隣の友人も私も思わず瞬きする。
すると彼女は期待を煽るように周囲を見回してから、ますます声を潜めた。
「総司様って、性に物凄く奔放な方なんだって」
『性に……奔放?』
その言葉を聞いても、私はすぐには意味を結び付けることができず、不思議そうに首を傾げてしまった。
それはつまり、どういうことなんだろう。
聞き返そうか迷っていると、隣にいたもう一人の友人が少し頬を赤らめながらも、どこか楽しそうに口元を押さえている。
「なんでも、総司様はいろんなご令嬢と身体の関係を持っているらしいの。でも絶対に一夜限りで、一度一緒に過ごした子とはもう二度とベッドを共にしないって聞いたわ。それでも、たった一晩だけでもいいから総司様に愛されたいって思ってる子が帝国内にはたくさん溢れ返っているみたい。失恋してる子も後を絶たないって噂よ」
その言葉が耳に届いた直後、私の思考は止まってしまった。
まるで時間だけが不自然に引き延ばされたように、友人の声が遠く聞こえる。
胸の奥がひどく冷たくなったかと思えば、次の瞬間には心臓が苦しいほど速く脈打ち始めていた。
そんなはずない。
最初に浮かんだのは、その一言だった。
信じられなかったし、信じたくもなかった。
だって私の知っている総司様が、そんな風に語られる方だなんてどうしても思えなかった。
でも友人の口調は冗談を言っているようには聞こえなくて、膝の上で重ねていた指先が小さく震えてしまう。
呼吸を整えようとしても上手くいかなくて、胸の奥で鳴り続ける鼓動ばかりが大きくなっていった。
だって嫌だった。
そんな話を聞くこと自体が。
総司様のことを何も知らないなら、こんな気持ちにならずに済んだのかもしれない。
だけど、私は総司様のことをよく知っている。
優しく微笑むお顔も、穏やかな声も、真っ直ぐな瞳も知っている。
だからこそ、今聞かされた話がどうしても受け入れられなかった。
気付けば私は縋るような気持ちで口を開いていた。
『え……それって、本当に総司様なのかな?だって総司様って、前お会いした時は全然そんなふうじゃなかったよ』
すると友人は不思議そうに首を傾げる。
「そうかしら?むしろすごく女の子慣れしてるように感じたわ」
「そうそう。でもその慣れてる感じがまた良かったわよね。人当たりも良くて優しいし」
「それに帝国の剣の称号はたった一人に与えられるものでしょう?叔母も総司様のことを詳しく話していたけど、高身長でエメラルドの瞳、茶色の髪……その特徴は以前お会いした総司様と同じだったの。だから総司様で間違いないと思うわ」
『そう……なんだ』
二人は懐かしそうに総司様のことを話していたけど、私はうまく相槌を打つことができなかった。
正直なところ、私はいまだに男女の営みというものを詳しく理解しているわけではない。
アストリア公爵家では結婚が間近に迫った頃に教育を受けるものだと聞いていたから、具体的なことまではまだ教えられていなかった。
それでも、互いを大切に想う男女が特別な時間を共有するものだということくらいは知っている。
恋愛小説の中でも、それらしい場面は時折描かれているし、きっと胸が高鳴るような、とても大切で特別な触れ合いなのだろうと思っていた。
だからこそ、その話を聞いて私の頭に浮かんでしまったのは、総司様が私以外の誰かに優しく微笑みかけている姿だった。
柔らかく細められる瞳に穏やかな声。
他の女の子の頬に触れる、私が大好きだった総司様のあの指先。
そんな光景を想像してしまっただけで胸が苦しくなる。
悲しくて、切なくて、泣きそうだった。
けれど友人たちの前でそんな顔を見せたくなくて、私は気付かれないように唇をきゅっと噛み締めることしか出来なかった。
「でもそんなに女性関係が派手っていうことは、婚約とかまだされていないのかしら?」
「そうみたい。でも私達がお茶会でお会いした時、婚約はしていないって言ってたけど、あの時実は、婚約間近だって言われいたご令嬢はいたみたいよ」
その言葉を聞いて、また胸の奥で心臓が重く脈打った。
……それはきっと私のことだ。
そう思ったからこそ、私は身動き一つできなくなってしまう。
聞きたくないはずなのに、耳だけは友人の言葉を追い続けてしまう。
けれど、その直後に続いた話は、私が想像していたものとはまるで違っていた。
「私もお会いしたことはないけど、そのお相手は中央部のローゼンガルド大公家のご令嬢らしいわ。月に一度、必ずお会いして仲を深めていたみたい」
『え……?』
その言葉を聞いて、また頭を鈍器で叩かれたような衝撃が走った。
「しかも二年近くよ。だから周りは皆、総司様とそのご令嬢の仲睦まじい様子を見て、婚約間近だろうって噂してたみたい。結局そのまま婚約はされなかったみたいだけど、総司様のそういうミステリアスなところも人気みたいよ」
「確かに格好いい方だったもの。遊びでもいいからお相手してもらいたい気持ちはわかるかも……」
「きゃあ、何言ってるの?」
「ふふっ、冗談よ」
「でもね、総司様って帝国の剣だし、凄い強い方じゃない。それなのにベッドの上では女の子にすっごい優しいんだって。だから女の子達は一度総司様に抱かれると、もう夢中になっちゃうらしいの」
周囲ではまだ友人達が楽しそうに話しているはずなのに、その声はもう遠くへ離れてしまったみたいで、聞こえてくるのは自分の心臓の音だけだった。
どくん、どくん、と異様なほど大きな音が身体の奥で響いている。
胸が苦しい。
息がうまく吸えない。
指先が震えが抑えきれないくらい、動揺していた。
あの頃、二年近くも毎月会っているご令嬢がいたの?
私がいたのに?
私にはそんな相手はいないって。
セラ嬢だけだよって、言ってくださっていたのに?
色々な疑問が頭の中をぐるぐると巡り続けて、冷静に考えることもできなかった。
私が今まで見つめてきた総司様像が、まるでがらがらと音を立てて崩れていくようだった。
そして次に込み上げてきたのは、今にも涙になって溢れ出してしまいそうな感情だった。
このままここにいたら、きっと泣いてしまう。
そう思った私は慌てて立ち上がり、きょとんと私を見上げた友人二人に懸命に笑顔を向けた。
『私……今日園芸委員の仕事があったの忘れてた。ちょっと行ってくるね』
「そうなのね、頑張ってきて」
「行ってらっしゃい」
私は逃げるようにその場をあとにして、園芸委員が管理している温室庭園まで走った。
委員の仕事なんて本当はないけど、ここなら昼休みに人は来ない。
今は誰にも会いたくなかったから、誰もいない温室庭園へ駆け込んだ。
咲き誇る花々の甘い香りが漂っているけど、今はその香りを感じる余裕はなくて。
私はその場で立ち止まり、乱れた呼吸を整えようと何度も息を繰り返す。
『はあっ……はあっ……』
思い切り走ったこの身体が、これが悪い夢ではなく現実なのだと嫌でも突き付けてくる。
逃げても消えないし、聞かなかったことにもできない。
苦しくて息を吸い込んだ時、こらえきれなくなった涙がぼたぼたと溢れ落ちた。
『ううっ……うっ……』
どうして。
どうして……。
今聞いた話は、本当に総司様の話なの?
本当に総司様は色々な女の子と関係を持っているの?
信じたくもないのに、あまりにも現実味を帯びた話を聞いてしまったせいで、頭の中は混乱していた。
だって私は総司様を信じていた。
心のどこかで、きっとまだ私を想ってくれているって信じていたからこそ、手紙の返事が来なくても会えなくても、前を向いていくことが出来た。
寂しくても、苦しくても、いつかまた会える日が来るんだと思っていた。
でも、今の話を聞いたら嫌でも気づかされてしまう。
私が総司様を想っていた間にも、総司様の時間はとっくに私から離れて進んでいたんだと。
私の知らない場所で、私の知らない誰かと笑い合っていたんだと。
そして、その考えが胸を締め付けた途端、涙はますます止まらなくなった。
総司様はもう、私のことなんてもう忘れてしまったんだ。
その現実を知って、色鮮やかな総司様への気持ちが瞬く間に散っていくようように感じられた。
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