6
甘くておいしいマシュマロハニーフラペチーノ。
一口飲み込むと、ふわりと蜂蜜の優しい香りが広がり、その甘さに心までほぐされていくような気がした。
午後の陽射しがテーブルの上に淡く落ちていて、私はストローを指先でそっと弄びながら、先程の出来事を思い出していた。
『そう言えば、さっき薫様と同じクラスの方と少しお話ししましたよ』
そう告げると、薫様は興味を引かれたようにこちらを見た。
「ふーん、誰?男?女?」
『男の人です。名前はお聞きしなかったのでわからないのですが』
「それじゃあ、俺もわからないな。特徴は?」
『礼儀正しくて、誠実そうな方でしたよ』
「なんだよ、それ。曖昧だな」
くすくすと笑ってしまうけど、本当にそうだったのだから仕方がない。
落ち着いた話し方をする方で、とても真面目そうだったし優しそうだった。
あの人はあの後、無事に卵サンドを買えたのかな?
そんなことを考えていると、向かいに座る薫様がなぜか楽しそうに口角を上げ、少しだけ身を乗り出してきた。
「それに、俺より礼儀正しくて誠実な男はいないと思うけど?」
いきなり何を言い出すのかと思えば。
どこか得意そうな薫様のお顔がなんだか可愛らしく見えて、思わず笑みが零れた。
『えー?ふふ、そうですか?』
「おい、なんで笑うんだ。まさか俺が誠実じゃないとか思ってるわけじゃないよね?」
『薫様が誠実な方だということはちゃんとわかっていますよ』
「それならいいけど」
少し拗ねたような口調だったけど、その表情はどこか満足そうでもあって、私は微笑みながらもう一口フラペを飲んだ。
てっきり冗談なのかと思っていたのに、どうやら薫様は本気で仰っていたらしい。
そんなところは昔から変わらないなと思っていると、薫様は頬杖をつきながら私を見つめた。
「ところでさ」
『はい?』
「その男と、どれくらい話したの?」
『少しだけですよ。フラペを買う前に、少しお話ししたくらいです』
「ふーん」
なぜか薫様の返事は素っ気ない。
私は気になってそっと彼を覗き込む。
『どうかされましたか?』
「別に」
『そうですか?』
「ああ」
そう言いながらも、薫様は少しだけ不満そうだった。
私は理由がわからなくて首を傾げるばかりだったけど、しばらくして薫様はぽつりと呟いた。
「そういえばこの前、斎藤と買い物に出掛けたんだって?」
『はい。実は長年勤めてくださった騎士の方が退任されることになって、学校帰りに送別品を一緒に選んでもらっていたんです』
「俺だったら、もっと役に立てるのに」
『え?』
「道案内でも、買い物でも、荷物持ちでも」
『ふふ、薫様はお優しいですね。荷物持ちをしている王太子殿下なんて、他の方が見たらきっと驚かれてしまいますよ』
「別に優しいとかじゃない。俺はただ……」
何かを言いかけて、薫様は途中で口を閉じた。
そして罰が悪そうに眉を潜めると、小さく息を吐く。
「……まあ、いいや」
何が言いたかったんだろう。
けれど薫様はすぐに話題を変えるようにストローを回した。
「セラはさ。困ったことがあったら、ちゃんと俺を頼ってよ」
『頼っていますよ』
「いや、そうじゃなくて」
穏やかだった表情が少しだけ真面目なものに変わり、その瞳が真っ直ぐ私を見つめた。
「もっとってこと」
『もっと、ですか?』
「うん」
『でも、いつも助けていただいていますし……』
薫様には昔からたくさん助けていただいている。
困った時には手を差し伸べてくださるし、悩んでいる時には気付いて声をかけてくださる。
もう充分過ぎるくらいなのに、薫様は少しだけ眉を寄せながら、はっきりと言った。
「足りないんだよ」
『足りないとかあるんですか?』
思わず聞き返してしまうと、薫様は呆れたように笑った。
「あるに決まってる。なぜって、俺はこの国の王太子なんだ。他の奴より、よっぽどお前の望みを叶えてやれると思わないか?」
私の望みと聞いて、胸の奥に浮かんだのは、たった一つの願いだった。
総司様と以前のように一緒に過ごしたい。
他愛のない話をして、並んで歩いて、同じ景色を見て、笑い合いたい。
私が大好きだったあの優しい笑顔を、誰より近くで見つめていたい。
そんなささやかな願い。
けれどそれは、今となってはあまりにも遠かった。
どれほど願っても届かない。
少し前までは、もしかしたらという淡い希望を心のどこかに抱いていたけど、それさえも砕けてしまった今は、ただ深い悲しみだけが胸の奥に静かに沈んでいる。
忘れようとしても忘れられず、消えようとしてくれないその想いは、まるで根を張るように私の心に残り続けていた。
だから私は、小さく微笑みながら首を横に振った。
『私は薫様に叶えてほしい望みはないですよ?』
すると薫様は目を見開き、露骨に顔を曇らせる。
「なっ……そういうことを言うな。悲しくなるだろ」
『あ、ごめんなさい』
慌てて謝りながらも、私はくすりと笑ってしまった。
『でも、悪い意味ではないんです。なんと言いますか……薫様に甘えて欲しいものを手に入れるのは少し違う気がして。私は望みを叶えるために、まずは自分が努力しないといけないかなって思うんです』
そう口にして、自分の言葉が胸に刺さった。
だって……私は本当に努力したんだろうか。
総司様とのことを思い返すたび、その答えは見つからない。
この三年、私はただ信じていただけだった。
手紙を出せないから、お父様との約束だから、もし嫌われていたら怖いから。
そんな言い訳ばかりを並べて、一歩も踏み出せなかった。
会いたいと願いながら会いには行かず、ただ時が過ぎていくのを見送っていた。
あの日だってそうだった。
向き合うことが怖かった。
総司様の気持ちを知ることが怖くて、必死に私を呼んでくださる声から逃げてしまった。
それなのに今になって総司様の近況を知り、勝手に傷ついている。
胸を痛めて、涙を堪えて、悲しい気持ちになっている。
でも、そんな資格が私にあるのだろうか。
自分でも呆れてしまうほど身勝手で、情けない。
胸の奥が少しだけ苦しくなって、私はそっと指先を握りしめた。
そんな私の様子には気付いていないのか、それとも気付いた上で触れないでいてくださるのか、薫様は小さく肩を竦めながら苦笑した。
「まあ、セラらしいって言えばらしいけどね。そういうところがお前の良いところなんだろうけど、こっちとしてはやり難くもある」
『やり難い?何がですか?』
不思議に思って顔を上げると、薫様はしばらく私を見つめたまま何も言わなかった。
その視線は妙に優しくて、どこか困ったようでもあって、私はますます理由が分からなくなる。
すると薫様は小さく息を吐き、聞こえないようなか細い声で何かを呟いた。
「……だから、その鈍いところだよ」
『え?今、何ておっしゃいましたか?』
「いや、何でもない」
薫様はそう言って一度黙ると、再び私を見つめて瞳を僅かに揺らした。
「千鶴から少し聞いたんだ。セラが……あの男のことでまだ嫌な想いをしてるって」
不意に落とされた言葉に、私は持っていたグラスをそっと見つめた。
『あの男って……』
「ヴェルメルの四男だよ。ああ、違うな。今は……アルディオン公爵か」
その名前を耳にしたら、胸の奥がどくんと大きく脈打った。
もう何度も聞いた名前のはずなのに、こうして突然口にされると心が追いつかない。
私は視線を落としながら、小さく微笑む。
『そう……だったのですね。千鶴様はなんて?』
「いや、千鶴は俺にあまり詳しくは話してくれなかったんだ。ただ、北部の話はセラの前ではするなって言われてさ」
そう言った薫様は、どこか気まずそうに視線を逸らした。
「だから黙ってようかとも思ったんだけど、どうしても気になったんだ。……ごめん」
その言葉に、私は思わず首を横に振った。
『そんな、薫様が謝らないでください。気にしてくださっただけで、とてもありがたいです』
傷付いたことを知られるのは少し恥ずかしいし、心配を掛けてしまったことには申し訳なさもある。
けれどそれ以上に、こうして気にかけてもらえる優しさが嬉しかった。
私の言葉を聞いた薫様は、少しだけ眉を下げて笑う。
けど、その笑みはすぐに消えた。
「気にするに決まってる。お前が苦しんでるなら知りたいと思うし、力になれるならなりたいと思うんだ。でも北部は東部より栄えてるし、帝都の話題はどうしても学院でも頻繁に出るだろ?だから、その度にセラが嫌なこと思い出して、辛い想いをしてるんじゃないかなって気になってた」
『いいえ、大丈夫ですよ。この前は、千鶴様に溜め込んでいたものをぶつけてしまったんです。総司様とのことを全部忘れたいって……。あの方のことを思い出したくないし、話も聞きたくないって言ってしまって……だから千鶴様も、薫様にそう伝えてくださったんだと思います』
あの時は、総司様の近況を聞いたばかりで、心が追いつかなかった。
胸の奥に大切に抱えていたものが、一度に崩れてしまったような気がしていた。
でも千鶴様と話をして、涙を流して、自分の気持ちを吐き出した今は、あの時とは違う気持ちが芽生えている。
そのことを伝えようとして口を開きかけた時、すぐ後ろの席から椅子を引く音が聞こえた。
思わず振り返ると、一人の男子学生が足早にテラスを出て行く後ろ姿が目に入る。
その後ろをもう一人の男子学生が慌てて追いかけていて、私は小さく首を傾げた。
『あれ?今の方……』
「どうかした?」
『いえ。先程話した薫様のクラスの方かなって思ったんですけど』
「そんな奴のことはどうでもいい。それより、セラがまだその相手のことを引き摺ってるなんて思わなかったんだ。だから癪に障るし、正直……消したくなる」
『消すなんて、そんな物騒なこと言わないでください。それに、千鶴様が教えてくださったんです。気持ちごと憎む必要はないって。人を大切に想った時間は消えないし、その気持ちがあったからこそ今のセラさんがいるんでしょうって』
「千鶴がそんなことを?」
『はい。千鶴様のその助言があって、前向きな気持ちになれたんです。無理に忘れようとするより、大切な思い出として残したまま、少しずつでも前に進んでいこうと思えました。そういう気持ちでいるので、私は大丈夫ですよ』
今すぐには無理かもしれない。
涙が溢れてしまう夜もあるし、私は今でも総司様が大好きだ。
けれど、この想いが叶うことはないのだと受け止めることもできている。
だからあとは、焦らずに歩いていけばいい。
いつか本当に前を向ける日が来たなら、その時は千鶴様と薫様に真っ先に報告したいなと思う。
私に寄り添ってくださった大切なお二人だから。
「セラがそう思えてるなら良かったよ。一人で落ち込んでるんじゃないかって、心配してたんだ」
いつになく真面目な声だった。
でも直ぐに薫様はどこか不満そうに唇を尖らせると、私を睨んだ。
「そもそもなんで千鶴には話して俺には話してくれないんだ。俺、そんなに頼りない?」
思いもよらない言葉に、私は目を瞬かせる。
薫様は腕を組みながら、どうにも納得できないという顔をしていた。
『違います』
「じゃあなんで?」
『それは、薫様はお忙しい方ですし……』
「それ、理由になってないだろ」
『なっていますよ』
「なってない」
即座に返されてしまい、私は困ったように笑った。
どう説明したらいいんだろうと少し考え込んでから、私は正直な気持ちを口にする。
『薫様は男の人だから。少し言いにくかったのかもしれません』
恋の悩みというものは、やっぱり同性の方が話しやすい。
千鶴様には自分でも驚くほど素直な気持ちを打ち明けることができたけど、薫様に同じような話をするのは少しだけ照れくさかった。
そう思って告げた言葉だったのに、薫様は一瞬きょとんとした顔になった。
それから視線を逸らし、小さく咳払いをする。
「……なるほど」
薫様は小さくそう漏らすと、どこか落ち着かない様子で視線を逸らした。
陽射しのせいか、耳の先がほんの少しだけ赤く見えた気がして、私は不思議に思いながらその横顔を見つめる。
「それなら……まあ、仕方ないな」
先程までの不満そうな表情は少し和らいでいて、どことなく機嫌も良さそうだった。
『ご理解いただけましたかか?』
「ああ」
薫様は小さく頷き、視線を逸らしたまま続けた。
「だって、お前が俺をちゃんと男として見てるってことだろ」
さらりと言われた言葉に、今度は私の方が目を丸くしてしまう。
『もちろんです。薫様は男性ですし。制服だって男子生徒用じゃないですか』
「いや、そういう意味じゃないんだけど」
薫様は額に手を当てながら苦笑した。
けれどその口元はどこか楽しそうで、先程までの不機嫌さはすっかり消えている。
私も釣られて笑顔になると、薫様は不意に頬杖をつきながら私を見つめた。
「なあ、セラ。今度の休み、空いてる?」
突然の質問に、私は瞬きを繰り返した。
『今度のお休みは特に予定はありませんけど』
「じゃあさ、街に行かないか?ほら、お前甘いもの好きだろ」
『好きです』
「新しくできたスイーツの店があるらしいんだ」
『わあ、そうなのですか?』
「評判も良いらしいし、見た目も可愛いらしい」
『素敵ですね』
「だから……その」
珍しく言葉が途切れる。
私は不思議に思って薫様を見つめていると、薫様は少しだけ視線を泳がせた後、観念したように息を吐く。
「俺と一緒に行かないかって言ってるんだよ」
その言葉に、私は自然と笑顔になった。
『ぜひ行きたいです』
予想以上に即答してしまったからだろうか。
薫様は一瞬驚いたような顔をした後、ほっとしたように笑った。
「そんなにあっさり行くって言ってくれるんだ」
『だって楽しそうですし。それに薫様とお出掛けするのは好きですよ』
薫様は小さく笑う。
けれどその笑顔はどこか照れくさそうだった。
「じゃあ約束な」
『はい』
「絶対だぞ」
『そんなに念を押さなくても逃げませんよ』
「どうだか」
『逃げませんってば』
くすくすと笑いながら答えると、薫様も楽しそうに笑った。
今度のお休みはどんなお店へ行くのだろう。
どんなお話をするのだろう。
そんなことを考えていると、ふと総司様の笑顔が頭を過ぎった。
楽しいはずなのに。
こうして笑っている時ほど、なぜか総司様を思い出してしまうことがある。
それはきっと、総司様が何気ない時間を大切にしてくださる方だったから。
言葉にできないような温もりが胸に残っていて、どうしようもなく会いたくなってしまう。
でも今は考えない。
胸の奥に浮かんだ想いをそっと沈めるように、フラペを口に運びながら、向かいに座る薫様に微笑みかけた私がいた。
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