4

千との婚約が正式に整ってからというもの、僕の日常は以前にも増して慌ただしいものへと変わっていた。
帝国の剣として与えられる任務は当然のように続いていたし、その合間には陛下や父、クラウス兄上とも頻繁に顔を合わせ、東部情勢に関する報告を受けながら計画の細部を詰めていく日々が続いていた。
それに帝国軍が国境を越え、大軍を率いてアストリアに攻め込むような方法だと、東部諸侯が即座に団結し、王国全土を敵に回すことになる。
父が陛下に進言したのは、もっと確実なやり方だった。

まず帝国は和平交渉という名目で使節団を派遣する。
事前に正式な訪問要請を送り、アストリア公爵家の了承を得た上で公爵邸に入る。
表向きには何の問題もない外交使節だからこそ、近藤閣下もまさか、その場で剣が抜かれるとは思わないだろう。
もちろん当日の交渉団には帝国の精鋭騎士達を護衛として同行させる予定になっていた。
名目上は外交使節の警護だけど、実際には全員が戦闘を前提として選抜された者達だ。
公爵邸内部の構造、警備配置、避難経路まで事前に調べ上げ、交渉決裂と同時に公爵邸内部を制圧できるよう準備が進められていた。

同時に、公爵邸周辺には別働隊が配置される。
街道を利用して少しずつ兵を移動させ、商隊や護送部隊を装いながら周辺に戦力を集結させる計画だ。
大軍を露骨に動かせば警戒されるけど、小規模な移動を何度も繰り返せば気付かれにくい。
そして交渉が決裂した直後、公爵邸内部では護衛騎士達が一斉に剣を抜き、近藤閣下や主要騎士達の身柄を拘束する。
外では待機していた部隊が公爵邸を包囲し、城門や通信手段を抑える。
目的は虐殺ではなく、アストリア騎士団が大規模な反撃体勢を整える前に中枢だけを奪い、一気に主導権を握ることだった。

そのため僕も空いた時間のほとんどを、その日のための準備に費やしていた。
アストリア騎士団の幹部名簿、邸内配置図、警備交代の時間、騎士達の戦闘能力、近藤閣下直属部隊の動き方まで細かく確認し、万が一予定外の事態が起きた場合の代替案も何度も作り直していた。

当然ながら、その一方で公爵としての責務も増えていた。
千との婚約に続き、父の指示通りさらに二人の側室を迎えたことで、今度は社交界との関わりが一気に増えた。
各家門との会談、夜会への出席、親族達との顔合わせ、婚姻契約に伴う財産や権利の確認など、普段なら部下に任せてしまうような仕事まで自分で処理しなければならず、剣を振るっている方がよほど気楽だと思うことも少なくなかった。
特に厄介だったのは、それぞれの家門がこちらとの結び付きを強めようと躍起になっていることだった。
誰をどの夜会に伴うのか、どの家門に先に挨拶へ向かうのか、どの席に誰を座らせるのか。そんな些細なことですら政治的意味を持つ以上、適当に済ませることもできない。
結果として、公爵邸に戻る時間は目に見えて減っていった。

夜遅くまで騎士団本部で書類を整理し、そのまま隊長室で仮眠を取ることも珍しくなくなったし、父上との会談が長引いた日はヴェルメル大公家の客室で朝を迎えることも多かった。
だから久しぶりにアルディオン公爵邸へ戻った時には、千は露骨ではないものの不満を隠し切れていなかったし、側室の二人も競うように僕にまとわりついてきて、煩しいことこの上なかった。

でも計画は順調に進み、こちらの準備は整った。
先日には陛下がルヴァン王国に、正式な要求書を送ったという報告も届いた。
到底受け入れられない条件ばかりを並べたあの書面に対し、王国側がどのような返答をするのかなんて最初から分かり切っている。
あとは向こうが拒絶し、予定通り交渉が決裂する日を待つだけだ。

そしてその頃には、セラ嬢もデビュタントを迎えている。
幼い頃、アストリアの庭園で指切りを交わしながら、十七になったら迎えに行くと指切りをしたあの約束。
皮肉なことに、あの頃思い描いていた形とは似ても似つかない方法で確かに果たされようとしている。
それでも、あと少しで再び彼女をこの手の届く場所まで連れて来られるのだと思うと、胸の奥で抑え込んでいたはずの感情が熱を帯び始めていた。


「にしてもよ、隊長とこうして酒を飲みに来るなんざ本当に久しぶりだよな!」


三木が上機嫌に笑いながら僕の肩に腕を回してくる。
久しぶりに訪れた酒場の中は相変わらず賑やかで、その喧騒の中でグラスを傾けながら、僕は僅かに微笑んだ。


「そうだね。この一年、本当に死ぬほど忙しかったから」


振り返れば、あまりにも多くのことがあった。
ようやく数日前に計画の全てを打ち明けたことで、彼らも僕が何故そこまで多忙だったのかを理解してくれたらしい。


「だよなぁ。隊長が全然女遊びしなくなったから、俺ら本気でどうしたのかと思ってたんだぞ!」


龍之介が豪快に笑いながら言うと、相馬が呆れたように眉を寄せる。


「伊吹さん、それはむしろ良いことなんですよ。それに隊長はもう独身ではないんですから」


相馬は僕が結婚すると聞いた時、本気で驚いていた。
それでも誰より先に祝福してくれたのも彼だった。
勿論、その頃はまだ本当の理由を知らなかったからだろう。
僕が何故突然結婚を決めたのか、その裏に何があったのかを知った後は、納得したような顔をしながらも、今度は別の意味で驚いていたけど。


「羨ましい話だ」


武田がワインを揺らしながら口元を歪める。


「隊長ほどの地位を持ち、あのような美しい奥方が三人もいるのだからな。世の男どもが聞けば嫉妬するに違いない」


その言葉に三木も龍之介も深く頷いている。
でもその場にいる全員が、僕があの三人に興味を持っていないことなんてとっくに知っていた。
なにしろこの四人は今、アルディオンの領内で生活している。
三木と武田、それに龍之介は帝国騎士団とアルディオン騎士団の両方に籍を置いていることからアルディオン騎士団の寮に入り、相馬は僕の側近という立場から本邸に部屋を与えている。
自然と僕の日常も見えてしまうからこそ、夫婦関係がどんなものかも大体察していた。


「でも、ようやく取れた時間を俺達と過ごしていて良かったんですか?」

「なんで?」

「なんでって、奥様方のことですよ」


僕は一瞬だけ考え、それから理解した。


「別に問題ないんじゃない?」

「問題ないって……」


相馬が困ったように眉を下げると、三木も呆れたように笑った。


「隊長は本当に変わってるよな。普通は久々に帰ったら嫁と過ごそうってなるもんだろ」

「ならないけど」


僕が間髪入れずにそう答えると、今度は龍之介まで言葉に詰まった。


「ならないのか?普通は一緒にいたいだろ」

「政略結婚にそんな感情あるわけないでしょ。互いの家に有益だと思ったから結婚しただけだし」

「まったく、貴様という男は相変わらずだな。妻を三人も娶っておきながら、その全員に興味がないとは」

「興味がないわけじゃないよ」


四人が少しだけ驚いた顔をしたけど、僕は構わず続けた。


「今回の計画には必要な人達だし」

「そういう意味じゃない!」


龍之介が思わず叫んだその横で、武田だけが愉快そうに笑っていた。


「なるほどな。つまり貴様にとっては、公爵夫人も計画の駒と大差ないということか」


僕は無言でグラスを傾ける。
僕がこれからしようとしていることを知っている彼らは、それ以上深く聞いてこなかったけど、代わりに相馬が小さくため息を吐いた。


「それでも奥様方は隊長を慕っておられますよ。たまに本邸に戻られると皆さん本当に嬉しそうですし」

「それが面倒なんだよ」

「面倒って。隊長は相変わらず冷てぇな」

「そうだぞ!奥方達が可哀想だ!」

「なんでさ。僕はあの子達に何不自由ない生活を保証してあげてるんだよ。それに互いに干渉しない約束で結婚したんだけど。僕に夫としての役割を期待するなとも言ってあるしね」

「だからってなぁ……」

「それなのに、ニコラは暇さえあればくっついてくるし、リーシェは朝から晩まで話しかけてくるし、千は千で公爵領の予算案だの、冬季の食糧備蓄だの、来季の事業計画だのを持ってくるからね。帰ったところで全然休まらないんだよ」

「それは千様が仕事してるだけでは?」


相馬が至極真っ当なことを言う。


「そうなんだけどね。でも三人には言ってあるよ。公爵家に害を及ぼさない範囲でなら好きに行動していいってさ。淋しければ愛人を作ってもいいって言っておいたんだ」

「うわ。酷ぇな、この公爵様」


三木が吹き出したけど、僕はふと思ったことをそのまま口にした。


「というかさ。僕からしたら、政略結婚の奥さん達より君達と飲んでる方がずっと楽しいんだけど」


四人の視線がこちらに向き、場が静かになった。
三木が目を瞬かせ、龍之介もぽかんとしている。
相馬は頬を染め、武田だけが僅かに目を細めた。


「それに君達の方がよほど大事だよ。今までずっと一緒にやってきたんだから、君達のことは信用してるしね」


何気なく言ったつもりだったのに、三木が露骨に照れくさそうな顔をする。


「おいおい……急にそういうこと言うなよ」

「なんだ、照れてるの?」

「照れてねぇ!」

「顔が真っ赤ですよ」


相馬が即座に指摘するけど、相馬も満面の笑みを浮かべていた。


「相馬、お前こそすげぇ嬉しそうな顔してるぞ」

「してません」

「してるしてる!」


龍之介が大笑いしたその横で、武田が鼻を鳴らした。


「今さらその程度のことで喜ぶものか」

「武田も嬉しそうだけど」

「気のせいだ」

「いや絶対嬉しいだろ」

「貴様ら、余計な詮議をするな」


騒がしい笑い声が酒場に広がる中、僕は静かにワインを口につけた。
確かに政略結婚の妻達は、領地経営や今回の計画において大切な存在なのだろう。
でも何度も死地を共に潜り抜け、馬鹿な話で笑い合い、背中を預けてきた彼らの方が、少なくとも今の僕にはずっと近しい存在だった。


「そう言えば、来月は俺達も中部の夜会に参加するんですよね?」


相馬が思い出したようにそう尋ねると、僕はグラスの中で揺れる琥珀色の酒を眺めながら、小さく頷いた。


「うん、そうだよ」


来月、中部で開催される大規模な社交夜会。
それは単なる貴族達の娯楽ではなく、各地の若い貴族や騎士、将来を担う有力者達が一堂に会することで知られている格式高い催しだった。
デビュタントを迎えたばかりの若者達が交友関係を築く場として有名で、国境や領地の垣根を越えて人脈を広げられることから、毎年多くの名家の子息令嬢が集まる。
昨年はルヴァン王国の王太子と王女まで姿を見せたと言われているし、今年も各地から相当な数の有力者が集まるだろう。

そして僕にとって重要なのはそこだった。
あの計画を進めるためには、アストリア近辺に公的な理由で長期間滞在する必要がある。
何の理由もなく公爵が東部に居座れば周囲に勘繰られるけど、大規模な夜会への参加であれば話は別だ。
社交を理由に滞在し、その前後で各地を視察しても不自然ではない。
何より、アストリアから近い場所で開かれる以上、その夜会にはセラ嬢が参加する可能性が高かった。


「そうだよ。皆の正装はそれまでに用意するから、当日は護衛としてついてきてよ」


そう告げると、龍之介がぱっと顔を輝かせた。


「まじか!?俺、夜会なんて一回も行ったことねぇぞ!」

「俺もだな」


三木も面白そうに笑うと、龍之介がきらきらした瞳で僕を見つめた。


「貴族の集まりなんざ縁がなかったんだ!飯は美味いのか?」

「お前は食うことしか考えてねぇのかよ」

「大事だろ!」

「俺は綺麗な女がどれだけいるかの方が気になるけどな」

「貴様らは少し落ち着かんか」


武田はグラスを傾けながら、どこか見下すような笑みを浮かべていた。


「夜会など騒ぐほどのものではない。ああいう場はな、人脈と利権を巡る戦場に過ぎん。笑顔の裏で皆が腹を探り合い、値踏みをし、利用価値を見定めているだけだ」

「武田さんは慣れてるんですか?」


相馬が尋ねると、武田は当然だと言わんばかりに顎を上げた。


「ふん。当然だ。私がこれまでどれだけの貴族共と渡り合ってきたと思っている。むしろ剣を振るう戦場より、ああいう場所の方が神経を使うがな」

「うわぁ……聞いてるだけで疲れそうだな」

「貴様は余計なことを喋らず黙って立っていればよい」

「ひでぇな!?」


騒ぐ龍之介を見ていると、自然と笑みが零れた。
すると今度は相馬が少し遠慮がちに僕を見る。


「勿論お供しますが、ご夫人方はよろしいのですか?」

「ああ、それが面倒なんだよね。千が元々出席する予定だったらしくてさ。一緒に行かないといけなくなったんだよ」

「では公爵夫人もご一緒に参加されるんですね」

「中部に屋敷を持ってるからね。デビュタントを迎えてから毎年出席してるらしいし」


僕と同じ歳の千は、今回で三回目の参加になるという。
社交界にも慣れているらしく、夜会の話になると妙に詳しかった。


「さすが公爵夫人って感じだな」

「でもずっとエスコートするのは真平ごめんだから、君達が適当に千をワルツとかに誘ってあげてね」


その告げると、何故か全員の動きが止まった。
そして三木がやや顔を引き攣らせながら一言。


「……は?」

「いや、だから踊ってあげてって話」

「俺達が?」 

「うん」

「公爵夫人と?」

「そう」


龍之介が何かを想像した面持ちで、見る見るうちに青ざめていく。


「応じてくれるのか……?」

「知らない」

「知らないじゃないだろ!」

「だって僕が決めることじゃないし」

「いやいやいや!断られたらどうするんだ!?」

「別に死ぬわけじゃないでしょ」

「精神的に死ぬんだよ!」


龍之介が必死に訴えると、三木まで珍しく渋い顔をした。


「さすがに俺もちょっと怖ぇな」

「君達、普段はあれだけ図々しいのに、ワルツを誘うことが怖いの?」

「それとこれとは別だろ」

「そうですよ隊長」


相馬まで真面目な顔で頷いていた。


「相手は公爵夫人なんですから」

「君も誘えばいいじゃない」

「俺は護衛です」

「皆護衛だよ」

「そういう問題ではありません」


珍しく強めに否定されたけど、そのやり取りを眺めていた武田だけは面白そうに笑っていた。


「情けない連中だな。誘うくらいで怯えるとは」

「武田さんは平気なのかよ」

「当然だ。仮にも私は公爵家の客人のようなものだぞ」

「一番自信満々だな……」


四人の反応が可笑しくて小さく笑いながらも、僕の意識は来月ようやく実行されるだろう、あの計画に向かっていた。
絶対に失敗するわけにはいかないし、これは帝国にとって、そして何より僕自身にとって悲願とも言える計画だ。
長い時間をかけて準備してきた全てが、ようやく形になろうとしている。
賑やかな笑い声を聞きながら、僕はその時が訪れるのを待ち望んでいた。

- 562 -

*前次#


ページ:

トップページへ