3

静かな夜の庭園前。
不意に足音が近づいてきて、私はゆっくり夜空から下に視線を向けた。


「悪い、待たせた」

『いいえ。お庭で何をなされていたんですか?』


不思議に思って尋ねたけど、薫様はすぐには答えなかった。
むしろ何かを決意したような真剣な表情で私の前まで歩み寄ると、そのまま静かに片膝をつくから、私は思わず目を見開いた。
王太子である薫様が、月明かりの下で私の前に跪いている。
その光景だけでも十分信じられないのに、薫様が差し出した手の中には、小さな花束があった。

それは王宮の庭園に咲く薔薇を束ねたものだった。
満開を迎えた薄紅色の薔薇と、朝焼けのような淡い珊瑚色の薔薇。
そして月光を浴びて真珠のように輝く白薔薇。
異なる色彩なのに綺麗に調和していて、まるで夜空の光をそのまま束ねたような花束だった。

けれどよく見ると、それは正式な花束ではなかった。
花束を束ねるための装飾もなければ、専用のリボンもない。
代わりに細くしなやかな蔓が巧みに編み込まれ、薫様ご自身の手で形作ってくださったのだろう。
そう考えると心が温かくなったけど、私の目を奪ったのは薔薇だけではなかった。


『薫様……っ』


私は思わず息を呑んだ。
花束を持つ薫様の手に、小さな傷がいくつもついていたから。
いつも綺麗な白い指先には細い切り傷が走り、手のひらにも赤い筋が幾つか残っている。
場所によっては血が滲んでいて、乾ききっていない傷も見えた。


『お怪我をなさっているじゃありませんか』


慌ててそう言うと、薫様は少しだけ照れたように笑った。


「庭園の薔薇を摘んでいたんだ。思ったより棘が多くてね」

『そんな、素手では危ないです。侍従の方にお願いすればよかったのに……』

「それだと意味がないだろ」


そう言って薫様は花束へ視線を落とした。


「セラに渡すものは、自分で選びたかった。セラに似合う花を探していたら思った以上に時間がかかってしまったけど、棘も全部取っておきたかったからな」


王太子である薫様なら、人に命じるだけでどんな花束でも用意できたはずだった。
それなのに、ご自身で庭園に降りて花を摘み、一輪ずつ棘を取り除いてくださった。
それがどれほど特別なことなのかは私には分かる。


『どうして、そこまで……』


小さく呟くと、薫様は花束を持ったまま私を見上げた。
その瞳は真っ直ぐでいつになく真剣だった。


「俺はさ、ずっと前から決めていたことがあったんだ。セラが将来を考えられるようになったら、その時はちゃんと伝えようと思ってた。だから聞いてくれる?」


熱を帯びた瞳に見つめられ、鼓動が速くなっていく。
息を飲んで薫様を見つめていると、風に乗って彼の声が耳に届いた。


「俺はセラが好きだ。子供の頃からずっと好きだったし、今もこの気持ちは変わっていない。誰よりも大事に思ってる」


花束を差し出している薫様の綺麗な手。
その手が痛々しいほど赤く染まっているのを見ていると、この花束に込められた想いの大きさが胸に伝わってくるようだった。


「だから、俺と結婚してほしい。将来を見据えて俺と婚約してくれないか?」


その言葉を聞いて、私はすぐに返事をすることができなかった。
心臓ばかりが落ち着きを失い、鼓動が耳の奥で鳴り響いている。
薫様が私を想ってくれていたなんて知らなかったのに、プロポーズまで。
私には身に余るお話だったから、色々な感情が押し寄せて言葉が見つからなかった。

でもふと視線を落とした先で、花束を持つ薫様の指先がほんの僅かに震えていることに気付いた。
いつも自信に満ちていて、誰よりも堂々としていて、どんな場面でも余裕を失わない薫様が、今はこんなにも緊張している。
私の返事を待ちながら、真剣に想いを伝えてくださっている。
そのことに気付いた時、私の心までも震えて胸の奥に温かな温もりが広がった。


『ありがとうございます、薫様』


そっと伸ばした指先が彼の手に触れた時、薫様の身体が僅かに強張った気がした。
私が大切に花束を受け取ると、私を見つめる彼の瞳は月明かりの下で揺らいでいた。


『とても嬉しいです。私、手作りの花束をいただいたのは初めてなんです』


花束に顔を近付けると、薔薇の優しい香りがふわりと漂った。
甘すぎず華やかで、どこか上品で穏やかな香り。
まるで薫様ご自身みたいだと思った。

今まで薫様が私に優しくしてくださったこと。
落ち込んでいる時に気遣ってくださったこと。
いつも当たり前のように隣にいてくださったこと。
そして私の気持ちを尊重してくださったからこそ何も言わずに待っていてくれた。
そして今日、ご自身の手を傷だらけにしながら、こうして真っ直ぐな想いを伝えてくださった。
その全てに理由があったことを知った今、その優しさや誠実さが、私の心を少しずつ温かい色に染めていくようだった。

薫様に抱いている想いは、総司様に抱いていた憧れや恋心とはまだ違うのかもしれない。
でも薫様は、私にとってとても大切な人だった。
信頼していて、尊敬していて、一緒にいると安心できる。
そんな方が、自分との未来を真剣に望んでくださっている。
それなら私も、その想いに応えたいと思った。
断る理由なんて、どこにも見つからない。
だから返事をしようと唇を開きかけた時だった。


「突然ごめん。別に、今すぐ答えをくれとは言わない。でも俺は、セラと一緒に未来を歩いていきたいと思っているから……」


先ほどまで真っ直ぐに想いを告げてくださっていた薫様は、今になって少しだけ不安そうな表情を浮かべていた。
月明かりの下で見つめるその瞳には、王太子としての威厳ではなく、一人の男性としての切実な願いが宿っている。
傷だらけになった手や、私のためだけに摘まれた薔薇。
私の気持ちを尊重して、何年も待ち続けてくださった優しさ。
その全てが私にとってとても大切で、胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。


『私で良ければ……これから先も、ずっとお隣にいさせてください』


薫様の瞳が大きく揺れる。


『まだ知らないこともたくさんありますし、未熟なところもあると思います。でも、薫様が望んでくださるなら、私も薫様と一緒に未来を歩いていきたいです』


しばらくの沈黙が流れた。
夜風が薔薇の花弁を揺らし、遠くから噴水の音だけが聞こえてくる。


「……え?」


ようやく零れた声は拍子抜けするほど小さかった。


「それは……俺と結婚してくれるってこと?」

『はい』

「本当に?」

『本当です』

「いや、待ってくれ。俺と婚約してくれるっていう意味で受け取ってもいいんだよな?」

『はい。よろしくお願いします』


私の言葉を聞いた後、薫様は大きく息を吐いて、がくんとその場でしゃがみ込む。
普段の彼なら絶対にしない行為なのに、安堵したような横顔は、長い間胸に抱えていたものがようやくほどけたようにも見えた。


「そうか……良かった……」


小さく呟いた声は震えていた。
私に向けられたその瞳は、少し潤んでいるようにさえ見えた。


「俺は今日、自分の気持ちを伝えるだけのつもりだったんだ。セラに考える時間が必要なら待つつもりだったし、今はまだ無理だと言われても仕方ないと思っていた。だから正直、こんなに早く受け入れてもらえるなんて思ってなかったから……」


月明かりに照らされた薫様の表情は、少し照れくさそうだった。


「俺は、セラが笑って受け入れてくれる未来を何度も想像していた。でも同時に、それは自分に都合のいい夢なんじゃないかとも思っていた。セラは優しいからさ。誰にでも分け隔てなく接するし、俺に向けてくれる笑顔も、特別なものなのか分からなかった」

『薫様……』

「だから何度も諦めようとも思った。でもお前を見るたびに無理だったんだ。嬉しそうに笑う顔も、困った時に少し眉を下げる癖も、誰かのために頑張り過ぎるところも、全部好きだったから。だから今、信じられないくらい嬉しい」


そう言うと、薫様は少しだけ笑った。


「俺は王太子だから、本当ならもっと堂々としていないといけないんだろうけど、駄目だな。セラのことになると全然余裕がない」


その言葉に思わず笑みが零れる。
すると薫様はそっと私の手を取った。
けれど棘で傷付いた箇所がいくつもあって、見ているだけで胸が痛む。


『こんなに怪我をなさって……傷が残ってしまわないか心配です』

「別に残っても構わないよ」

『どうしてですか?』

「今日のことを忘れたくないからだ」


薫様は私の手を包み込むように握った。


「セラが俺の想いを受け入れてくれたこの夜のことを、一生忘れたくない。それにセラが花束を受け取ってくれた時、凄く嬉しかったんだ」


月光を受ける薫様は本当に幸せそうに笑ってくださるから、その姿が愛おしくて、私は思わず小さく笑う。
すると薫様もつられるように微笑み、もう一度、今度は大切な宝物に触れるみたいに私の手を握り直した。


「ありがとう、セラ」


夜風が庭園を吹き抜け、薔薇の香りを静かに運んでくる。
見上げれば満月が優しく世界を照らしていて、その光の中で見つめる薫様の瞳は、これまで見たどんな時よりも柔らかく、温かな愛情に満ちていた。


「これから先、セラが俺を選んで良かったと思えるようにする。必ず幸せにするよ」


その言葉は誓いのようだった
静かに紡がれたその言葉は真っ直ぐ私の胸へ届き、私の視界は滲んでしまう。


『私、薫様がそんなふうに私のことを想ってくださっているなんて全然知らなくて……ずっと友人として大事にしてくださっているのだと思っていました』


掠れそうになる声でそう告げながら、私はこれまでの年月を思い返していた。
きっと私は、必死に総司様を想い続けていたのだと思う。
また会いたいと願って、届かない想いに泣いて、それでも諦めきれずに追い続けていた。
まるで魔法にかけられてしまったみたいに総司様しか見えなくて、その魔法が苦しさを生んでいると分かっていても、自分ではどうすることもできなかった。

だから気付かなかった。
こんなにも近くで、優しく見守ってくださる人がいたことに。
私が一人の人を長年想い続けたように、薫様もまた長い年月をかけて私を想い続けてくれていた。
だからこそ彼の言葉は、がんじがらめになって動けなくなっていた私の心を優しく抱き締めるように包み込んでくれたのだと思う。
私は涙を拭いながら、小さく微笑んだ。


『でも、薫様のお気持ちを聞いて、とても嬉しかったんです。他の誰かではなく、薫様だったから本当に嬉しかった。だから私も、薫様のお傍にいたいと思いました』


一度言葉を区切り、私は彼の手をそっと握り返した。


『私も、薫様が私を選んで良かったと思ってくださるように頑張ります。薫様をお支えしたいですし……これから一緒に幸せになりたいです』


薫様は驚いたように目を見開き、それから堪えきれないように笑った。


「それは困ったな」

『どうしてですか?』

「俺の方こそ、お前を支えたいと思っていたからだ」

『では、お互いに支え合えばいいのではありませんか?』


そう言うと、薫様は一瞬だけ呆気に取られたような顔をした後、心から可笑しそうに笑う。


「そうだな。それが一番かもしれない。辛い時も嬉しい時も、これからは一人じゃない」


その言葉に私は静かに頷いた。


『私もそう思います』


しばらくの間、私たちは何も言わずに寄り添っていた。
言葉はなくても不思議と淋しくなくて、繋いだ手から伝わる温もりだけで十分だった。

今日という日が終われば、また新しい朝が来る。
けれどその朝は、今までとは少し違うものになる気がしていた。
もう一人で過去を振り返るのではなく、隣には未来を共に歩いてくれる人がいる。
その幸せが胸いっぱいに広がり、私はそっと薫様の肩に寄り添った。
すると薫様は何も言わずに私の肩を抱き寄せ、その温かな腕の中で私は静かに目を閉じる。
薔薇の香りと月明かりに包まれながら、私たちはしばらくそのまま寄り添い続けた。
これから先の未来がどんなものになるのかはまだ分からない。
けれど私の心には、ようやく辿り着いた優しい幸福だけが満ちていた。


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