7
席を立った直後、僕は足早にその場を離れた。
背後ではまだ王太子とセラ嬢の声が続いていた気がする。
でも振り返る気にはなれなかったし、確かめようとも思わなかった。
たった今聞いてしまった言葉だけで十分だったからだ。
三年間。
短いようでいて、僕にとっては長い三年間だった。
剣を握っている時も、任務に出ている時も、仲間たちと酒を飲んでいる時でさえ、ふとした時に思い出してしまう人がいた。
もう会えないかもしれないと思いながら、それでもどこかで再会を信じて、いつか話せる日が来るのではないかと願い続けていた人がいた。
その相手が、自分のことを忘れたいと言っている。
思い出したくもないし、話も聞きたくないと言っている。
その事実は容赦なく僕の胸を抉り、ゆっくりと内側を蝕み始めていた。
そして今湧き上がっているのは単純な怒りとも違う、悲しみとも違う。
もっと質の悪い、別の何かだった。
「隊長!」
後ろから聞こえた声に、僕は足を止めなかった。
相馬が追いかけてきていることは分かっていたけど、今はこの顔を見られたくない。
でも相馬は諦めずに僕を追いかけてきたあと、横に並びながら苦しそうな声を上げる。
「隊長、待ってください」
ようやく足を止めると、相馬は息を整える間も惜しむようにこちらを見る。
その顔には戸惑いと焦りが混じっていた。
「何?」
そう尋ねると、相馬は一瞬だけ言葉を飲み込んだあと、慎重に口を開いた。
「このまま何もお話しされないおつもりですか?」
「何を話せって言うの?」
「今までのこと、全てですよ。俺はきちんと話された方がいいと思います。隊長は何もしていないじゃありませんか。アンナ夫人のことだってそうですし、誤解されているなら説明するべきです。このままでは……」
「相馬」
静かに遮ると、相馬は口を閉ざした。
その沈黙のあとで、僕は少しだけ口元に弧を作った。
「誤解を解くっていうのはさ、どういう時に使う言葉だと思う?」
「それは……事実を説明して、相手に理解していただくことでは」
「そうだね。じゃあそのためには何が必要なんだと思う?」
「……え?」
「相手が真剣に話を聞いてくれる姿勢だよ」
僕はアストリアで何度も話を聞いて欲しいと頼んでいたし、それは恐らく母も同じだった筈だ。
でも、僕達の言葉は届かなかった。
それはヴェルメルから幾度となく出した手紙についても同じだった。
「三年間、一度も話を聞いてもらえなかったんだよ。何があったのか説明する機会もなかったし、僕自身がどう思っていたかを伝える機会もなかった。手紙にも書いてはみたけど、それについての返事もなかったからね。それでも、時間が経った今なら話せると思ってた。会えたら説明しようと思ってたし、全部話してそれで誤解が解けるなら解きたかったよ」
我ながら呆れるほど甘い考えだったのかもしれないけど、本気だった。
だからこそ僕は、今この場所にいるというのに。
「でも僕の話すら聞きたくないんだって。そんなふうに思ってる相手に話しかけたところで、僕の言葉なんて聞いてくれるわけないよ。だって聞いたでしょ。僕のことを思い出したくもないんだってさ。存在ごといらないって言われたみたいだったよ」
「隊長……」
「まだ何もしてないのに結論だけは相変わらず出てるんだから、笑っちゃうよね」
ただひたすらに幼い頃の彼女の言葉を信じて、どれだけ馬鹿だったんだろうと今ではわかる。
それでも脳裏に蘇るのは、先程のあの子の姿だった。
幼い頃からずっと恋焦がれて、大好きで堪らなくて、こうして三年越しに会った今でさえ一瞬で僕の心を攫っていく。
そんな子は、今日まで生きていてセラ嬢しかいないのに。
「……会いたかったんだよ、馬鹿みたいに」
三年間、一日だって忘れなかった。
思い出さない日はなかった。
でもずっと大切にしてきた想いそのものを否定された気分だった。
「向こうは違ったみたいだけどね」
苦しいし腹が立つ。
そして何より、自分自身が情けなかった。
あれほど想っていた相手に拒絶されたという事実が、まるで抜けない棘のように胸の奥へ深く刺さっていて、呼吸をするたびに鈍く痛む。
もはや恋などという綺麗な言葉では片付けられない。
それは長い年月をかけて醜く変わってしまった、心の奥に染み込んだ毒のようなものに感じられた。
「何か事情があるのかもしれませんよ。セラ嬢はきっとまだ傷ついていて」
「僕だって傷付いたよ。何も言わせてもらえないまま、最初から必要ないものみたいに切り捨てられて、それで傷付かないほど出来た人間じゃないんだ」
怒鳴ったわけではないけど、押し殺した感情が滲んでいたのだろう。
相馬は言葉を失ったように口を閉ざした。
「ですが、折角ここまで来たんじゃないですか。話してみたら、何か変わるかもしれないですよ」
「もういいよ」
絞り出すようにそう告げると、相馬の表情が苦しげに歪む。
「もう十分だ。話を聞きたくない相手を追いかけてまで、聞いてくれって頼む趣味はないんだよ。これ以上、惨めな気分になりたくない」
その言葉を最後に僕は歩き出した。
相馬もそれ以上は何も言わず、重たい沈黙だけが二人の間に落ちたまま、僕達は制服を着替え学院をあとにした。
馬に跨り、しばらくは蹄の音だけが静かに響いていたけど、やがて沈黙を破ったのは相馬の方だった。
「申し訳ありませんでした」
「なんで相馬が謝るの?」
「俺が余計な提案をしたせいで、隊長を不快な気分にさせてしまったので」
横目で見れば、相馬は本気で責任を感じているらしく、まるで自分が失敗したかのような顔をしていた。
そんな顔をされると、僕の方がかえって申し訳なくなる。
「やめてくれる?相馬のせいじゃないし、むしろ僕の方こそごめん。折角こんな遠くまで一緒に来てくれたのにね」
「……いいえ。俺は隊長のおそばにいるのが務めです。どこに行かれる時も、それはこれから先も変わりません。隊長が望んでくださるなら、俺はどこまでもお供します」
相変わらず、真面目な声だった。
迷いもなく、当然のことを告げるような声音を聞いて、余計胸が痛くなる。
「ありがとう。相馬には本当に感謝してるよ。それに、今日色々わかって良かったと思ってるんだ」
セラ嬢との最後のやり取りは手紙だった。
僕からの手紙は全部読んでいたと書かれていた割に、最後の手紙にそれについての返答はなく、一方的に関係を終わらせるための言葉が並べられていただけだった。
あまりにも突然で納得できなくて、僕はずっと心のどこかで疑っている部分があったのかもしれない。
誰かに書かされたのかもしれない。
本心ではなかったのかもしれないし、何か事情があったのかもしれない。
そんな都合の良い可能性ばかり探していた。
でも今日、セラ嬢自身の口から聞いてしまった以上、疑いようがない。
僕とのことを忘れたい、思い出したくないと言ったその言葉は、どんな手紙よりも残酷で、都合の良い可能性すら握りつぶすものだった。
だからようやく僕は理解した。
僕は思っていた以上に嫌われていたんだって。
「さすがにあそこまで言われたら、諦めるよ。諦めざるを得ないしね」
乾いた笑いと共にそう呟くと、相馬は苦しそうに眉を寄せた。
「本当に諦められるんですか?」
「さあ。でも諦めるしかないんじゃない?嫌がっている相手を追いかけ続けるのは、ただの迷惑でしかないだろうし」
「ですが隊長は、まだセラ嬢を」
「好きだよ」
相馬の言葉を遮るように答えると、彼は息を呑んだ。
僕自身も少し笑ってしまう。
笑える話ではないのに。
「困るよね。あんなにはっきり拒絶されたのに、まだ好きなんだから」
「隊長……」
そう言いながらも、十年近く好きだったんだ。
明日になったら綺麗さっぱり忘れました、なんて都合よくはいかない。
本当は、苦しくて情けなくて、今すぐ全部投げ出してしまいたいくらいだった。
そして、その感情を余計に掻き乱したのが王太子だった。
聞こえてきた会話だけであの男がセラ嬢に特別な好意を抱いていることは嫌でも伝わってきたし、はじめ君との話まで耳に入ってしまえば、考えたくもない想像が勝手に頭を巡り始める。
もし殿下やはじめ君が彼女を望んだら。
もし誰か他の男がセラ嬢の隣に立ち、その未来を当たり前のように手に入れたら。
そんな考えが浮かんだ途端、無意識に手綱を握る手に力が入り、抑えきれない怒りが脳内に渦巻いていることを認めざるを得なかった。
あの子と将来を約束したのは僕だった。
あの子の隣にいる未来を信じていたのも僕だった。
それを突然引き離され、どうして何事もなかったように他の男に譲らなければならないんだろう。
そのやりきれなさは、どれだけ理性で押さえ込もうとしても簡単には消えてくれるものではなかった。
僕が諦めた先で、別の男が何も知らない顔で彼女の隣に座るのかと思うと、どうしようもない衝動が込み上げてくる。
それは嫉妬という言葉では足りない、長い年月をかけて蓄積した執着だった。
「まあ……でも、心配しなくても大丈夫だよ。好きだからってどうにかなる問題じゃないってもうわかってるから」
相馬にはそう告げる。
いつも通りの声で、いつも通りの笑顔で。
けれど沈殿した愛情と、手放せない未練と、取り戻したいという醜い欲望が絡み合い、自分でも嫌になるほど心が重くなっているのを感じずにはいられなかった。
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