2
十六歳の誕生日を迎える少し前のことだった。
もう前を向こうと何度も自分に言い聞かせているのに、それでも私は帝国から届く定期報を手に取ることをやめられなかった。
頁をめくるたびに胸が痛むと分かっていても、もしかしたらどこかに総司様の名前があるのではないかと探してしまう自分がいて、その日もまた、震える指先で紙面を追っていた。
そして私は知った。
総司様がご結婚されたことを。
お相手は、私が総司様とお会いしていた頃から婚約間近だと噂されていたローゼンガルド家のご令嬢だった。
記事には、華やかな式典の様子や、並んで立つお二人の姿がどれほど絵になるかが美しい言葉で綴られていて、その一文一文がまるで棘のように胸に刺さる。
幸せそうなお二人の姿を想像しただけで息が苦しくなり、込み上げてくる涙をどうにか堪えようと唇を噛み締めた。
それでも。
『羨ましいな……』
零れ落ちた呟きと一緒に、一粒の涙がぽたりと紙面へ落ちる。
慌てて拭ってみても、次から次へと視界は滲み、胸の奥に広がる悲しみは少しも薄れてはくれなかった。
私がずっと憧れていた場所。
総司様の隣。
白いウェディングドレスを纏い、ヴァージンロードを歩いて、その隣へ辿り着くことが幼い頃からの夢だった。
ふと、昔の記憶が胸の奥から浮かび上がる。
奥様を何人も迎えたりしないかと不安になって尋ねた私に、総司様は困ったように笑いながら「セラ嬢だけだよ」と言ってくださった。
あの時は本当に嬉しくて、その言葉だけでどんな不安も消えてしまったのに。
十七歳になってすぐ迎えに来てくださるという約束も、私が縋るように信じ続けていた未来も、気付けば遠い昔の幻になっていた。
そして私を驚かせたのは、それだけではなかった。
数ヶ月後に届いた定期報には、総司様が新たに側室を迎えられたという記事が掲載されていた。
さらにその後、もうお一人。
軍事同盟の強化に繋がっただの、公爵家の発言力が増しただの、政治的な評価が紙面を賑わせていたけど、私の目にはそんな言葉はほとんど入ってこなかった。
ただ総司様がまた一つ遠い場所へ行ってしまったような気がして。
もう二度と手の届かない方になってしまわれたのだと、改めて思い知らされただけだった
「アルディオン公爵は相当な女好きなんだな。結婚して一年で側室を二人も迎えるなんて、俺の知る限りでもそうそう聞く話じゃないぞ」
総司様の結婚を知ってから約一年後。
私は王宮に招待され、千鶴様と薫様、そしてはじめと四人で夕食を囲んでいた。
煌びやかな食堂には柔らかな灯りが満ち、磨き上げられたグラスには赤いワインが揺れている。
薫様はかなり召し上がられているらしく、頬がほんのり赤く染まっていた。
「あの方の話は今しないで。セラさんだって聞きたくないでしょう」
「殿下は然程酒に強くないのだな」
千鶴様が呆れたようにため息をつきながら薫様を睨み、はじめは真面目な顔でそう告げる。
すると薫様は不満そうに眉を寄せ、ワイングラスを軽く揺らした。
「うるさいな。そもそも俺は昔から不思議だったんだ。なんでよりによってセラはあんな奴と婚約したんだってね。帝国中の令嬢が憧れるような男だとか言われてるけど、俺にはさっぱり分からない」
そう言いながら私をキッと睨みつける薫様の様子に、私は思わず目を瞬いた。
すると向かいに座るはじめまで、同じように目を丸くしている。
「……婚約、というのは?」
はじめの静かな問い掛けに、薫様は一瞬きょとんとした後、しまったという顔をした。
「ちょっと薫。酔い過ぎよ。余計なことばかり喋ってどうするの?」
「何が余計なんだ?」
「全部よ」
『ふふっ』
思わず小さく笑ってしまうと、三人の視線が一斉にこちらに向いた。
「セラさん、ごめんなさいね」
『大丈夫ですよ。もうずいぶん昔のお話ですし、隠していたのも事情があっただけなので』
季節はいくつも巡り、幼かった私もいつの間にかこうしてワインを口にできる年齢になった。
少し前までなら、総司様のお名前を聞くだけで胸が締め付けられていたはずなのに、こうして皆と同じ席でその話題を口にできるようになったことを思えば、きっと私は前へ進めているんだろう。
そう思いたかった。
「セラと総司は婚約していたのか?」
はじめの問い掛けに、私はグラスをそっと置きながら頷いた。
『うん。話していなくてごめんね。軍事国同士の婚約だったから、当時は口外しないように言われていたの。正式に陛下から許可をいただいてから、薫様と千鶴様にもご報告させていただいたんだ』
「そうだったのか。まさか総司とそこまで深い間柄だったとは知らなかったが、そう思えば納得がいく。総司は毎年必ず、遠い北の地からセラに会いに来ていたようだったからな」
先月、大陸横断鉄道が開通したことで、各国の往来は以前とは比べものにならないほど便利になった。
今なら東部以外の国へ向かうのもずっと容易になったけど、当時は違う。
ヴェルメルからアストリアまでの道のりは果てしなく遠く、馬車で移動すれば何十日もの時間が必要だった。
それでも総司様は忙しい政務の合間を縫って、私に会うためだけにアストリアに来てくださっていた。
その事実を思い出すたびに、どうしても信じたくなってしまう。
総司様は私を大切に思ってくださっていたって。
あの時に向けられた優しさも、微笑みも、言葉も、全て本物だったんだって。
でも同時に、どれほどそう願ったところで変えられない現実もある。
総司様には今奥様がいて、お二人の側室も迎えられている。
それが今の総司様だった。
私がこの四年で変わったように、会えなかった時間の中で総司様もまた変わってしまったんだろう。
そう思うと胸の奥が少しだけ痛み、私は気付かれないように小さく息を吐き出した。
すると薫様が不機嫌そうにワイングラスを揺らした。
「あいつの話はやめよう。聞いているだけで気分が悪い」
「始めたのは薫でしょう?本当に馬鹿なの?」
「なんで俺が怒られるんだよ」
「余計なことを言うからよ」
「殿下は相変わらずのお方だな」
はじめの落ち着いた声に、薫様はますます不服そうな顔をした。
「斎藤までそっち側につくのか」
「事実を述べただけですが」
「まったく、最近冷たいな」
そんなやり取りに思わず笑みが零れる。
少し重くなっていた空気も和らぎ、薫様は気を取り直したように椅子に深く腰掛けた。
「そういえば、もうすぐだな」
『もうすぐ?』
「セラのデビュタントだよ」
そう言われて、私はぱちりと目を瞬いた。
成人を迎えた貴族の令嬢は、正式なデビュタントを経て初めて社交界に参加することが許される。
夜会に同席することはあっても、それはあくまで家族の付き添いであり、一人の淑女として認められているわけではない。
けれどデビュタントを終えれば正式に社交界の一員となり、夜会や舞踏会の招待を受け、貴族社会での交友関係を築いていくことになる。
『そうですね。考えてみたら少し緊張してきました』
「大丈夫よ。セラさんならすぐに皆に愛されるわ。デビュタントが終わったら、私がたくさん連れ回してあげるんだから」
千鶴様は楽しそうに笑って、可愛いらしく首を傾げた。
「王都の夜会はもちろんだけど、春の仮面舞踏会も素敵なのよ。顔を隠したまま踊るから、普段とは違う雰囲気でとても楽しいの。それから夏の湖畔で開かれる音楽祭や、秋の収穫祭の祝宴もあるし、冬には王宮主催の盛大な舞踏会もあるわ。今まで参加できなかった分、これからは一緒に色々な場所へ行きましょうね」
『嬉しいです。私、ずっと憧れていたので』
そう答えると、自然と心が弾んだ。
総司様との思い出ばかり見つめていたけど、私の未来にはまだ知らないことがたくさんある。
これから出会う人も、見る景色も、きっと数え切れないほどあるのだろう。
そんなことを考えていると、千鶴様がふっと意味深に微笑んだ。
「でも、セラさんが社交界に出たら大変でしょうね」
『大変?』
「だってセラさん、とても可愛らしいもの。正式にデビューしたら、きっと多くの男性からお声が掛かると思うわ」
『それはないですよ。それを言ったら千鶴様こそ、ルヴァンの薔薇姫って呼ばれているじゃないですか。男女問わず物凄く人気だと聞いていますし、私なんて全然敵いません』
千鶴様の美しさは東部だけに留まるものではなく、遠方の国々にまでその名が知れ渡っている。
実際に彼女を一目見たいという理由だけで王都を訪れる方がいると聞いたこともあった。
こうして向かい側に座っている今でさえ、その美貌には思わず見惚れてしまう。
柔らかな灯りに照らされた横顔はまるで絵画のように綺麗で、微笑み一つ取っても気品に満ちていて、同じ女性である私ですらため息が零れそうになるほどだった。
うっとりと見つめていると、不意に隣から手を取られた。
驚いて横を見ると、薫様が当然のような顔をして私を見ている。
「セラ、テラスに行こう」
『え?今ですか?』
「ああ、今だ」
そう言うと薫様は私の手を軽く引きながら、残る二人に視線を向けた。
「少し席を外しても構わないよな?」
その問い掛けに、千鶴様は意味ありげにくすくすと笑い、はじめは呆れたような表情を浮かべながらも頷いた。
「ああ。殿下は止めても聞かないからな」
「薫って本当に自由なんだから」
「よし、許可はもらったぞ」
満足そうに頷いた薫様は、テーブルの上にあった私のグラスとご自身のグラスを手に取ると、「行こう」と優しく微笑んだ。
そのまま彼についていくと、控えていた従者が恭しくテラスへの扉を開いてくれる。
外に足を踏み出すと、初夏の夜風が頬を撫でた。
心地よく冷えた風はとても気持ちが良くて、夜空には無数の星々が瞬いている。
王宮の庭園には柔らかな灯りが点され、遠くでは噴水の水音が静かに響いていた。
薫様はテラスに備えられた円卓へグラスを置くと、胸元から取り出した白いハンカチを椅子の座面へ丁寧に敷いた。
それから一歩下がり、王太子らしい優雅な所作で腰を折る。
片手を背中へ添え、もう片方の手を私へ差し出す姿は、舞踏会で令嬢をエスコートする貴公子そのものだった。
「セラ嬢、どうぞこちらへ」
『ふふ、ありがとうございます』
普段は呼び捨てにしているのに、こういう時だけお芝居をしているみたいに振る舞うから少し笑ってしまう。
けれどその様子がどこか可愛らしくて、私は差し出された手にそっと指先を重ねた。
薫様は満足そうに微笑みながら私を席に導いてくれる。
私も出来る限り優雅に振る舞うと薫様までくすりと笑い、今の私達はまるで幼い子供がおままごとをしているみたい。
そう思った時、不意に遠い記憶が浮かび上がってきた。
幼い頃の私は、よく総司様を捕まえておままごとのお相手を付き合ってもらっていた。
今思えば年上の男の子に何をさせていたのだろうと恥ずかしくなるけど、当時の私はそんなことを少しも気にしていなかった。
『総司様は旦那様役ですからね』
「ええ?また?」
『はい。おままごとが終わったら、また結婚式ごっこもしまょう?』
そんなやり取りを何度繰り返しただろう。
お茶会ごっこをしたこともあったし、お買い物ごっこをしたこともあった。
結婚式ごっこは絵本の台詞まで総司様に覚えてもらって、絵本通りに実演してもらっていた気がする。
今になって思い返せば随分と無茶なお願いもしていたと思うけど、総司様は一度も嫌な顔をなさらなかった。
困ったように笑いながらも、いつも私のお願いを聞いてくださって、私が望む通りに旦那様役を演じてくださっていた。
優しくて、頼りになって、いつも私を喜ばせてくれて。
だから私は、あの頃からずっと総司様が大好きだった。
懐かしい記憶に胸が少しだけ温かく、そして切なくなったその時。
「セラはさ」
不意に聞こえた声に、意識が現実に引き戻される。
見ると、薫様が隣の席に腰掛けながら私を見つめていた。
「前に言ってたよね。十七のデビュタントを迎えるまでは誰とも婚約したくないって。まずは学業に専念したいし、一人前の淑女になってから色々考えたいってさ」
そうだった。
総司様との婚約がなくなった後、十七歳でデビュタントを迎えるまでは誰とも婚約しないと私は言っていた。
でもその本当の理由は、総司様との約束を信じていたから。
婚約が破棄された後も、総司様が十七歳のデビュタントを迎えてすぐに迎えに来てくださるという約束に縋っていたからだった。
総司様の噂を聞いて、こうして他の方とも結婚された今、さすがに私もこの約束は信じていない。
今は叶わなかった願いとして心に残り続けているだけになった。
『そうですね』
「でも、そのデビュタントももうすぐだ。そろそろ将来について考えられるようになったのか?」
その声音にはどこか真剣な響きが混じっていて、私は自然と背筋を伸ばした。
先ほどまでの冗談めいた空気とは少し違う。
薫様はワイングラスに手を伸ばしながらも、その瞳だけは真っ直ぐに私を見つめ続けていた。
考えてみれば、薫様や千鶴様は以前から折に触れて私の将来について尋ねてくださることが多かった。
それはきっと、お二人が私を気に掛けてくださっているからでもあるんだろうけど、同時にアストリア家の立場とも無関係ではないのだと思う。
ルヴァン王国の管轄下にあるアストリア公爵家。
その後継者である私は、個人の幸せだけを考えて生きていける立場ではない。
王国にとって有益な縁談や領地にとって価値のある結び付き。
そうしたものを求められる可能性は十分にあるし、むしろそれが当然だと思う。
総司様との婚約がなくなった今、私は誰とも婚約していない公爵令嬢として、将来を見据えた選択をしなければならない。
もし国王陛下が王国のために必要な縁談があるとお考えなら、それを受け入れる覚悟も持たなければならなかった。
私は静かに息を整え、薫様へ微笑みを向けた。
『はい。考えられるようになりました』
「そうか」
『ですから、もし国王陛下が私に結ぶべきご縁があるとお考えなら、仰っていただいて構いませんよ』
その言葉を口にすると、薫様の表情が僅かに固まった。
そして何故か目を見開いたまま、しばらく私を見つめている。
「……え、それは本当?」
『勿論です。むしろ今まで私のわがままで待っていただいていたことを、ありがたく思っています。総司様の件では皆様にたくさんご心配をお掛けしてしまいましたし……でも、私はもう大丈夫です』
完全に吹っ切れたわけではない。
忘れられたわけでもない。
今だって総司様のお名前を聞けば胸は痛むし、ふとした瞬間に思い出してしまう。
でもそれと前に進むことは別だ。
私はアストリア家の後継者であり、領地を背負う立場だから。
『前に進む気持ちはもう固まっていますから』
そう告げると、安心されると思ったのに、何故か薫様は逆に少し緊張したような顔をしていた。
まるで予想していなかった答えを聞いたみたいに。
私は理由が分からず、小首を傾げながら彼を見つめる。
すると薫様は視線を逸らし、片手で額を押さえた。
「いや……まさか今夜そんなことを言ってもらえるとは思ってなかったから、少し驚いてる」
苦笑しながら答える薫様に、私はくすりと笑った。
『でも、もうすぐデビュタントですし、気持ちを一新して新しい毎日を楽しんでいきたいなって思っているんです』
「新しい毎日?」
『はい。千鶴様が夜会や舞踏会にもたくさん連れて行ってくださるって仰っていましたし、今まで参加できなかった行事にも行けるようになりますよね。私、とても楽しみなんです』
すると薫様は何とも言えない顔になった。
「確かに楽しみかもしれないけど、そういうのはほどほどにしてほしいんだけど」
『ふふ、分かっています。別に男性遊びをしようと思っているわけではありませんよ』
「それは本当だよね?」
『はい、多分?』
わざと少しだけ悪戯っぽく答えてみせると、薫様の眉がぴくりと動いた。
「多分だって?」
『ふふっ』
「いや、笑い事じゃないだろ」
『冗談ですよ』
「全然冗談に聞こえないんだけど」
そう言った直後、薫様が急に突然立ち上がったので、私は驚いて目を瞬く。
「やっぱり駄目だ。このまま引き延ばすのは絶対良くない」
『何のお話ですか?』
「セラ、少しだけここで待ってて」
薫様は何かを決意したような顔で私を見下ろした。
「ちょっと庭に行ってくる。すぐ戻るから」
『えっ、薫様』
呼び止める間もなく、薫様は足早にテラスを離れていってしまうから、私は呆然とその背中を見送った。
夜の庭園に消えていく後ろ姿を見ながら、何をしに行かれたのだろうと首を傾げる。
けれどワインのせいか身体はほんのり温かく、初夏の風も心地良かった。
深く追い掛ける気にもなれず、私は椅子に身を預けながら夜空を見上げた。
『ふう……』
夜空いっぱいに散りばめられた星々は静かに瞬きながら庭園を淡く照らしていて、その柔らかな光に包まれていると、今の私は恵まれているのだと自然と思えた。
優しいお父様がいて、温かく見守ってくださる方々がいて、何不自由なく穏やかな日々を送ることができている。
お母様を失った悲しみだけは今でも胸の奥に残り続けているけど、それでも以前のように涙ばかり流すことはなくなり、その記憶ごと大切に抱きしめながら歩いていけるようになっていた。
大きな悩みもなく、この先もきっと私はこんなふうに穏やかな毎日を重ねていくのだろう。
そう思っているのに、胸のどこかにはいつも埋まらない空白があった。
満たされているはずなのに、どうしても満たされない場所。
幸せだと思うたび、その空白だけが余計にはっきりと形を持って浮かび上がる。
もしも総司様がここにいてくださったなら……そんなことを考えてしまうのは、もうずっと前からの癖だった。
今頃は何をなさっているんだろう。
お元気でいらっしゃるのだろうか。
そんな問いを心の中で繰り返すことが、いつの間にか当たり前になってしまっていた。
けれど定期報に掲載される総司様の記事はいつも華やかで、輝かしい功績や順風満帆なご活躍ぶりが語られたものばかり。
そのお姿はまるで誰もが羨むような理想の人生を歩んでいるように見えた。
だから総司様は、きっと今幸せな生活を送っている筈。
総司様が幸せでいてくださるなら、私はそれでいい。
そう自分に言い聞かせるように、一人静かに夜空を見上げていた。
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