10

堪えきれない涙をぽろぽろと零し続けていると、不意に温室庭園の扉が静かに開く音が聞こえた。
はっとして振り返ると、そこに立っていたのは千鶴様だった。


『千鶴様、どうして……』


慌てて涙を拭ったけど、きっと隠しきれてはいない。
そんな私を見て、千鶴様は心配そうに眉を寄せた。


「セラさんがここに走って入って行くのが見えたの。様子がおかしかった気がしたから追いかけてきたんだけど……何かあったの?」


総司様への想いは、ずっと私だけの秘密だった。
誰にも話していないことが多すぎて、何から説明すればいいのか分からない。
言葉を探しているうちに黙り込んでしまうと、千鶴様は私の目の前まで歩み寄り、どこか寂しそうに瞳を揺らした。


「話せないのは、私が王女だから?」

『違います。そうではないんです』

「だったらどうして?私はセラさんが泣いていたら、何があったのか気になるし、どうしてもその理由が気になってしまう。だって、私達お友達でしょう?」


その言葉に、私は思わず目を見開いた。
千鶴様とは幼い頃からの付き合いだ。
私にとって大切なお友達の一人だったけど、普段の千鶴様はこうして真っ直ぐに気持ちを口にする方ではない。
だからこそ、その言葉が胸の奥へ優しく染み込んでいくようだった。


「初めてアストリアのお茶会に出席することになった時ね。私、凄く嫌だったの。だってどこに行っても私は周りの人達にとって、気を使わなければいけない王女だから。いつも顔色を窺われていたし、私自身も王女らしく振る舞わなければっていつも構えてた。身体が弱かった分、せめて粗相はしないようにって」


千鶴様が何の話をしたいのかは分からなかったけど、私は黙って耳を傾ける。
千鶴様は珍しくその場にしゃがみ込み、目の前の鉢植えへ視線を落とすと、咲いている花にそっと指先を伸ばした。


「だからその鬱憤が溜まっていてね。いつからか凄くわがままに振る舞うようになっていたし、陰で悪いこともした。アストリアのお茶会でも、薫を誘って温室に忍び込んで、綺麗に咲いている花を何本も乱暴に引き抜いていたの」

『そんなことがあったのですね』

「今思うと愚か過ぎて笑えちゃうけどね。でもあの時は、そんな気分だったの。それに王宮では私が何をしても誰も怒らなかった。父と母ですら私を腫れ物のように扱っていたし、薫も両親に妹の面倒を見るようきつく言われていたから、みんな表向きは私に優しかったの。でも陰で私が横暴だの、病弱だの、そう言われていることもわかってた。だからいつも苦しくて腹が立って、だから周りの人達をどうやったら困らせられるんだろうって、いつのまにかそんなことばかり考えるようになっちゃってたみたい」


語る横顔がどこか寂しそうに見えて、私は寄り添うように千鶴様の隣にしゃがみ込んだ。
すると千鶴様は柔らかく微笑み、取り出したハンカチで私の涙をそっと拭ってくれる。


「それでね、アストリアの温室でお花を虐めていたら、そこにユフィ夫人がいらっしゃったの。でも私は全然平気だった。この人もきっと私を叱ることはないって思ってたから。でもユフィ夫人は違った。私と薫の前に座り込むと、私達の手を取ってそんなことをしてはいけませんとはっきり叱ったの」

『お母様が?』

「そう。私も薫もそんなふうに叱られたことがなかったからびっくりしちゃって。薫なんて動揺して、反発するかのようにもう一度花を引き抜いたの。そうしたらユフィ夫人はもっと眉を釣り上げて、お花が可哀想でしょうと言ったのよ」


千鶴様はそこで懐かしそうに目を細めた。


「私は、その後の言葉が忘れられないの。ユフィ夫人は怒鳴ったりしなかった。ただ私達と同じ目線になるように座ったまま、静かに言ったの。千鶴様も薫様も、本当は優しい子でしょうって。私達は意味が分からなくて黙っていたんだけど、ユフィ夫人は、本当に意地悪な人は、お花を傷付けたことが見つかってもそんな顔はしません。お二人とも、今とても苦しそうなお顔をしていますよって」


その言葉に、私は思わず目を瞬く。
千鶴様も当時を思い出しているのか、静かに微笑んでいた。


「私は自分がどんな顔をしていたかも考えたことはなかったし、誰もそんなことを言ってくれたことがなかった。皆、王女だから優しくしたり、王女だから陰口を言ったりするだけだった。でもユフィ夫人は、私が王女だからじゃなくて、一人の子供として見てくれた。それがなんだか嬉しくて」


千鶴様は花びらをそっと撫でる。
子供の頃の千鶴様がそんな様々な気持ちを抱えていたなんて知らなかったから、私はその続きが気になって、ただ彼女の綺麗な横顔を見つめていた。


「それからね、ユフィ夫人は引き抜かれた花を見ながらこう言ったの。苦しい時に誰かを傷付けても、心は楽になりません。それどころか自分も苦しくなりますよ。でも誰かを大切にした時は、自分のことも好きになれますよって」


温室の中に静かな沈黙が落ちる。
まるで今もお母様の声が聞こえてくるみたいだった。


「薫なんてその場で泣きそうになってたのよ。もちろん私も。だって私達が本当に欲しかったのは、見せかけの優しさじゃなかったんだもの。ちゃんと見てほしかっただけだったのに、自棄になって自分のことも傷付けてたんだって、その時初めて気付いたの」


千鶴様は小さく笑った。


「その後、ユフィ夫人は私達と一緒に花壇を直してくださったの。そして最後に、間違えることは悪いことではありません。でも間違いを認めてやり直せる人は、とても立派な人ですよって言ってくださった。だからね、私はあの日、ユフィ夫人に救われたの。薫もきっと同じ。あの人がいなかったら、今の私はいなかったと思うくらい」


そう言って微笑む千鶴様の横顔を見つめながら、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
それはきっと、お母様が今も誰かの心の中で生き続けている証だと思った。


千鶴様は懐かしいものを見つめるように目を細めながら、しばらく咲き誇る花々へ視線を向けていた。
その横顔はどこか穏やかで、けれど少しだけ切なそうでもあって、私は黙ったままその続きを待つ。
すると千鶴様は小さく笑って、再び語り始めた。


「その後、私も薫も少し泣いてしまったの。今思えば本当に子供だったわ。でもその時の私達は、自分でも気付かないうちにたくさんのものを抱え込んでいたから」


そう言って微笑んだあと、千鶴様はふと私へ視線を向けた。


「そして、その後にやって来たのがセラさんだったのよ」

『私ですか?』

「そう」


どこか楽しそうな声に、私は思わず首を傾げる。
千鶴様はくすりと笑うと、当時を思い出すように言葉を続けた。


「温室を出た後だったわ。私は泣いたことを知られたくなくて必死だったし、薫も不機嫌そうな顔をしていたの。でもそこにセラさんがやって来て、私達を見るなり、少し心配そうなお顔をしたのよ。そして何をするのかと思ったら、急にポシェットをごそごそ探し始めたの」

『ポシェットを……』

「私も薫も何事かと思って見ていたわ。それでね、突然ぱあっと顔を明るくしたと思ったら、セラさんが私達に差し出してきたのは、一枚の大きなクッキーだった。しかも食べかけの」


思わず私は固まってしまう。
そんなことをしたのだろうか。
けれど幼い頃の自分なら、やりかねない気もしてしまった。


「王宮ではね、食事の作法も立ち振る舞いも本当に厳しく教えられていたの。だから薫も私も唖然としてしまったわ。だって、初対面で食べかけのクッキーを差し出されたのよ?」


恥ずかしくなって口を噤む私を見て、千鶴様はますます楽しそうに笑った。


「でもセラさんは全然気にしていなくて、このクッキー、とってもおいしいんです。食べたらきっと、王太子殿下と王女殿下も元気になれますよって、言ったのよ。もちろんユフィ夫人は慌てて止めていたわ。それは食べかけでしょうって。でもセラさんは不思議そうなお顔で、でもおいしいんですよ?なんて言っていて」

『そんなことをしていたんですね……。お恥ずかしいです』

「ふふ、でもね。その時、薫が突然そのクッキーを受け取ったの」

『薫様が?』

「ええ。しかも立ったまま、クッキーをぱくりって食べたの」


その光景を思い出しているのだろう。
千鶴様の瞳が懐かしそうに細められる。


「最初は意地だったと思うの。きっと困らせてやろうくらいの気持ちだったのかもしれない。でも食べたらセラさんの方が凄い嬉しそうに笑ってたから、薫も釣られて笑ったの。私はあんな薫を初めて見たわ」


温室の中へ柔らかな沈黙が落ちる。
私もその光景を想像しながら耳を傾けた。


「それから薫はね、お前も食べろって言いながら、今度はそのクッキーを私の口元へ持ってきたの。信じられる?王太子が食べかけのクッキーを王女に差し出したのよ」


千鶴様はそう言って声を立てて笑った。
けれどその笑顔はとても幸せそうだった。


「もちろん普段なら絶対にありえないことだった。でもあの時は不思議と嫌じゃなかったの。だってセラさんは、私達が王女だからとか王太子だからとか、そんなことを何も考えていなかったんだもの。ただ泣いている私達を見て心配してくれて、元気になってほしいと思ってくれた。その気持ちが真っ直ぐ伝わってきたの。私達に気を遣わないでいてくれたし、無理に背伸びもしないでいてくれた。そして何より、私達を一人の人間として見てくれた」


千鶴様はそう言うと、そっと私の手を握る。
その温もりはとても優しかった。


「だからね。あの日からずっと変わらないの。セラさんは、私にとって一番のお友達よ」


その言葉を聞いた時、胸の奥がとても温かくなった。
先ほどまで涙でいっぱいだったはずなのに、今度は別の意味で泣きそうになる。
私が涙を堪えながら何も言えずにいると、千鶴様は少し困ったように笑った。


「だから私はね。セラさんが泣いていると放っておけないみたい」


そう言って微笑む千鶴様の姿は、幼い頃にお母様からもらった優しさを、今度は誰かへ返しているように見えて、私は胸の奥に広がる温かな気持ちを抱きしめるように、そっとその手を握り返した。


『ありがとうございます、千鶴様。とても嬉しいですし、私にとっても千鶴様は一番のお友達です』


そう言うと、千鶴様は少し照れたように微笑んだ。

千鶴様のことは昔から大好きだった。
たまに厳しく叱ってくださるところも、こうして寄り添ってくださるところも大好きだけど、一番好きなのは誰よりも誠実なところだった。
相手が誰であっても決して見捨てず、その人のためになると思ったことを真っ直ぐ伝えてくれる。
優しいだけではなく、きちんと向き合ってくださるからこそ、私は千鶴様を信頼していた。

だからだろうか。
今まで誰にも話せなかった気持ちが、するすると言葉になって溢れ出していく。
今でも総司様が大好きなこと。
最後の手紙にお返事がもらえなかったこと。
それでも信じて待ち続けていたことや、デビュタントの後に迎えに来てくださるという約束をずっと心の支えにしていたこと。
そして先ほど耳にした、私の知らない総司様の話のことも。

話している途中で何度も涙が零れたし、声も震えた。
それでも千鶴様は最後まで口を挟まず、ただ静かに私の言葉を受け止めてくださっていた。
それがとても嬉しかった。

もしかしたら私はずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
ずっと胸の奥へ閉じ込めていた想いや、苦しかった気持ちを全部。


「やっぱりその方に気持ちが残っていたから、デビュタントを迎えるまでは婚約はしないって決めていたのね」

『はい。でも私が勝手にその約束に縋っていただけだったんです。手紙のお返事がない時点で本当は諦めなければいけなかったのに』


そう言うと胸の奥がまた痛んだ。
何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
けれど心はどうしても追いつかなかった。


「でも諦めようと思って諦められないから辛いのよね」

『ですが、今は違います。あんなに大好きだったけど……今はもう全部忘れたいんです。思い出したくないし、総司様の話を聞きたくない。だって、凄く……悲しくなるから』


私は唇を噛み締めながら言葉を紡いだ。
でもあんな話を聞いても尚、私はまだ総司様が忘れられない。
あの人と過ごした思い出があるから。
優しく笑ってくださったことを知っているから。
今も大好きなままだった。


「私はね、その方を好きだった気持ちごと憎む必要はないと思うの。だって、その方を好きだったからこそ今のセラさんがいるのでしょう?人を大切に想った時間は消えないし、その気持ちが嘘になることもないわ」


温室の中を柔らかな風が吹き抜ける。
花々が小さく揺れると、そこで千鶴様は少しだけ真面目な顔になった。


「でもね。好きな人のために、自分がずっと泣き続ける必要はないとも思うの。だってセラさんはこんなにも優しくて、一生懸命で、周りの人を大切にできる方なのよ」

『そんなことありません。私は総司様の最後の叫びを無視してしまったんです。あの時、向き合うことが怖くて、背を向けてしまったから総司様はもう私のことを好きでなくなってしまったんだと思います。私が悪いんです……』


私が判断を間違えて総司様を傷付けたから、結果として大切な人を失ってしまった。
だから、そんなふうに言ってもらえる資格なんてない気がした。


「それは本当にセラさんだけの責任なの?」

『え……』

「人と人との関係は、一人だけで作るものではないでしょう?もしその方が本当にセラさんを大切に想っていたなら、きっとその方にも選べることはあったはずよ。もちろん、その時のことを後悔する気持ちは分かるつもりよ。でも人は未来を知らないまま選択するしかないのだから、誰だって間違える時はある。私だってそうだったもの。でも、人は間違えたから価値がなくなるわけじゃないってユフィ夫人が教えてくれたから、セラさんにもそんなに自分を責めないで欲しいの」


千鶴様の言葉は、私の心に真っ直ぐ向けられたものだった。
こんなに一生懸命な千鶴様は見たことがないくらい、その瞳は私のために真剣に揺れていた。


「何年も苦しんで、何年も後悔して、それでもその方を大切に想い続けてきた。私はそれだけで十分だと思うの。その分直ぐに忘れることは無理かもしれないけれど、その方だけが世界の全てだと思わないで。セラさんには幸せになる権利があるもの」


温かな手だった。
お母様みたいに優しくて、安心する温もりだった。


「いつかその相手を懐かしい思い出として振り返れる日が来るかもしれないし、その時にはもっと素敵な誰かが隣にいるかもしれないでしょう?」

『そんな日が……来るのでしょうか』

「来るわ」


迷いなく言い切る千鶴様に、思わず小さく笑ってしまう。
すると千鶴様も笑った。


「だってセラさんは誰かに愛される価値のある人だもの」


その言葉に涙が滲んだ。
けれど先ほどまでの苦しい涙とは少し違う。
心が温かくなる涙だった。


「だから大丈夫。今はたくさん泣いてもいいけど、その涙が止まったら少しずつ前を向きましょう。私は信じているわ、いつかセラさんが今よりもっと幸せそうに笑う日が来ること」

『ありがとうございます、千鶴様。お話を聞いていただけて、とても心が軽くなりました。私、少しずつちゃんと前に進みます』


微笑む千鶴様の姿を見ながら、胸の奥に張り付いていた冷たい痛みが和らいでいくのがわかる。
ただ握られた手の温もりを感じながら、その優しさが胸の奥へゆっくりと染み込んでいくのを静かに感じていた。

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