9

数年ぶりにその姿を目にしてしたあの日から、僕は頻繁にセラ嬢の夢を見るようになった。
以前は幼い頃のままの姿で現れていた彼女が、最近では成長した姿で夢の中にやって来る。
夢の中のセラ嬢はまるで僕達の間に何一つ悲しい出来事などなかったかのように、僕の手を取り嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を見て胸の奥は温かく満たされるのに、目が覚めた瞬間、その温もりは容赦なく奪われてしまうから、そんな日に迎える朝は一番嫌いだった。
夢の中では隣にいた彼女が、現実ではどこにもいないんだって思い知らされるから。


「隊長、起きてください。ヴェルメル閣下がお越しですよ」 


肩を揺さぶられ、無理やり意識を引き戻される。
耳元で聞こえた相馬の声に、僕はうっすら目を開けた。


「父上が?なんでさ、約束なんてしてなかったよね」

「この後この近くで所用がおありだそうです。その前に少し立ち寄られたと。詳しいことは伺っていませんが、とにかくお待たせするわけにもいきませんので、急いで準備してください」


僕は大きく息を吐きながら身体を起こす。
昨晩は深夜過ぎまで任務があり、眠れたのは空が白み始める頃だったから、せめてあと数時間くらいは寝かせてほしかった。
それに何よりセラ嬢の夢を見ていたのに、最悪な邪魔が入ったものだと思いながら身支度を整えた。


「隊長とお二人でお話があるそうなので、俺は向こうで待機しています。何かありましたらお呼びください」

「はいはい」


適当に返事をしながら相馬の後について行くと、案内されたのは公爵邸の来賓室の一つだった。
気が重いまま扉を叩いて中へ入ると、既に席についていた父が、いつものように笑み一つ浮かべない顔で僕を見つめた。


「お久しぶりです、父上」

「こんな時間まで寝ているとは、随分と偉くなったものだな」

「昨晩は深夜まで任務で外に出ていたので、就寝したのは明け方なんですよ」


にこやかに返しながら、よくも睡眠を邪魔してくれましたねという嫌味を少しだけ混ぜる。
けれど父は意に介した様子もなく、ティーカップを静かにソーサーに戻した。


「帝国の剣としての責務は果たしているようだな」

「お陰様で。父上から引き継いだ役目ですから、全力で務めさせていただいていますよ」

「歯の浮くような御託はいい。もっとも、女共はお前のその胡散臭い笑みに簡単に騙されているようだがな」


結局その話かと内心で顔を顰める。
父がわざわざ訪ねてきた時点で嫌な予感はしていたけど、やっぱり予想通りだった。


「これだけ浮名を流しているのだ。将来を共にする相手の一人や二人はいるのだろうな」

「いえ、残念ながらいませんね。どなたも決め手に欠けると言いますか。探してはいるんですけどね」


嘘だった。
探す気なんて最初からない。
相手のことを深く知ろうとも思わないまま関係を持ち、それで終わる。
そんなことを繰り返している自分が、誰かと結婚する未来なんて想像できなかった。
恐らく父もそれを理解しているのだろう。
眉間に深い皺を刻みながら、低い声で言った。


「よく言えたものだ。お前はアルディオン公爵家を一代で潰す気か?」

「そのようなつもりはありませんよ」

「ならば当主としての自覚を持ち、今年度中に身を固めろ。これは命令だ」


その声音には明らかな苛立ちが滲んでいる。
でもあまりにも頭ごなしな命令に、思わず苦笑が漏れた。


「結婚はしません。ですが、当主としての役割は果たすつもりではいますよ」

「結婚もせずに、どう果たすというのだ」

「今、アルディオン公爵家の騎士団では新たな騎士を育成中です。僕の下で働く以上、生半可な覚悟では務まりません。どんな汚れ仕事でも引き受ける根性があり、なおかつ腕の立つ者を優先して採用しています。ですから出自は関係ありません」


実際、相馬や三木は決して恵まれた生まれではないものの、負けん気が強く、剣の腕も確かだ。
苦労を知っている者ほど、一度与えられた居場所を守ろうとする。
だからこそ忠誠心も強いし、のし上がろうとする気概もある。
現在のアルディオン騎士団には貴族出身者もいれば平民出身者もいるし、中には親も知らず貧民街で育った者達もいた。
けれど実力があるなら関係ない。
必要なのは血筋ではなく力だ。


「ですから将来性のある子を見つけて養子に迎えようと思っているんですよね。そうすれば僕が無理に結婚しなくてもアルディオン公爵家は存続できますし」


僕がそう告げた直後、父の表情が目に見えて険しくなった。
静かに置かれたはずのティーカップが、ソーサーの上で小さく音を立てる。
その僅かな音だけで、父が機嫌を損ねたことは十分に伝わった。


「本気で言っているのか」

「ええ。合理的だと思いますけど」

「合理的だと?お前は当主というものを何だと思っているのだ」

「家を存続させる責任者でしょう」

「それだけではない。確かに私はヴェルメル大公家の人間だ。先祖代々受け継がれてきた大公家を継ぎ、その責務を果たしてきた。だがお前は違う。アルディオン公爵位は、お前が自らの功績によって皇帝陛下から拝命したものだ。代々受け継がれてきた家ではなく、お前自身が始まりなのだ。そうにも関わらず、まだ何も始まってすらいない家をお前は最初から他人に譲るつもりでいるのか?」


その言葉に僕か僅かに目を細めると、父は続けた。


「ヴェルメル大公家がやむを得ない事情で仮に養子を迎えたとしても、それまでに積み重ねてきた歴史も、人との繋がりも、受け継がれてきた責任も存在する。だがアルディオンが養子を迎えることは、代々続く家が養子を迎えるのとは意味が違う。最初の当主が、自分の子を残す努力すら放棄し、最初から養子に任せるなど笑い話にもならん。家を築こうともせず、ただ与えられた爵位を管理しているだけの人間に、従う者がいると思うのか?」


責任から逃げることを何より嫌う、父らしい考え方だと思う。
だから僕の考えを認めるはずがなかった。


「総司、お前はまだ十八だ。年端も行かない小僧が、自分の人生の全てを決めつけるな。私がお前くらいの頃など、自分が大公になることすら現実味がなかった。だが人は変わる。立場も変わる。守るものも増える。それを知りもしないうちから、自分は結婚しない、子を持たぬと決めつけていることが気に入らんのだ」


父の言っていることは理解できた。
家を残し、次代へ繋ぎ、繁栄させる、それは貴族なら誰もが当然のように背負う責務だ。
でも、納得はできなかった。
僕の中にはどうしても拭えない感情がある。
それは十七年間過ごしたヴェルメルでの日々だった。

衣食住に困ることもなく、教育も受けさせてもらったけど、その全てが僕という人間のためだったかと問われれば違う。
僕はいつだって将来ヴェルメルを支えるための駒であり、利用価値のある後継候補であり、大公家の利益を生み出す存在だった。

だからこそ、皇帝から公爵位を与えられ、自分自身の家を持った時に決めたことがある。
アルディオンだけは違う場所にしようと。
誰かを縛り付けるための家ではなく、居場所になる家にしようと。
それなのに、結婚して子を作れ、家のために生きろ。
その言葉は、僕には昔と何もかわらないように聞こえた。


「でしたら僕にどうしろと言うんです?愛情すら持てない相手と結婚して、子供を作れと?申し訳ないですが、好きでもない相手との間に子供を作るためだけの結婚なんて御免です。無理に結婚をさせられたとしても、僕は夜の伽を放棄しますよ」

「なんだと?」

「そもそも僕は不思議なんですよ。どうして皆そんなに簡単に割り切れるんです?愛してもいない相手と結婚して、家のためだからと子供を作って、その子供には次はお前の番だと言う。そんなことを何代も繰り返して、一体何が残るんでしょうね。少なくとも僕はそんな縛られた人生は嫌ですね」


クラウス兄上がアルディオンを訪れた時から、ずっと頭の片隅にあった考えだった。
父が求めているのが後継者ならば、その手段そのものを拒絶すればいい。
結婚しても子を作る気はないと断言すれば、少なくとも早急に縁談を進められることはないだろうという打算も含まれていた。

けれど父は途中で口を挟むことなく最後まで聞き終えると、なぜか僅かに口元を緩めた。
それは嘲笑とも違う、どこか面白いものを見るような笑みだった。
その意図が分からず眉を顰めていると、父は静かに問いかける。


「つまりお前は、子を成すためだけに興味も持てぬ女と生涯を共にする気はない、そう言いたいのだな」

「最初からそう言ってるじゃないですか」

「ならば逆に聞こう。もし、お前がどうしても手に入れたいと願うものがあり、その願いを叶えるためには有力貴族との婚姻によって盤石な後ろ盾を得なければならないとしたらどうする。アルディオン公爵としての影響力を確固たるものにすることで、その望みを掴めるとしても、お前は同じ答えを返すのか」


何を言われているのか、理解できなかった。
でも、どうしても手に入れたいものという言葉を聞いた時、脳裏に浮かんだのはただ一人だった。
でも父だってそれが絶対に叶わないことだと知っているはずだ。
だからこそ、父が何を言いたいのか分からなかった。


「ええ。僕はしたくもない結婚をしてまで、欲しいものなんてありませんよ。帝国の剣になった今は、今の職務を全うすること以外に興味はありません」

「ほう。ならば、もう諦めたのか。アストリアのご令嬢を」

「……え?」

「アンナが言っていた通りならば、お前も私と同じく、一度欲しいと思ったものは容易に手放せぬ性質だと思っていたが、残念ながら違ったらしい。お前が本気で望むのであれば、セラ嬢との縁について私も力を貸すつもりでいたが、既に興味を失ったというのならそれも必要あるまい」


父はそれだけ言うと、まるで雑談でも終えたかのような顔で席を立った。
セラ嬢との縁、父は確かにそう言った。
それなのに何の説明もなく帰ろうとするものだから、気付けば僕は反射的に立ち上がり、その肩を掴んでいた。
父を引き止めるなんて滅多にないことだったけど、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。


「父上、今の話はどういう意味です?」


振り返った父は僕の手と顔を見比べると、どこか面白そうに眉を上げた。


「何のことだ?」

「とぼけないでください。セラ嬢との縁を取り持つと仰いましたよね」

「もう興味がないのではなかったのか」


あまりにも平然と言われて思わず眉を顰める。
明らかに分かっていて言っている。
昔から父はこうだった。
相手の本音が見えていても、それを自分から指摘することはせず、わざと遠回りな言い方をして反応を窺う。


「帝国の剣としての務め以外には興味がない、そう言ったのは確かに僕です。ですが、それは彼女のことを諦めたからではありません。どれだけ僕が切望したところで、叶うはずがないと思っていたからそう言ったまでです。実際は、違うんですか?」

「アストリアとの関係修復が難しいのは事実だ。だが、難しいことと不可能であることは別の話だ」

「つまり……父上は可能だと?」

「可能か不可能かで問われれば、可能だろうな」


その答えを聞き、胸の奥で何かが大きく脈打った。
今さら希望を抱いたところで、また傷付くだけかもしれない。
それでも、一度消えかけた灯火に再び火が点ってしまえば、それを見ないふりなんて出来る筈もなかった。
父はそんな僕の様子を見透かしているかのように言葉を続けた。


「もっとも、その可能性は黙っていても転がり込んでくるようなものではない。お前自身が本気で望み、そのために払うべき代償からも目を背けず、掴み取る覚悟を持った時に初めて手の届くものだ。もしその覚悟があるのであれば、お前にとって決して無意味ではない話を聞かせてやってもいいが、どうする?」


その答えは考えるまでもなかった。
何年も忘れられず、夢にまで見るほど求め続けてきた相手なんだ。
今さら躊躇う理由も迷う理由もなかった。


「彼女との未来を掴める可能性があるのなら、僕はどんなことでもします」


父は腕を組んだまま、じっと僕を見つめていた。
そして少しだけ探るような口調で問い返す。


「それが正攻法でなくてもか?」


その言葉に驚きはなかったし、むしろ予想していた。
正攻法だけでどうにかなるのなら、ここまで長い年月を費やしていない。
あの日以来、現実は何一つ僕に味方なんてしてくれなかったんだから。

それでも僕は他の誰かにセラ嬢を取られることだけは許せなそうにない。
彼女が僕を忘れ、別の男を選ぶ未来だけは、どうしても受け入れられそうになかった。


「はい、構いません」


その返答を聞くと、父の口元に今日初めて心からの笑みが浮かぶ。
それはどこか満足そうで、まるで僕がようやく望んでいた答えを口にしたとでも言いたげな表情だった。


「ならば今週末、ヴェルメルの屋敷に来い」

「ヴェルメルに?」

「ああ。その時に詳しい話をしよう」

「今日は聞かせて頂けないのでしょうか?」


焦りが滲んでいたのだろう、父は小さく笑う。


「そう焦るな」


そう言って懐中時計を取り出すと、一瞥して元の場所へ戻した。


「私はこの後、陛下との約束がある。それに、お前の意思が固まった以上はこちらも準備が必要だ」

「準備?」

「そうだ。この件はお前一人の問題ではないからな。まずは陛下にも話を通しておかねばならん」


話の規模が思っていた以上に大きいことを知り、その言葉に胸がざわつく。
けれど、もう立ち止まる気はなかった。


「それと、この件は他言無用だ。誰にも話すな。もちろん、お前の部下にもだ」

「わかりました」

「では週末に」


それだけ告げて父は部屋を後にした。
扉が閉まる音が静かに響く中、僕は見送ることすら忘れてその場に立ち尽くしていた。

頭の中では先ほどの会話が何度も繰り返されている。
あまりにも現実味がなくて、まだ信じ切れないのに、胸の鼓動だけは誤魔化せなかった。
抑えようとしても抑えきれない高揚が身体の奥から湧き上がり、気付けば今週末が待ち遠しくて仕方なくなっている。
何年も閉ざされていたはずの未来に、ようやく小さな光が差し込んだ気がしていた。

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